「~♪」

鈴の音か、小鳥の囀りか。中級区の片隅に建つ教会の窓から、繊細な歌声が漏れていた。

きっと、見習いシスターが、ミサで歌う聖歌の練習でもしているのだろう。響きに幼さが残る歌に、通りがかる者は皆ほほ笑んで、一時足を止めた。

今日は神から与えられた祝祭日。そんな日ぐらいは、神を讃える歌を耳に留め、一日を過ごそうと考えたのだ。

だが、彼らはすぐに微笑を苦笑へと変え、歩き去っていった。それもそのはず、教会から聞こえてきたのは、

「タッカヒッロくーんのたーめなら♪」

「……ふぁい、おー、ふぁい、おー」

「つーらいしゅぎょーも♪」

「……れっつ、ごー、れっつ、ごー」

どこまでも調子が外れた、即興歌だったからだ。

メインの歌も、合いの手も、声の質はいいが、いかんせん、内容がいい加減過ぎた。まるで子どもが考えたような歌詞に、テンションがまるで違う歌い手。それがある種の不協和音となり、聞く者全てを苦笑させたのだ。

特に、合いの手を打つ少女、ユミエルがいけなかった。妖精のようにきめ細やかな声質だというのに、歌に気持ちが表れていなかったのだ。棒読みとは、まさにこのこと。通りすがりの聴衆たちが踵を返したのは、彼女に因るものが大きかった。

だが、本人のやる気がないわけではない。むしろ、彼女は至って真面目に、歌を歌っている。もう一人の少女、メリッサから教えられた歌詞を、一言一句間違えずに歌いあげていた。

理由があったから。ユミエルには、そうするだけの理由があったから。

「ほら、また針が折れてるよ。集中、集中~♪」

「……はい」

奇妙なことに、ユミエルは合いの手を打ちながら、縫いものをしていた。白い綿のハンカチにチクチクと針を通し、『TAKAHIRO』という字を縫いこもうとしていた。

しかし、これがうまくいかない。まだ力加減が利かないユミエルは、何本も、何本も縫い針を折り、やり直しをさせられていた。

それでもメリッサは、怒らず、声を荒げず、ピンク色のソーイングセットから新しい針を取り出して、ユミエルへと渡す。「大丈夫だよ」とにこりと笑い、また歌を歌いだす。

ユミエルは彼女に続き、合いの手を打ちながら、針の穴に糸を通し始める。何故か? これこそ、彼女にとっての特訓だからだ。

「歌も歌うし、刺繍もする。どっちもできたら、次のステップにいけるよ」

歌を歌いながら、針仕事をする。二つのことを意識して、同時に行う。これが、過剰な魔素を体に馴染ませる訓練なのだと、メリッサは語る。

「人は誰でも、魔素をコントロールして生きているの。体の中にある魔素を、『ちょうどいい感じ』になるように操っているの。だから、レベルが違う人同士、握手もできるし、抱き合うこともできるんだよ」

また、歌に集中するあまり、力加減を誤ったユミエル。わずかにうつむく彼女へ、メリッサはまた、新しい針を差し出した。

「私は学者さんじゃないから、全部受け売りの話になるんだけどね。一気にレベルが上がり過ぎるってことは、簡単に言うと、『馬に乗ってた人がドラゴンに乗るようなもの』なんだって」

今度は、歌を歌わずに、慎重に針を進めていくユミエル。すると、どうだろう。おぼつかない手つきながらも、布に針が通っていくではないか。

「ドラゴンは馬みたいに走れる。でも、火も吹けるし、空も飛べる。しっぽで敵を叩けるし、鋭い爪で木も斬り倒せる。馬にはできないことが、ドラゴンだったらいっぱいできちゃう。だから、馬に慣れていた人じゃ、持て余しちゃうんだね。どうやって手綱を引いたらいいかも、分からなくなっちゃうんだ」

ゆっくりと、縫う。慎重に、『TAKAHIRO』の名を縫っていく。歌を歌わずに、刺繍に専念したら、針を折ることなく縫い進めることができる。

「今のユミエルちゃんは、ドラゴンに乗せられた馬乗りさんなんだよ。自分が知ってるものとはかけ離れた、大き過ぎる力に振り回されているんだ」

そして、最後の『O』の字を縫い込んでいる最中に――――気の緩みからか、または緊張からか。ハンカチの布地自体を破いてしまった。

「ほら、ね? ゆっくりと、一つのことを集中してやれば、何とかできる状態だけど、ちょっとした弾みでドラゴンが暴走しちゃう。『ちょうどいい感じ』にできない」

百度目の失敗に、今度こそがくりと肩を落とすユミエル。しかし、メリッサは寛容な笑みを浮かべ、呆然とする少女の肩に手を置いた。

「分かるよ。頑張ってるけど、恐る恐る動かしているけど、どうしてもできないんだよね? 分かるよ。だって、私も、そうだったから」

教会の人工聖女メリッサは――――人の手で、強制的にレベルを高められた少女は、どこまでも優しい目をしてユミエルの肩をさすっていた。

「わたしじゃない……」

幼いメリッサは、そう言うしかなかった。

確かに、彼女ではなかった。納屋を崩壊させたのも。神父の手を砕いたのも。『失敗作』を殺したのも。間違いなく、彼女ではなかった。

いや、正しくは、『彼女が知っている彼女』ではなかった。メリッサが知っているメリッサは、寄りかかっただけで建物の主柱を崩すことも、握っただけで人の手を潰すことも、恐ろしげなユニークモンスターを殺すことも、決して出来はしなかった。それだけの力は、彼女にはなかった。

当時のメリッサは、孤児院で暮らしていた敬虔な少女。レベルは同年代の平均値にも満たない20で、虫も殺さないような性格をしていた。心身共に、彼女が破壊の限りを尽くせるわけがなかった。そのはずだった。

しかし、メリッサの胸の中央に、ダンジョン・コアが埋め込まれたことで、全ては変わった。地脈から魔素を吸い上げる効果を持つ宝玉は、メリッサの体内へと魔性の力を流し込み続けたのだ。

それでも、「神様のため」、「みんなのため」と言われて、魔素の侵食にも耐え、人工聖女となったメリッサ。だが、彼女を待っていたのは、竜の如く荒ぶる力と、望まぬ破壊の日々だった。

「私もね、ユミエルちゃんみたいに、自分の体をうまく動かせない時期があったんだ。握手をしたら、相手の手が『くしゃ』ってひしゃげちゃうの。りんごを持ったら、バシャン! って破裂しちゃうの。服を着替えようと思ったら、つまんだところに穴が開いちゃうの」

訓練に小休止を入れ、ベッドに座ってユミエルに昔話を聞かせるメリッサ。彼女は、表面上は明るく、だが、隠せない憂いを帯びた声で、自身の過去を語る。

「触ったものがみんな壊れちゃうから、怖くて何もできなかった。ご飯も、着替えも、みんなシスターさんに手伝ってもらった。でも、その人たちを傷つけるのが怖くて、その人たちから怯えた目で見られるのも怖かった」

「……分かります」

こくりと相槌を打つユミエル。その様子を見たメリッサは、嬉しそうに笑う。

「私も、分かるよ。ユミエルちゃんが、みんなを傷つけたくないってこと。優しい子だもんね、ユミエルちゃんは」

さほど歳は離れていない二人だが、今だけはメリッサがお姉さんぶってユミエルの頭を撫でる。

「それに、タカヒロ君の役に立ちたくてレベルアップしたんだよね? それじゃあ、歯がゆくてもしょうがないよね」

「……そうなんです」

いつもと比べ、明らかに覇気がない少女の頭を撫でるメリッサ。自分と同じ経験をした彼女の「大丈夫だよ」という声は、ユミエルにとって何よりの励ましとなった。

「大丈夫。ユミエルちゃんは、ゆっくりやれば一つのことはできるんだから。私の時も、そこから上手に体を動かせるまで、すぐだったんだから」

「……そうなのですか?」

「うん、そうだよ。だから、もうちょっと頑張ろう?」

「……はい」

そして、メリッサはまた即興歌を口ずさみ、ユミエルは合いの手を入れながら、ハンカチに針を通し始める。針を持つ手に気を配り、歌にも気を配る。それができたら、高レベルの身体に慣れてくると、メリッサが教えたからだ。

魔素とは、エルゥが述べたように、意思に反応する神秘の物質だ。やろうと思えばどのようなこともできる、万能の力だ。その恐ろしさを知っているからこそ、意思ある者は手加減を覚える。メリッサが言うところの、『ちょうどいい感じ』を覚えるのだ。

力があるからといって、全力で使う必要などどこにもない。フォークが折れるほど握る必要はないし、林檎が砕けるほどに力を籠めない。日常生活において、過剰な力は必要ないのだ。だからこそ、誰もが皆、『ちょうどいい感じ』に力加減を操作していた。

では、その力加減は、どのようにして身につけるのか。一つ一つの動作を意識して、恐る恐る、動いているのか。今のユミエルのように、針に糸を通す慎重さを持って、日々を過ごしているのか。

そんな訳がない。社会とは、人間とは、もっとスムーズなものだ。誰も、扉の開け方など意識しないし、握手する際の力加減など欠片も考えない。ほぼ全ての動作は、意識ではなく、無意識に力加減が決められている。

それが破られるとすれば、意図を持って行動する時のみだろう。通常は、戦闘中ですら、無意識的に『ちょうどいい感じ』になるよう、動いているものだ。

そう、人は、無意識によって動く生き物だ。人間が意識せねば動けない生き物ならば、社会など形成できていないし、繁栄を見せることもなかったはずだ。

それほどまでに、人の行動において、無意識とは重要なファクターだ。意識するのではなく、無意識に動けてこそ、人らしい生活を送れるのだ。

ユミエルが行っている訓練は、そのことに重点を置かれている。一つのことを意識的に行うのではなく、どちらか一方、または両方を、無意識でコントロールできるようにしようというのだ。

そのための歌であり、針仕事であった。二つのことを同時にこなし、どちらも達成させる。一つのことを意識すれば、片方が疎かとなり、失敗は目に見える形で現れる。成功させるには、せめて針をつまむ指だけは、無意識に力加減を決める必要があった。

「タッカヒッロくーんのたーめなら♪」

「……ふぁい、おー、ふぁい、おー」

「つーらいしゅぎょーも♪」

「……れっつ、ごー、れっつ、ごー」

もうすぐ昼にも差しかかろうという、祝祭日の中級区。

一人のシスターが住んでいる小さな教会からは、またも子どものような即興歌と、感情の籠らぬ合いの手が流れ始めた。

その合間合間に響く、ポキン、という軽い金属音。ユミエルがレベル200の体に慣れるまで、もう少しだけかかりそうだった。