勇者とは、神に選ばれし人類の守護者だ。

強大な魔物。恐るべき災い。悪なる神々。魔道に堕ちた狂える人間。その一切を排し、万難から人類を守るために勇者は存在する。

東大陸全土を股にかけ、あらゆる悪を成敗して回っている勇者。そんな英傑と呼べる存在が、なぜか、今、庶民の家の居間でお茶を飲んでいた。

「……おかわりはいかがでしょうか?」

「ありがとう。気の利くお嬢さんだね」

「……いえ」

上座に腰かけ、まるでこの家の主のようにふるまう女性。

歳の頃は二十歳くらいだろうか。大人の色香とボーイッシュな笑顔を併せ持つ彼女は、まさに男装の麗人と呼ぶに相応しかった。

「そちらは貴族のお嬢さんかな? すると君はどこかのお姫様というわけだ」

「いいいいえ、そそそんな、私、そんな大それたものじゃ」

「おや? そうなんだ。僕の勘も当てにならないものだね」

きらりと光る白い歯に、カオルはくらくらと目眩がするようだった。

フランソワに至っては半ば放心しかけていて、受け答えをすることさえできずにいた。

唯一、ユミエルだけはいつも通りに見えたが――分かりにくいだけで、彼女も混乱しているのだろう。むやみやたらと居間と台所を行き来しては、定位置を決められず、うろうろとしていた。

「なあ」

「…………」

「おい、フランソワ」

「ふわぁっ!?」

「変な声を出すなよ」

「も、申し訳ありません」

この余裕のなさは、貴大も始めて見る姿だった。

あのフランソワが、いつも悠々と構えているご令嬢が、まさかこんなに素っ頓狂な声を上げるとは。勇者とはそれほどの存在だということなのだろう。その価値を知る者ほど、勇者を前にして平常心を保てないようだった。

「それで? なんでまた、うちにお忍びでやってこられたんです?」

寝物語に「勇者の伝説」を聞いて育つこの世界の住人とは違い、貴大は別世界からやってきたような人間だ。知り合いに混沌龍や聖女を持つ彼にとって、勇者の名はそれほど重いものではない。一定の警戒はしつつも、貴大は単刀直入に問いを投げかけた。

しかし、

「ふ~ん」

「…………」

「へえ~!」

「…………」

「なるほどねえ」

(なんなの……)

肝心の勇者は先ほどからずっとこうだ。

面白そうな顔をして貴大を見ては、何やらうなずき、興味深そうに彼を観察している。

敵意や害意は感じられないが、こうも無遠慮に見つめられれば面白くないのが人間だ。第一、居心地が悪い。欲しい答えが得られないまま、さりとて無理やり追い出すこともできず、貴大はむずむずと背中がかゆくなるのを感じていた。

「ああ、ごめんね。つい、嬉しくなっちゃって」

気まずそうな貴大の顔にようやく気がついたのか、勇者アストレアは照れたように笑って言った。

「こんな顔してたんだなー、とか、やっぱ強そうだなー、って」

「いや、訳わかんねえよ。そろそろちゃんと会話をしてくれ」

「ふふふふふ……」

「いや、だからな」

どうやら勇者は上機嫌のようだが、貴大はまったく面白くなかった。

事件の香りがする。それもろくでもない類のものが。相手が友好的だからといって、それで穏便に済むわけがないことは貴大も知っていた。

混沌龍には子作りを迫られ、人工聖女には危うく洗脳されかけた。彼女らと同じ類の人間が、まさかお茶を飲みに来ただけではあるまい。

貴大のことを知っているようなそぶりを見せているし、これはどうにも、覚悟を決めておいた方が良さそうだ――。

「あっ、ごめんごめん。僕ってダメだなあ。自分のことばっかりで」

貴大の眉間にしわが寄り始めたのを見て、勇者は素直に頭を下げた。

「ちゃんと用事があって来たんだ。まずはそのことを話さないとね」

居住まいを正し、真面目な顔をして貴大に向き合うアストレア。

彼女の真剣な表情を見て、貴大もいよいよ本題なのかと腹をくくった。

なぜ勇者はフリーライフに来たのか。なぜ彼女は貴大を訪ねてきたのか。その答えを示すべく、アストレアは口を開き――。

「依頼をしに来たんだ」

「依頼?」

「うん。魔物退治のお手伝いをしてもらいたいんだ」

「……え?」

「いや、だから、魔物退治の補助を」

「それだけ?」

「それだけだけど」

真っ当な依頼だった。

何の変哲もないお願いだった。

細かいところをつけば、「それは冒険者向けの依頼だろう」とか、「こんな弱小事務所に来なくていいだろう」といったことを言えなくもなかったが――。

依頼自体に問題はなかった。魔物退治のお手伝い。冒険者ギルドに行けばいくらでも転がっていそうなものだった。

しかし、そうなると――。

(なんでそんな依頼を俺に持ってきた?)

やはり、謎は尽きないようだった。

「いや、魔物相手なら腕が立つヤツを紹介するけど」

「ダメだよ。相手はレベル250の大物だ。一般人なんて連れていけないよ」

「なおさらダメじゃねえか。俺なんて連れて行っても……」

「いや、適任だと思うよ?」

「だって、君――」

「あの黒騎士でしょ?」

瞬間、場の空気が凍りついた。

バレている。見透かされている。この勇者は貴大が黒騎士を演じていたことを知っている。

すべて承知の上でここに来たのだ。分かった上で、魔物退治を手伝ってくれと言ってきている。

そこに隠された意図はなんだ? この依頼を受けることで、あるいは受けないことで、どんな事態に発展する? 勇者は何をするつもりだ? 自ら訪ねてきて、いったい、何を――。

「ああ、そんなに警戒しないで! 驚かす気はなかったんだ」

にらみつける貴大と、彼をかばおうとする少女たち。

彼らを前にして、むしろ慌てていたのは勇者の方だった。

「依頼だって裏はないよ。断られても、別にどうこうするつもりはない」

「じゃあ、なんで」

「噂の黒騎士を見てみたかったんだ。欲を言えば一緒に戦ってみたかった。こう見えて、僕、君のファンなんだ」

「ファン?」

「うん、そうだよ」

晴れやかな笑顔で、勇者は嬉しそうに語った。

「あの混沌龍を倒したって噂を聞いたのが初めてだったかな? それ以来、ちょくちょく君の話を聞くようになって……神様も君のことを話していたんだよ? 勇者に匹敵する力を持っているって」

「まあ、先生がそんなに……」

「評価されているね。僕も聞いていて気持ちいいくらいだった」

「タ、タカヒロの正体も神様から聞いたんですか?」

「そうそう。神様は何でも知っているからね。当然、黒騎士の仮面の下も知っていた」

「って、待てよ。じゃあ、あの悪神のことも……!」

「うん、知ってた。僕もあいつを倒すために動いてた」

「じゃあなんで……!」

「倒せなかったんだよ。いや、倒すことはできるんだけど、あいつ、倒しても倒しても復活するだろう? 本当に手を焼いていたんだ」

常識外れの力を持ち、倒せないものなど何もない。

そんな魔物の天敵とも呼べる勇者から逃れるために、あの悪神は「滅ぼされない力」を貪欲に求めたのだろうか。

「最終的に封印するか、次元の狭間に追放するか、神の間でも意見が割れていたんだよ」

「……そんなことが」

「そうそう。あったんだけど、ここにいる彼が見事! きれいさっぱり退治してくれてね。いやあ、それを聞いた時は本当に嬉しかった!」

頬を紅潮させ、少年のように喜ぶアストレア。

「以前から活躍は耳にしていたんだけど、それが決定打になってね。仕事先に住んでいたこともあって、こうしてたまらず会いに来たのさ」

ファンというのは本当のようだ。

ここに色紙とペンがあったら、きっと彼女はサインをねだっていたことだろう。

だとすると、ただ一緒に戦いたかったという依頼にも裏はないということで――。

(ええ~、でも、めんどくせえ~……!)

人生の節目を越えたばかりで、今は落ち着きたいのが貴大だった。

欲を言えば温泉にでも行って、疲れを取ってから仕事に臨みたい。

それなのにこんな大仕事に関わるだなんて――しかも、また、規格外の知り合いが増えそうだなんて――。

考えるのも嫌になって、貴大は久方ぶりにげっそりとした顔をしていた。

「じゃあ、頼んだよ~!」

無下に断るのもどうかと思い、また、断って粘着されるのも嫌だった貴大は、依頼を受けはしたものの――。

正直、行きたくなかった。レベル250の魔物となんて戦いたくなかった。

いくら限界を超えた力を持ったとはいえ、面倒臭いものは面倒臭い。あんなに不憫に思っていた勇者の責務を、まさか自分が手伝わされるとは! 夢にも思わぬ展開に、貴大はたまらず床を転がり回った。

「嫌だ嫌だ嫌だ! あ~、行きたくな~い!」

「先生、そうおっしゃらず」

「めんどくせー!」

「……久しぶりに見ましたね」

「うーん、駄々っ子だ」

貴大は知っていた。

これきりとは言われたものの――。

こうして縁を持てば、それが次の依頼に繋がることを。そして依頼は事件に繋がり、やがて大きな流れに呑みこまれていくことを。

身を以って知っていたからこそ、貴大は子どものように喚き続けるのだった。