添い寝の夜から三日経った。

あれから、私は眠れない日々を過ごしている。

別に、クレスト様への添い寝を続けているわけじゃない。事《こと》ある毎《ごと》に添い寝をねだって来るが、本気で嫌がることを無理強いはして来ない。私が傍にいることが分かればとりあえずは満足みたいだし。

眠れない理由は別にあった。

「休憩になさいませんか。お茶をお持ちいたしました」

「ありがとう、アマリアさん」

テーブルに置かれたカップから甘い湯気が漂っていた。

「差し出がましいようですが、リキュールを香り付けに入れました。よろしければ、少しお眠りください」

「……はい」

刺しかけの刺繍をコトリ、と置いたのを確認して、アマリアさんがほっと息を吐いたのが分かる。

細かい模様に集中していたせいか、目の奥が痛い。いや、単に寝不足で頭痛がしているだけかもしれない。

(前は、こんなことで悩まなかったのに……)

今も両手首にぶら下がる銀環《ぎんかん》は、相変わらず私の魔力の循環を断ち切っている。だけど、それが完全な魔術封じでないと分かってしまった。

検証は簡単だった。

小さな紙片に硬化の魔術陣を描き、口に咥《くわ》えて発動を試みた。それは見事に鉄板のように固くなり、刺繍の余り布を軽く裁ち切った。

なんでこんな簡単なことを見落としていたのか。

手を使わなければ、手に関わることでなければ普段通りに付与魔術が行使できる。硬化の陣を使えば、糸切り鋏でも銀環を切り外すこともできるだろう。

つまり、それは―――

(いつでも、逃げられる、ということ)

私はティーカップに手を伸ばすと、それを口元に運ぶ。

砂糖が入っていないのに、甘やかな香りが口内に広がった。

何だか無性に泣きたかった。

逃げたいはずなのに、逃げない自分は何なのか。

もし、また私が逃げたら、アマリアさんやハールさんはどう思うだろうか。

せっかくお友達になってくれたエデルさんや、カルルさんは悲しむだろうか。それとも、仕方ないと笑ってくれるだろうか。

そして、あの人は―――

(考えたくない)

考えたくないのに、思い浮かぶ。氷の貴公子。人形のような無表情。寝起きの掠れた声。エメラルドの瞳。

もう一度、刺繍に逃げてしまおう。

そう考えたのに、なぜか私の瞼《まぶた》は重く、目の奥の鈍痛が意識を深く落としこんで行ってしまった。

◇  ◆  ◇

「―――そこをどけ」

「ですが、クレスト様。マリーツィア様は」

「この目で確かめる」

何やら騒がしい。

少し寝てしまったようで、頭はすこしばかりスッキリとしていた。

バタン

「せっかくお休みになられたのですから、あまり大きな音を―――」

「分かっている」

心配そうなアマリアの声と、それに続くのは、クレスト様の声?

私は重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。

あぁ、やっぱり。

ソファにもたれた私から、テーブルを挟んで向こう側には、天の御使いのご尊顔がある。

「クレ、スト様?」

「……起こしたか」

「お気になさらず」

ずかずかと近寄って来た彼は、上体を起こそうとした私の肩に軽く手を置き「まだ寝ていろ」と命令する。

「お帰りになったということは、もう、そんな時間なんですね」

少しだけ、と思っていたけど、どうやら随分と長いうたた寝だったらしい。

「出迎えがなかったから、何かあったのかと」

その言葉の裏にあるものに、私の胸が痛んだ。

いつもなら顔を見せるタイミングで、私が居ないこと。つまり、私がまた逃げたのかと……そう疑ったわけだ。

目を二、三度瞬いてから「大丈夫です」と肩に置かれた手を押し返すと、私はゆっくり上体を起こした。

「おかえりなさい」

「……あぁ」

頷いたクレスト様は、何故か私の隣に腰を下ろした。

あれ、まだ隊服だし、着替えて来るんじゃないの?

っていうか、近いですよ?

扉近くに控えたアマリアさんが妙に生暖かい視線を送って来るのは気のせいですか?

「マリー」

「はい」

「俺の記憶が正しければ、それはバルトーヴの紋だな?」

すいません、隣の人から冷気が漂って来ているような気がするんですが、クレスト様はいつから魔術が使えるようになったんですか?

寝起きのぼんやりした感じが一気に吹っ飛んだ。

「両天秤など紋に入れるのは、あの家ぐらいだ」

言い重ねるクレスト様の、声の抑揚すらない様子が、その怒気を余計に感じさせる。

「マリー?」

カルルさんに頼まれた家紋とイニシャル入りのハンカチーフ(用途:女性関係の清算)のことを正直に話すわけにはいかなかった。そんなことをしたら、おそらく殺される(カルルさんが)。それだけで済めばいいけど、私にも何らかのペナルティーが課されるに違いない。添い寝はお断りだ。二度とするつもりはない!

「答えろ、マリー」

「……確かに、バルトーヴ家の紋章です、クレスト様」

名前をちゃんと呼ぶので、少しは怒気を抑えてください。とお願いしたい。

「お世話になったエデルさんに、何かお礼をしたかったのです」

幸い、まだイニシャルは刺してない。家紋はバレバレだって言うなら、何とか脇に逸らすしか―――

「エデルに? 今更、家紋入りの小物を送っても意味がないだろう」

「どういうことでしょう?」

「輿入れまで残り半年もない。聞いていないのか?」

「え……えぇ、初めて伺いました」

輿入れ、って結婚のこと、だよね。騎士には興味ないって言ってたから、それ以外の人とだろうけど、正直、まったく見当がつかない。

「それなら、別の意匠を考えます。教えてくださってありがとうございました」

私は小さく頭を下げ、テーブルに広げたままの刺繍道具を片付けようと立ち上がる。見つかってしまった以上、一度木枠から外して片付けないと怪しまれてしまうだろう。

話はもう終わりだとばかりに、片付けに専念すれば、クレスト様の方も控えているアマリアさんに何か話しているようだ。

今日も、あとは夕食の時間を乗り切ればいい。そうすればまた一日をやり過ごせる。

パタン、と扉が閉まる音がした。ようやく彼が帰ったのだと、私はアマリアさんに夕食のことを尋ねようとして―――凍りついた。

出て行ったはずのクレスト様がそこに居て、控えているはずのアマリアさんの姿がない。

なんで、あなたがいるんですか! と絶叫したいのをぐっと堪《こら》える。

呆然とする私にずかずかと近づいて来たクレスト様が、両手で私の顔を挟んだ。

「顔色が悪い」

「き、のせいじゃないですか?」

私の答えはお気に召さなかったようで、眉間に僅かに皺が寄った。間近にその整った顔があると心臓が悪い一方で、僅かな表情の動きも分かる。良し悪しだ。

「訓練の日からだな。何があった」

訓練の日?

そう言えば、訓練を見学に行った日に、魔術封じのカラクリに気付いたんだっけ。

「マリー。君は何を考えている?」

びくり、と私の身体が震えた。

後ろめたいことはある。だけど、何よりも目の前のエメラルドの瞳が怖い。

その奥に秘められた炎を知っている。しつっこい執着の炎だ。ここで受け答えを間違えば、また監視と拘束が一層きつくなる。

「……クレスト様の方こそ、何を考えているんですか」

「どうしたら君が俺に微笑み、俺と共に寝て、俺のことだけを考えてくれるのか」

聞くんじゃなかったっ!

重い、やっぱり重いよ、この人!

「……私は」

どうしようか。言ってしまおうか。

下手なことを言うと、また首を絞められたりするんだろうか。

でも、女は度胸!

「私は、どうしたら、自由に外に出かけたり、魔術の研究をしたり、お世話になった人に挨拶に行けるのかって考えてます」

エメラルドの瞳が、大きく見開かれた。

「俺は―――」

「あなたが私のことを大事に守りたいって思っているのは、分かってます。でも、私は人形なんかじゃなくて、一人の人間なんです。ずっとお邸の中に居るのはストレスが溜まるし、自由がなくて息が詰まりそうだし、やりたいことだってちゃんとあるんです」

言った! 言っちゃったよ、私!

さぁ、どう出る?

あぁ、しまった! こんなことなら硬化の陣を描いた紙を捨てるんじゃなかった!

いや、どっちにしろ本気で来られたら勝てる気しないからいいか。斬られるにしろ、絞められるにしろ。

「それが、お前の望みなのか」

私の両手に触れる手が震えている気がする。

「俺の元を離れ、誰に会いに行くつもりなんだ?」

その言葉に、ぞくり、と震えが走る。

「マリー。君はここで俺と一緒に暮らし、俺のことだけを考えて生きてくれればいい」

いや、それ無理だし! 相変わらず重い!

「も、もちろん、あなたのことも考えています」

「違う。俺のことだけでいいんだ」

右手がするすると下に動き、私の首元を撫でる。

……命の危険しか感じない。

「マリー?」

受け入れる⇒監禁。

拒絶する⇒死亡。

こんな未来しか見つからないんですが、どうしたら良いんでしょうか。

「俺がいればそれでいいだろう? ここにいれば君を傷つける全てのものから守れる。それとも、うっかり外に出て危険な目に遭わないように、鎖が必要か」

か、監禁計画立ててるよこの人!

やばい、やばいよ。どうするの、どうするの、私!

コンコン

混乱しきった私に、そのノックの音は紛れもなく救いの手だった。

「クレスト様、マリーツィア様。夕食の支度が整いました」

アマリアさん! ナイスタイミングです!

「く、クレスト様。食堂へ行きましょう? せっかくの温かい料理が冷めてしまいます」

「―――そうだな」

ようやく私の頬と首から手を離したクレスト様は、私の手を取り、腰にもう片方の手を添える完全エスコートスタイルをとった。

「あ、あの……」

「続きは食後にでも話そうか、マリー」

お、終わってなかった……。