早朝。

誰に起こされたわけでもなく、俺は目を覚ましていた。

カーテンを閉め忘れた窓から差し込む朝日が、爽やかな朝の訪れを告げる。

寝起き特有の怠さもない。

朝食の時間には早く、することもない。

二度寝をしてもいいのだが、ここで寝てしまうと起きるのが怠くなりそうだ。

(……たまには散歩でもしてみるか?)

そう思い立って直ぐ、行動を開始した。

制服に着替え魔石を持ち部屋を出る。

宿舎の中はただただ静謐だった。

人の姿は見当たらない。

生徒達が宿舎を騒がすのはもう暫く後だろう。

階段を下りて、俺は宿舎の玄関口から外に出た。

雲はほとんどなく、青い空が見えた。

早朝なのでほんの少し肌寒いが、日が昇る頃には気持ちのいい陽気になっていそうだ。

そんなことを思いながら、俺は歩き始めた。

ここに来てからはほぼ毎日学院と宿舎の往復で、

この広い学院の敷地を見て回る機会などほとんどなかった。

折角の機会だ。

散歩でもしながら、ゆっくりと見て回ろう。

そんなことを考えながら歩いていると。

まだ距離はあるが、人の姿が目に入った。

訓練中なのか、運動着で走っている。

遠目からでも、絹糸のように美しい銀髪がはっきりと見えた。

相手も俺の姿に気付いたのか、軽く手を振ってくれた。

俺はその少女――エリシャ・ハイランドが向かってくる方に足を進めていく。

少しずつ近づくにつれ、エリーの姿がはっきりと俺の目に映った。

エリーは、ポニーテールを左右にゆらゆらと揺らしながら走っている。

敷地内の中心、噴水のある場所で俺達は顔を合わせた。

軽く息を整えた後、エリーは持っていたタオルで汗を拭って。

「おはよう、マルス。

今日は早いんだね!」

爽やかな笑顔を俺に向けた。

その笑みは、俺にとってはどこかくすぐったく、優しい温もりを感じさせる。

こんなことを思うのは、日頃挨拶をするという習慣が俺になかったからだろうか。

「おはよう、エリーも早いんだな」

俺も挨拶を返すと、爽やかな笑みが満面の笑みに変わった。

汗で額に張り付く髪や、首筋に流れる汗を見るに、かなり長い時間走っていたのだろうか?

「いつから走ってたんだ?」

「あ、ご、ごめんね。

結構汗かいちゃってて……もしかして、匂う……かな」

匂う?

エリーがだろうか?

頬は朱色に染まり、恥ずかしそうに上目遣いで窺ってきた。

だから、それを確かめる為に、俺はエリーに近付いて。

「え……マルス?」

戸惑うような声が聞こえ、一瞬、ビクッと身体が震えたのがわかった。

首筋の辺りに顔を近付け、匂いを確認する。

石鹸のフローラルな香りと、ほんの少し汗の匂いが混ざっていたが。

「エリーの匂いがするだけだぞ?」

「――っ!?」

エリーの全身が茹で上がるみたいに赤く染まってしまった。

「どうかしたのか?」

「ど、どうかしたのかって、ま、マルスが私の匂いを……」

「匂いを確認して欲しかったんじゃなかったのか?」

「ち、違うよ!」

ポカポカと胸の辺りを叩かれた。

どうやら、俺が勘違いしていたようだ。

「俺が悪かった。

謝るから、機嫌を直してくれって」

むぅ……と不満そうな顔を見せるエリー。

でも直ぐに、再び上目遣いになって。

「……私、本当に変な匂いしなかった……?」

心配そうに窺ってきた。

「ああ、どちらかといえば、いい匂いだったぞ?」

「っ――そ、そう」

正直に答えたのだが、顔を逸らされてしまった。

怒っているわけではなさそうなので、とりあえず一安心だ。

だが、この話題はもう変えた方がいいだろう。

「なあエリー。

いつも、こんな時間からランニングをしてるのか?」

「ううん。

今日は本当にたまたまだよ。

なんだか落ち着かなくて、目が覚めちゃったみたい」

俺が聞くと、エリシャはそんなことを言って苦笑する。

「何かあったのか?」

「あのさ、男子宿舎でも噂になってない?

魔族が学院を攻めてくるとか。

魔王が復活したとかさ」

「女子宿舎でも噂になってたのか……」

噂はもう、この学院全体に伝わっていたようだ。

「じゃあ、やっぱり男子宿舎でも……。

なんで急にこんな噂が……?」

エリーは不安そうな顔を見せた。

情報が錯綜しているが、完全に間違っているわけじゃない。

正しい情報が人から人へと伝わる度に、変化してしまったのだろうか?

学院に行けば正確な情報が伝えられると思うが。

「……なあ、エリー。

その話、実はただの噂ってわけでもないんだ」

休日から昨日までに会ったことを、掻い摘んで話した。

「そんなことが……」

俺の話を聞き、愕然とするエリーに。

「だが、学院長や教官達もいるんだ。

もし魔族が攻めて来たって、この学院がそう簡単にどうこうなるってことはないと思うぞ?」

「……うん、そうだよね」

「それに、いざって時は俺がエリーを守るさ」

誓ったっていい。

俺は大切な者を、全部守ってみせる。

神は信じていないから、神に誓うことはできないけれど。

「ありがとう、マルス。

でも……守ってもらってるだけじゃダメなんだ」

だが、俺の言葉を否定するみたいに、エリーは首を左右に振った。

「もし魔族との戦いになれば、私はマルスの足を引っ張ってしまうかもしれない。

私が原因で、マルスを危険に追い込んでしまう可能性だってある」

悔しそうに唇を噛んだエリー。

その銀の瞳が俺の目を見つめた。

「私は誓ったんだもん。

直ぐには無理でも、いつかマルスの隣に立てるくらい強くなるって。

そして、マルスを守れるようになりたいんだ」

エリシアがエリシャになった日。

エリーは自分自身と俺に誓いを立てた。

騎士になってみんなを守れるくらい強くなると。

「エリーの誓いも、その気持ちが本気だってこともわかってるつもりだ。

でも、俺はエリーのことが大切なんだ」

「た、大切……!?」

凛々しい銀の瞳を丸くして、驚きをあらわにした。

元に戻った肌の色が、また赤くなっている。

もしや、体温の変化が激しいのだろうか?

「だから、もしエリーの身に危険が迫ったら、俺は絶対に助けたい。

エリーは俺の最初の友達なんだから」

見つめられたまま、俺も真っ直ぐにその目を見返す。

すると。

「わ、わかったよ。

私も、マルスの気持ちは嬉しいし。

でも、私の誓いは変わらないよ。

今よりももっと努力して、きっとマルスの隣に立つ自信を付けるから!」

少しだけ想像してみる。

冒険者となった俺と、騎士になったエリー。

立場は違えど、背中合わせで戦う二人。

最高の二人組(ペア)になった俺達の姿を。

そのせい……という訳ではないが。

「なあエリー、今度の休み一緒に訓練でもしないか?」

そんな提案をしていた。

すると、エリーは期待に目を輝かせて俺に迫ってきて。

「い、いいの?」

「俺が誘ってるだから、いいに決まってるだろ?」

「なら、マルスが本当にいいなら、是非お願いします」

そう言って、本当に嬉しそうに微笑んでくれた。

こんなことくらいで喜んでくれるなら、訓練なんていくらでも付き合おう。

「予定はどう――」

カーン!

カーン!

休日の訓練予定について話そうとした時、教会の鐘が響いた。

普段は学院の中にいるので鈍い音が聞こえるが、外にいる分はっきりと音が聞こえる。

「朝食、始まるみたいだね」

「とりあえず、今は戻るか。

休日の予定は後でゆっくり決めればいいしな」

「うん、じゃあマルス、また学院でね!」

こうして俺は宿舎に戻り、食堂で朝食を済ませ学院に向かった。