「何様だよ、俺は…」

微睡みに浸ろうとする意識を拒絶するかのように彼の瞼は開かれた。

口から出たのは自らの過去の言動に対する自らによる冷ややかな酷評。

「主様だと思います」

「………そういうことじゃねえよ」

それに頭上から答えたのは見ていた夢を思えば適切か不適切か小一時間ぐらい

悩みにそうになる当事者(ヨーコ)であった。中身は大いにズレた返答だが。

「しかし……我が事ながらこんな場所で、数分とはいえよく寝れる」

シンイチは実際にあの時と同じ程の時間経過を感じていたが、フォスタを覗けば

現実時間では意識が途切れたであろうと思われる時刻から5分も経っていない。

夢というものの不可思議さを垣間見た気分だ。尤もそれ以上に目の前で流れる雑踏と

その雑音の中で寝ていた自分に呆れてもいたが。

「え、わりと主様ってどこでも寝ますよね?」

「必要に迫られた結果、だ。

それもないのにひっかけ橋の真ん中で寝るとか、すごいな俺」

主に、妙なことには神経が図太すぎやしないかと苦笑したくなる方向で。

橋の欄干に背中を預けながら多くの人でごった返す昼間の橋上を眺める。

元々がどれほどの人が通るのが普通なのか旅行者であるシンイチには判別

できないが他の学校の修学旅行生と思われる制服姿の少年少女達が水増し

しているので普段よりは多いのだろうと推測される人波がそこにあった。

「たまーに何語を喋ってるのかなイッチーは?」

「ほへ?」

それらに目を奪われていたからか。まだ起きたばかりだったからか。

隣から聞こえてきた聞き知ってる声に間の抜けた声を彼はこぼした。

真横を向けばひょこひょことどこか楽しげに動き回る三角耳(キツネ耳)。

そこから少し視線を下げれば桜色のショートに包まれている屈託のない笑み。

「ヒナ?」

「はいはぁい、いつでもどこでもあなたの隣にいるヒナちゃんでーす!」

いま存在に気付いて声をかければ満面の笑みと狙い過ぎなあざとい仕草を

見せつけてウインクまで大盤振る舞いしてくるミューヒ。媚びた声色と

その愛らしい容姿も合わさってまるで一時代前のアイドルかのよう。

「うわっ、俺のストーカー怖すぎっ」

ただ当人からするとその発言はそうとしか受け取れなかったらしい。

どこかの広告のように大げさに口許を押さえて驚愕の顔を見せていた。

わざとらしいのがじつにミソである。

「ストーカーいうな!」

これには彼女もがおと吠えるが、一拍置くと彼と一緒にくすくすと笑いだす。

まるで事前に決めていたようなやり取りが互いに妙におかしかったのだ。

「悪い、悪い。どっちかといえばホラーだったな」

「ホラーなんて目じゃないくらいに恐ろしく暴れまわってる人がよくいうよ。

全く、ひっかけ橋といい年収ボケといい気を付けてよね。ネタが古いから」

「しょうがないだろ。

えびす橋なんて名前ここにきて初めて知ったし、実際過去の人間なんだから」

そして何気ない雑談に紛れて彼女がした注意を気にした風もなく彼が流す。

軽い態度にミューヒも溜息だが彼が仕方ないとした理由も理解できていた。

「頑張って穴を埋めるより、気にせず進んだ方が建設的ってこと?」

「もともと知らないことの方が多かったんでな、際限が無さすぎて不毛なんだよ」

8年という月日と異世界交流による大きな時代の変化で移り変わったり、

廃れた部分を完全に網羅するのはどだい不可能なのだ。そもそもかつての

シンイチの知識が足りなかったり偏っていたりしていたせいもある。ならば

もうあとは必要性が出てから個別に調べればいいんじゃないかと諦めにも

似た割り切りの良さを彼は発揮していた。彼女としては彼が時折見せるその

判断と切り捨ての速さに感心すればいいのか呆れればいいのか迷う所だ。

とはいえ、いま最も気になるのはそこではない。

「そっか……まあ、それはそれとして飛行機の時も思ったけど

さすがのイッチーも眠ってる時は近付いても気付かないんだね」

いつものように気配を消して近付いたら寝ていたために気付かれなかったという

事態に逆に驚いてしまったとミューヒは苦笑する。学園でもよく寝ている彼だが、

あまりにも気持ちよさそうな寝顔に彼女は何故か今まで近付くのを躊躇い、結果

そんなある種当たり前の話を知るのが今日まで遅れたのだ。だがそれにシンイチは

呆れたような声を返した。

「お前な、イルカじゃねえんだぞ俺は。

寝てる時は普通に寝てるし、普通に無防備だよ……けどな」

「キュー!」

「こいつをどうにかできないと何もできないだろうがな」

しかし一転して不敵な笑みを浮かべるとその頭上で楽しげに牙を見せる獣。

これには全身からどっと汗が流れ出るミューヒだ。その戦闘力の高さと怒りを

買った時の危険性を教え込まれるガレスト人にはその威嚇はあまりに鳥肌ものだ。

獣耳や尻尾も慌てたようにピンと逆立ってしまう。

「ぅ、うわぁ、君の護衛最強過ぎだよ!

だから寝てる時はいっつもアマリリスちゃんも撮れちゃってたのかぁ」

「……バレてるからって堂々と盗撮写真を本人の前で見るなよ」

その恐ろしさから目を離す為か。フォスタ片手にこれまでの画像(寝顔)データを

眺めながら、そういうことか、と納得顔を見せる彼女に呆れ声の少年である。

とはいえ彼女はいつもの笑みを浮かべるだけだが。

「えへへ、じゃあこれが撮影代ということで」

そういって掲げたもう一方の手にあったのは船のような形の大型の紙皿。

それに客のように乗っていたのは熱気と鰹節をまとった山盛りの球体。

大阪名物たこ焼きである。

「随分とやっすいな俺の肖像権……あむ、あつっ、はむはむ、んくっ!

うん美味い! やっぱ大阪来たからにはたこ焼きぐらい食べないとな!」

これには軽く文句を言いつつも爪楊枝片手に遠慮なく食らいつくシンイチ。

出来立てであったのか熱さに苦心しつつもしっかりと味わって満面の笑み。

「ほら、お前も食うか、うまいぞ」

「キュ、あふっ、はふっ、キュイ!」

続けて頭上の彼女にも放り上げるように与えればぱくりと一口。

租借しつつ熱さに驚いたようだったがすぐに満足げに頷いてみせる。

喜ぶような鳴き声に少年も破顔して、ミューヒもまたその光景に微笑む。

そして二人と一匹は一緒になってたこ焼きをつついていく。しばらく

そうやって彼等は大阪の味を堪能しながら目の前の人波を眺めていたが

ぽつりと呟くようにミューヒは隣に言葉をかけた。

「……おつかれさま」

「あつ、はふっ……ん、なにがだよ?」

「こっちについてから三件。テレビの街頭インタビュー、のフリした誘拐犯。

いたいけな可愛い女の子を人気の無い所に押し込もうとした悪いオオカミたち。

大阪城占拠を目論んだ装備だけは立派な自称運動家集団……ご苦労様だよホント」

「キュイキュイ」

そりゃ居眠りもしたくなるよね。とニコニコとした笑みを崩さずに指摘する。

頭上の彼女など「その通りです!」といわんばかりに何度も頷いていた。

確かにそれらは大阪についてからシンイチに“見つかってしまった”者達だ。

無論すべて企みを実行する直前に誰かさんに無事叩き潰された。その後処理も

含めて疲労がないといえば嘘になるが、ともかく。

「それはどうも。

でも正直二つ目はお前より(・・・・)オオカミどもの心配をしてたんだが?」

「ものの数分で牙どころか心までへし折った人に言われると怒ればいいのか笑えばいいのか」

迷っちゃうなぁ、とアハハと笑うが彼女の瞳に宿るのは表情とは違う感情。

疑問か懸念という謎を前にしたようなそれと何かの不安が綯交ぜな目だった。 

「けど、イッチーってわりと見敵必殺だよねぇ」

「…見境無しに聞こえるからそれはやめてくれ。

これでも色々と考えてやってんだからさ……あむ」

当然それには気付いていた彼だが“見つければ皆殺し《サーチアンドデストロイ》”といわれると

そこまでではないんじゃないかなと消極的ながらに否定したい心境になった。

ただ強く言えない辺りにそう見える自覚はあったのだろう。しかし。

「そう、そこなのよ」

「え?」

彼女はその言葉を待っていたといわんばかりに疑問を口にした。

ただそれは学園生徒ミューヒ・ルオーナとしてのものではない。

「何を考えて、君はここにいる敵(ワタシ)を見逃しているのかな?」

反政府組織『無銘』の幹部たるテロリストの女が何故と仮面の下に真意を問う。

笑顔の無い、素に近いのであろう真剣さだけがある表情で。

「反体制側の組織から見た情報が欲しいというのも、

友人と戦いたくないというのもどちらも本音でしょう。

けど、君はそれだけで戦わない道を選べるほど器用じゃない」

自分達の足元にどれだけの被害者が増え続けているかなど知っているだろうに。

なのに潰すどころか隣に立つことを許し、一緒にものを食べ、談笑するなど。

ここまで彼女が見てきた『敵』と相対した時に見せる彼の対応と合わない。

少なくともミューヒの目には彼は“それ”を我慢できる性質には見えなかった。

「…臆病でも賢いでもなく、器用じゃない、か」

だからこそ分からないと問う彼女に、だが彼は適切な表現だと苦笑する。

そして口許についたソース等を拭い取りながら少年は女の碧眼を覗く。

真剣な面持ちのそれに明確な答えを期待した彼女にシンイチは──

「どうやら旅行を楽しんでいるらしいな、良かった良かった!」

「……………は?」

──全く脈絡のない言葉と満面の笑みで大きく頷いてみせた。

ミューヒがそれで呆けた様子を見せても仕方がないというものだろう。

だがすぐに我に返って不機嫌さを前面に出すと眉根を寄せて詰め寄る。

が。

「………君ねっ、私いま大真面目に、」

「え、だから急に罪悪感が膨れ上がったって話だろ?」

「───っっ!?」

発言を遮るような断定染みた言葉に、彼女は息を呑むしかなかった。

ルームメイト(陽子)をからかい、お嬢様(アリステル)で遊びながらの修学旅行。

各地の名産に舌鼓を打ちながら、名所を巡り、トラブルに笑う。

誰かと、一緒に。まるで本当の学生のように過ごす。

それが楽しければ楽しいほど、蓋をしているはずの感情が溢れた。

「なんっ、で…?」

女の顔から血の気が引く。

整った歯がなぜか噛み合わない。

怯えたように耳も尾も震えながら垂れ下がる。

そこまで語る気は毛頭に無かったのだ。ただあの宣戦布告のような

取引の後からずっと心にあった疑問を今聞いてみたくなっただけ。

しかし彼の言葉はまるでその裏に隠してあった「罰が欲しいだけだろ」

という甘えた願望を見透かし、責めるように鋭く彼女の胸に突き刺す。

「………うむ、これはまたなんかやってしまったか?」

「キュイ、キュ」

ただ幸か不幸か告げた当人にその気は皆無であったのだが。

その真相を同類だからこそ気軽に気付いて、気軽に口にしただけだった。

分かり過ぎてしまう結果あるべき言葉や行動を何段階か飛ばしてしまうのは

彼がたまにやらかす困った癖だった。それが良い方向に運ぶ事もあるが、

たいていは今回のように一撃で相手の精神(ココロ)を丸裸にしてしまう。

「これも俺の責任か」

よし、と頷いたシンイチはまるでスナック菓子でも頬張るように

残りのたこ焼きを一気に口に流し込んで一飲み。彼女の青くなった顔、

その両頬を両手で挟み込むように叩いてその瞳を自分に向けさせた。

「─────ッ」

頬からじんわりと広がった痛みか。迫る少年の顔のあまりの近さにか。

彼女の揺れていた瞳が僅かに落ち着きを見せる。

「…………イッチー、痛いよ?」

「うむ、それじゃ一緒に大阪漫遊といこうか!

騒動を色々始末してきたからどこにも行けてねえんだ。付き合え!」

「へ、え?」

そして有無を言わせずに手を取ると彼女をぐいぐいと引っ張っていく。

こういった時は意表をついて強引なペースに巻き込んでしまえばいい。

彼のいつもの手といえなくもないが。

「ちょっ、ええっ!?」

躓きかけながらもついていく格好となった彼女はしかし未だに混乱顔。

だがそこへ前を向いたままのシンイチから底抜けに明るい声をかけられる。

「蓋しようとか消そうとか見ないふりしようとか無理だよ、無理。

俺たちの(・・・・)手はもう二度ときれいになんかならないんだ。

なら精一杯楽しんで刺激して、胸の中をワァッーーってさせようぜ?」

ただ声色と違ってその中身は重く、そしてどこか黒い発言だった。

最後だけ振り返って悪戯な顔で笑った彼に一瞬呆気にとられたミューヒだが、

すぐに頭が痛いとばかりに首を振った。

「罰を受ける事も求める事も許さない。一生その痛みを抱いて……ううん。

より痛く感じるために今を楽しみなさい、って言ってるように聞こえるわよ?」

「うん、そういってる」

──なんて、ひどい男(ヒト)

事も無げにそう告げて前に向き直った男に対して、

喉まで出かかったそれを呑み込んだが、これはまずい、と彼女は素で苦笑した。

“消える事は無い”と突き放しつつ今の楽しさを“それでいい”と許容する。

逃げたくない痛みと手放し難い楽しさをどちらも認められては、たまらない。

「…それに、俺はそうしているよ」

「あら、強いのね」

「まさか!

誰かさん曰く、自己中心的で身勝手で偏屈で頑固者なだけ、らしいよ?」

「……誰か知らないけど、適切なのか的外れなのか判断に迷うわ、それ」

彼女としては思い当たる節はあるにはあるがどこか違うようにも思える評価だ。

当たり外れが分からずに引っ張られたまま首を捻る彼女に笑い声が返る。

「くくっ、すぐにわかるさ。俺のストーカー続けるならな。

見方を変えると俺ほどわかりやすい単純な男はいない、らしいから」

この話はそれでもう終わりだと彼は同じ学園の友人を大阪の街に誘っていく。

ミューヒもそれに倣っていつもの笑顔を浮かべながらその手に引かれていく。

「さて、観覧車か花月かアメリカ村か……うむ、ここはやはりカニか?」

「いいね、もちろんイッチーの奢りだよね!」

「そりゃもう、いたいけな可愛らしい女の子? を誘うからにはそれぐらいは…」

「む、ここでさっきのそれ引っ張り出す? っていうかなんで疑問形!?」

いつもと変わらない、この二人らしい会話を続けながら。

いつぞやの時のように歩調を合わせないのは人混みゆえか。

今は強引にでも前に進ませた方がいいとする彼の気遣いか。

なんにせよ彼の“見えぬ傷だらけの手”が彼女の手に触れている。

──なんて、ずるくて、ひどい手

いつものやり取りをしながら彼女の胸は高揚と痛みを感じていた。

彼の手はガレストの女にとって目に毒ならぬ手に毒な感触で、油断すると

少年の後姿を見詰める自らの視線に抑えきれない熱が宿りそうになる。

それではいけない。考えなくてはいけない事は山ほどあるのだから。

自らの罪の在り処。いずれ受けるべき罰の在り方。『無銘』や二つの世界、

そして自分のこれから。そして彼がもう手を汚しているという事実。

それに────彼が楽しげに語った“らしい”という評価は誰からの言葉なのか。

「ぁ──────」

まずい、とミューヒは埒外にそれを思って客観的になろうとした。

が、ずらそうとした思考はもう俗的なソレに戻っている。それを一度

意識してしまうと掴まれている手の感触がこそばゆく、ずっとそのままでいたい

誘惑にかられる。他の諸々を棚上げして、とりあえず今はと彼女は堕落の海に

溺れたくなってしまう。中身の無い会話で馬鹿をやりながら過ごしていたい。

罪悪感という痛みはその欲望と今の楽しさに比例するように訴えてくるが、

少なくとも今は(・・)彼の言う通り、痛みの中で楽しもうと彼女は決めた。

「──────」

けれど。

彼もまたそれを自分と同じように感じてくれているのだろうか、と

途切れた会話の代わりに彼女の視線が少年の後姿から離れない。

痛みを感じているのか────楽しんで、くれているのか。

そうだったら嬉しい(嫌だな)。矛盾した想いに彼女自身が苦笑してしまう。

心地よい高揚と息苦しい痛みという別種の熱量が自分をおかしくしたらしい。

彼女の問いかけには答えたのかはぐらかしたのか判断に困る対応だったが

共に旅行を楽しみながらも罪悪感に苛まれるというのは、悪くない。

少なくとも、今は。

「くすっ」

そんな今まで無かった悪い(・・)考えを刷り込む彼をただただ狡いと思う。

だからつい胸にも顔にも目にも制御できない熱を彼女は宿してしまっていた。

自身が今どれだけ蕩けそうな笑みを浮かべているかなど知る由もない。

だから。

「キュッキュッキュッ」

「っ!?」

彼女の、どこか楽しげに笑っているような鳴き声を聞く羽目になった。

一瞬で何もかもが冷えて、ミューヒの額から汗がたらりと落ちる。存在を

忘れてしまっていたもう一匹。その彼女が静かに出した前足に愕然とする。

「キュ」

小さな指を一本だけ口の前で立てたそれは「黙っててあげる」というかのよう。

同時にまるで「貸し一つ」とでもいいたげで、ミューヒの表情は固まった。

「あうっ、油断したっ…」

何か致命的なような弱みを獣に握られた彼女はシンイチが次に振り返るまで果てしなく沈み込むのだった。