「ふぅ……やっとラージャの近くまで来たわね!」

大河ロナウを越えて、西へ進むことはや数日。

シエルはようやく、ラージャにほど近い宿場町へとたどり着いていた。

かなりの強行軍であったが、ここを出てしまえば目的地まではあと一日か二日。

そこはかとない達成感からか、自然と笑みがこぼれてくる。

「さすがに汗をかいちゃったわね。お風呂に入らないと……」

浄化の魔法で誤魔化してはいたが、さすがに何日も風呂に入らないのは気分が悪い。

ここはお金を惜しまず、街で一番良い宿を取ろう。

そう決意したシエルは、パッと目についた大きなホテルへと向かった。

するとここで、彼女の視界がにわかにちらつく。

「あれ? 疲れてるのかしらね……」

目をごしごしと擦るシエル。

思えばここ数日は、睡眠時間もかなり削っていた。

さすがに無理をし過ぎたかと反省していると、遠くから小さな爆発音のようなものが聞こえてくる。

「雷? またえらく時期外れね」

ラージャ周辺で雷雨が発生するのは、主として夏である。

それ以外の時期では、非常に珍しい現象だった。

こりゃまたついてない……。

シエルがやれやれとため息をつくと、それに合わせるかのように大粒の雨が降ってくる。

バラバラと落ちてくるそれは、肌に直接あたると痛いほどであった。

「やばっ!」

慌てて近くの軒下へと避難するシエル。

びしょ濡れになってしまった彼女は、そのままうんざりしたように空を見上げた。

すると雷光に照らされて、人影のようなものが一瞬だが浮かび上がる。

「……何かしら、あれ?」

どことなく、嫌な予感がした。

シエルは軒先から外へと出ると、すぐさま人影が見えた方角に向かって魔法を放つ。

完全無詠唱の探査魔法。

魔力の波を相手にぶつけて、その反響を確認するという単純なものだ。

しかしその効果は絶大で、鳥などの見間違いであればすぐにわかるはずであった。

すると――。

「魔力波が消えた? 小賢しいことするわね!」

魔力波の反応が、途中で綺麗に消失した。

これは明らかに人為的な反応だ。

正体を探られたくない何者かが、シエルの魔力波を打ち消すように術を使ったのだ。

「はんッ! そんなのがこの私に通用するもんですかッと! ジニア・エクレール!!」

即座に展開される三重の魔法陣。

青白い雷撃が指先から迸り、天へと駆け上った。

上級雷魔法ジニア・エクレール。

巨大な魔物をも一撃で打ち倒す攻撃魔法である。

いきなり撃つような威力のものではないが、これでも平気だとシエルは確信していた。

先ほどの魔力波を誤魔化した手際の良さからして、相手もかなりの熟達者だと判断したのだ。

「結界魔法か!」

案の定、シエルの放った雷を敵は結界で防いだ。

ガラスが砕けるような独特の音が響き渡る。

「だったらこれでどうよ! トロワ・エクレール!!」

雷の三連撃。

稲光が宙を切り裂き、夜空を白く染め上げる。

共鳴し、天を揺さぶる雷鳴。

その様子に、近くに居た街の人々までもが空を見上げた。

すると、雲に隠れる何者かは彼らの視線をうっとおしく思ったのだろうか。

雨が人々を追い払うかのように勢いを増す。

「わっ! 目を開けてらんないわね!」

風圧すら伴っているような豪雨。

さすがのシエルもたまらず軒下へと避難した。

そうしている間にも、空を覆っていた黒雲がゆっくりと流れていく。

「こら、逃げるな!! 私にビビってるわけ!?」

すぐさま相手を挑発するシエルであったが、反応はなかった。

それどころか、心なしか雲の進む速度が速くなる。

敵は完全にシエルからの逃亡を選択したようであった。

「……何だったのかしらね?」

十分ほどが過ぎた頃。

雷雲は遥か彼方へと通り過ぎ、平穏な夜空が戻ってきた。

シエルは避難していた軒先から通りへと出ると、雷雲が向かっていった方角を見やる。

「向こうに何かある……? ねえちょっと、いいかしら?」

そう言って、シエルはたまたま通りがかった男を呼び止めた。

彼女はそのまま雲が飛び去った方角を指さして、尋ねる。

「あっちの方角に何かない?」

「あっち? ラージャとは少し違うし……何もないはずだがな」

「小さなものでもいいのよ。山とか森とか」

「そうだなぁ……しいて言うなら、ラズコーの谷があるな」

ラズコーの谷?

シエルの眼が、にわかに細くなった。

彼女は男との距離をズイっと詰めると、さながら尋問でもするように言う。

「そのラズコーの谷で、最近変わったことが起きたりしてない? どんな小さなことでもいいのよ?」

「そう言われても、俺は別に――」

「細かいことでいいから、教えなさい!」

有無を言わせぬ強い態度。

その少女らしからぬ威圧感に、男の方がビクリと震えた。

肉弾戦を得意としない賢者ではあるが、身体強化魔法を用いればこの男を文字通り潰すぐらいは容易いのだ。

そのことを察したのか、男は青い顔をしながら早口で言う。

「そ、そう言えば! 冒険者の連中が言ってたな、ギルドが谷を封鎖したって!」

「ギルドって、冒険者ギルド?」

「ああ、詳しいことは知らされてないそうだがな。地滑りか何かでもあったんじゃねえかって話だ」

男の話を聞いて、ふむと考えこむシエル。

彼が言うようにただの地滑りなどであれば、間違いなく理由を公表するだろう。

わざわざ非公開にしているということは、表に出しがたい何かがあったに違いない。

「なるほど、これは行くしかないわね。……よし、あいつにするか」

道の端に止められていた一頭の馬。

それにまたがると、シエルは即座に身体強化魔法を掛ける。

彼女の体を覆いつくした魔法のオーラは、そのまま乗っていた馬までも覆っていく。

本来ならば人間に用いる身体強化魔法。

それをシエルは、動物にまで応用することに成功していたのだ。

「いくわよっ! とりゃっ!」

「あっ! 馬泥棒!!」

「これで足りるでしょ!!」

慌てて走り寄ってきた持ち主に、金貨の入った財布を投げてよこす。

馬の代金の軽く十倍近い金額が入っていたはずだが、構いはしなかった。

今は何よりも、急いでラズコーの谷へと向かわねばならない。

どことなくではあるが、シエルは嫌な予感がしたのだ。

このラズコーの谷と言う場所に――。

「まさかいないでしょうね、ノア!!」