桔音(きつね)が眼を覚ました時、最初に視界に入って来たのは木目のある天井だった。左手で顔を撫でると、顔の左側には包帯が巻かれていた。誰かの手当てが施されたということだろう。

桔音は身体を起こし、周囲を確認する。どうやらベッドに寝かされていたようで、身体に掛かっていた毛布がぱさりと落ちた。構わず横を見ると、手を伸ばせば届く距離に木のテーブルがあり、その上に桔音の物であるお面と簡単な食事が置いてあった。桔音はとりあえずベッドから足を下ろし、お面を頭の横に来るように付け、立ち上がる。

「……ここは……」

どうやら此処は誰かの部屋の様だ。桔音以外には誰もいないが、待っていれば誰かが帰ってくるのだろう。

桔音はフィニアの姿を探す。お面を『ステータス鑑定』で見てみるが、どうやらお面の中にはいないようだった。桔音の予想ではおそらく、この部屋の主と共にいるのだろうが、いままで一緒に行動を共にしていた相手がいなくなるというのは、中々寂しいものがある。

すると、桔音の腹から空腹の音が鳴った。取り敢えず、この部屋から出るのは得策ではないと考え、桔音はテーブルの上に置かれた数個のパンと果物に手を付けることにした。

人の手によって加工された食料を食べるのは随分と久しぶりな気がして、少しだけ感傷的になった。だが、一口食べれば止まらない。どうやらかなり空腹だったようで、テーブルの上にあった食事は全て、ものの数分で桔音の腹に収まった。

「……ふぅ、お腹も膨れたし……とりあえず……二度寝しよう」

「うっわー! 他人の部屋で厚かましいね! さすがきつねさん最悪だね!」

「……やぁフィニアちゃん、おはよう」

「うんおはよう! というか今はもうこんにちわの時間だけどね! ぐっどあふたぬーんだよ!」

「あはは……というか何処から入って来たの今?」

「扉から!」

桔音がベッドに腰掛けた途端に入ってきたフィニア。いつものような毒舌を吐きながら桔音の胸に飛び込んできた。桔音はフィニアの言葉を聞いて、部屋の唯一の出入り口である扉に視線を向けた。

そこには、緋色の髪を後頭部でお団子の様に纏めた少女がいた。年齢は桔音と同じ位、翠色の瞳が特徴的で、服の合い間から見える肌には包帯や軟膏が多く見られた。そしてなにより桔音の眼を惹いたのは、彼女が片手に携えている剣だ。

だが、まずはこの部屋の主であろう彼女のことを知らねばならないだろう。

「えーと……君は……?」

「あ、ああ……もう怪我は大丈夫、ですか?」

「あ、うん……いや無理に敬語とか使わなくても良いよ?」

「んんっ! すまないな、私は人に気を使うのが下手でな」

桔音の言葉に、少女は苦笑気味にそう言った。桔音は元の世界では他人の悪意の多い環境で毎日を過ごしていた、またこの世界に来てからの生活もあって、他者の悪意に随分と敏感になっている。故に、彼女に悪意がないことを感じとり、少しだけ警戒心を和らげた。

「えーと、それで……君が僕を助けてくれたのかな?」

「あ、ああ……この国の入り口に倒れていて満身創痍なようだったからな、本当なら医者に見せてやりたい所なんだが、素性の知れない奴だったからな……それに怪我は左眼以外大したことはなさそうだったから、取り敢えず私の下宿している此処に運んだんだ」

「そう……ありがとう、左眼の手当ても君が?」

「ああ、勝手だが放っておくと傷口が悪化するからな」

「というか、国?」

「ん? ここはミニエラという名の国だよ」

桔音の問いに少女は淀みなく答えた。どうやらここは街ではなく国だったようだ、異世界故に、桔音とは国の人口数の常識が違うらしい。

とりあえず、桔音は色々世話になっていることに対して、再度礼と共に頭を下げた。

「えーと、ごめん君の名前は……」

「ああすまない、紹介が遅れたな……私の名前はトリシェ・ルミエイラだ。出来ればトリシェの方で呼んでくれ」

「うん、僕の名前は薙刀桔音……ああ、きつねでいいよ」

「うん? ナギナタ……が、名前じゃないのか?」

「いや、僕の場合は桔音が名前なんだ……そっか、こっちでは桔音・薙刀になるのかな?」

桔音はこっちの世界では元の世界と色々違う事がありそうだ、と思いながら名前を言い直す。すると、トリシェは成程と頷きながら笑みを浮かべる。そして、桔音に歩み寄って手を差し出した。

「まぁ悪い奴ではなさそうだな……それに、きつねが起きるまでにフィニアと少し話したが、話してて悪意は感じられなかった。とりあえず、よろしく頼む」

「……うん、よろしくね……えーと、リーシェちゃん」

「トリシェなんだけど……まぁ良い、好きに呼んでくれ」

「愛称リーシェだね! 私もよろしくー!」

桔音は差し出された手を握って、握手する。そしてフィニアもまた、繋がれた二人の手に両手をついて、にぱっと笑いながらそう言った。

桔音と命名リーシェは、そんなフィニアの純粋な笑顔を見て、お互い噴き出すように笑った。

「はぁ……それじゃ、とりあえず食事にしようか。先程フィニアと共に食料を買いに行ってたんだ」

「そうなの?」

「そうなの!」

桔音は腰掛けていたベッドから立ち上がり、リーシェについて部屋を出た。部屋を出ると、どうやらここは宿のようで、先程まで桔音がいた部屋の他にも幾つか部屋があった。

そして廊下の端にあった階段を下りると、広い空間に出た。テーブルが数多く並んでおり、食堂になっているようだった。そして食堂は受付にも繋がっているようで、この宿の女将らしき人が立っていた。

「この宿は客も調理場が使用出来るんだ、だから食料さえ用意すれば自分で好きに食事を作ることが出来る」

「へぇ……ってことはこの宿から料理を貰う事も出来るの?」

「ああ、お金を払えば朝昼晩と三食ちゃんと出てくる。まぁ指定時間内に食堂に来なければ食べられないんだけどな」

「その場合はお金の無駄使いって事になるね!」

リーシェの説明に桔音は頷き、フィニアはそんな感想を言った。

と、そこまで来て桔音は気が付いた。宿からはお金を払えば食事が出る、だが先程リーシェはフィニアと食料を買いに行っていたと言った。ということは、

「リーシェちゃん……料理出来るの?」

「む、失礼な……これでも料理は得意なんだ、友達にも店を出せるレベルだと言われたことがある」

「へぇ、それは期待が高まるね!」

「ああ、フィニアのもちゃんと作るから座って待っててくれ」

桔音とフィニアはリーシェに言われたとおりに空いているテーブルに腰掛けた。すると、リーシェは調理場の入口に歩いて行き、奥へと姿を消した。

桔音はそれを見送ると、少しだけ身体の力を抜いた。そしてテーブルの上に足を伸ばして座るフィニアに視線を向けながら、口を開いた。

「フィニアちゃん……僕、どれくらい寝てた?」

「うん? えーと、この国に着いたのは朝方だから……5時間位?」

「そっか……それじゃリーシェと一緒に買い物に出てたって言ってたけど……街……ああ国だっけ……の様子はどんな感じだった?」

「にぎやかだったね! きつねさんの住んでいた所とは建物も店もかなり異なってる感じだった」

桔音はフィニアからこの国についての情報を聞きだす。もとより、この国に来た目的は魔獣からの安全確保とこの世界についての情報収集だ。少しでも情報を集めなければ、元の世界に帰るなんて夢のまた夢、この世界で生活すること自体不可能だろう。

桔音は先程のリーシェとの会話の断片から、少しづつこの世界についての知識を収集していた。まずは名前、この世界では和名は珍しいようだ。リーシェの名前からして、片仮名の名前が常識的なのだろう。となれば、フィニアにフィニアと名付けたのは中々良い選択だったということになる。

とりあえず、桔音はこの世界において名字は名乗らないことにした。フィニアが呼んでいるように、ただの『きつね』として名乗ることした。

また、異世界から来たということは秘密にしておくことにする。

「フィニアちゃん……異世界から来た事は、内緒だ」

「え? ……うん、分かった」

桔音の言葉に、首を傾げたフィニアだったが、それでも理由は聞かずにただ頷いた。

『異世界人』というものは、自身の称号としてステータスに表示されるほどの『異様』な存在だ。ならば、これは隠しておいた方が良いだろう。少なくとも、この世界において異世界人という存在が認知されているかいないか、それがはっきりするまでは。

まして、桔音の服装は異世界の学ランだ。一文無し故にこの服装を変えるつもりはないが、それでもトリシェの女戦士の様な服装を鑑みれば、桔音の服装がこの場において珍しいことは容易に理解出来る。

「……とりあえず、此処で生活するには多少なりともお金が必要だ。早めに働き先を見つけないと」

「あ、じゃあ冒険者になってみようよ!」

「冒険者……?」

「うん、さっき買い物に行く途中で見つけたんだ! 冒険者ギルド! リーシェにも聞いて確認したから間違いないよ!」

冒険者ギルド。桔音はそれを聞いて、少し考える。

ギルドといえば、異世界の定番だ。依頼を受注し、魔獣を討伐したり、薬草を収集したりすることで依頼者から報酬金を貰う仕事。所謂何でも屋の様なものだ。

だが、それ故に危険が付き纏う。魔獣と戦うリスクは街に逃げて来た桔音からすればあまり背負いたくはないし、仮に平和的な依頼だけを受けたとしても、周囲に『魔獣を殺せる人間』がいるのはやはり怖い。

「でも……それしかない、かなぁ……」

リーシェの反応から、この世界においてもその人の『素性』というものはそれなりに重視されていることは分かる。ならば、客商売に就職するのはあまり出来そうにはないだろう。素性の知れない男を接客業に携えてくれる者など、そうはいない。

ならば、素性がどうであれ仕事さえこなせば報酬をくれそうな冒険者というのは、今の桔音にとって最も手っ取り早い生活費の稼ぎ所だろう。

「フィニアちゃん」

「なにかな?」

「あれ、まだ有効かな? ……僕を護ってくれるってやつ」

「―――勿論だよ、きつねさんは私が護る」

桔音の言葉に、フィニアは笑顔を消して言う。その言葉を聞いて、桔音は眼を閉じて考える。そして、数秒の後眼を開いて薄ら笑いを浮かべた。

「うん、それじゃああとでギルドに行こう。でもね、フィニアちゃん」

「ん?」

「僕も強くなるよ、誰にも殺されない程度には」

「……うん、一緒に頑張ろうね!」

桔音は決めた。多少のリスクは背負うことを。そうしないと、何もかも始まらない。

これから元の世界へ戻る為の手段を探すのだ。それはつまり、世界との戦いといっても良い。その過程で、魔獣や人と戦うことは避けられない筈だ。ならば、少しでも強くなる。桔音はそう決意した。

「待たせたな、出来たぞ」

「ん、待ってました」

とそこへ、リーシェがやってきた。その手にはサラダとステーキが器用に持たれていた。見た目的には元の世界にあるものとあまり変わらないが、その内容は見たことのない食材が使われている。

「これ、何の肉?」

「ああ、これは国の近くに生息してる鳥型魔獣トリスの肉だ」

「……なるほど」

桔音は目の前に出たステーキが、今まで自分達の命を脅かす敵だった魔獣の肉だと知って、少し微妙な気分になった。食べてみて、また味が良いのが更に微妙な気分になる。

だが、となりでステーキをもぎゅもぎゅと頬張っているフィニアを見ると、それもまぁいいかと思えた。食事を必要としない妖精の彼女だが、それでもものを食べている子供を見ているようで、少し微笑ましい。

「うん、美味しいよ。リーシェちゃんって料理上手なんだねぇ」

「ありがとう、これだけは私も得意なんだ。まぁ、剣の腕はまだまだだけどな」

「剣……ってことはリーシェちゃんは冒険者?」

「ああいや、私はこの国の騎士団の見習いだ」

「騎士団?」

食事をしながら、リーシェが説明してくれる。

この街には冒険者ギルドの他に、騎士団と呼ばれる組織があるらしい。これは桔音の世界でいう所の警察の様なもので、この街を警邏したり、犯罪者を取り締まったりする組織だ。騎士団はある程度実力のある人間なら試験を受けられ、そして合格すればなる事が出来る。給金は手柄次第で増えるが、失態を犯さない限り一定金額は保障される職業である。

そして、リーシェの言う騎士団見習いというのは、騎士団に入る為の実力を付ける為に、実際に騎士団にいる騎士から手ほどきを受けている者のことだ。実力が付いてくれば、教導騎士から試験を受ける許可が貰える。

「リーシェちゃんは見習いになってどれくらいなの?」

「ああ……もう二年になるが、まだ実力が足りていないらしい」

「へぇ、よっぽど才能がないんだね」

「ぐさりと来る発言をするな……きつね」

「あ、これおいしい」

「露骨に話を逸らさないでくれ」

そんな話をしながら、桔音は食事を終えた。

「ごちそうさまでした」

「その挨拶はなんだ?」

「ん、いやまぁ僕のいた場所での食事作法だよ」

「なるほど……どういう意味があるんだ?」

「んー、食事を作ってくれた人や僕達の血肉になった命に対する感謝、だっけ?」

「……へぇ、見習いたい意識だな」

リーシェはそう言いながら食器を片づける。また調理場に持っていき、しばらくして洗い終えたのか戻ってきた。

「それで……きつねはこれからどうするんだ?」

リーシェが口を開いて始めたのは、これからの話だった。