レイラの生み出した漆黒の瘴気が、まるで黒い風の様にヴィルヘルムを襲っていた。黒い空間に隠れて攻撃してくることで、ヴィルヘルムにとってはかなり厄介。故に、既に黒い空間は解除されている。フィニアの目の前に広がっていたのは、小さな小屋の中だった。

だが、その小屋もレイラの瘴気攻撃で粉々に破壊されている。現在レイラ達は何処かの森の中で戦っていた。ヴィルヘルムが躱すことで、周囲に霧散した瘴気が、辺りに広がっている。レイラの操る瘴気量は底知れず、ヴィルヘルムも直接的な戦闘を得意としている訳ではないからか、躱すので精一杯らしい。

「ッ……! 貴女、意味分からないわ……! フッ! 嫌なのにそれでも良いと言うの!?」

「良いんだよ♪ あのね、恋って素敵なんだよ♡ でも、貴女には多分分からないだろうね♪」

「この……小娘が……!」

躱すヴィルヘルムは、レイラの攻撃に内心驚愕していた。彼女が知っている『赤い夜』は、こんなに強くはなかった筈だと、そう思っていた。といっても、彼女はレイラが暴れるだけしか能の無い魔族であったけれど、桔音と出会って『赤い夜』として正真正銘Sランクの魔族と成ったことを魔王から聞いていた。その上で、レイラを大したことないと判断していたのだ。

しかし、レイラは強かった。瘴気のスキルを使いこなし、まるで将棋で追い詰める様に戦況を作りあげていく。圧倒的な戦闘センスが、赤い瞳と共に光り輝いている。

「恋は、独り善がりじゃダメ―――お互いが幸せにならなくちゃね♪」

レイラは、ヴィルヘルムの精神攻撃に対してなんら影響を受けていなかった。彼女は桔音への恋心に気が付いて、人間としてのレイラを覚醒させた。その結果、彼女は魔族でありながら人間としての心も兼ね備えた存在となったのだ。

もはや彼女はただの魔族ではない……もっと新しい、この世に生まれた魔族という名の新種といえるだろう。

「ッ……ほんっと、訳分かんないわね……同じ魔族として―――吐き気がするわ」

「うふふうふふふ♪ それは貴女が子供だからだよ、お嬢ちゃん♡」

「ムカつくわねぇ……小娘」

舌戦では、レイラが圧倒的に精神的余裕を得ている。

だが、それでもヴィルヘルムに瘴気の攻撃を当てることが出来ていない。そのことから、ステータス的にはヴィルヘルムがレイラを上回っている事が分かる。直接戦闘を得意としていない彼女ではあるが、レイラの攻撃が見えているのなら、この拮抗している戦況が破られないのはあり得ないことではない。

そう、これは奇しくも桔音がこれまでSランクの化け物達相手に立ち回れたことと同じ状況なのだ。ステータス的に勝っているから、戦闘が苦手でも戦える。

しかし、それはレイラも分かっている。桔音の戦闘を間近で見て来たし、そもそも桔音と戦ったこともある彼女だ……そうなった時の対応も、考えたことがない訳ではない。

「私よりも速い―――なら、避けられない一撃を♪」

「なぁっ……!?」

レイラは、上空に超巨大な瘴気の塊を作り出した。太陽の光を遮って、レイラ達は大きな影を踏む形になる。そして、レイラはその巨大な瘴気の塊をヴィルヘルムに叩き付ける。自分やフィニアも同じ様に押し潰される位置に居るが、レイラの瘴気コントロール能力は精密操作で桔音に劣るものの、やはり高い。自分とフィニアが居る部分はちゃんと瘴気の塊に穴を開けていた。

そして、ヴィルヘルムだけを叩き潰す―――が、ヴィルヘルムはヴィルヘルムでその瘴気の圧倒的質量攻撃に対応する。

「あはっ♪ これも躱すんだ?」

レイラは、真っ黒な魔力弾で巨大な瘴気の塊を削り飛ばし、瘴気の攻撃を凌いだヴィルヘルムを見てそう言った。そして、一旦お互いの距離が開き、戦いが一旦止まる。

すると、ヴィルヘルムが不機嫌そうな雰囲気を発しながらも……にやりと笑ってレイラを見た。

「お互いに幸せ、ね……なら、此処で私が死んだら、その言葉は叶わないわね」

「ん?」

「貴女の大好きなあの少年は……今、私の力で夢の中よ。そして―――私が死ねば、彼は永遠に夢の中に取り残され……目覚める事はない」

「!?」

ヴィルヘルムの言葉に、レイラの表情から笑みが消えた。ヴィルヘルムを殺せば、桔音が戻って来ない。ヴィルヘルムを殺せば、レイラの言う『恋』は成就しない。

そうなると、ヴィルヘルムを攻撃する事が出来ないということになる。フィニアもその事実に眼を見開いていた。

そして、レイラから生み出される瘴気の勢いが弱まった。辺りに瘴気が漂ってはいるが、それも動く気配はないく、空気の流れに任せて動いているだけだ。

そのことに気を良くしたのか、ヴィルヘルムはにやりと笑った。

「嘘かと思うかもしれないけれど、これだけは本当よ? うふふ……それで、貴女はどうするのかしら?」

「……きつね君、そんな所に居たんだー……厄介なっ♪」

レイラは表情を崩さない様にそう言ったが、ヴィルヘルムには分かっている。レイラの内心で、焦りが生じたことを。

「うふふ……ついでに言っておくと、彼が戻ってくる方法は……私が力を解除する事だけよ」

「ん? あぁ……そっか、それなら大丈夫だね♪」

「は?」

精神的に更に追い詰めてやろうと教えた情報に、レイラは再度にんまりと笑った。予想外の反応に、ヴィルヘルムは眉間に皺を寄せた。フィニアも同じ様にレイラを見て驚きの表情を浮かべていた。

「出来ればコレは使いたくなかったんだけどねー……♪ だって私以外にはいらないもん、『赤い夜』なんてモノは♪ でも仕方ないよね、私はきつね君の為なら同類(わたし)を作ることも厭わない♡」

レイラがそう言った瞬間、周囲に撒き散らされた瘴気が意思を持って動き出した。ヴィルヘルムを囲む様に渦巻き、そして攻撃ではなく風の様にヴィルヘルムの肌を撫でる。

「なに……? コレが攻撃のつもり?」

「攻撃じゃないよ―――コレで決着♪」

「は? なに、を……ッ……!?」

レイラは少し不満気な表情でそう言った。

すると、ヴィルヘルムの身体に異変が起きる。まず、紫色の瞳が赤く染まった。そして黒い瘴気が身体を包み込む。頬が紅潮し、そして心臓の鼓動が速くなったのだろう……身体が少しだけ朱に染まりだす。口端から涎が溢れ、少しだけ前屈みになる。

「ま、さか……!?」

「そう、私が『赤い夜』と呼ばれているのは……私が『赤い夜』に襲われたから♪ なら、私だって同じ事が出来るのは当たり前だよね♡」

そう言って、レイラは更に続けた。

それは、レイラが今まで自分自身で使わずにいた技……いや技というには少しばかり危険な代物だろう。謂わば、レイラそのもの。『赤い夜』そのものをぶつけるだけの、そんな技。

その技名は―――

「―――"発症(パンデミック)"」

世界感染の名を冠した、『自分(ウイルス)を感染させ、赤い夜を量産する技』である。

◇ ◇ ◇

声が聞こえた。しおりちゃんの膝の上で眠ってしまった後、真っ白な意識の中で……声が聞こえた。でも、言葉は分からない。何か、うんと遠くから聞こえる様な……小さな声。誰の声かは分からないけれど、僕の知っている声だと思う。

『―――ん―――き……!!』

聞こえない。なんて言っているのか、分からない。

でも、必死さが伝わってきて……なんだか、放っておけない感情の色が感じ取れた。なんだ、この胸に渦巻く違和感は……? 一体何を伝えようとしているんだ?

君は一体………誰だ?

今もまだ、僕の心に直接伝わって来る声。必死さの色はどんどん増して行き、僕の焦燥感を募らせる。なんなんだ、元の世界に帰ってきてやっと平穏が訪れたかと思えば、まだ異世界のなんやかんやが残ってるの? うるさいなぁ……もう僕の平穏を壊さないでくれ。

『き――――ん!!!』

さっきより、はっきり聞こえた気がした。ああ、そうだなぁ……この声は、ノエルちゃんに似ている。そういえば、彼女とは契約を交わしたから……見えないだけで一緒にこっちに来たのかもしれないね。じゃあこの声はノエルちゃんかな?

全く、喧しいぞ幽霊。

「……きつねさん」

「……ん……」

そんな声の中で、しおりちゃんの声が聞こえた。僕の意識が浮上して、目が覚める。目の前には、しおりちゃんの顔があって、彼女の太ももの柔らかさが後頭部に伝わって来る。うん、幸せだ。

幸せなのに……幸せの筈なのに……なんでだろう、なんでしおりちゃんは泣きそうな表情を浮かべているんだろう……?

「……きつねさん、私嬉しいの。夢でも、きつねさんに会えたことが」

「……え?」

夢? 夢でも、会えて嬉しい? どういうこと、だ?

「私、きつねさんが眠った後に目が覚めたの。家のベッドの上で……そして学校に行く前に、きつねさんの家に行った……きつねさんは、やっぱりいなかった」

「……」

「でも、学校を休んでまた眠ってみたら……きつねさんはまだ私の膝の上で眠ってた」

それは……確かに夢だ。この世界は、夢なのか? 僕の夢じゃなくて、しおりちゃんの……夢の中。

「なんで夢の中できつねさんに会えたのかは分からないけど……それでも、本当にきつねさんに会えた様に思えて……嬉しかったの」

ぽろぽろと、僕の頬にしおりちゃんの涙が零れ落ちた。熱くて、そして悲しい涙だった。僕は唖然としていて、しおりちゃんが泣いているのに何も出来なかった。でも、しおりちゃんが泣いているのは……なんとなく嫌だ。やっぱりしおりちゃんには、笑っていて欲しい。

コレは夢の中でも、しおりちゃんだけは本物だ。だから、泣かせてはいけない。

「……しおりちゃん、確かにここは君の夢の中だと思う。でも、僕は本物だよ」

「え……?」

僕はそう言って、起き上がる。

「あのね、いつ僕が目を覚ますか分からないから今の内に言っておくよ……詳しくは省くけど、僕はまだ生きてる。必ずしおりちゃんの所に帰ってくるから……もうちょっと待っててよ」

「……きつね、さん」

「約束したよね? 帰ってきたら、一緒に遊園地に行こう」

僕はベンチに座って僕を見上げるしおりちゃんの頭を軽く抱き締めた。じんわりと、しおりちゃんの涙が僕の服を濡らした。この温かさも、夢の世界といえど本物だ。

「……うん」

「ありがとう、しおりちゃん。夢だけど……僕も君に会えて良かった」

「う……ぇぇぇぇん……! きつねさぁぁん……!」

僕の言葉に、しおりちゃんが溢れ出すように涙を流す。でも、良かった……何も言えないままに死んでしまったから、しおりちゃんが泣いちゃったから、凄く不安だったんだ。この子が、独りぼっちになってしまったんじゃないかって。僕の事を忘れて、僕との過去から決別してしまったんじゃないかって。

僕は、心の奥底で無意識に思っていたんだろう。しおりちゃんに置いて行かれることが、怖いと。

でも、この子は今もまだ僕のことを覚えててくれている。僕のことを想って泣いてくれている。あの約束を信じて、待っていてくれている。本当に、ありがたい。

「……しおりちゃん」

「ぐすっ……なに……?」

「またね」

「! ……うん、またね! 早く帰って来ないと、お仕置きだからね!」

怖いなぁ、本当。僕はその言葉に苦笑して、しおりちゃんは向日葵の様に笑った。

すると、しおりちゃんの姿がすーっと消えた。

多分、目が覚めたんだと思う。目が覚めたらこっちの世界には居られないのか……まぁ、精神世界だからね。全く、誰の仕業かは知らないけど、こんな世界に連れて来られて……しおりちゃんに会えたのは嬉しかったけれど、妙なことをしてくれる。

この分じゃ、フィニアちゃんやレイラちゃん達が心配だ。

この世界はしおりちゃんの夢の世界。多分、この世界ではしおりちゃんの知らない事は再現する事が出来ない。だから僕のスキルは発動しなかったし、逆に教室にあった僕の机の上に花がある事は知っているから再現されていたんだろう。

だけど今しおりちゃんの意識はこの世界にない。つまり、今だけはしおりちゃんの知らないことも生み出すことが出来る。そう、スキルも発動出来るという訳だ。その証拠に瘴気を生み出すことが出来た。

「……ノエルちゃん、居るよね?」

『…………やっと聞こえた? 声涸れちゃったよ、涸れる喉ないけどねー……ふひひっ♪』

ノエルちゃんに声を掛けると、姿は見えないけど声だけ聞こえた。認識出来ていなかっただけで、ずっとすぐ傍に居てくれたんだね。精神世界に入れたのは、彼女が精神体だからだろう。

「ずっと声を掛け続けてくれてたんだよね……ありがとう」

『まぁこの世界は向こうと違う所が多いから面白かったし、良いよ……ふひひひっ……! あれ? きつねちゃん、その手の棒……?』

すると、ノエルちゃんの指摘で僕はベンチに立て掛けられていた黒い棒を見た。ああ、持ってきたんだっけ……外に持っていくつもりはなかったんだけど、家に置いておくと捨てられちゃいそうだし、持ってきたんだっけ。

手に取ると、手にしっくり来る感触が返って来る。うん、でもこの世界が精神世界だからかな……この棒の使い方をちょっと思い付いた。

くるりと回して、僕は『ステータス鑑定』を発動させた。僕に、じゃない。この棒に、だ。すると、僕の思った通りの性質がこの棒には秘められていた。

「じゃ、この世界を出るよ。ノエルちゃん」

『ふひひっ……何をするつもりかな? ふひひひっ……♪』

僕は棒をくるくると回して、2つのスキルを発動させた。

『不気味体質』、そして『鬼神(リスク)』

そして、この棒の性質が、その2つのスキルを昇華させる―――!

「―――『死神(プルート)』発動」

漆黒に光ったその棒を、僕は全力で振り下ろした。