浮上する意識。

目を開いて視界に飛び込んできたのは、最早記憶にも薄い幼い頃の自分と、それを取り囲むように立っている数人の児童たち。口々に幼い故に拙い暴言を浴びせ掛けながら、彼らは蹲っている一人を叩き、蹴っている。

何が気に食わないのか。喧嘩ではないようだから、きっとこれはいじめなのだろう。

そう、僕は小さい頃からずっと、大衆の嫌われ者だった。

「……これは、ユーアリアちゃんの仕業かな」

過ぎ去った筈の過去を見せられ、何をしたいのか分からない。

僕はこの過去を自分で乗り越えたからこそ、今の僕がある。

いじめに明確な理由なんてない。ただなんとなく、そこにいる奴が気に食わないからいじめるのだ。

好きな人が振り向いてくれない。イライラするからそこに居る奴を殴る。

テストで良い点が取れなかった。イライラするからそこに居る奴を蹴る。

特に何もない。でも退屈だからそこに居る奴を突き飛ばす。

そんなものだ。良いサンドバックがいれば、特に目的がある訳ではないけど殴っておく。それがいじめの根底だ。気に食わなければ特に理由がなくとも暴力を振るう。

どうしようもない。だから僕はそれを受け入れたんだ。蹴られるのも殴られるのも、何の理由もないなら止めようがない。

どうしようもないなら、それらが当たり前の日常として認識してしまえばストレスはない。

「だって、それが普通なんだからね」

僕にとって痛みは友達だったし、暴力を振るってくる人たちは皆僕を殴ることでストレスを発散出来た。皆損をしていないのだから、それは何一つ問題のない平和な世界だ。

―――そんな筈はないでしょう?

場面が切り替わる。

◇ ◇ ◇

視界に飛び込んできたのは、物心すら付かない程幼い自分と、ソレを優しく抱き抱えている老夫婦だった。

僕の祖父母――僕が5歳になるまでの間、何不自由なく、優しく穏やかに育ててくれた人達。僕が初めて受けた愛情は、彼らのものだ。

母乳はもちろん出ない故に買ってきたミルクで育ち、おもちゃや服を買い与えて、有り余る時間を僕との時間に当ててくれた。この頃の僕は、心の底から笑顔を浮かべることが出来た。寧ろ、こんなにも優しく温かい環境なのだから、笑顔の絶えない日常を送っていたと断言出来る。

失いたくない時間で、物心つく前で殆ど記憶に残っていなかったけれど、大切な家族だった。

まぁ、もう亡くなってしまったから仕方ないことだけれど。

『桔音、お前は優しい子だ。だからこれから先も、ずっと人に優しさを分けられるような子に育ってくれ』

目の前のお祖父さんがそう言った。

僕はこんなことは覚えていない。おそらくはユーアリアちゃんが見せている僕の深層意識に眠る記憶なのだろう。こんなことを言っていたのか。

『桔音ちゃん。これから先、貴方にどんなに辛いことがあっても、乗り越えていける強い子に育ってね……』

目の前のお祖母さんもそう言う。

腕に抱かれる僕は、穏やかに眠っている。まだ何も知らない、純粋なままの僕。こんなにも二人の愛情を注がれて、これからも生きていければよかったのにね。

でも彼らは間もなく死んでしまう。

僕に注がれる愛情は此処でおしまいだ。

僕は誰からも愛されない。生まれた時点で人生を決定的に間違えてしまったのだから。屑な母親から、屑な遺伝子で作られ、望まれぬままに生まれた子。ここまで愛して貰えたのは、ただ祖父母がたまたま優しい出来た人間だったから。

だってそうだろう――彼らが死んでから、僕に愛情をくれたひとなんて誰もいなかったんだから。

―――本当にそうかしら?

場面が切り替わる。

◇ ◇ ◇

視界に入って来たのは、

視界に入って来たのは、

視界に入って来たのは―――

同級生、先生、母親、その愛人、周りの大人、色んな映像を見させられた。どれもこれも、くだらない人生の切れ端。そこにあったのは、暴力と、暴言と、憎悪と、嫉妬と、痛みと、傷と、喪失と、何も残らない退屈な人生。

幼稚園でも、小学校でも、中学校でも、高校でも、同じことの繰り返し。代り映えのしない普通の日常。

しおりちゃんに会うまでの、灰色で退屈な人生。

「……こんなものを見せても、何もならないんだけどね」

「――本当にそうかしら?」

振り返る。そこにはユーアリアちゃんがおかしなものを見ているかのような笑顔で立っていた。少しだけ顎が上がっていて、僕という存在が滑稽に映っているようにつりあがった口元と、スッと細められた瞳。

まるで僕が何も見えていないかのようなそんな表情。

「貴方の人生、簡単に言うのなら……可哀想ね」

「そうでもないよ、僕はアレで普通の人生だと思ってる」

向かい合い、僕はいつもの様に薄ら笑いを浮かべて言った。

けれど、

「それは嘘」

彼女は断定するようにそう言った。

「……どういう意味かな」

「だって、痛みを感じるのが日常だなんて、生物的にも人間的にもおかしいもの」

「でも僕はそうやって乗り越えたんだ」

そう、僕の人生は退屈で無意味で、痛みと共にあった。しおりちゃんに会えたことが唯一の救いといっても良い。いじめは小さな問題だ。僕はそもそも望まれぬ子として生まれ、周囲の人たちから嫌われる存在だった――それが根本的な問題だったのだから。

呪いと言っても良い程の現実を、僕は許容することで乗り越えた。どうしようもない出来ことなら、どうにかする必要は何もない。

例えそれがおかしなことだとしても。人間として、生物として矛盾していたとしても、そうすることで乗り越えることが出来たのだから、僕はそれでいいと思っている。

「乗り越えた? 違うわ、貴方はただ逃げただけよ」

その言葉に、僕は何故か言い返すことが出来なかった。図星だった? いや、違う、僕は逃げたなんて思っていない。立ち向かう意味が見出せなかったからそうしなかっただけだ。

「ふふふ、気がついていないのが余計に滑稽な話ね」

「……何が言いたいのかな」

ユーアリアちゃんは口元に手を当て、くすくすとおかしそうに笑う。

僕はそんな彼女の姿を見て、どうしようもない緊張と焦燥感に囚われる。まるで見られたくないモノを見られてしまっている様な、見透かされている様な、そんな感覚。でも僕にはそれが何なのかが分からない。

原因が分からないモノを、見られてはいけないモノを、暴かれている。

「貴方は逃げたのよ。どうしようもない現実に耐えられないから、俯瞰したような、達観したような目線で現実を見下して、自分を歪めることで目を逸らした」

「違う」

違う。それは違う筈だ。僕は別に見下して現実を見ている訳ではない。

「痛みを受け入れた、そうじゃないでしょう? 貴方は痛みに気付こうとしなかっただけ。本当は痛くて痛くて堪らないのに、見て見ぬふりして強がっていただけ」

「そんなことはない」

僕は痛みを感じていた。

「本当は普通に笑っていたいのに、心に残った傷(トラウマ)に囚われて今でも気味の悪い笑顔しか浮かべられない」

違う、そんなことは―――

「愛してほしいのに愛されない。だからようやく好きになってくれる子達が現れて、それを手放さないように必死になってる」

僕は、

「元の世界の想い人に似ているからと言って、まだ会って間もなかった妖精の子を、『赤い夜』に襲われたときに護ったのは何故かしら?」

僕は、

「異世界の知識を知る為に買った筈なのに、大した質問もせず、奴隷として買った獣人の子を家族と言ったのは何故かしら?」

ぼくは、

「命の恩人と言っても、家族の問題に口を挟んでまで騎士見習いだった子を助けたのは何故かしら?」

ぼく、は、

「最初にステラに会った時、当時は命を狙う敵だった筈の『赤い夜』を護ったのは何故かしら?」

「無力化して危険はなくなったからと言って、魔王の娘を殺さなかったのは何故かしら?」

「国一つ滅ぼすほどの危険人物なのに、メティスを生かしたのは何故かしら?」

「元々は異世界人なのにメティスの様に元に戻さないで、何の容赦もなくマリアを殺したのは何故かしら?」

―――……。

「全部、貴方自身が愛されたかったからでしょう?」

違うと、言い切れなかった。

僕は決してそんなことはないと言おうとしたけれど、本当にそうなのかと心に棘が刺さった様に断言できなかった。

愛されたかった―――確かに、そうなのかもしれない。

じゃあ、僕がフィニアちゃん達に対して抱いていたのは単純な愛情ではなかった? 嫌われたくないから嫌われないように大切にしていただけで。それは酷く自己的な感情じゃないのか?

フィニアちゃんやレイラちゃんに好きだと言われて、ルルちゃんに家族だと言われて、リーシェちゃんやドランさんに仲間だと言われて、ノエルちゃんが傍にいるようになって、僕は浮かれていたのか? 屍音ちゃんを生かしたのも、無力化して危険はなくなったからではなく、その上で僕の周りに人を増やしたかったから?

「慕ってくれる子だったから、倒れていたのを助けてくれたから、歪んでいても好きと言ってくれたから、お互いに家族を求めていたから……貴方の仲間の子達は皆、少なからず貴方に好意を抱いてくれて、一緒に居てくれたものね」

「違う……僕は、そんな風に皆を見ている訳じゃない」

「嬉しかったんでしょう? 生まれて初めて……ようやく愛して貰えたことが。だから手放さないようにあの子達に色んなものを与えて、あの子達を必死になって守っていたのでしょう? だから絆を消してしまうマリアは容赦なく殺したのよね」

嬉しかったのは確かだ。

フィニアちゃんやレイラちゃんに好きだと言われ、それを行動で示してすらくれたことが嬉しかった。ルルちゃんが家族としての絆として首輪を大事にしてくれたことも嬉しかった。リーシェちゃんやドランさんが、僕という仲間の為に命を賭けてくれたことが嬉しかった。

この世界に来て、僕のことを不気味とか死神とか言ってくる人が居こそすれ、会う人会う人が普通に僕と話してくれることが、当たり前に優しくしてくれることが、嬉しかった。

しおりちゃんが僕の為に泣いてくれただけで、十分だったのに。

「自分は強いぞ、皆を大切に想っているぞ、嫌なことはしないし、気持ちにも相応に応えるから―――どうか嫌いにならないで、もっと僕を愛してくれ……本当に、可哀想に」

僕は、欲張ってしまったのだろうか。

「でも大丈夫」

「!」

「ねぇ桔音君―――私も貴方のこと、愛してるわ」

ユーアリアちゃんが僕の首に腕を回し、優しく抱きしめながらそう言ってくる。

僕はその言葉に、振り払うことも出来ず硬直してしまった。まるで心を蝕むようにじわじわと僕の中に浸み込んでくる彼女の言葉。

「此処まで精一杯生きて来て、ささやかな約束の為に此処まで強くなった貴方のことを知ったら、誰だって惹かれてしまうものよ」

「なに、を」

「だから、私も貴方のことが好きになってしまったの。貴方の護りたい大切なモノの中に、私も入れてくれないかしら?」

こんな言葉は十中八九嘘に決まっている。僕の頭の中でも、これが嘘だと言っていた。

それでも、この腕を振り払うことが出来ない。心の中がぐちゃぐちゃになっていた。此処まで戦ってきた人生を覗かれ、生前の記憶も覗かれ、僕という人間を隅々まで理解された後で、愛していると言われたことが―――僕の心を掻き乱す。

もしもこれが本当なら、彼女は、でも、嘘に決まっている、しかし、それでも……。

「信じられないなら、それでもいいの。でも私は貴方を愛している……貴方を傷付けたりはしないわ」

「……嘘だ」

「でも、貴方は自分を愛してくれる人を傷付けたりは出来ないでしょう?」

「そんな、ことは……」

「じゃあ、私のことを殺せる?」

ユーアリアちゃんが、僕の手に持っていたナイフを握らせた。そしてそのまま刃先を自分の心臓のある胸の前へと持ってくる。あとは一突きする為に力を込めれば、僕の持つナイフは彼女の命を簡単に奪うだろう。

この距離なら、彼女がどれだけ早く動けても先に刃が心臓を抉る。

しかも彼女はそのまま両手を自分の身体の後ろに回し、無抵抗を示してきた。ここでナイフを一押しすれば、ユーアリアちゃんを殺せる。

なのに、

「……ね? 貴方は自分を愛してくれてるかもしれないと思ってしまえば、それが例え私であっても傷付けられない臆病者(チキン)くん」

言い返せない。僕の手は、現に無抵抗なユーアリアちゃんを傷付けられていないのだから。

「うふふ、可愛らしいわね。好きだって言われた途端、何も出来なくなるくらい絆されちゃうなんて……なのに強がりで、見栄っ張りで、動揺なんてしていないって風を装って、必死に好かれようと頑張ってる童貞くん――大好きよ?」

―――やめろ。

「もう頑張らなくてもいいのよ。皆貴方のことを愛してくれているし、私も貴方のこといっぱい愛してあげる……私が貴方の味方になれば、戦う相手はもういなくなるわ。そうしたら皆でゆっくりのんびり愛し合いながら、元の世界に戻る方法を探せばいい」

―――やめろ。

「もう貴方を傷付ける人はいなくなるの。皆が笑顔でずっと貴方の傍に居てくれる」

―――やめてくれ!

「大好きよ、桔音君―――ずっと愛してあげる」

つ、と一筋涙が流れた。

訳が分からなくなり、頭をグシャグシャと掻き回す。自分がどうしたいのかが分からず、思考が定まらない。

このままユーアリアちゃんの言う通りにした方が、幸せな未来になっていくのではないかと思えてしまう。彼女が仲間になれば、それこそもう戦う相手はいない……玖珂は死に、メティスちゃん達も時間回帰を使えば元の異世界人へと戻る。ステラちゃんもこうなれば人を襲うことはないだろう。

屍音ちゃんがどうするかは不安が残るけれど、僕とユーアリアちゃん、最強ちゃんの三人が居れば十分抑えられるし、最悪また封印してしまえばもう危険はなくなる。

皆が傷つかない世界が手に入る。

そしてそこでは皆が僕の傍に居て、笑顔で日常を送れる未来がある。

それなら、もう戦う必要はないんじゃないか?

そう考えた瞬間、僕の意識は糸が切れたように暗闇の中へと落ちていく。

―――うふふ、本当に……可哀想(ばか)な子。