『……の、六〇五号室、松本(マツモト)裕二さん、っと』

「松友(マツトモ)です。もうわざと言ってません?」

『悪かったわね……。あなたもあと五年もしたら、人の名前なんて細かいこと気にしてられなくなるわよ』

「渡瀬さんと同い年のミオさんはきちんと……いや、なんでもないです」

雇われた初日にがっつり「マツモトさん」と呼ばれたんだった。もっと言えば、俺の会社とも『マツモトさんをください』『マツモトですね分かりました』で交渉を成立させてたんだった。

頑なに俺の名前(マツトモ)を覚えようとしない渡瀬未華子に文句を言おうとして、思わぬ流れ弾を当ててしまった形である。

『私だって今は石島だってば。渡瀬はきゅ・う・せ・い!』

お互いの名字を間違えあって罵り合う。こんな不毛な争いはなかなか経験できない。

「ほら、夫婦別姓が検討される時代ですし」

『そんなの知らないわよ。結婚して名字が変わって、役所とか勤め先とかいちいち手続きするのにどんだけ手間がかかったと思ってるの。あそこまで苦労したら、もう『石島』を使い倒そうって気しかないわ』

使い倒す。石島を使い倒す。

「なんとなく言わんとしていることは分かる辺り、日本語って奥深いですね」

『言った自分でもそう思う』

「それで、なんでしたっけ? ミオさんの荷物? なんでそんなものをあなたが持ってるんですか」

住所を教える前に聞くべきだったことだが、誰か来たら電話を切らないといけないというので先に情報だけ渡してしまった。こちらも向こうの住所を知っているのだから、という最大限の譲歩である。

『なんでというか、その……』

「まさか、あーちゃん以外にもミオさんから奪ったものが段ボールいっぱいに?」

お前のものはおれのもの的な。

『ないわよ! どこのガキ大将よ!』

「じゃあ何故?」

『……早乙女さんちのリフォーム前の片付けを手伝って、その時に預かったのよ』

「手伝い? 渡瀬さんが?」

渡瀬未華子がミオさんの、早乙女家の娘の友達だったのは二十年も昔の話だ。そんな人間に家の片付けを手伝ってもらうものなんだろうか。

『私は結婚してからも頻繁に実家に帰ってるから。ミオと違ってね』

「……ああ、そういう」

『早乙女さんちの奥さんとはチャットアプリでフレンド登録もしてるわよ』

ミオさんのお母さんにしてみれば、娘の旧友である以上にご近所の主婦仲間ということか。糸島ほどではないにしてもそれなりに古そうな住宅街だったし、ご近所付き合いは密な土地柄なんだろう。

「それで手伝いを?」

『そういえば今日から片付けだったなって、買い物ついでに早乙女さんちの近くを通ったのよ』

「近くを」

通ったのが『前』ではなく『近く』。これは曲がり角からこっそり覗いていた感じなのでは。

『そうしたらミオの姿が見えないし。スーパーで奥さんに聞いてみたら「ウチの娘が急な仕事だとか言って帰ってこない」って文句言ってるし』

「ふむ」

『なりゆきで手伝うことになって、ゴミを捨てようとしたらミオが小中で大事にしてたものが混ざってて』

「回収してきた、と」

『もうすぐ同窓会で会うかもしれないから、そこで渡しておくって言っておいたわ』

同窓会。そういえば二ヶ月くらい前にそんな話があった。

でも、ミオさんはそこには。

「不参加で返事したはずですけど」

『まさかの手渡しでね。だからあなたに送るんじゃない』

「直接ミオさんに送ればいいじゃないですか。手紙でも書いて同封してあげれば喜ぶと思いますよ」

ミオさんは渡瀬未華子を今も『みかちゃん』と呼ぶ。話を聞いている限り、未華子を恨んでいるわけではないらしい。

前回は彼女の独善的な発言に「ミオさんとは会わせない」と言ったが。善意から荷物を送ってくれるのなら、それくらい知らせてもいいんじゃないだろうか。

『前も言ったでしょ。今さら仲直りしてどうしろってのよ』

「それは聞きましたが……」

『あの子は昔の友だち、それでいいのよ』

「だったら、なんで荷物の救出までしてあげてるんですか。渡瀬さんだってヒマじゃないでしょうに」

『……なんとなく?』

「疑問形で言われてましても」

俺が疑問を口にしたところ、電話の向こうの本人もよく分かっていなかったのだろうか。しばらく間をおいてから返ってきた回答は、なんともいえない曖昧なものだった。

『いいじゃないのよ、ちょっとくらい気まぐれで親切心出したって! それとも何? 私は悪人だから善行するのは異常だとでも言いたいわけ?』

「そういうわけでは……。いや、なるほど」

それを聞いて、ふと、乾先輩のことを思い出した。

誰だって自分が悪人だとは思いたくない。かといって、乾先輩ほどに理論武装して「私、いい人!」と開き直れる人の方が稀だろう。

たいていの人は「悪いことしたかもしれないな。その分ちょっと善行でも積んでおこうかな」くらいのものなんじゃないだろうか。

なんとなく。たまたま。気まぐれで。そんな理由をつけた世の中の善意のうち、何割かはそういうものなのかもしれない。それが良いか悪いかは俺には分からないけど、少なくとも、誰かのためになったのなら否定すべきじゃない。

『なにが「なるほど」なのよ』

「いえ、こっちの話です。じゃあ荷物をお待ちしてますね」

『きゅ、急に素直になったわね……』

「いえ、なんといいますか」

『なによ』

「渡瀬さんは、人間だったんだなーと」

『私のこと、一体なんだと思ってたのよ……』

そうして発送された荷物は俺の家に無事届き、それとなく伝票を読めないようにした上で今はミオさんの手元にある。

「……松友さん?」

「あっ、はい、なんでしょう」

「なんだか哲学者みたいな顔して固まってるから、どうしたのかなって」

ちょっと先日のことを思い出して上の空になっていたらしい。そうしているうちにスーツのブラッシングも終わったし、考え事は後にしてそろそろ夕食にするとしよう。

「はい、ミオさんぐるっと回ってー」

「ぐるーっと」

「よし、ブラッシングし忘れた箇所はなさそうですね。段ボールの中身はあとでゆっくり整理するとして、まずは夕食にしましょうか」

「今日の大豆はー?」

もう「今日の大豆」という聞き方に疑問を感じなくなってきた。別に毎日大豆を入れると縛りを付けているわけじゃないのに。

「イカ納豆の月見丼です」

たしかに納豆を使っているんだけども。

「月見丼!」

「十五夜の辺りはバタバタしてましたからね。ちょっと遅めの中秋です」

「それで月見丼かー」

「お好きですか?」

「月見丼ってなに?」

「そこですかー」

「そこからー」

そこからだった。

実際、ひと口に月見丼と言っても形はさまざまだろう。焼き鳥を使ったこってり系や、旬のタイ類の刺身を載せた海鮮丼風、豪華にローストビーフ丼をアレンジしたものなどなど。卵黄を満月に見立てるところだけ守っていれば、形式は作る人に任されている料理だ。

俺の月見丼がどんなものか、ミオさんの質問も当然といえば当然だ。

「実際に作ってみせますから、まずは着替えてきてください」

「わかったー」

ミオさんが寝室に消えるのを見送り、段ボールはリビングの隅にひとまず置いて、台所の大きめな冷蔵庫を開く。

取り出したのは新鮮なイカを捌いたものに、納豆、ネギ、卵、そしてめんつゆと醤油。あとはニラだ。

味噌汁の鍋が載ったコンロに火をつけたところで、部屋着に着替えたミオさんが横にやってきた。夏用のノースリーブとショートパンツから、Tシャツにカーキ色の七分丈パンツへとプチ衣替えしている。

「早いですね」

「おなかすいたー」

ミオさんは仕事がハードだと昼食をS○Y J○Yで済ませたりする。今日もそのパターンだったのだろう。

お弁当を作りましょうかと言ったこともあったけど、お客さんと食べたりそもそも食べる時間がないことも多いらしく。朝のコーヒーと、こうやって夕食だけを作る生活に落ち着いている。なればこそ、ここは早くおいしく提供してあげなくては。

「では、まずは炊きたてホカホカのご飯を丼に盛って、きざみ海苔を敷きます」

「もさっと」

「次にイカを細長く切って……」

「イカといえば福岡のイカ、おいしかったー」

「呼子の獲れたてにはさすがにかないませんが、これもいいやつですよ」

白く半透明な身を、イカそうめんよりは少しだけ太めに切って、ボウルに入れる。

「ここに納豆、万能ねぎを刻んだやつ、そしてめんつゆと醤油を少し入れます」

市販のめんつゆは完成度の高い味をしている。料理によって甘さを抑えたければ醤油や出汁を、足したければみりんを加えれば幅広く使うことができる万能調味料だ。

本当のプロならきちんと割り下から作るのだろうけど、家庭料理ならこちらの方が早くて美味い。

「で、これを軽く混ぜて」

「ぐるぐる」

「海苔をまぶしたご飯に盛ります。真ん中を少し凹ませておいて、ここに卵黄を載せれば……」

「おー、月見丼ぽい……!」

海苔と納豆の夜空にイカの雲、その中心には卵黄の満月。

目にも涼し気な月見丼の完成である。

「さて、味噌汁は、と」

コンロを確認すると、ちょうど味噌汁が温まってきたところだ。俺の視線を追ったミオさんが鍋を見て首を傾げる。

「これ、実が入ってないの?」

「これから入るんですよ」

卵黄をとって残った二個分の白身に、全卵一個を加え、刻んだニラと混ぜる。

「これを味噌汁に入れてかき混ぜて、ニラ玉にします」

「ニラ玉の味噌汁、おいしいよねー」

「俺は関東に来てから定食屋で知ったんですけど、手軽でおいしいですよね。野菜もとれますし」

ひと煮立ちしたらお椀に移してテーブルへ。

イカ納豆の月見丼と、ニラ玉の味噌汁の完成である。

「今日ってお月さま出てたっけ?」

「どうでしたっけ」

カーテンを開けると、夜景の上に浮かぶ上弦の月がこちらを見下ろしていた。電気を消せば青白い光がリビングに差し込んでくる。

「手元は見えますし、このままいただきましょうか」

「お月見だねー」

月をひとしきり見上げてからテーブルに戻ると、味噌汁の匂いが食欲をそそる。

「では」

「うん」

「いただきます」

「いただきまーす!」

まずは月見丼に手を付ける。ひと口食べれば、イカのちゅるちゅるとした食感と納豆の旨味が口に流れ込んできた。卵黄を崩して混ぜればいっそう深みのある味わいになるけど、それは半分食べてからにしよう。

「おいしいですか?」

「うん!」

ミオさんは最初に卵黄を崩す派らしい。ほんのりと金色に染まったイカを、幸せそうに口へ運んでいる。

「幸せ、かー」

みんな幸せになりたい。でもそれはなかなか難しく、いろんな要因に阻まれて失敗ばかりということもあるのが現実だ。周りの人間に恵まれるかどうかは特に重要だろう。

月明かりの下、ニラ玉の味噌汁をふーふーしているミオさんは、あまり恵まれなかった方なのかなと思っていたけれど。

「それも、変わり始めてるのかもしれないな……」

「松友さん?」

「いいえ、なんでも。大葉を刻んだやつもありますけど入れます?」

「入れる!」

どうか、この人が幸せでありますように。

月明かりにあてられてか、ふと、そんなことを思った。