いつものお店、馴染みのお店。そういう存在は私にとってパン屋さんばかりだった。レベルの高いメロンパンを提供するお店を見つけては増えていったそのリストに、初めてカレー屋さんが加わりつつあるのだけれど。

十月も下旬に入った日曜日、土屋先輩と訪れたこのカレー屋さんに『いつもの』という表現を使っていいものかは一考の余地がある。

「その点、どう思われますか先輩」

「どうって?」

「このカレー屋さんは来る度に違うお店なのか、それとも同じお店なのかです」

「強いて言うなら気にしたら負けやと思っとる」

「気になります」

「なして急にそげん哲学じみたことを」

「少し前に、テセウスの船という問題を見まして」

「あー、なんか聞いたことあるわ」

テセウスの船。古代ローマの哲学者プルタークが書き残した有名な問題で、修理を繰り返して部品がぜんぶ入れ替わった船は果たしてもとの船と同じと呼べるのか、というアレだ。

二週間くらいおきに店名と雰囲気が変わっているこのカレー屋さんに来た回数も、もう片手では足りないくらいにはなる。そこだけ見れば『いつもの』と呼び始めてもよい頃合いな気もするのだけど、私の中のプルターク先生が哲学的な疑問を投げかけるのをやめてくれない。

「この『初期作はカレーとメロンパンを組み合わせるという発想を高く評価できるばかりでなくその時点でハイレベルな味のバランスを実現しており十分に完成形と呼んで差し支えない出来でした。そこで維持に務めることもひとつの勇気と呼べる中、さらなる進化を求めたアプローチとして食感面での改良を……』」

「以下略」

「以下略という投書が届いたカレー屋さん』は、以前の『彼女カレー』や『人生の袋小路に陥った人のカレー屋さん』と同じもので、いつものお店と呼んでいいのでしょうか」

「村崎」

「なんでしょう」

「自分の投書が何故かそのまま店名になって嬉しいのは分かった」

「思っていたより嬉しかったです」

「よかったな」

「ありがとうございます」

二週間ぶりにお店を訪れると、また店名と雰囲気がガラッと変わっていた。土屋先輩は自分の送った『カレーを出すカレー屋』になっているだろうと言っていたのだけれど。

実際は看板にみっしりと、もうみっしりと私が送った投書が書き込まれて入口上部に飾られていた。一見するとただ真っ黒な板なので、てっきり人生の袋小路のさらに先へ行ってしまったのかと思ったのは秘密だ。

SNSだとのっぴきならない事情でアイコンが真っ黒になったアカウントがたまにあるし。

「店長はもっと嬉しそうでしたよ~」

「あ、どもども」

「どうもー。ご注文はお決まりですかー?」

相変わらず絶妙なタイミングで、こちらはいつもの営業スマイルを浮かべた店員さんが現れた。パーマのかかった明るいブラウンの髮に、エプロンは以前と同じ赤チェックに戻っている。

「店長さん、帰ってこられたんですか。たしかカレーとは何かを知る旅に出てしまったと」

「お客さんの投書を送ったら、感動してその日のうちに戻ってきました!」

世界のどこにいたかは知らないけれど、よほど喜んでもらえたようでよかった。

「そげんして帰ってきて、すぐに店名をアレに変えたとですか」

「先輩」

「なんや」

「お店の名前はアレじゃなくてちゃんと読んでさしあげた方がいいと思います」

「帰り際に看板見ながら読んじゃるけん」

「分かりました」

せっかくだし録音してパソコンに保存しておこう。

「あー、あの看板ですか。あれはですねー、店長ならそうくるだろうと踏んで私が先に作っておいたものです!」

「その先読みは読めんかった」

「帰ってきた店長に見せたら、無言のサムズアップで時給を百円アップしてくれました!」

「えー、あー、うん。おめっとさんです」

「ありがとうございます!」

営業スマイルからの営業ドヤ顔で胸をはる店員さん。土屋先輩も振り回されているようで、予想できない感じを楽しんでいるのが私にもなんとなく分かる。私も「お前の行動は読めない」と言われたことはあるけど何か違う気がするのはなぜだろう。

それはそれとして視線が店員さんの顔から一瞬だけ下の方、エプロンの張り出した辺りに向いたのはどうかと思う。

「先輩」

「なんや」

「そういう視線、意外と女性は気づいています」

「……!」

「あははー。減るもんじゃないですし、私は気にしませんけどねー」

「……!!」

「人それぞれだからこそ気をつけるべきです」

言葉を失った土屋先輩に、店員さんはさすがに慣れた様子で笑っている。

「お客さんは気になるほうですかー」

「…………ええ、まあ」

見られていると思うと気にはなる。私の場合、男性と顔を合わせると大きく見下ろされる角度になって、顔を見られているのか胸を見られているのか分かりにくいだけで。

「……んで?」

注文したカレーとメロンパンが届き、ひと通り食べ終わったところで土屋先輩がそう切り出した。今日の先輩は新メニューの白身魚カレーだ。店長さんが旅先で見つけた魚らしく、使徒ペテロがどうだと言っていた。どこまで行ってきたのだろう。

「んで、といいますと?」

「お前がオレを呼び出した理由を訊いとる」

「理由……?」

「珍しく村崎の方から誘ってきたけん何事かと思ったっちゃけど」

そうだった。

「自分の投書がお店の看板になっていた衝撃で完全に忘れていました」

「よかったな」

「ありがとうございます」

「で、思い出したところでどげんしたとや」

「はい、来週末にミオさんの家でハロウィンをやりますよね」

「やるな」

「楽しみです」

「せやな。相談ってのはそのことか?」

「はい。そこで使う仮装の衣装、私が用意することになっていましたが」

「なってたな」

「まだ布です」

材料、素材、または反物ともいう。

「……ありものの衣装をいじるだけって言っとらんかったっけ?」

「いざ始めたら納得できる出来にならず、布から作ろうとしたら時間が溶けるように過ぎ去りました」

「お、おう」

「どうにかミオさんのものだけは完成したんですが、そこで力尽きました」

スマホを開いて写真を見てもらう。トルソーなんて上等なものは私の部屋にはないけど、ハンガーには白いナース服がきちっとかかっている。

「がんばりました」

「ほー、こりゃなかなか」

「ありがとうございます」

「それで、相談ってのは作業が終わらんって話?」

先輩の質問に小さく頷き、本題に入る。

「土屋先輩」

「おう」

「先輩、ミイラ男でもいいですか」

「よかぞ」

「解決しました」

本題、終わった。アレはほぼほぼ布そのものだからすぐにできる。もちろん本気で作り込むなら違うだろうけど。

「解決したか」

「しました」

こういう問題を解決したら、それまで気になっていた他のことも急に気にならなくなるのだから不思議なものだ。

「そういえば村崎、最初の疑問やけど」

「最初の」

テセウスの船の話だろうか。このカレー屋さんが以前のお店と同じとみなせるのか、という。あれも今となっては割とどちらでもいい気がしてきている。

「プルタークさん、締め切り前に進捗が死んどったんやと思う」

「……そうかもしれません」

「古代ローマも大変やったんやな」

締め切りは人を哲学者にする。私はまたひとつ学んだ。