騎士団の設立という仕事は片付いたが、早めに何とかしておきたい仕事はまだ残っている。

即ちユグフェナ地方の三領会議と、フェイリア・ローグシアの婚約問題だ。

気掛かりは他にも沢山残る。例えば数年前にカルディア領で捉えた盗賊──に見せかけた工作員組織が供述したデイフェリアスという女の動向や、北方貴族達との関係性だ。

これについてはテレジア伯爵を経由してファリス神官に情報を提供してあるが、進展の知らせはまだ無い。

三領会議は日取りも決まり、それに向けての細々とした雑事を片付ければ良いだけとなっている。後は殆ど約束の日を待つだけだ。

しかし、フェイリア・ローグシアの婚約問題については別だった。

オーグレーン家は北方貴族であり、その中心となるノルドシュテルム侯爵家との距離が近い。それ故に、私はこの問題の終着点を定め倦ねているのだ。

簡単に言ってしまえば、私は北方貴族を売国奴ではないかと疑っている。

デイフェリアスは反アークシア王国、反アール・クシャ教として工作活動をしている者なのだから、そうと疑わずにはいられないだろう。だがデイフェリアスが北部に潜伏しているからといって、その地の領主との関わりがあると断定できるような証拠も無い。

そんな不安要素の大きい領地との姻族を、王都に近いグリュンフェルド地方に作りたくない、と個人的には考えてしまう。

婚約をこのまま潰すべきか、それとも確定させるべきか。

潰すにも問題があった。何も手を打たず、そのまま婚約自体を潰すような事があれば、私とその後見であるテレジア伯爵の評価は失墜する危険性がある。

非常に厄介なことに、この婚約にはローグシア、オーグレーン両家の命運が掛かっていた。

二領の関係性は既に共依存じみているのだ。

だからこそ、個人的な感情では筋を通さずに浮ついた行動を取るフェイリアに苛立つわけだが。

他領の経営事情にまで関連するため遅々として進まない情報収集を行いながら、ジリジリとその問題の処分方法を探る日々が続いたある日。

──出来れば、見たくもなかったものを見た。

「んむ?あれはフレチェ伯爵の末のご子息ではないか?」

もう夏の終わりも近付いていて、領地へ戻るまでの日もそれほど多くない。一人屋敷に残されたエリーゼへと高級街の商店で土産物を見繕った帰りの事だった。

馬車の窓から外の様子を眺めていたクラウディアが、ふとそんな風に声を上げた。

「……フレチェ伯爵と面識が?」

「いや、無いに等しい。ただそのご子息の一人が同級生で、その縁でフレチェ伯家の夜会に出た事があってな」

その時に一度見かけた、と言うクラウディアに、私は何となく納得行かない気分になって唇を結んだ。

人の名前を覚えるのは壊滅的な程苦手な癖して、何年も合ってないような、顔見知りでもない相手の顔を覚えているのはどういうわけだ。

……時々、クラウディアは私に対してひどく理不尽な存在なのではないか、と心の底から思う。

フレチェ伯爵と私の間に直接的な繋がりは無いが、ルクトフェルドとの馬の取引など、フレチェ地方自体との関わりはそれなりにある。

これから先、外国への警戒が強まれば付き合いも多くなるだろう。

その程度の思いつきで、フレチェ伯爵の末の息子とやらを一目拝もうと、窓から顔を覗かせた。

クラウディアが見ている方向には、道沿いの商店で買い物をする、成人を迎える前後の年頃の少年と──その隣に、ひどく楽しそうな表情で少年と手を繋いで歩く、少女が一人。視線を感じたのか、不意にこちらを振り返った。

見覚えのあり過ぎる顔だった。

頭を悩ませる問題の渦中の人物、フェイリア・ローグシア嬢が、愚かにも人目を憚らず、婚約者でもない男性とのデートを楽しんでいた。

「……フェイリア嬢」

思わずそう一言、唖然と声が零れる。余りに無防備に、堂々とフェイリアがそうしているものだから。

あの娘、相手の男共々社交界を放逐される覚悟があるのだろうか?それともただの考え無し、若気の至りなのだろうか?

クラウディアがふっと表情を消した顔を私に向けた。私が視線を合わせると、彼女はするりと猫のように──芸術的な程のしなやかさで、馬車の窓から外へと身体を滑らせる。

心臓がぎくりと跳ねた。が、流石に慣れたもので、一呼吸でそれを宥める。確実に寿命が縮んだ気がするが、クラウディアに文句を言ってもおそらく徒労に終わるだろう。これからも私が慣れてやるしかないのだろう。

馬車を止めろ、と御者に命じる彼女の声が外から微かに聞こえる。馬が緩やかに足を緩め、窓の外の景色がゆっくりと静止すると同時に、クラウディアが金色の髪を靡かせて馬車の屋根から殆ど音もなく飛び降りた。

「──そこの御方々、お待ち下さい」

人気の少ない路地に、よく通る声が響く。

幾つかの人影があちこちで一斉に身じろいだ。恐らく、フレチェのご子息とフェイリアの護衛だろう。幾ら治安の良い貴族街とはいえ、貴族の子女が一人の伴もなしに動く事は有り得ないのだ。

……それにしても。フレチェの方はともかく、ローグシア家がフェイリアの行動に制限をするつもりがないのがこれで確定してしまった。

ますます厄介になっていくな、この面倒事は。

驚いたようにその面倒なカップルがクラウディアへと振り返る。その顔がさっと青褪めるのに、私は小さく呻いた。

二人は学習院の学生の筈。寮生活を送る学生は、許可が無ければ学園の外には出られない規則がある。それぞれの家の当主の許可が無ければ、外出許可は普通降りない……。

呼び止められただけで顔色を悪くするなど、許可無しに学園を抜け出して来たとしか思えない反応だ。私はこれを庇う必要すら、場合によっては求められるというのか。

「な、何か……」

フレチェの子息の方が、狼狽えた様子で呼び止めたクラウディアに問う。

クラウディアは厳しい表情でフェイリア嬢へと詰め寄った。……彼女のそんな表情を見るのは初めてだった。クラウディアの気性はやや好戦的ながらも非常に穏やかで、他人に対して悪感情を曝け出す事など無いのだと思っていたが。

「ローグシア子爵の御令嬢と、フレチェ伯爵の御子息ですね。伴の者は?」

「……っ!」

「逸れましたか。それならば一大事ですが。学習院までお送りしましょう」

「い、……いえ!見知らぬ方にそのようなご迷惑をお掛けするわけにはまいりません!」

真っ青な顔でフレチェの子息がフェイリアを背後に庇い、クラウディアから距離を取るべくじりじりと後ろへ下がる。

対するクラウディアはどこまでも厳しい表情を保ったまま、お構いなく、と首を振る。

「もうじき夕暮れとなりますし、学習院まで少しばかり距離もございます。──それに、我が主が是非ローグシア子爵令嬢とお話したいと」

びく、とフェイリアの肩が跳ねる。脅えたような彼女の瞳が、クラウディアから恐る恐る、その肩越しを覗き込んだ。

そうして、そこに停まる馬車の窓から覗く私と目が合った瞬間。

「あ──」

呆然と目を見開いて、彼女はその場にへなへなと座り込んだ。慌ててフレチェの子息がその身を抱えて支えになったが、成長途中らしい彼では力が足りず、二人して倒れそうになる。

それをひょい、とクラウディアが実に適当に引っ張り上げた。

「うむ、どうやら酷くお疲れのようですな」

捕獲した相手に向かって彼女がかけたそんな言葉は、恐ろしく白々しいものだった。