――この家の跡取りとして戻ってきて欲しい。

父はそう言った。

俺はそう言われることを知っていた。

だから、ずっと考えていた。どう返事しようかと。自分の心の落ち着くところ――ここだと納得できる場所はどこだろうかと。

即座に返事しない俺。

その沈黙を深読みした父が口を開く。

「アルベルト、お前がここを苦手としていることは私もわかっている。その一因は私にもあるからな……。少しでもお前の居心地がよくなるよう努めるつもりだ。お前のことを悪く言っていた――」

俺は右手を挙げた。

「……父上。私への説得は必要ありません。気持ちは固まっていますので」

即答しなかったのは、最後に自分の気持ちを確認していたからだ。

虚を突かれたように父が口をつぐむ。その顔は厳しいものだった。俺への威圧――ではなく単に旗色の悪さを感じているのだろう。

自分が家から追い出した息子。

戻ってこいと言われて戻ってくるはずがない――

俺はゆっくりと静寂の扉を押し開けた。

「……お受けしますよ」

「!」

父の目が驚きで見開く。

まさかという顔だった。

「貴族の子として産まれた以上、家を継げと言われれば従わないわけには参りません」

理由はカーライルの従軍指示を引き受けたのと同じだ。

俺は子供の頃から『貴族の人間』としての考え方を叩き込まれている。つまり、父の教えを。家を第一と父が考えるのなら、それは俺にも理解できることなのだ。

そもそも俺しか直系の子がいないのは事実。

どうしようもない話なのだ。これは。

「本当か! ……おお、礼を言うぞ! アルベルト!」

「――その言葉は少し早いです」

「……?」

「条件があります」

父の身体がたじろぐ。

俺は構わずに続けた。

「父上の事情は理解しています。ならば私の事情も理解して欲しい。私はこの一〇年をただのアルベルトとして生きてきました。それは私にとって不可分で――もうアルベルト・リュミナスとしての人生『だけ』を選ぶことはできません」

「……それはそうだな……」

「アルベルト・リュミナスとしての――侯爵家の代表としての責務は果たします。ですから、アルベルトとしての生き方も許して欲しいのです」

「アルベルトとしての生き方?」

「学院には今までどおり通います。あと、領地運営など実務には関わりません」

父が渋い顔をした。

無理もない。

だが、そこまで受け入れてしまうと俺の、アルベルトとしての生き方はできなくなるのだ。

「……アルベルト、それは――」

「父上。ひとつ大切なことが抜けていますよ」

「何がだ?」

「私はもともと『愚鈍』で――実際、今もマジックアロー以外は特に得意だと思っておりません。そして、貴族として一〇年間のブランクがあります。何も学習していないのです。重要事を任せるべき人間ではありません」

「いや、しかし――」

反論しようとした父だが、言葉に詰まってしまった。

優秀な貴族である父も内心で納得してしまったのだろう。俺の言葉の正しさに。

「……確かに痛いところだな……」

父は肩を落として大きな息を吐いた。

「……だが、私もすぐ引退するわけではない。ゆっくり学んでいけばいい。そうすればいずれ引き継げるようにもなるのではないか?」

「……そうは思えませんね」

俺は首を振った。

家からの追放について俺が父に腹を立てていないのは、俺自身も自分が愚鈍という事実を受け入れているからだ。

確かに俺はさほど優秀な人間ではない。

そんな人間が領地経営をする――あまりいい手とも思えない。

そこで俺は考えてきた対案を父に伝えた。

「他の人間に任せればいいのでは?」

「他の人間……?」

「リュミナス家の親戚筋です。彼らを雇って侯爵家の仕事を任せればいい。私は侯爵家の代表として必要なときだけ顔を見せる。どうでしょうか?」

それは保険でもあった。

俺に万が一のことがあった場合の。

最近どうも俺は『何かに巻き込まれつつある』気がしてならない。俺が死んでしまう可能性はなくもないだろう。

俺が死ねばもう直系の跡取りはいない。

その場合は次善策として親戚筋に頼ることになるので、侯爵領の仕事を任せている人間から選べばいい。

父はじっと考えているようだった。

やがて俺の目を見てこう言った。

「貴族の仕事に興味はないか? 未練はないか? ……国を支え領民を導く。やりがいのある仕事だぞ?」

それはきっと、父親として言った言葉なのだろう。

自分が誇る仕事を息子に継がせたい。その醍醐味を教えたい。そんな気持ちが言わせたのだろう。

だからこそ、俺はきっぱりと言った。

「ありません」

俺が完全に『貴族としての自分』に戻ることは無理だろう。

俺は俺の可能性を知ってしまったから。自分のいるべき世界に気づいてしまったから。

俺は極めたかった。

俺の魔術を。

俺のマジックアローを。

俺の進むべき道を。

「……わかった」

父は俺の目に――俺の意志の固さを見て取ったのだろう、ふーっと大きな息を吐いた。

「……お前を切り捨てたのは私だ。お前にはお前の一〇年があり、そこで見いだしたものがあるのだろう。無理は言うまい。直系として当主になってくれるだけでも充分だ。お前が望むように手配しよう」

「ありがとうございます」

俺は頭を下げた。

「アルベルトよ、下がってよいぞ。しばらく逗留していくのだろう? また話をしよう」

俺は首を振った。

「いえ、旅に出ます」

「……!? 旅!? どこへ?」

「ここです」

「ここ?」

「リュミナス侯爵領――私がいずれ引き継ぐ領地を」

どうやら意表をついたようで父は絶句していた。

俺はリュミナス家の代表として家を継ぐ。実務には関わらないが、責任感がないわけでもない。

「私はもっと知るべきだと思っています。このリュミナスの地を。リュミナスに住まう人々を」

「――」

父は唇をきゅっと結び手を静かに握りしめた。

「……成長したな、アルベルト」

「そうですか?」

「昔のお前はおどおどしていてな……私にはっきりと自分の意志を告げただけでも驚いたよ。そして、今の言葉だ。お前はもう貴族じゃないような口ぶりだが――立派な貴族だよ」

「父上の教えがよかったのでしょう。領地を知れ、領民を知れ――子供の頃に叩き込まれた言葉ですよ」

その言葉に父はびくりと身体を震わせて――照れたように笑った。

「……そうか……そうだったな……」

「それでは失礼いたします」

部屋を出ようとする俺を父が呼び止めた。

「アルベルト」

「何でしょうか?」

「一〇年後のお前に再会できてよかった。一〇年前の追放は私の不明であった。絶望の淵でお前が必死に伸ばした手を私はつかむべきだった。振り払うべきではなかった。お前の心を傷つけて申し訳なく思う。心の底から謝ろう。許してくれ」

父が立ち上がり腰を折って頭を下げた。

父からの謝罪だった。

心の底からの謝罪だった。

プライドの高い父が、まさか――

その刹那、俺の胸に熱い感情が走った。一〇年前からずっと抱えていた心の重荷がすっと消えていくような感覚だった。

「父上のなさったことは当然です」

俺は父へと深く頭を下げた。

「家名を汚す行為をおこない申し訳ございませんでした。そして、ありがとうございます。私のような人間を決して見捨てず、あれだけの厚遇を与えてくれて」

俺は頭を上げて父を見る。

父もまた俺を見つめていた。

「この一〇年を悔いる必要はありません。その一〇年があったからこそ――今の私があるのです」

ローラも言ってくれた。フーリンも言ってくれた。

そして誰よりも今の俺自身がこう思う。

「その一〇年は無駄じゃなかったのですから」