Instant Messiah

Bolt Klux

とある酒場の奥、『狐』と呼ばれる親魔族派の一党の中でも、一定以上の地位の者しか立ち入ることが許されていない部屋の中。

重厚な香りを持つワインの入ったグラスを片手に揺らしながら、頭の上の狐耳をひくつかせつつ、少年は己の付き人に問いかける。

「どうだ、奴にはきちんと渡したか?」

「はい、手筈通りに。今頃どこぞの手の者に捕えられていることでしょう。何せ愚鈍そうな人間でしたからね」

「違いない」

くつくつと、ワーフォックスの少年……ボルト・クラックスは陰鬱に笑う。

「いいザマさ。全くアロマ様も、どうせ人を寄越すなら姉ちゃんを送ってくれりゃあいいのに」

「アリス様……いえ、彼女は我々にとっても貴重な人材です。万が一にも、危険な目に遭っては」

「分かってるよ」

ボルトは、久しく会っていない姉の姿を思い浮かべて、やや目を細めた。

アリス・クラックス。

自身の姉であり、アロマに保護されるまでの母親代わりであり、最も大事な存在である彼女とは偶に手紙でやり取りこそしているものの、実際に姿を見なければやはり心配な想いが消えはしない。

これまでの頻度から考えて、そろそろ連絡をくれても良い時期ではあるのだけれど……。

「全く、姉ちゃんも筆不精だよ。ディアボロに人間なんかが入り込んでいるだなんて、あってはならないことだろう。さっさと教えてくれればこっちからも抗議できたのに」

「……しかし、アレはクリステラ様のお気に入りと言う噂も聞きましたが」

「くだらない戯言を鵜呑みにするなよ。あの方が下劣な山猿を傍におくわけがないだろう」

「左様ですな。当代の魔王陛下の人間嫌いは、広く知られているところですし」

「ふん、そうでなければ俺らだって支援したりはしないし、そもそもファースト・ロストの虐殺だってあの方の肝いりで行われたんだ」

鼻持ちならない。どうせアロマ様のことだ、何か胡散臭い事を考えているのかもしれないが、それにしたって人間などに関わらせるなんて論外だ。

ボルトは鼻息一つ、深くソファに座りなおした。

――こうして目を閉じると、昔のことが思い出されてくる。

このスリザにあった……今はもう取り壊された、貧相な家。

冬は隙間風が入り、毛皮を持ちながらも凍えてしまう体を、姉と二人で暖めあった。

母は家から逃げ出した。俺達をおいて、飲んだくれの親父から逃げた。こいつがいなくなった所為で親父は酒量が増え、俺たちへ暴力まで振るうようになった。

正直、恨んでいる。

姉ちゃんは「許してあげよう」と言っていたけれど、俺が許せないのは、俺だけじゃなく姉ちゃんを苦しめたことだ。

あの父親は、暴力だけではなく、酒を買う金がなくなったときに姉ちゃんに体を売れとぬかしやがった。

……俺だって許せなかったし、姉ちゃんだって流石にそれには耐えられないと、そう言った。

だから俺達は逃げ出したんだ、あの親父の元から。

……この時のことを思い返すと、今でも自分を殴り倒したくなってくる理由は、逃げる途中に風邪をひいちまって、姉ちゃんの足手まといになってしまったから。

寒い冬、置いてってくれたって良かったのに、姉ちゃんは俺を負ぶって雪の降る中を当て所なく歩き続けて。

そこで、人間のクソ野郎に拾われた。

恵比寿(えびす)顔で近付いてきて、「寒かったろう、中にお入り」と、奴は馬車への同乗を薦めてきた。

他に頼るものもない俺達はそれを受け入れて、こう言ったんだ。

「ありがとう」って。「このご恩は、必ず返します」って。

それに笑顔で頷いたあいつは、手厚く俺を看護して、飯をくれて、その足で奴隷商に俺達を売っ払いやがった。

「今すぐ恩は返してもらう」ってよ、したり顔で口にしやがったのは今でも忘れねえ。

……後は思い出したくもない、俺達姉弟、裸にひん剥かれて、オークションの目玉にされて。

イゴールってコボルトのおっさんに買われたと思ったら……アロマ様が、俺達の面倒を見てくれることになって。

風の噂で聞いたが、俺達がいなくなった後、親父はますます酒に溺れ、どこぞでくだらない喧嘩をして死んだらしい。死ぬまで負け犬のままだった。

……アロマ様には、感謝している。

今ここで、それなりの地位でやっていけてるのはあの人のおかげだって事は分かってる。

姉ちゃんの面倒も見てくれてるのには、言葉も無いほどにありがたい。

……それでも、俺達があの人に買われた事実には変わりない。

今でも、そこだけがどうしても割り切れない。

俺は、俺達は。

商品なんかじゃ、ないのに……。

――首を振り、まだ残っていたワインを一気に飲み干した。

……作法なんか知らないから、グラスを包んで持ってしまっていたため温(ぬる)くなってしまっていたが、そんな事を気にするほど上品な生まれでもない。

「……まあ、今回のことは……」

「ええ。部下が誤って(・・・・・・)、親魔族派の(・・・・・)符丁を(・・・)渡してしまった(・・・・・・・)……それだけのことです」

「……最近は、『猿』だのなんだのに寝返ろうとしている不届き者が増えているらしいしな。ウチにもいたんだろ、そういう馬鹿共が」

「ええ。まあ、粛清の理由としてはこの位間抜けなほうが相応しいでしょう。ディアボロへの言い訳も立ちますしね」

「人間派に寝返ろうとして、人間の所為で死ぬ……確かにな」

「ボルトさん、お手紙届きましたぜ。お姉さんから」

狐人の少年は、思わずソファから立ち上がる。

「本当か! ……お前達、暫く下がっていろ」

「はっ」

部下達を退室させ、逸る気持ちを抑えつつ、渡された封筒に慎重にペーパーナイフで切れ込みを入れて取り出し、目を通していく。

上から順に目を通して行くに連れ、緩んでいた頬がやや引きつる。

手紙の半ばを過ぎると指先は振るえ、爪が紙に食い込み始めた。

最後まで読み終えた時には、もはや震えが全身に伝わり、目は血走っていた。

「……おい、誰か」

「はい」

下がらせた部下を呼び寄せ、ボルトは決定的な一言を口にする。

「あの人間を捕らえて、俺の前に引きずり出せ。生かしたままでだ」

「は……? しかし、おそらくはもう『鳩』あたりの者に捕まっているのではないかと……」

「いいからさっさとしろ! 奴(・)にも声をかけろ、元々アイツがもって来た情報だからな、何か掴んでいるかもしれん!」

「はっ!」

「……あの山猿はこの手で、直々に嬲り殺してやる」

これまで届いた手紙は、一通たりとも粗末に扱ったことはないが、いまや手の中の紙はくしゃくしゃに握りつぶされていた。

ボルトは、喉も裂けんばかりの怒声を上げた。

「必ず、必ずだ! 必ずアイツは、俺がこの爪で引き裂いてやる!」