俺がこのくそったれな異世界に喚び出されて、もうじき十年になる。

十五歳の時に召喚されたので、誕生日が来れば二十五歳だ。

四捨五入すれば、三十歳になっちまう。

気持ちの上では学ランを来てた頃とそう変わらない感覚で生きてるってのに、酷い話である。

自分が年を取るって、受け入れたくないもんだな。

ぼやきながらベッドを降り、姿見の前に立つ。

俺も老けたな。

近頃は一晩眠っただけじゃ疲れが取れなくなってきたし、夜になると目がしょぼしょぼする。

筋力は上がり続けているのだが、体質は間違いなく「青年」から「おじさん」に向かいつつあった。

まさかこんな歳になるまで、勇者やってるとは思わなんだ。

召喚された直後はすぐにでも家に帰れると楽観視していたので、とんだ計算違いである。

……仮に今から日本に戻ったとして、上手く馴染めるのだろうか?

あの平和ボケしたハイテク国家に、中世ファンタジー世界で殺し合いを続けてきた男が帰還。

「絶対、浮くよな」

鏡の中の自分と、目が合う。

十年の歳月を経て成長した俺は、すっかり変わり果てていた。

ニキビが消えた代わりに、髭が生えてくるようになった肌。

少しだけ伸びた身長。

やせっぽっちだったはずの体を覆う、分厚い筋肉の鎧。

そして何より――淀んだ瞳。

あんなにきらきらと輝いていた目は、いつの間にか光を失っていた。

艶消し塗装を施したみたいに、マット仕様の黒い玉と化している。

なのに意識して鏡を睨みつけると、急にぎらぎらと鋭い眼光を放ち始めるのだ。

この感じ、どこかで見た覚えがある。

静から動へ。狩られる側から狩る側へと瞬時に切り替わる、殺意の籠もった瞳。

これは……そう。

昔観たドキュメンタリー番組に出ていた、アフリカの少年兵の目だ。 

あるいは追い詰められた野良犬の目かもしれない。

俺はどうなってしまったんだろう?

これからどうなっていくんだろう?

そりゃあ俺だって男だし、強くなるのは悪い気分じゃなかった。

腕が太くなったりレベルアップしたりで、はしゃがなかったと言えば嘘になる。

けれど今となっては、もう結構ですと言いたかった。

俺はこの一年間、戦闘中に痛みを感じたことがない。

目潰しを喰らおうが金的を狙われようが、何も感じなくなっていた。

ダメージがゼロならば、痛みも発生しない。そんなのはわかっている。

それでも人として当たり前の感覚すら消えたのは、純粋な恐怖があった。

俺はただ、大切な人が守れるならそれで十分だったのに。

こんなに強くなってしまったら、盾ではなく剣の役割を求められるようになる。

最近の俺は、「これのどこが勇者だ?」と言いたくなるような依頼が増えているのだ。

やれオークの里を壊滅させろだの、見せしめに魔族の城を攻め落とせだの。

国王陛下と神官長は、人間族(ヒューマン)と敵対する種族には容赦がない。

俺がこの世界に来るまでは人間側が被害者だったとはいえ、やり過ぎではないかと感じる。

エルザを見習って欲しいものだ。

あいつはゴブリンに人生を狂わされたってのに、恨み言の類を吐いたことは一度もない。

かといって許しているわけでもない。

じゃあどういう心境かというと、心の底から「どうもでいい」らしい。

目標に向かって努力していると、過去のことなんていつの間にか頭から消えているそうだ。

「エルザは凄いよなあ」

お世辞ではなく、本心から出た言葉だった。

俺はベッドに戻ると、凄い女ことエルザの顔を見つめる。

気持ちよさそうに寝息を立てる、黒髪の美女。

口を小さく開けて、形のいい胸を規則的に上下させている。

いつ見ても俺にはもったいない、魅惑の眠り姫である。

まあ、どっちかというとお姫様というより、女王様といった外見なのだが。

エルザは中身こそ子供っぽいところがあるけれど、顔立ちは綺麗系だ。

身長も女にしては高いし、アイドルではなく女優やモデルの系統だろう。

高くて細い鼻、儚げな目元、薄目の唇。

肌は白く透き通り、髪はいつだって見事な艶を保っている。

俺はそっとエルザの髪を一房手に取ると、指を絡ませた。

さらさらとした触り心地があまりに気持ちよくて、つい時間を忘れそうになる。

さすがに匂いを嗅ぐ、なんてのは変態っぽいからやらないが、このままでは誘惑に負けてしまいそうだ。

起こしたら悪いしな、と布団を被る。

明日も早いし、寝てしまおう。

ランタンの火を消そうとして、腕を伸ばす。

すると突然、

「やめちゃうの?」

と呼び止められた。

「……起きてたのか」

「起きたの。髪、触られたから」

ケイスケって力強いんだもん、と言ってエルザは上体を起こす。

体を隠していたシーツがぱらりと落ちて、胸の谷間が露わになる。

エルザは眠る時、薄手のアンダードレスを着用する。

見た目はバレエの衣装として使われる、チュチュに似ているだろうか。

元々透け気味で目のやり場に困るというのに、右の肩紐がずり落ちていた。

「悪い、起こしちゃったか」

「いいよ別に。本当は起きてるつもりだったから」

エルザはくすりと笑って、俺の肩に首を乗せてきた。

ふわりと、女の匂いが漂ってくる。香水でも石鹸でもない、若い女の持つ自然な香り。

甘くて優しくて繊細で、頭の奥がじんと痺れるのを感じる。

「なんか夜中に予定でもあったのか?」

エルザは俺の腿をさすりながら言った。

「……ケイスケの赤ちゃん欲しい」

「あー……」

俺は気不味くなって、顔を伏せる。

エルザは今年で二十五歳。既に子供が複数いてもおかしくない歳だ。

なんせこちらの世界では、十代で出産するのが普通なのである。

俺達は付き合い初めてすぐに大人の関係になったのだが、未だ子宝には恵まれていなかった。

なのでこの話題は少々プレッシャーだったりする。

「……そのなんだ。起き立てだけど大丈夫なのか?」

「うん」

力強く頷かれる。

女がやる気なのであれば、それに応えるのが男というものだろう。

俺は心の中で気合を入れ、エルザの服に手をかける。

「わかった。それじゃいっちょ、頑張るか」

「……あのねケイスケ」

「ん?」

エルザはじっと俺を見つめている。

「なんだ? やっぱやめるのか?」

「子供が欲しいっていうのは、もちろんだけど。……ちゃんとケイスケとするの、好きだから」

エルザの頬は、さっと朱が差していた。

「明日からまた遠征って聞いてるし。……だから、したい」

これに逆らえる男なんているだろうか?

いいや、いない。

いたらそいつは男じゃない。

気がつくと俺は獣となり、エルザを熱烈に求めていた。

朝になると、俺はいつまでもくっつきたがるエルザから泣く泣く体を離して、身支度を済ませた。

昨晩に余韻に浸りたいところをぐっと我慢して、家を出る。

勇者の朝は、早いのである。

まずは王都の中央地区まで出向き、大聖堂に顔を出さねばかなければならない。

宗教界のトップである神官長直々に、各種の指示を仰ぐのだ。

指示と言っても大体は何かを殺せだの退治しろなので、実質的には殺し屋みたいなものだ。

いや、殺し屋でもまだ格好良すぎるか。

ひょっとすると俺は、単なる清掃夫に過ぎないのではないだろうか。

異世界にこびりついた魔物どもを、ゴシゴシ洗って落とす掃除人。

それ以上でもそれ以下でもないし、少なくとも英雄なんかじゃない。

本当の英雄ってのは、何かを生み出す人じゃないかと俺は思う。

農家。漁師。妊婦。

ゼロから価値あるものを作り出し、世に貢献する人々。

あれこそが賞賛されるべき存在だろうに、どういうわけかこの世界ではすこぶる地位が低いときている。

じゃあどんな人の地位が高いのかというと、宗教か戦争に関わる人である。

たくさん神様の名前を覚えていると賢くて、たくさん亜人やモンスターを殺していると好青年というわけだ。

なんだそりゃ、と思う。

もし両方を極めたら記憶力のいいサディストの出来上がりで、そんなのが現代社会にいたらただのサイコパスだろう。

俺はそんなものになりたくないし、叶うなら今すぐ勇者なんて引退して、どこかで畑でも耕して過ごしたいくらいだ。

けれど俺の強さが、それを許してくれない。

俺は最強で、人間国の守護者だから。

めんどくせえな、と愚痴りながら大聖堂に足を踏み入れる。

いかにもキリスト教関係の建物っぽいが、まるっきり同じというわけではない。

そもそも異世界で信仰されている一神教は、キリスト教ではない。

あえて言うならカトリックに近いけれど、ところどころ違いがある。

まず十字架ではなく六芒星がシンボルマークだし、神様は実体がないと思われている。煙みたいなものだと考えられているらしい。

なので絵に描くのが不可能だとかで、宗教画はあまり発達していない。

それと司祭や法王に当たる身分に、女性が就くことも出来る。

で。

その法王っぽい人が、俺の顔馴染みなわけで。

あいつ厳しいんだよなあ、とうんざりしながら歩き続ける。

石畳の廊下を進み、ステンドグラスの光を受けながら、足を進める。

ようやく最深部に辿り着くと、一人の女性が祈りを捧げているのが見えてきた。

無数にキャンドルに向かって手を合わせ、目を閉じている。

銀色の髪に、裾の長い法衣。

当代の神官長様にして、かつてのパーティーメンバー。

フィリアだ。

「おはようございます」

神官長はこちらに背を向けたまま、挨拶をしてきた。

俺より祈祷の方が大事かよ、と内心呆れつつも返事をする。

「……おはようございます」

俺とエルザが交際を初めてからというもの、どうもこいつとはぎくぎゃくしている。

俺のことが好きだと言っていたが、今はどうだかわからない。

なんとなくだが、嫌われているような感じはする。

「さっそくですが勇者殿。亜人討伐の依頼が届いています」

「またかよ。最近ずっとだな」

神官長はまだ後ろを向いている。

「ロレーヌ村の子供が三名捕まり、そのうちの二名が食害に遭いました」

「……なんだと?」

「食べられたのです」

やっと祈りが済んだらしく、神官長はくるりと向き直った。

「これは我々人間族に対する宣戦布告です。到底見過ごせません」

やったのはトロールです、と神官長は言う。

「いいだろう。すぐにでも現地に行く。半日もあれば巣穴を焼けるはずだ」

「頼もしい限りで」

神官長は、俺を値踏みするような目で見てくる。

「……一つよろしいでしょうか」

「なんだ?」

「勇者殿の戦い方に対して、いくつが注文が入っています」

「というと?」

「遠慮のない言い方をすると、クレームの声が上がっています」

「どんなのだ」

「ぬるすぎる。そう非難されているのです。貴方はたとえ魔物であろうと、幼子であれば苦痛を与えないように仕留めていますね? 見ている人は見ているのですよ。急所を一突きなど、甘いにもほどがある」

「……俺にどうしろって言うんだ?」

「大衆は貴方という代理人を用いて、亜人どもにより激しい報復を求めているのです。もっと残酷に、もっと容赦なく、と。例え生後間もない赤子であろうと、人間族に牙を剝いた種族は、無限の苦痛を与えた上で始末せねばなりません。罪には罰を。これは我らが主神の教えでもあります」

もっと痛めつけて殺しなさい、と神官長は告げる。

「しかしよ。ただおふくろの乳を吸ってただけの赤ん坊トロールに、どんな罪があるっていうのかね? 楽に死なせるくらいいいだろう」

「罪深い親から産まれたことが、既に罪なのです」

貴方は人間族の代表であることお忘れなく、と神官長は言った。

「ゴブリンを相手にする時のように討伐しなさい。貴方の場合は、きっとそれでちょうどいいでしょうから。……期待していますよ、勇者殿」