アパートに着く頃には、午後十時を過ぎていた。

他所で女の世話をして、深夜帰りをかます。

俺は悪い父親である。

自己嫌悪に陥りながら玄関を開けると、エプロン姿の綾子ちゃんが出てきた。

「……おかえりなさい」

首を伸ばして部屋の奥を覗き込むと、ベッドの上で丸くなっているアンジェリカが見える。

「ただいま。アンジェは寝ちゃってるみたいだな」

「……起きようとはしてたみたいですけど、朝型の人ですからね。気が付いたらああなってました」

「夜弱いもんな、あいつ。綾子ちゃんは眠くないの?」

「中元さんを待ってましたから」

「俺を?」

「お腹空いてるかもと思って。夜食作れるように、スタンバってました。もしかしたら外で食べてきたかもしれませんけど」

「……だからエプロンなのか」

そうですよ、と綾子ちゃんは淡い笑みを浮かべた。

なんだかとてつもなく悪いことをしている気がする。

気がする、というか実際そうなのだろう。

俺のために飯を作ってくれる女の子(十八歳未満)を待たせておきながら、ホテルに飼っている女(不法滞在者)とバスルームで色々やらかしてきたのだ。

聞いたこともない外道である。

……言い訳させて貰うと、俺はフィリアと一線を越えてはいない。

限りなくそれに近いけれど、ギリギリのところに留めてなだめているのだ。

峰打ちにつき無罪放免と思いたい。

「あれ? シャンプーの匂いしますね。どこかでお風呂入ってきたんですか?」

「――えっ?」

気のせいじゃね? と全力ですっとぼけながら、靴を脱ぐ。

「でも、フローラルな香りが漂ってきますよ」

「……。帰りの電車で女の人に寄りかかられたし、そのせいかもな」

「ふふ。女難ですよね、中元さんって」

ふふ、などと言っているが、綾子ちゃんの目は笑っていない。

「聞いてもいいですか」

「なんだい?」

「どうしてここ数日、帰りが遅いんでしょうか。今って仮病を使って休暇中……なんですよね。遅くまで立て込む用事、ないですよね?」

綾子ちゃんは瞬き一つせずに俺を見ている。

物理的には負けるわけがないのに、信じられないくらい怖い。

「お、俺だってたまには羽根を伸ばしたい日くらいあるよ。ずっと仕事詰めだったし」

「……息抜きに遊んでる、ということでしょうか」

「そうなるかな」

「……それってどんな遊びですか?」

「なんでそんなに気にするんだ?」

「私には言えない遊びなんですか?」

外人女を軟禁して、服を着せたり脱がせたりしてるんだぜ、なんて言えるはずがなかった。

「……パチンコ! 実はパチンコしてたんだわ! ははは! いやーこういうの良くない趣味だってわかってんだけどね」

「……賭け事、好きなんですか」

「そう、そうなんだよ。ちゃんと小遣いの範囲でやってるけど、やっぱあんまイメージよくないだろ?」

「……一般的にはそうかもしれませんね」

「だろ? 俺にもつまんない見栄があってさ、言い出せなかったんだよ」

変な心配かけてごめんなー、と作り笑いを浮かべてみる。

気分としては、猫に睨まれたネズミだった。

僕悪いネズミじゃないよ、クソ不味いぬいぐるみだよ、食べたら吐くよ、と震える哀れな獲物なのである。

「……私は気にしないですよ。お父さんもたまに打ってましたし」

「へえ? 意外だな。まあ大学教授ってのもストレス溜まるかもな」

大変なんだろうなあ、と雑な労いをしながら、リビングへと向かう。

背後の綾子ちゃんから謎のプレッシャーを感じるけれど、気付かないふりなのだ。

テーブルの前にドカッと座り、テレビを点ける。

どうせどの番組も代わり映えのしないドラゴン騒ぎ特集だろうが、音がするだけでもマシである。

今は少しでも綾子ちゃんと会話しない理由が欲しい。

『政府は都庁に飛来した巨大生物について、無闇な刺激を避けるように要請すると共に……』

俺はいかにも夜のニュースが面白くて仕方ないといった態度で、画面を見つめる。

隣には綾子ちゃんが正座し、無言で俺の顔を凝視している。

……まさか、フィリアの件を勘付かれたのか……?

横目で覗き込んでみると、目が合った。

にこっ、と微笑みかけられる。

怒っているようには見えない。だが得体の知れない迫力がある。

俺はとりあえず綾子ちゃんを物理的に離したくて、「なんか食おうかな」などとうそぶいてみる。

「歩き回ったせいか小腹空いたよ。夜食作って貰っていいかな」

「ほんとですか!」

途端、ぱあっと顔を輝かせる十七歳。

「うちのお父さんも、遅く帰って来た日は何か食べるんですよ。そうですよね、男の人ってこうですよね」

俺の気のせいでなければ、綾子ちゃんの声は弾んでいるように思う。

そんなに手料理を食わせるのが嬉しいんだろうか?

家庭的な一面を見せつけられると、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

「待ってて下さいね。すぐ用意しますから」

言って、綾子ちゃんは後ろを向いた。

ヘアゴムを使い、器用に髪をまとめている。

それでわかってしまったのだが、今日の綾子ちゃんは背中に何も浮き出ていない。

ノーブラなのである。

どちらかといえば寒がりな方なのに、一体どうしたんだろうか? 

胸元のボタンも二つほど開けているし、妙に過激な女の子と化している。

こういう着崩しはリオの担当なんだけどな、と最低な感想を覚える俺だった。

知人に着崩し担当の女子高生と料理担当の女子高生がいるような輩は、もう人でなし界のエースと言っていいだろう。

そんなことを考えているうちに、綾子ちゃんは台所に向かい、冷蔵庫を開け始めていた。

果たしておっさんの好む夜食を十代女子が作れるかな、と侮るような気持ちで見守る。

これで小洒落たヘルシーメニューなんて出してきた日には、安心して幻滅出来るってもんだ。

ま、若い子なんてこんなもんだよな。所詮は自己満足で調理してんのさ、と。

逆に俺好みのこってりとした料理を作られた日には、「こんな気が利く子を家に待たせておきながら俺は……」と自殺願望がメーターを振り切るだろう。

それだけは勘弁して頂きたい。

ないよな?

絶対ないよな?

祈るような気持ちで観察を続けていると、綾子ちゃんの手に冷凍餃子のパックが握られているのを目撃してしまった。

嘘、だろ……?

驚愕に打ち震えていると、綾子ちゃんはフライパンを火にかけた。

しばらくするとゴマ油の瓶を手に取り、おもむろに中身を垂らし出した、

パチパチと弾けるような音が響き、香ばしい香りが鼻孔をくすぐる。

それにしても、餃子とは。

中年男が夜中に食いたくなるものの、上位に入るメニューであろう。

なんで、と言いたい。

なんでおじさんがして欲しいこと、的確にわかるの。

恐る恐るたずねて見ると、綾子ちゃんは静かな声で告げる。

「お父さんも、夜食は脂っぽいの欲しがりますから」

なるほど、さすがはファザコン娘といったところか。

考えてみれば単純なことだが、この程度のことすら出来ない女の子が世にあふれているのである。

ひょっとして綾子ちゃんは優良物件なんだろうか、と俗な思考すら湧きかける。

「……他には何を作るのかな?」

「揚げ出し豆腐です。夕飯の残りですけどね。こっちはチンするだけで大丈夫です」

「アンジェリカとそれ食ったの?」

「はい! 中元さんも欲しがるかなと思って、多めに作っておいたんです」

やめろ、居酒屋メニューの人気者を取り揃えてくるんじゃない。

俺は体質的に酒は飲めないが、酒のつまみに合うような料理は大体好きなのである。

なんでこう、気の利いた若奥さんみたいなことばかりしてくるんだ。

もはや俺の罪悪感ははちきれんばかりであり、何もかも打ち明けたい衝動に駆られてくる。

だがはやる気持ちを抑え、ぐっと本心を押し殺す。

綾子ちゃんにフィリアの件を告げてなんになる?

無駄なトラブルを招くだけだ。

今でこそ大和撫子のように振る舞っているが、この子の内面が悪人そのものなのを忘れてはいけない。

パソコン貸したら、検索履歴が一日で汚染されたからな。

『父娘 R18 動画』

『成人男性 睡眠薬 効果時間』

『中元圭介 剥ぎコラ』

といった単語で調べ物をしているのが判明した時の、あの悪寒を忘れてはいけない。

最後のはマニアック過ぎて、どの検索エンジンでも出てこなかったしな。

どこに需要あんだよそれ。

そうとも。綾子ちゃんは他に例を見ない、本格派の変質者なのだ。

表面上の態度にほだされて、あれ? 普通にいい子なんじゃね? などと思ってはいけないのである。

その先に待っているのは罠だ。下には棘だらけの落とし穴が待ち受けている。

この子は変質者。

この子は変質者。

この子は変質者……。

胸の内で唱えながら、テレビに目を向ける。

なにやらドラゴンがもう一匹現れたらしいと、初老のアナウンサーが読み上げていた。

先に出現した方のドラゴンと協力して、巣作りに取りかかっているそうだ。

端的に言って大災害なのだが、今の俺は全神経を綾子ちゃんに集中させていた。

外の龍より、内部の少女なのである。

今後もフィリアの子守で帰りが遅くなるたび、このような日が続くのかと思うと耐え難いものがある。

いくら内面がおかしいからと己に言い聞かせても、若くて綺麗な女の子に甲斐甲斐しく尽くされて、情を抱かない方がおかしい。

俺はどうすればいいんだろうか。

何もかも話してしまった方がいいのだろうか。