首を傾げながら浴室に足を踏み入れると、先客が待ち受けていた。

「にゃー」

バスルームの真ん中に、ちょこんと座り込む黒猫。

たった一つの分霊体のみを残し、本来の肉体を滅ぼされた女――エリンだ。

こんな時間まで起きてるなんて……と思ったが、今のこいつは猫の体を使っているので、生活リズムも夜行性と化しているのだろう。

「にゃー。にゃー。にゃー」

「なんだなんだ。やけに元気だなお前」

一緒に入るか? と冗談交じりに話しかけてみる。

猫は水を嫌うと聞くし、そもそもついこの間まで殺し合った仲だ。

懐かれているとは思わない。顔を引っかかれるかもしれない。

それでも昔の仲間なので、何かを期待して話かけてしまったのだ。

……無駄だよな、と俺は乾いた一人笑いを浮かべる。

「にゃあ」

「ん」

やがてエリンは、するすると滑るような動きで俺の足元に近付いてきた。

猫パンチでも打ち込んでくるのかない、と身構えていると、なんと足首にすりすりと顔を擦りつけてきたではないか。

なんだこりゃ? 

まるで普通の飼い猫みたいな振る舞いだ。魔法使い族の矜持はどこへ行ったのか。

「……お前、俺を恨んでないの?」

「にゃー……」

それからもエリンの奇行は続いた。

俺が見ているというのに、己の下半身をペロペロと舐め始めたのだから異常事態と言っていい。

まさか頭の中まで本物の猫になってしまったのか?

よくわからないが、ここから出て行く気はないようだし、あと寒いし、いっぺんお湯を浴びるとしよう。

俺は浴槽に溜まっていたお湯を洗面器ですくい取ると、軽く体を洗い流した。

それが済むと、ザブン! と音を立てて湯船に飛び込んだ。

「はあ~……」

生き返る思いだわぁ、と顔をゴシゴシやっていると、

「……顔にかかったにゃ」

と非難の声が飛んできた。女の子の声だった。ローテンションなアニメ声で、いわゆる無口系ヒロインみたいな感じの声だった。

ていうかエリンの声だった。

嫌な予感に従って顔を上げると、ぺたんと女の子座りをして佇む、小柄な少女と目が合った。

青い髪は肩までの長さで、段差のあるシャギーカット。

瞳は月のように黄色く、真っ白な肌とあいまって異国情緒がぷんぷんと漂っている。

それと外見年齢が十三~十四歳程度なので、犯罪臭もぷんぷんと漂っている。

あと、これはとても大事なことなのだけれど。

目の前の女の子は、一糸まとわぬ姿だった。つまり全裸だった。

しかも頭からは黒い猫耳が生えていて、お尻からは猫の尻尾が伸びていた。

肌からの猫耳少女が、おっさんと同じ浴室に詰め込まれているという「条例仕事しろ!」なシチュエーションに俺は叩き込まれていた。

「はは。なんで人型になってんのこいつ」

俺はくるりと後ろを向き、エリンの裸体を描写できないモードに移行した。

俺は紳士なのである。

……あんまり子供っぽい女に興味がないので、そこまでジロジロ眺める気にならねえや、というのもある。

俺は至って健全な成人男性なので、この家で性的な目でしまう相手は、アンジェリカと綾子ちゃんとリオとフィリアくらいのものだ。

「……」

いや、性の対象となりうる女子を四人も自宅に囲ってる時点でぜんっぜん健全じゃないし、そのうちの三人が十八歳未満な時点でめちゃくちゃ不健全だなこれ?

「で、お前はいつからその姿を取れるようになったんだ? また俺と一戦交えようっていうのか?」

後ろめたい事実に気付いてしまった俺は、勇者らしい台詞で誤魔化してみる。

そんな俺の心境など知るよしもないエリンは、実にシリアスな口調で返事をした。

「……昨日から、この姿に変身できるようになった。魔力が溜まったおかげ……にゃ」

そういえばエリンのやつ、頻繁にベランダで月光浴をしてたっけ。

なるほど、あれは月の魔力を体に溜め込んでいたのか。

「ようやく人の姿を取り戻した程度なら、本格的な魔法の行使はまだまだ不可能なんじゃないか?」

「……」

「図星か。つまり今のお前は、ほとんど戦闘力を持たないわけだ」

「……そうなる……にゃ」

聞きたいことは、山のようにあった。

やっぱり俺を恨んでるのか? とか。

異世界の王国がいつ本格的に攻め込んでくるのかわかるか? とか。

なんで語尾に「にゃ」がついてんの? とか。

耳と尻尾が残ってるのはなんでだ? とか。

俺はまず、一番重要なことから質問してみることにした。

「その中途半端な猫娘状態はなんなんだ? ちょっと可愛いじゃんか」

「……まだ、完全な人型形態にはなれない。……どうしても、心や体が部分的に猫に引きずられるみたいにゃ」

魔法のエキスパートが、今や軟弱な猫耳ガールに成り下がっている。

運命とはどこまで残酷なのだろう。

その運命の原因を作った張本人である俺は、自分のことを棚上げして深い同情を覚えた。

心の底から可哀想だと思った。

それが伝わったのか、エリンは音もなく立ち上がると、バスタブに足を入れた。

そのままゆっくりとしゃがみ込み、「ふにゃー……」と声を上げながら湯船に浸かる。

互いの肩が触れ合いそうな距離での、混浴。

少し気まずい。

エリンの外見年齢は高く見積もっても中二の三学期なので、生徒に手を出した教師みたいな気分になってくる。

「えっと、なんでお前は俺と一緒に風呂に入ってんの?」

「……勇者にお願いがある……にゃ」

エリンの頬は真っ赤に染まり、恥ずかしくてたまらないといった風に見えた。

「……私の体、発情期に入った」

ちゃぽ、と水面が揺らぐ。エリンが俺に抱き着いたせいだ。

「……ずっと、耐えてたけど、限界。猫の本能には、勝てない。……鎮めて、ほしい……にゃ」

「な、何言ってんだお前?」

「……勇者に、してほしい……にゃ」

とろんとした目で、エリンは俺を見上げる。

「……抱いてくれたら、勇者の言うこと、何でも聞く。……正式に、仲間になってもいい。王国とだって、戦ってあげる……にゃ」

――だからお願い、今すぐえっちしてほしいにゃ。

消え入りそうな声で、エリンは囁く。

まるでそうしないと死んでしまうとでも言いたげに。熱の籠もった声で、何度も何度も。