「失礼、少しよろしいでしょうか」
「なんだ」
手を取られたままくちをぱくぱくさせるわたしは全く気づかなかったのだけれど、いつのまにかそばにクロードがいて声を上げる。
殿下は跪いた体制のままクロードに視線を移してゆっくりと立ち上がった。
漸く解放された右手を下ろすのと同時くらいにクロードがなめらかにわたしと殿下のあいだに滑り込む。
目の前はあっという間にクロードのジャケットの黒に覆われて思わず数歩後ずさるとクロードもそれを確認してからすっと下がった。
「今、ハーディストとおっしゃいましたか」
「ああ、確かにそう言ったが?」
「ハーディスト領といえば、我が主ルーファス公爵が陛下より管理を任せられております」
「そうだな。ここ何年もの間、このルーファス領、イゾルテと共に公爵の善意により管理されていると聞いている。
しかし、返還されたハーディスト領の領主は未だ不在である。
そのハーディスト領を伯爵位と共に此度陛下から賜ったのだ。
ルーファス公爵もご承知のところである」
「そのような…しかし、こちらは何も伺っておりません」
「つい数日前に決まったことだからな。
あと2、3日もすれば城からの遣いが来るだろう。あの者らが馬車でのんびりと移動するよりも俺が馬を駆るほうが幾分か早い。
これまでそなたらの働きのおかげでハーディストの民がさしたる問題なく過ごせてきたこと、陛下はいたく感謝されておられる」
「この老耄にはもったいなきお言葉にございます」
「そういう訳であるから、これからハーディスト領の運営について教えを乞う場合もあるだろうが構わないだろうか」
「………かしこまりました。ただし陛下からの正式な通達のあとで、ですが。」
「ああ、もちろんだ。助かる」
「ハーディスト伯爵、この邸では領主様より妙齢の大切なご令嬢をお預かりしております。
傷ひとつ付けるわけには参りません」
クロードはちらりとわたしを返りみて目元だけで優しく微笑んだ。
クロードの笑顔はいつもわたしを癒してくれる。
少しほっとして息を吐くとこちらを見ていた殿下と視線がかち合って頬が引きつった。
にっこりと首を傾けた殿下の顔は憑き物が落ちたように穏やかで、最後のあの日に見た人とまるで別人である。
「もちろん、承知している。
今日のところは挨拶にきただけなのでな、そろそろ俺は帰るとしよう。
突然すまなかった」
殿下はそう言ってもう一度微笑んで外に向かう途中ああ、と声を上げた。
「王都で人気の菓子らしい。よければ貰ってほしい」
クロードがゆっくりとはなれ、代わりに殿下が小ぶりの箱を取り出した。
「まあ、よろしいのですか?」
「君のために用意した。
……こんなもので、申し訳ないのだが…」
恥ずかしい話だが、今の俺には大したものは用意出来ない。
苦笑しながら目をそらす殿下がなんだか怒られたあとの幼いリヒテンのようで可愛らしく見えてしまった。
……こんなこと絶対にいえない。
「いえ、殿下、嬉しいですわ」
小箱を胸に抱いて満面の笑みをかえすと、殿下はほっとしたように目を細めた。
「そうか…よかった。
アルトステラ嬢、俺のことはエルレインと呼んでほしい。もう殿下ではないのだ」
ああ、そういえばそうだった。
10数年殿下と呼んでいたものだから急にそう言われても難しいものがある。
それにどちらにせよわたしにとってエルレイン殿下はエルレイン殿下である。
エルレイン…などとはとても呼ぶことが出来ない。
「えと……では、ハーディスト伯爵」
「エルレインと」
「……え、…エルレイン…殿……さま」
「…もし抵抗があるようならエル、と呼んでくれ」
エル…であればエルレインよりは呼びやすいかもしれない。
エル様…と小さく呟いたわたしにエルレイン殿下……エル様は優しい笑みを浮かべて頷いた。
ああ、外見はエルレイン殿下…エル様なのに全くの別人すぎる彼に混乱する。
この人は本当にいったい誰なのかしら…。
はじめましてーエルレイン殿下の弟ですーとか言われた方が理解しやすい。
殿下はこんなに饒舌ではないし、こんなに自然な笑顔を見せる方ではなかった。
「君のこともステラと呼ばせて貰えないだろうか」
「はい、もちろんですわ」
わたしの返事にエル様はよかったと呟いて颯爽と馬に乗り去っていった。
隣の領地?ハーディスト?すぐそこではないか。
馬を走らせれば一刻もかからない。
あの口ぶりからエル様は頻繁にこちらに通うことになるのだろうか。
なんてことだ。わたしの素敵なスローライフは?いったいどうなるの?
このぬるま湯に浸かり続けたわたしに公爵令嬢の仮面をまたかぶり続けろということ?
正直、気が重い…。
ハーディストといえばイゾルテのさらに北にある隣の地で呪われた地と言われ長らく領主が不在である。
どうして、あんなところを?
……もしかしてすべて夢だった…ということは無いだろうか。