Kakei Senki Wo Kakageyo!
Lesson 66: Forbidden to be weak and miserable
その建造物を見るなり、その老人は鼻で笑って断じてみせた。
「これ、攻めるための砦だねぇ。怖い怖い」
七色鳥の尾羽をあしらった帽子に手を添えて、あちらを見ては「おう、えげつない」と言い、そちらに視線を転じては「わあ、いやらしい」と言う。その皺だらけの顔に浮かぶのは無邪気な笑みだが、指をワキワキと動かしたり涎を舐め取るように舌を見せたりするから、何としても直視し難くあって、老人の傍らに立つ壮年の男はあらぬ方へと顔を向けた。
濃緑色の厚い外套に身を包むその男は、名をヨハンネス・ロンカイネンという。アスリア王国四侯六伯の内の一人であり、王都東面に侯爵領を預かる者だ。奥歯の噛み合わせを確かめるように顎を動かしつつ、見えてくる風景を受け止めていた。
冬空に白く長く旗のそよぐそこは、今をときめく第三王女親衛団の駐屯地である。樹木と岩の環境に三千人以上の暮らす土地が広く切り開かれていて、軍施設特有の味気なさこそあるものの、区画整理の行き届いた街並みのような有り様はヨハンネスの好むところだった。雑然には雑然の味わいと深みがあるが、一つの合理的な意図でもって生活を設計することには爽やかな風通しがあるように思われた。
「おや、なにを楽しそうに笑ってるの? 可愛い子でもいた?」
「……ここは軍の駐屯地ですよ」
「うん、その通り。私に突きつけられた剣先だね。あの英雄くんときたら、可愛い顔してやることに容赦がないよ。怖い怖い」
老人の笑みは変わらない。帽子を指先にクルクルと回転させて再び被り直した彼こそは、王国に北の怪老とあだ名されるマルヤランタ侯である。ここは国王に所縁のある古砦であり、王権により第三王女親衛団の駐屯地として下賜されてはいるものの、基本としては彼の治める侯爵領の内である。
「そこまでのものですか、ここは」
「これ、この砦、まだ建造途中だけれど普通じゃないね。以前の物を復元する気なんてまるでないみたいだ。仕掛けも多いけれど……ほら、小砦をあんな風に連結している。想定している戦いの規模は少なく見積もって一万は下らないよ」
「大軍を動かしにくいこの陸水面で、一万をもって砦を囲うなどと……」
「そう、できないよね。チトガ大町と繋がることで水運も含めた総合的な軍事力になっているし、対岸の北部が支援するのだから、ここはもう難攻不落の攻撃拠点だよ。つまりは私が南部と共謀してユリハルシラ領を攻めることなんて出来ないのさ」
だから街道整備をさせたくなかったんだよねぇ、などと愉快げに話している。その内容の剣呑さにヨハンネスは生唾を飲み込んだ。
次代の王座を巡る王国内の争いは、新しい年を迎えた今も武力衝突を伴っていないものの、いずれ避け難くその瞬間を迎えると予想されている。年明けの祝祭を自粛する沈黙は却って権力者たちの喉奥に熱を篭らせたようだ。ヨハンネスにとっては忌むべきことでしかない。
「私は……王墓と王都とを守護するのみです。仮令(たとえ)誰であれ軍をもって来たならばそれと戦います」
「ふふ、流石だね。先代も、その前も、ロンカイネン侯爵を名乗る者とは覚悟の御人であって、そうでなかった例(ためし)がない」
マルヤランタ候はカラカラと笑いながら歩き出した。ヨハンネスはその後に続くも、闊歩する老人の踵を見るようにしてしか歩けなかった。どういう表情をしていいかわからなかったからだ。
親衛団の団員たちが神妙な顔で二人に注目していた。その数は二十名ほどでしかないが、護衛のためというよりは監視のためにつけられたのだろうとヨハンネスは考える。細心の注意を払うべき情勢下にあってお忍びでここを訪ねた二人であるが、ヨハンネスはともかくマルヤランタ候の言動には身分を隠す気があるようには見えない。
奇異の目に晒されながら駐屯地の中心へと進む。身の危険こそ感じないが、身の置き所のない居たたまれなさがあった。親衛団団長の許可あっての砦見学であったのだが、そもそもからして、一般団員を欺くための仮の姿が怪しすぎたとヨハンネスは思うのだ。
怪老により嬉々として語られた偽装の職業は、劇作家とその助手である。マルヤランタ侯は実際に演劇の脚本を書くからあながち嘘というわけでもないのだが、ヨハンネスは芸術の素養などまるでないし、何よりも演じることが苦手だった。助手という職業を論じた巻物の数巻でも熟読しなければ、それらしい立ち居振る舞いもわからない。
「ほら、あれなんてもう、予備や汎用の建物じゃないよね。営舎の数からして三千人規模なんてもともと考えちゃいないんだから。畑もあれば牧もあるし、もうほとんど彼の領土だよね。いやぁ、侵略されちゃったなぁ!」
ヨハンネスの気も知らないで、老人はこれみよがしな大声を上げている。もしかすると、この怪老は身軽に動く方便として「お忍びで肝試しにいかないかね?」などと誘ってきただけなのかもしれない……ヨハンネスは唇を食むようにして込み上げるものに耐えた。このところ腹痛との付き合いを余儀なくされていた。
親衛団の本部施設へ戻ると、そこには今や大陸にその名を轟かせる時の人がいて、二人を待ち受けていた。龍将軍マルコ・ハハト。弱冠十四歳……今年でやっと十五歳になるという黒髪の彼は当世随一の英雄である。黒髪も艶々として良家の子息のようにも見えるが、微笑みの裏側に秘められた何かがヨハンネスには恐ろしい。どうしてか不安を掻き立てられるのだ。
「やあ、わざわざ出迎えてくれなくて結構だよ。まだ本調子ではないのだろう? 座って白湯でも啜ろうではないか。ああ、いやいや、命の恩人に手間は取らせないとも。結構結構。私たちは今、ただの劇作家とその助手だからね。まあ座ろうじゃないか、英雄くん」
陽気に捲くし立てながら、マルヤランタ侯は誰よりも早く着席したものである。そして鼻歌混じりで何をしているのかと言えば、白湯が注がれるのを待っている。つまるところヨハンネスに用意せよと言っているのだ。溜息が漏れた。見れば彼も苦笑いである。
「……一緒にやらせて貰えるだろうか、ハハト将軍。勝手のわからないところもある」
礼法は型の通りに為されてこそ人の営みを円滑なものとする。ヨハンネスはそう考えるから、このような些細な変則も負担に感じた。しかし、座して侯爵に湯を用意されたならば彼はより大きな負担を感じるであろうし、座して待つ侯爵の提案に背くこともまた同じに違いない。ヨハンネスはヨハンネスなりに配慮したつもりだった。マルヤランタ侯と関わるとこういう場面も多い。
老いれば老いるほどに扱いにくくなっていく人物の鼻歌を背に聞きながら、救国の英雄であるところの人物と湯を沸かす。ヨハンネスの日常は今、不可思議に歪められて水音を立てている。
「ご満足いただけましたか?」
白湯についてか、それとも砦と駐屯地についてか。彼は微笑みつつそう言ったものである。ヨハンネスは答えず、マルヤランタ侯の方を見やった。美味そうに飲み、満足げに湯気を顔に受けている。それだけ見れば善良なお年寄りのようでもあるのだが。
「いや、全くだね。君のやりたいことがまるでわからないもの」
口を開けばまず平穏なことを言わない。いかなる場をもかき乱す。
「北部領兵をまとめあげて帝国を破ったまではお見事、確かに君は英雄で、王国の歴史にその名を刻み込んだね。帝国の皇帝だってもう生きていないのじゃないかな? 君に破れて亡くなったなんて発表できるわけもないから、そのことは歴史の闇に葬られるだろうけれど」
聞き捨てにできないことをサラリと言う。ヨハンネスは思わず息を呑んだし、腰も浮きかけた。行禍原では新旧の年を跨いで今も哨戒活動が実施されている。未だ帝国軍部隊の目撃例が絶えないことから、帝国皇帝は前線領にあって軍の収拾再編を行っているものと予想されていたし、ヨハンネスもそれが正解だろうと考えていたが。
「命の恩人というのも本当。押し込まれるのも追い返すのも速すぎたから南部の諸卿はいまいちわかっていないけれど、帝国の大船団が王都へ至っていたならば王国は終焉を迎えていたもの。勇者が現われる間もなくね。奇跡とやらは教会の予想を超えることがないし、水運をも駆使したあの侵攻速度は教会の予想を超えていただろうからなぁ」
ニコニコと、まるで大好きな演劇を批評するようにして言葉を重ねていく。しかしその内容は鋭利だ。ヨハンネスは聞き入るよりなかった。北の怪老がそう呼ばれる所以を発揮していた。
「水上の火計、君が仕掛けたのだろ? 式典までは親衛団団長が傑物なのかと思っていたのだけれど、違う違う、私の勘違いだったよ。君だ。君の仕業だよ」
グイと飲みきって、杯を置くなり手首を返して指を差す。ヨハンネスはその示す先を追っていって、そこに一つの魔性を見た。黒髪の作る影に妖光を発するようにして青紫色の瞳があり、一度見たならばもう他に視線を逃せない。ヨハンネスは瞬きを忘れた。
「あの場にあって興奮を眼に宿さなかった者は君と第三王女殿下がいるきりで、団長の視線の先には君がいた。それは熱く恍惚とした眼差しで、己の運命を賭して主君に仕える者の喜悦でしかなかったよ。臣下にそれをさせる者とはおよそ正反対の壮絶を瞳に秘めるものだ。六万将兵を一時に焼くほどの壮絶をね。つまりは君が首謀者ということさ。そしてそれをユリハルシラ侯もご存知のようだ。あの火のような旗は、事の初めから君のために用意されていたわけだ……ははは」
見入り聞き入りつつも、ヨハンネスは注意すべき引っ掛かりを覚えた。マルヤランタ侯の笑い声が常と違ったのだ。どんな時も……それこそ、相手の心を殺す辛辣を吐く時ですら無邪気な色でもって響かせるはずのそれが、乱れ綻んでいた。ヨハンネスは動けぬままに脳裏に理由を推察した。そして閃く。
怯えているのではあるまいか。
北の怪老と呼ばれる王国きっての曲者が、無理に笑わなければならないほどに。
多弁に紛れ隠されて声の震えがあった。返事を待てない不安があった。言い尽くそうとする焦りがあった。白湯を求めたのは悪戯心ではなかったのかもしれない。必要だったのかもしれない。用意される時間も、手に持ち湯気に隠れる時間も。
「一体全体、君って何が目的なのかな? 立身出世が目当てならばもう十分過ぎるほどだ。素直に第一王女殿下の剣を受ければそれでよかったはずだ。教会への反発心ならば国を割らなくとも他に幾らも方法があった。現状はむしろ南部への教会の影響力を強めているくらいさ」
マルヤランタ侯の言葉は真実であるとヨハンネスは知る。もとより南部は人々の信仰心が厚い。領政にも深く影響しており、教会関係者が当然のように領城へ多く詰めている。孤児院や救貧院など教会が民へ向けて運営する施設も多く、物心両面においてその恩恵を受けているのだ。そうであればこそ、此度の南北の争いについては教会も様々に動き出しているようだ。
目に付くものとしては守護龍伝説の流布があるが、それは今や北部の不信心を糾弾する色でもって語られている。王国を護る大河の龍は、信心深い南部のためには奇跡を起こしたものの、祈りの浅く弱い北部のためには何もしなかった。かつての戦乱における勇者の降臨も然り。北部は粗暴さに彩られており、南部の富を奪うことしか考えていないのではないか……そんな論調だ。
「第三王女殿下への忠誠心で動いているとしてもそうだ。君が得た地位を用いればかくも過激な事態を引き起こさずともやりようがあったはずだ。あの火計を成した君にそれがわからなかったはずがない。龍将軍という特別の兵権の使い道を誤るはずがない」
マルヤランタ侯の舌は止まらない。止めることを嫌っている風にヨハンネスには見えた。恐るべき微笑みはそれに晒され続けているが、青く澄み渡り紫色の深みを持つ瞳には僅かの揺らぎも認められない。
「君は……英雄と讃えられてもまるで気にも留めない君は……王侯貴族を舞台監督のような目で眺めていた君は……そんな風に笑いながら、そんな風に迷いなく、何をするつもりなんだい?」
止め処なく放たれていた言葉の矢が、ついにその最後の一本に至るまで射尽くされたようだ。そちらを振り向いたならば、マルヤランタ侯の今まで見たこともないような表情を見られるのだろうか……ヨハンネスはそう思いつつもそれが出来ない。視線は呪縛となって青紫色へと強力に吸引されている。老人の荒い息遣いが聞こえてくる。
「開拓です」
ただの一言であるそれが衝撃的に胸を打った。ヨハンネスはそれは何故かと考えて、自分でも不思議なほどにあっさりとその答えを得た。信念か、血か、それとも魂か。いずれにせよヨハンネス・ロンカイネンという人間の中核にあって拠り所となっているものが直撃されていると悟ったのだ。
この若き英雄を見るたびに胸にざわめき、告げられた言葉に強打されて震えたもの……それはアスリア王国の伝統そのものだ。
ロンカイネン家とは王国最古の貴族であり、血は幾度となく王家と交じり合い、時に王位継承権すら持つに至る家門だ。その存在意義は王国の鎮護である。国を乱すあらゆる事象に抵抗し、王家と王国とを幾久しく存続させるためにのみ生きているのだ。そうであればこそ、ヨハンネスの父は討ち死にしたのである。彼もまたその決意をもって齢を重ねてきた。ロンカイネン家の当主とは即ち王国の歴史の証人であるという自負を持って。
自分の中のそれが……重代の鉄柱とでも言うべきそれが、今、動揺している。ヨハンネスはそれを察して顔色を失った。今更ながらに恐怖が込み上げてきたのだ。
「鍛造と言ってもいいですね。南部の在り様は僕にとって特に見苦しい。老若男女の区別なく頬を張り、冷水を浴びせ、火でもって追い立てます。弱々しく在り続ける者は死ねばいい。強く在らんとする者のみが生き残ればいい。それは早いか遅いかの差でしかありません。いずれ同じことです」
苦しかった。ヨハンネスは呼吸の方法を思い出さなくてはならなかった。マルヤランタ侯の言葉が矢であるならば、今放たれ突き刺さってくるこれは槍の例えでも生ぬるい。破城槌だ。一撃ごとにヨハンネスの中で揺らぐはずもなかったものが悲鳴を上げている。
「僕は内乱を利用するのですよ。南部の人心を改める手段として」
奇妙な音が聞こえて、ヨハンネスはそれがマルヤランタ侯の呻き声であると理解した。しかしそれにしては音が二つある。自分自身だった。ヨハンネスは呻くことなしに息を吸うも吐くも出来なくなっていた。
「ですから時間をかけるつもりです。一気にやってしまっては虚弱のままに滅ぼしてしまいますからね。両侯爵閣下におかれましては、約定の通り、両岸から東龍河を封鎖して戦場を限定されますようお願い申し上げます」
言い終えるなり、ニコリと笑って、そして白湯を飲む。
それはとても美味しそうに見えたから、ヨハンネスも喉を大きく動かした。渇ききっていた。白湯はまだ飲めそうもなかった。唾を飲み下すのですら容易ではなかった。