Magic Gems Gourmet
Water Absolute Strong
シュゼイドのどこかで鐘が鳴る。
けたたましく、聞いているだけで不安になる低い音だった。
アインは膨張した海面を見て、目を凝らした。
既に抜身のイシュタルを脱力して構えると、不意に海面が穏やかさを取り戻す。
それは、前触れのように忽然と。
「何だってんだ今のは……」
「ラジードさん! 急いでここを離れるんだッ!」
「あ、ああ――――い、いや駄目だッ! 俺の娘が海に居るってんだ! 俺だけ逃げていられるかッ!」
そうだ、メイがまだ海に居る。
迷ったアインの下へ、異変を察知してかけて来たクリス。
「私が行きます。リヴァイアサンまで移動して、何とか見つけ出して見せます」
馬鹿を言うな、怒りに声を荒げようとしたアインだが、彼女の顔を見て躊躇った。
まるで先日の自分を見ているようだったのだ。
思えば、クリスは海龍騒動の際に指揮官として死地に向かっていた。この事への責任感、あるいは別の後悔があってからか、息子をあの騒動で亡くしたラジードに報いたいと考えていたのだろう。
だが。
「……少しだけ待ってほしい」
アインは歯軋りの後に制止した。
「俺が指示を出す。海に出てもアレ(、、)がそっちに行けない、行かないって分かった段階でなら構わない」
それでなくば認められない。
危険だから、この一言に尽きた。
「ただの魔物だったら俺もすぐに許可を出した。けど、今は駄目なんだ」
「……アイン様」
「ごめん、すぐに判断できるように頑張るから……ラジードさんも、少しだけ待っていてほしい」
「はっ……んなの、今更だろうが。娘を助けら貰えるってんなら、俺はいくらでも待つに決まってるぜっ!」
その言葉はやせ我慢に近く、目元は微かに震えていた。
すると。
――――空に漂っていた雲は穏やかさを取り戻した海の上に集い、十数秒もすれば雨を降らしはじめた。
雷が降り、海原が荒々しく揺れる。
その光景を見ていると、ヴェルグクと戦った海を思い出す。
(早すぎる……まだ何十年も経ってないのに)
アインは確信していたのだ。
何が出て来るのか、何が起ころうとしているのかを。
だが、陸に居れば大きな被害はないと踏んでいた。
だからクリスを止めて、少し待つように言った。
――――ふと、妖しい光が一つだけ。
海の中で煌いた。
その刹那、海が二つに割れて現れた魔物。
『ギィイイイァァアアアアアアアアアアアアア――――ッ』
喚き、痛みに叫ぶような声の主。
アインが戦ったそれと比べて遥かな巨躯を誇り。
見た目もまた、悍ましさを孕んでいた。
ところどころ剥がれ腐食したように見える鱗に加え、ところによって見え隠れするは堅牢な骨の檻。
双眸に宿る光は見えず、微かに瘴気を漂わせているのが分かった。
「嘘……どうして……」
クリスは目を見開き、あの日の記憶を思い返して息を呑む。
なぜなら、現れた魔物は――――。
「海龍…………ッ!」
数百年に一度だけ現れて、そのたびに深い傷跡を残した海の王。
天敵はおらず、他の魔物を思いのままに貪る海の覇者である。
しかし、以前と違う。
アインが思っていたように、巨躯は以前現れた二頭の海龍と比較にならない。
五倍……それとも、更に倍だろうか。
同じく巨大な海龍艦リヴァイアサンと比べても遥かに巨大の体躯をありありと見せつけ、シュゼイドを視界に収め、双眸をギョロッと蠢かせた。
「クリス、クローネと一緒に住民の避難を。ディルとマルコにも同じことを伝えて、一秒でも早くこの町を離れるんだ」
シュゼイドまで覆い尽くした漆黒の群雲が雨を降らし、嵐を呼んだ。
雨に濡れながら、桟橋を歩き出したアインが海龍の身体を睥睨。
…………まるでアンデッドだ。
明らかに普通じゃない姿に眉をひそめた。
「――――早く離れるんだッ!」
怒鳴りつけ、皆を急いで遠ざけた。
そして、アインは海の上へ。
木の根を張り巡らせ、普通ではない海龍の近くへと。
(……何て大きさだ)
加えて纏った魔力の量が尋常ではない。
暴食の世界樹……この名で魔王として覚醒を果たしたアインから見ても膨大な量の魔力には、異変の言葉が脳裏をよぎる。
普通じゃない、何度目か分からないがこの言葉が頭に浮かんで離れなかった。
どうして急に現れたのか推測することは止めた。
やることは変わらない。倒すだけだ。
アインがイシュタルを構えて剣閃を放とうと試みたところで、海龍の体躯が大きく弓なりに逸らされた。
やがて、口元から放たれた海水がシュゼイドを横薙ぎ、一閃に。
「お前……何をッ!?」
響き渡る轟音。飛び散る家々。
面前に居たアインが木の根やイシュタルを駆使してある程度は防いだものの、すべてを防ぐことは構わず、家々が飛翔し、地形そのものを砕いた。
飛翔した瓦礫が町に崩落するのも、轟音の後に波及した爆風もまた脅威であった。
あれは海水という言葉で表してよいものではない。
まるで光線、まるで戦艦の主砲。
それらをも上回ると思わせるだけの破壊力であったのだ。
「――――ッ!」
アインは一瞬の怯みに後悔を覚えつつ、更に海龍の下へ駆けて行く。
木の根を駆け上がり、あっという間にその額に収められた魔石の下へ。
『ア……ッ……アァ……』
おぼつかない視線を向けられる。
鱗が欠けた身体の隙間から生じる瘴気は腐臭を匂わせていた。
あと少し、ほんの数十メートルで切っ先が届く。
だが、アインがイシュタルを大きく振り上げたところで、海龍の瞳がアインを視界に収めたのだ。
すると、遥か後方でとぐろを巻いていた尾が宙に伸び……そして。
「ぐっ……!? 何だ……これ……ッ」
巨大な哺乳類がアリを踏み潰すが如く体格差の中、海龍の尾がアイン目掛けて振り下ろされた。
かと言って、アインは決してアリではない。
巨神・ヴェルグクと戦い、勝利した彼には体格差も大きな意味を持たないはずだった。
けれど、アインが感じた確かな重圧はヴェルグクに勝る。
神族と言われていたヴェルグクに勝るなんて、変な話だと自分でも思った。
しかしそれでも、押し寄せる圧はヴェルグクに勝っていたどころか、余力に至るすべてが更なる強さを秘めていることを予感させた。
『ガアアアアアアアアアアアァァッ――――ッ!』
咆哮の後にアインの身体は宙に飛び、シュゼイド目掛けて弾かれる。
弾丸のように早く、景色はめまぐるしく変化した。
「ッ――――出てこいッ!」
木の根を幾重にも生み出し、身体を支えるクッションに。
当然、柔らかくはないから衝撃は走るが、問題ない。
「……お前、一体どうなっているんだ」
我ながら丈夫な身体だなと笑い、木の根の上で体勢を整えた。
ヴェルグクに勝る攻撃を受けたにも関わらず平然としている理由はきっと、ヴェルグクの魔石を吸収したからだ。
しかし、どう考えてもおかしい話だ。
たとえ海龍といえど、神隠しのダンジョンに封印されていた神族に勝るだろうか?
「ありえない」
言いきれた。確信できた。
アンデッド化したからといって、神に勝てるわけがない。
『ァァアアア…………』
「ッ……ああ、そうくるだろうさ!」
海龍が弓なりに身体を反らしたところで、アインは木の根に手をかざす。
町全体を守るにはこれしかない……!
彼は足元から根を張り、ほんのわずかな時間で海上に大樹を生やしたのであった。
◇ ◇ ◇ ◇
町中は海上に比べて更に悲惨で、既に多くの犠牲者すらいた。
そんな中、クリスは崩落する瓦礫からクローネを守りながら避難誘導をつづけ、住民を大急ぎで町の外へ逃げるよう声を上げていた。
大通りの石畳は剥がれるどころか、地形が沈下して道の形は保てていない。
周囲の家々はほとんどが崩れ去っていて、逃げまどう人々の悲鳴が耳を刺す。
「お嬢ちゃん! 俺も手伝うぜ!」
ラジードの声にクローネが言う。
「駄目です。一秒でも早く逃げてください」
「お、おいおい! お嬢ちゃんたちが頑張ってるってのに、俺みたいな大人が先に逃げるってのか!?」
「ええ、そう言っています」
言葉を返したクローネはすぐに周囲を見渡して、宿から飛び出した騎士たちにも指示を出す。
その横顔は凛として気高い。
およそ彼女のような年齢の女性が醸せるとは思えぬ高潔さに驚かされた。
…………これが、次期国王の隣に立つ者の姿なのか?
先ほど、アインも自分を一人だけ残らせて皆を逃がした。
自己犠牲の極みともいえる姿を思い返し、ラジードは初対面の頃の振る舞いを今一度恥じてしまう。
「ここで成すべきことがあるのは我々です。でも貴方にだって、するべきことはあるはずです。……さぁ、町の外に逃げた方々の下へ行き、皆をまとめてあげてください」
つづけて向けられた、慈愛に満ちた微笑みを前に口を噤んだ。
舞い上がった海水によるものではなく、クローネの額には大粒の汗が浮かんでいた。
このような場にも関わらず、彼女は身を挺して皆を救おうとしている。
…………駄々をこねている場合ではない。
ラジードは二人に背を向けると、勢いよく駆け出していった。
「クリスさん、それではつづきを――――ッ……!」
ラジードが立ち去ってすぐ、不意にクローネが膝をつく。
「ク、クローネさん!? その怪我は……ッ」
「平気です。小さな石がぶつかっちゃっただけですから、心配しないでください」
きっと、崩落した瓦礫の欠片が足元に落ちたのだ。
クローネの脛は真っ赤に腫れ、うっすらと血が滲んでいる。
掠っただけのようだが、これでは歩くことも辛いはず。
「このマルコにお任せを」
すると、突然現れたマルコがクローネを持ち上げた。
クローネは悲痛な面持ちを浮かべ、まだ残ると言いたげであったが。
「クローネさん、ここは私に任せてください」
「すぐにディル殿も参ります。ここは二手に分かれて事に当たると致しましょう」
「…………分かったわ」
駄々をこねる場所でもなく、今の自分が居ても足手纏いなことは明らかである。
これを悟り、返事をしたところでクローネはマルコに連れられて避難した。
それから間もなく、息を切らせてやってきた金色のケットシー。
「宿に居た皆の避難は完了しております。領主殿にも強く言いすぐに避難していただきました。責任感があるお方でして、かなり苦労しましたが」
「良かった……じゃあ、私たちはこのまま避難誘導に戻ります」
「はっ!」
「それにしても、どこから手を付ければ――――」
辺りを見渡し、騎士の様子も確認しつつ動く中で気が付いた。
町のはずれというのは更に遠く、シュゼイドの町中を出て、アインが先日足を運んだ丘から少し奥まったところ。
海沿いの崖の下に、家々が立ち並ぶ箇所があったのだ。
恐らく、住民も百は優に超すと思われる。
「あちらは確か……昔からある漁村の名残だそうで、今はシュゼイドの一部です」
ディルに告げられ事情は分かったが、問題なのは今の状況である。
海水のブレスはそこまで届いていたようで、舞い上がった瓦礫により多くの家々が崩壊。加えて、街道と思しき道は崩落した瓦礫に塞がれている。
周囲は崖で、残る逃げ道と言えば海しかなかった。
「こっちはお願い。私はあっちの人たちを助けて来ます!」
「承知致しました! では、どうかご武運を!」
返事を聞いたクリスはあっという間にディルの視界から消えた。
アインのことも心配だが、自分がするべき仕事がある。
彼女は去り際の海に見える巨大な海龍の姿を見やり、アインの無事を願いながらも足を進めた。
◇ ◇ ◇ ◇
海上で戦うアインは驚嘆していた。
生み出した大樹に刻まれた深い傷跡に目を見開き、ブレスの破壊力に息を呑んだ。
…………何が起こっているんだ。
…………普通の海龍じゃない。
…………どうしてこれほどの火力がある?
町は守れたが、どう甘く見ても余裕のある戦いではなかった。
息を整え、つづく海龍の動きから目を離さず。
アインは海龍の周囲に木の根を張り巡らせ、その動きを止めに掛かるも。
やはり、あまり意味がない。
(膂力がヴェルグクに勝ってるとでもいうのか?)
思いながら海龍の体躯を見る。
腐り、あるいは崩れていた鱗の奥に見える骨格に対し、あそこならダメージを負わせやすいかもしれない、と考えた。
…………やるしかない。
…………どんな方法でもいい、止めなければ。
アインは一息に駆けだし、一瞬で距離を詰めて剣を構えた。
どうしても海龍は小回りが利かない。
迫ったアインに対しヒレを振り回すも、アインはその力に逆らわずに宙で旋転。またその際に、イシュタルでヒレの表面に刃を立てた。
『ッ――――ァァアァァァァアアアアァアアアッ!』
安堵した。
刻まれた剣の跡と共に上げられた悲鳴に胸を撫で下ろす。
大丈夫、これなら戦える。
「砕けろ……ッ!」
接敵した鱗の隙間へ剣を突き立てる。
ただ、硬い。
鱗はさることながら、骨もまたアインが知る海龍の硬さではなかった。この身体は巨躯に劣らず猶も堅牢で、僅かに露出した骨に届くもヒビが入るにとどまってしまう。
このイシュタルも今となっては、他に比肩する存在がないほどの名剣である。
切れ味はさることながら、アインの膂力も伴い破壊力は絶大だったのに。
『ッ――――…………ガァァアアアアアアッ!』
突然の咆哮が耳を刺した。
すると周囲の海面が高らかと壁を作り上げ、海龍とアインを取り囲む。
瘴気が充満し、海水が水の壁から手のように伸びた。先端は鋭く、渦巻いていた。
それは、数えるのが億劫になるだけの数となり、一斉にうねり、伸びる。
一本、それがほんの一瞬だけアインの手の甲を掠り、鮮血を舞い上げる。
「海流のスキルか……ッ!」
使い方が魔物のそれではなく、先頭巧者のそれである。
まるで、歴戦の魔物が得た稀有な使い方のよう。
アインが切り伏せるも、海水は切っても死なない。先端の海水は海面へ落下していくが、海水に限りがないため、水の腕は切れた先から復活する。
飛び交って、躱すアイン。
海龍の鱗を駆け上がりながら時に水の腕の先端を切り落とし、鱗にも剣を突き立てた。
…………本当に硬いな。
鱗を破壊できないことはないが、想像の何十倍も低い傷跡だ。
時には骨まで届いたが、骨を砕くまでは至らなかった。
また、これらの傷も海龍にとってすれば大したものではないはずだ。
何故ならばこの巨躯だ。
人の指がささくれ立つ程度でしかない。
だったら、成すべきことは……倒す手段は決まっている。
『ガァァ…………』
猶も足を進めたアインが辿り着く、海龍の咢。
獰猛で雄大、鋭利な牙を過ぎて向かうは海龍の額。
突き立てるは、何本もの幻想の手。
振り上げるは、黒剣イシュタルだ。
数多の水の腕が迫りくる中、アインは自分の身体が貫かれるより先に刃を突き刺す。
『ッ――――ァアアアアアアアアアアアッ……!?』
「魔石ならそうなるだろうさ……海龍ッ!」
『ガァッ……ウゥッ……ァ……ギィイイイイイイイイイイイイイイイッ!』
呻き身体をよじり、アインを引き離そうと必死である。
一度の首振りは巨躯に比例して距離が長く、魔石に密着したアインに伝わる衝撃も大きい。
彼は歯を食いしばりながら耐え、更に握力を込めて咆哮する。
「このまま……砕け散れぇぇえええッ!」
だが、アインの身体からふっ、と力が抜けた。
思わず呆気にとられて、どうして……という声を漏らしながら。
「キミがどうして……どうしてそこにいるんだ……ッ!」
昨日の少女が、海龍の魔石の中で蹲(うずくま)り浮いていた。中に伸びた魔力が血管のように繋がって、彼女の身体を浮かべていたのだ。
それを見て力が抜けたアインはまた、すぐに力を籠める。
けれど、今一度その力を抜いてしまった。
何故なら――――。
魔石から力が抜けるに応じ、彼女の身体から魔力と思しき光が吸われていくのを見てしまったからだ。
吸われていく少女は苦悶に顔を歪めており、悪夢を見ているような姿のまま起きる様子はない。
すると。
『ガッ……シュァ……ギィイイアアアアアアアアアアアア――――ッ』
剥がれないアインに業を煮やした海龍。
その頭部を海面に向け、一気に降下する。
瞬く間に海中に引きずり込まれたアインの戦場は、幼き日、海龍との戦いの最後と飾ったときと同じ海中へ。
泳ぐ速度は以前の比ではなく、押し寄せる圧は逃げたくなるほど強かった。
間違いなく、ヴェルグクの魔石を吸っていなければ既に負けていたぐらいである。
(この子を助けるには……魔石を破壊してしまったら……ッ)
少女の正体も同時に気になるが、このまま魔石を破壊、あるいは吸い尽くした際の結末を鑑みると躊躇われる。
しかしそうすると、この海龍を討伐する手段に欠けるのだ。
――――海中に響き渡る巨大な咆哮。
――――痛みに耐え、逃れようと心血を注ぐ姿。
アインの身体は見る見るうちに陸の近くを離れて、沖へと連れられたが、海龍はここに来て身体を反転。
シュゼイドへ身体を向けたのだ。
…………まさか、町に追突することで引きはがそうとしてるのか?
アインが予想して間もなく、答えは的中する。
僅かな泳ぎで海中を進み、あっという間に町へと近づく。
『ガァァアアアアアアアアアアアアアッ!』
そして、今一度の咆哮の後に。
アインの身体は港へ押し付けられ、遂に剥がれる。
強烈な圧と打撃に肺の中の空気が一瞬で消え、飲み込んでしまった海水で吐き気を催す。
海中に放り出されたアインは何とか木の根を生み出して陸に上がるが。
「くっ……はぁ……はぁ……港が……ッ!?」
港の陸地ごと、今の体当たりにより海の藻屑と化していた。
もし、もしも今の攻撃を繰り返すことができるのならば。
間違いなく、この海龍は大陸イシュタルそのものを大きく削ることが可能であると。
「…………どうすればいい」
正直、倒せそうな気はしている。
いざとなったら負担は大きいが『絶対攻撃』を使い、魔石を砕く――――あるいは吸収し尽くすことで倒すことは出来ると思えた。
気になるのは、魔石の中に捕らわれた少女のこと。
目を伏せたアインが思うのは、核を破壊するということだった。
少女を犠牲にして海龍を倒すことは考えていない。
王族として失格の烙印を押されると思っても、たった一人の少女すら救えない王にはなりたくないという想いが勝っていた。
町の避難状況も、この辺りから悲鳴が聞こえてこない。
故に、多くを犠牲にして一人の少女を救うというものでもないと思った。
「…………俺は俺らしく。諦めちゃいけない」
昨日知ったばかりの少女のために命を掛けて、しかも町の被害もある。
だがどうしても、捕らわれた少女のことを諦める気にはなれなかったのだ。
少女の身元は不明で何かあるかと警戒はしていたが、力を吸われて苦悶の表情を浮かべているのなら、この状況は本意ではないはず、と。
「なら……やることは一つだ」
アインはこれまでと違う戦い方を選び取ることができた。
まず、町の避難状況を思えば周囲へ気を遣う必要がなくなる。
となれば、抑えていた力を使うことだって可能なのだ。
――――海上へ、漆黒の光球が浮かぶ。
海龍の目と鼻の先に、不意に現れた。
イシュタルを持っていない方の手を伸ばしたアインは手のひらを広げた。
光球に入ったヒビから零れ落ちた漆黒の雫。
海を黒く染め、海龍の鱗を爛れさせた呪いの水。
そして、嵐より大きな音色で響き渡った讃美歌の音色。
やがて――――。
アインは口を開き。
「行くぞ、海龍」
広げていた手のひらを握り締め、光球が爆ぜた。
周囲の海水を一瞬で消し去り海底を露出。
嵐の雲を吸い、雷を食み、瘴気をかき消す。
代わりに、闇夜より暗い黒が海龍を覆い尽くしたのだ。
天高く伸びる漆黒の光芒を成し、響き渡る海龍の悲鳴すら飲み込んで。
大気を揺らす波動は一瞬だけ波及するが、その威力すらも漆黒の光芒に吸い込まれていき、滅ぼすための光がすべてを海龍へと。
そして……海龍は……。
『ァ……ッ……ガッ……ァア……』
全身の鱗が崩れ、肉が消え、露になった骨の鎧。
臓器もない。故に核もまた消えているはずだったのに。
何故か、海龍はそれでも動いていた。
完全なアンデッドであれば核がなくとも動けてこそである。
だが、この海龍はそうではなかったのに。
骨の体躯に、額に光る巨大な魔石。異様な姿をした巨躯は穴に押し寄せた海水により、それでも泳ぎアインを見下ろした。
これでは核を破壊すればいいという話ではない。
まだだ、他にも手段はある。
「……魔石を取り外せばいいだけだ」
だけ、と言っておきながらその難しさは良く分かっている。
あれほど堅牢な骨を砕き、魔石だけを引きはがさなければならないのだ。
ここに来て、アインは他に有用な攻撃手段はないかと探った。
海を見ると、離れた場所に停泊したリヴァイアサン。
どうやらあの船の堅牢さが功を無し、これまでの衝撃に耐えていたらしい。
「主砲は……」
駄目だ。
確かに強大な主砲を放てるが、仮にそれでリヴァイアサンが狙われては意味がない。
あの船にはまだ乗組員たちが居るはずだし、避けたいところだ。
そもそも、リヴァイアサンの主砲よりアインの攻撃の方が強いのだ。
――――海龍の弱点は火だ。
記憶の中から探ったが、これも期待ができない。
アインは魔法を使わない戦い方で、使う必要がないというのが彼の戦い方だ。故に学んでこなかったが、あの海龍を相手に火の魔法が通じるかとも思えない。
答えが見つからぬまま、アインは海上へと掛けて木の根を生み出し海龍に近づいた。
イシュタルで切りかかってみるが、骨の硬さは変わっていない。ただ、肉や鱗がないから膂力が直接伝わることもあってか、骨は格段に砕きやすかった。
とは言え、あの巨躯である。
アインは海水のブレスを吐かれたところで退き、手ごろな木の根の上に着地する。
海龍も海龍でアインを警戒しており、最初のころのように無差別な攻撃を仕掛ける様子はなかった。
素直に長期戦を覚悟するべきか。
いや、それでは少女の力が吸われて限界が来る。
ならば別の手段を……。
と、アインが考えを張り巡らせはじめたところへと。
「…………どうして、ここに」
アインの周りで、二つの光球がふわ、ふわ……と漂いだした。くすくすと笑って、周囲を楽しそうに回っている。
そして。
「――――炎王の抱擁(ドラゴン・ブレス)」
……声と、灼熱が届いたのだ。
聖域の覇者のその声と。
彼女が放つ、獄炎の波が。