Nobunaga's Bastard

Episode 13: How many more nights do you sleep?

永禄十年、八月。

「では、儂は行く。帯刀、民を安んじ、良く領内を治め、尾張が持つ力を高めるのであるぞ」

「お任せあれ」

「文を蔑ろにせよとは言わん。しかし武家である以上文に溺れ武に疎いと言われれば周囲から侮られる。お主は村井の人間となったが、それでも殿の長子であることに間違いはないのだ。それを忘れるな」

「はい。肝に命じています」

「直子殿の御道楽については、確かに街道整備のような有益なものは多い。だがそうではないこともまた多い。ゆき過ぎては唐の妲己、室町幕府の日野富子が如くになりかねぬ。得体の知れぬ者達を身辺に入れる悪癖もおありだ。息子であるお主が上手く手綱を引くのだ」

「ご忠告、痛み入ります」

「陶工については、近く腕の良い者を送る。しかし、壺や皿を作るのはおまけ、あくまで永楽銭を鋳造する為に人を送るのであるからな」

「勿論わかっていますとも」

それから幾つかの注意事項をくどくどと述べてから、義父村井貞勝は美濃の国稲葉山城、今は名を改めて岐阜城へと向かった。

「若いし賢い人ではあるけれど、ああいう鬱陶しいところはやっぱり親父殿も老人だな」

「また若様はそのようなことを仰る」

俺の暴言に、嘉兵衛がいつものように困った表情を作った。

「さーて、鬼もいなくなった事だし遊びまくるか。嘉兵衛、内政については良きに計らえ」

困り顔の嘉兵衛が面白かったので調子に乗って冗談を言うと、そんな、と情けない顔を嘉兵衛が作った。

「冗談だ。そんなことはしない。多少羽は伸ばすけれど仕事もちゃんとする。街道の整備に法の整備、永楽銭もちゃんと作るさ。本当に母上がやりたい放題にしていたら危なっかしいからなあ」

それならば宜しいのですが、と言われ、俺達は城内に入った。美濃を制した父が内政の首座として義父殿を呼び寄せ、名実ともに俺が古渡城主になった。秋になれば刈り入れが行われ、今年の収穫がどの程度であるのかを纏めて父に送ることが俺の仕事となる。

「可隆(よしたか)殿は森家の当主となるべきお方、可成(よしなり)殿はまず政について学んで欲しいとお考えになり、この古渡城に送ったのです」

「そうでしょうか? 既に元服もしたと言うのに、初陣すらまだです。今年は殿の上洛があるというのに」

城に戻ると、母が長身のイケメンを慰めていた。いつだったか、俺が彦右衛門殿と鬼ごっこをし、兄弟総ざらいで大敗した日に、少しだけ話をした若武者だ。その隣に座るもう一人の侍に軽く頭を下げつつ、母に近づく。

「お元気を出して下さいまし、きっと近く、可隆殿にもお声がかかります、その時までに武を磨き、文に長じ、可成殿を驚かして差し上げましょう」

優しい声音で言いながら、母がイケメンの肩に手を添えた。もう片方の手はイケメンの手の上に載せている。視線はイケメンの横顔に釘付けだ。イケメンて言葉の使い方、これであっているだろうか?

「そのようなお顔をしても、若い男前の体に触れたいだけということは丸わかりですよ母上」

母に厳しい口調で言った。途端に神妙な顔を辞めた母が悪戯っぽい表情を作った。

「憂い顔の美少年を見られるは滅多にあることではありませぬ。これくらいはお許しになって」

「時と場合というものがあります」

「だって、あんまり可隆殿のお顔が可愛らしかったものですから」

「だってではありません。年甲斐もない」

俺が注意をすると嘉兵衛が控えめに、控えていた長則が豪快に笑った。俺も母もクスクスと笑って、食事にしましょうと言うとそれまできょとんとした表情を作っていた可隆君が苦笑を漏らした。

「噂通りなのですね、この家は」

「噂通りとは?」

「若くしてご家老を論破する麒麟児(きりんじ)は、母君も又只者ではないと」

その言葉に、母上が再びホホホホと笑った。

「息子は麒麟で母は狐の化身と言われているそうですね」

「は、あ、いえ、そのようなことは」

「良いのですよ。お話はお猿やお犬から聞いております。動物が沢山いるのは賑やかで良いではないですか」

「直子様を狐と呼ぶは、物の怪の類だと言っているのと変わりませんがな」

横から長則が茶化すようなことを言って、またまた笑い声が室内に満ちた。

「織田家の支柱たる森家の次期当主を客人に迎えたのですから、少しは政(まつりごと)の勉強になる話でもして差し上げたら如何ですか?」

そうして暫く馬鹿話が続いたので、そうやって水を向けてみると、母上は上機嫌のままそうですねと呟き、話を変えた。

「時が早まりましたね」

「時が、早まった。ですか?」

母の言葉に俺は首を傾げた。

「殿が京洛へと昇ります」

思っていた以上にそれらしい単語が出て来た。可隆殿が居住まいを正し、松下親子が表情から笑顔を引っ込める。

「三好の天下が終わり、殿が天下人となられるまでの日が早まったのですよ」

「それならば、早まったではなく近づいたという事ではないのですか?」

楽観していたわけではなかったが、美濃一国の国盗りは織田家中の誰もが成ると考えていたし、その後父が京を目指すことも誰もが理解していた。来るべき日がやってきただけという気がする。勿論京へと向かう日に向けて家中一丸となって前進したという意味では早まったという言い方でもいいのだろうけれど、やはり予定通りに目標に近づいたという表現が適している気がする。

「いいえ、その日が確実に早まっております」

国語力の高い母が俺の反駁について理解できなかったはずはないだろうが、それでも母は強く首を横に振り、『時が早まった』の真意について語ってくれた。

「本来であれば、殿の上洛は来年の秋口となる筈でした。それが今年のうちに兵を西に向けることが出来るのです。時を一年早めたという事ですよ」

今年の雪解けを待って早々に攻撃を仕掛けた父上は確かに今回の戦で美濃を手に入れるつもりだったのだろう。しかし抵抗らしい抵抗もなく美濃の国人衆が降伏し、稲葉山城がひと月もたずに落ちるとは思っていなかったはずだ。

「思っていた以上に美濃勢が早く降伏しましたな。木下家や可隆殿の森家、或いは母上のご実家が予想以上に頑張ったのでしょう」

「それもありますが、それだけではありませぬ。美濃の統治が素早く終わったことで、一年間時を置くことなく次の戦に進むことが出来るようになったのです」

「それは、親父殿のお力ですな」

親父殿の力がなければ奪い取ったばかりの土地を手早く織田家の土地とすることは叶わなかっただろう。首級を得たり城を奪ったりという分かり易い仕事ではないから目立たないが、誰もが父の力を認めている。

「それも貞勝様だけのお力ではありませぬよ」

「左様ですね。ここにいる嘉兵衛もそうですが、多くの者が手伝いを」

「そなたも、一つの力であったと言っております」

俺の言葉を遮って、母が幾分強い口調で述べた。俺のですか? と些(いささ)か間抜けな声が出た。

「石高制については吉兵衛様と嘉兵衛殿、そしてそなたが頭を突き合わせ知恵を絞って考えを巡らしていたではありませぬか」

「そうですが、殆ど親父殿の考えでした」

「本来であれば貫高制の方が良いと言い、銭の価値を見出し、永楽銭の私鋳を始めたのもそなたです」

「それはまあ、確かに」

最近ではそれなりの永楽銭もどきが出来上がるようになってきた。今暫く待てば親父殿が美濃の陶工を寄越してくれる。より良い物が出来るようになるだろう。

「そなたが殿の力となり、殿の天下への道のりを早めたのです。それをもっと自覚なさい」

「それを言うのなら母上もそうでしょう。母上のお陰で尾張の街道は以前とは比べ物にならないほど整いました」

俺がそう言うと、母は軽く首肯し、言った。

「勿論私とて殿のお力になっているという自覚はあります」

家臣の反対もあり、どう転ぶか不確定であった街道整備だが、思いの他順調に進んだ。父が反対しなかったのだ。父は軍事的な危険性に目を瞑っても街道を整備する意味があると考えたらしい。反対派の連中は押さえておいてやる。その代わりお前の金で行え。と返事がきた。幾ら狐と呼ばれる母でも女の身でそれ程の事業を行えるだけの金など得られる筈もなし。父は体よく母の言葉を却下したのだと多くの人間がタカをくくった。だが、それしきで自分の望みを諦めるような女が狐の化身だなどと呼ばれるはずがなかった。

まず母は取り急ぎ尾張の港から熱田神社、古渡、那古野、小牧山或いは清洲の城を経て美濃の国へ続く街道の、次いで知多半島、伊勢路、東海道と、街道を広く広範に伸ばしてゆく計画を立てた。計画は見事だった。その時点で、俺には最早金銭以外の関門は無いようにすら思えていた。

猛然と、克つ淡々と母は動いた。竹簡を生産し売り、その竹簡に五十音表を書き込んで売り、この一年で多少なりとも成果が出ていたハチミツを売り、少しずつ出来上がって来た永楽銭を俺から奪い取り、親父殿に街道がどれだけ有益であるのかを語って金をせびり、資金を稼いだ。熱田を始めとする寺社周辺の街道は『ここに道が出来ればもっと多くの人々が参拝に来られるようになる』と説得し地元の富裕層に金を出させ、同じく地元の信者に道を作らせた。津島港を始めとする港周辺の街道は商人に掛け合い『古渡城主織田帯刀信正はより多くの金を出してくれた商人と今後の商いを行う』と半ば脅し染みた文句で資金を出させた。勿論足りない分は先程の資金を惜しみなく使ったし、知多半島の方の街道は犬姉さん経由で佐治信方殿の力を借りた。市姉さん経由で権六殿を始めとした譜代の重臣方からも資金を調達し、斉天大聖からは金も人も物も都合してもらった。『以前、息子の知恵を貸したことがありましたね』と書かれた手紙を読んだ時には背筋がヒヤリとした。

現在進行形で道の整備は行われ、さらに拡張されている。これらの道を通り多くの武器弾薬や糧食が尾張から美濃へ運ばれた。後方に憂いなく戦うことが出来たということは尾張兵の士気を大いに上げたことであろう。つまり、母も又父の力となったのだ。

「私はそなた一人が殿の天下を早めたと言っているわけではないのです。そなたもその中の一人であると言っております。その自覚を持ちなさいと言っております。分かりますね?」

きつい言い方ではなかったが、有無を言わせない不思議な迫力がある口調だった。森可隆君が母の弁舌を聞いてははあ、と感嘆の吐息を漏らしている。うちの母親、本当はこんなに賢いのだから普段からずっとこんな感じであれば良いのに。

「しかし、此度の上洛は一条院覚慶《いちじょういんかくけい》様を奉じての義挙にございます。恐れながら、信長様は御自らが幕府を開くのではなく織田家を足利家の重臣とすることを望んでいるのではありますまいか?」

母を知恵者であると認めたらしい可隆君が質問をした。母の事を女にしては頭の回る奴だと評価する人間は数多いけれど、自ら教えを乞うことが出来る人間は少ない。俺としては、重臣の後継が母を認めてくれた気がして心密かに喜んだ。

「戦国の世とは言えども、戦には大義名分というものが必要なのですよ可隆殿」

母が言う。可隆君は大義名分という言葉に一度頷き、それから考えるそぶりを見せた。

「正義と言い換えて良いかもしれません。殿が桶狭間にて今川義元様を迎え撃ちました。その際の殿の大義名分は何だったと思います?」

「それは勿論、信長様は尾張の主でございます。国を守ることは当然です」

可隆君の答えに、母がニコリと笑う。俺はと言えば、ならば今川義元が尾張を攻める大義名分は何だったのだろうかと考えていた。

「そうです。では、逆に殿が美濃を征した際の斎藤竜興様の大義名分は何だったでしょうか?」

「それは……矢張り、自国を守るという事では?」

「ならば殿には大義名分がなく、簒奪者(さんだつしゃ)となるのでしょうか?」

むむう、と可隆君が唸った。暫く考えてから俺の方を見る。俺は軽く首を横に振った。答えは知っている。しかし、俺が考え付いたのではなく、親父殿や母から聞いた話だ。訳知り顔でこれこれこういう理由ですなどとは言えない。

「帰蝶様がおられます」

暫く考えさせた後、母がポツリと呟いた。それは助言を授けたようでもあり、答えを教えたようでもあった。それが証拠に可隆君がああ、と声を漏らし納得したように頷いた。

「斎藤道三様の娘であらせられる帰蝶様がおられれば、信長様の行動は侵略ではなく奪われた地の奪還となります」

「よく出来ましたね」

そう言って、可隆君の肩に軽く触れる母。まるで子供に行なうような仕草だったが可隆君は抵抗しなかった。母は若く逞しい肩に触れることが出来てご満悦だ。

「残念なことに帰蝶様と殿の間には御子が生まれませんでした。しかし帰蝶様は美濃国主道三様のご息女であらせられますが故に御身がそのまま大義名分となります。故に殿は奇妙丸様を帰蝶様の養子となさいました。殿にとっても、奇妙丸様にとっても、奇妙丸様の子や孫にとっても、尾張と美濃は正当なる本領となり、この地で戦をする以上正しい大義は常に織田家にあることになります」

子供がいなかろうが、仮に父との仲が悪かろうが、帰蝶様が父の正室であることがゆるぎない理由がこれだ。吉乃様にとっても帰蝶様は自分の産んだ子供に大義名分を与えてくれる強力な護符。帰蝶様としても吉乃様が奇妙丸を養子に差し出したからこそ自分の立場の安定がある。本来、子がない正室と、嫡男を産んだ側室筆頭が仲良くなど出来るはずもないが、織田家に限っては互いが互いの立場を守るための協力者だ。裏を返せば、俺がどう足掻いても織田家の家督を継げない根拠ともなる。

「尾張、美濃を収める大義名分は整いました。では可隆殿、殿が京へと上洛する大義名分は何がございますか?」

「一条院、覚慶様」

まあ、この話の流れからするとそうなるよなという答えを可隆君が述べた。一条院覚慶様については知っている。前征夷大将軍の弟で三代前の息子でもあるやんごとなきお方だ。

「前の公方様、足利義輝様は家臣三好家の者らによってはかなきことと相成りました。一条院覚慶様はその弟君。殿は覚慶様を御輿に京へと上ります。途中の近江や畿内にいる諸勢力も本来足利家の家臣。主を担いで都へ帰らんとする忠臣という立場はこれ以上ない大義名分となりまする」

一条院覚慶様は兄義輝様が討たれた後、各地を転々としながら自分を庇護し京へと帰還させてくれる人物を探していたとのことだ。そこにきて、京都に程近い美濃尾張を統一した織田家という勢力が出来た。北陸、越前の国におわした覚慶様をお迎えに行ったのは我が義父村井貞勝、美濃陥落後に父に仕えるようになった不破光治殿らだ。

「成程、では南近江の六角氏など蹴散らして構わないという事ですな」

「六角は足利幕府の名門と聞いたことがあります。蹴散らして良いのでしょうか」

可隆君の言葉に、俺の言葉が続いた。尾張から直接西に行くと伊勢。ここは熱田よりも更に格の高い伊勢神社がある。それでなくとも伊勢には公界の地と呼ばれる不入の土地がある。要は神様の土地であるから俗人は入るなという土地だ。実質的な領主は坊主達で、彼らはそんじょそこらの国人領主より金も兵も持っている。侵入してきた敵に対しては不入の地を犯す仏敵だと言うことも出来、そうなると全国の寺社を敵に回しかねない。例えば尾張なら熱田が突然牙を剝くようなものだ。伊勢の国人衆や在地勢力とは彦右衛門殿らが父の命で戦っているが、今回の上洛戦については伊勢を突っ切るようなことはしない。代わりにその北美濃から西上して京都を目指す。最大の関門は六角氏だ。

「二人とも言っていることは間違っておりませぬ。殿は六角義賢様、義治様と書簡のやり取りを行い、共に上洛をしようと求めておりました」

「首尾は?」

俺が訊くと、母がゆっくりと首を横に振った。

「殿は御自ら精鋭の馬廻衆250騎を率いて近江佐和山城まで出向かれましたが、七日待ってもお会いすることが出来なかったと、殿に同行した兄上から聞きました。こうまでなっては会戦も止む無しとせざるを得ません」

その言葉を聞いて、俺は眉をしかめ可隆君は嬉しそうに笑った。

「可隆殿、戦になるという事は必ずしも手柄があげられるといういう事ではありませんよ」

「しかし帯刀様、ただ通るだけではその地は得られませぬ。通さぬと立ち塞がる敵を蹴散らせばその地は織田家の物でございます。大義名分はこちらにございます」

「清洲同盟から稲葉山城陥落までに都合六年かかっているのです。京のある山城に到着するまでには南近江、或いは北伊勢から伊賀も通るやもしれません。これらを平定するのにまた何年の時がかかりましょうや」

勝てないとは思わない。六角家は近年没落著しく、その一因ともなった北近江の浅井家とは強固な同盟を結んでいる。大急ぎで嫁入り支度を整えた市姉さんの姿と、その市姉さんが道中や近江で暇をしないようにと寝ずに本を書かされたことは記憶に新しい。ただ、斎藤家とて相次ぐ代替わりや家臣による城の乗っ取りなど、没落は著しかったのだ。それでもあれだけの時がかかったことは忘れてはならない。

「織田の麒麟児が何を弱気な。明日より戦を始めて又六年かかるとお思いですか?」

「いや、六年はかからないと思いますが」

では何年程? と問われて、俺は少々考え、それから私見を述べた。

「今年を入れて、二年」

おお、と、可隆君のみならず松下親子も含めた一同がどよめいた。

「弱気なことを仰ると思えば、帯刀様、急に大きく出ましたな」

「戦を知らぬ子供の考えです」

とはいうものの、冷静に考えてみるとそれくらいあれば十分な気がした。理由は二つ。一つ目は単純な国力の上昇。石高制で計算すると、美濃尾張両国の生産量は最低でも合計で100万石は超える。一万石で動かせる兵を200から300とすれば二万から三万以上。しかも尾張は伊勢湾での漁業や交易が盛んだ。美濃も又、美濃焼と呼ばれる焼き物で栄えている。これらは石高として計上していない。恐らく父は、その気になれば五万の兵を動員することも出来る。

もう一つは、尾張に銭が集まったこと。俺の作らせた私鋳銭が質も量もそれなりになったことも一因である。又、母の街道整備のお陰で物流が安定したことも一因である。濃尾二国と東の三河での戦がなくなり人々の往来が増えたことも、大きな一因である。その他もろもろの理由をもって、今の織田家は周辺諸国を圧倒する金持ちとなった。その金をもってすれば傭兵だけで万単位の軍を動かすことが出来る。過酷な冬や刈り入れの前など、農民兵を動かせない時期に父は一方的に兵隊を動かすことが出来る。相手の弱いところを突くのが得意な父だ。存分に活用することだろう。

米と金、この二つのお陰で織田家は強くなった。市姉さんのお陰で浅井家は味方をしてくれるだろうし、覚慶様の身近におられる幕臣の方々は京都周辺の有力者とも繋がりがあるため、父に協力してくれる人物も今後増えてゆくだろう。

「母上も、戦がそう甘いものではないとお思いでしょう?」

とは言え、俺は自分で言っておきながら二年足らずで六角氏を倒せるという考えに自信が持てずにいた。理屈ではそうなると思うのだが、足利幕府の名門がそうそう簡単に降せるのだろうかと、どうしても疑心暗鬼になる。

「確かに、私の考えはそなたとは少々異なりますね」

「そうでしょうとも」

帯刀仮名で俺の名が広まり、実家の塙家が『帯刀様を当主に!』と言い出した時ですら、そんなことは不可能であると冷静に言い切り実家の兄や父を叱責し黙らせた人物だ。俺の甘い見通しを覆してくれるだろう。

「もし、ひと月以内に織田、六角の間で戦が起こるとするならば、私は――」

そうして母が自身の考えを述べた直後外が騒がしくなった。やって来たのは父からの手紙を携えた武者で、手紙の内容は六角氏との交渉は決裂。これより戦になるという報せと、急ぎ兵を集め岐阜城に参集せよという命令であった。

「母上、幾らなんでもそれは」

取り急ぎ出発の支度をするために母の元を辞する際、俺は言った。

「賭けますか?」

「賭け?」

「私とそなた、どちらの予想がより正しいか、間違った方が正しかった方の言うことを何でも一つ聞く、というのはどうです?」

「良いのですか?」

俺は自分の予想に自信があった。そしてそれ以上に母の予想が荒唐無稽だと思った。母に一つ言うことを聞かせる。内政の事務処理でもやってもらおうかと考え、少し笑みが浮かんだ。

「私から持ち掛けている話ですよ」

「乗りましょう」

そうして、俺は僅かな供を連れて美濃へと向かった。