Nobunaga's Bastard

Episode 56: Question Friends

「父上でも天候に負けることがあるのかな、兄上」

勘九郎に言われ、俺は首を横に振った。天候に負けることなどいくらでもあるが、今回はその限りではないだろう。

元亀元年十月よりの伊勢長島攻めは、降雪によって延期となった。若干早いこの年の初雪はそのまま大雪となり、軍の移動を困難とした。父はこの雪をどう見たのか、ともあれ戦いは一旦中断した。浅井家とは再び和議・同盟を結んだ。朝倉家とは相変わらず睨み合いだ。

「雪解けまでに出来ることがあると、殿は判断したのではないでしょうか?」

長島攻めの為に行なうことの一つ、小木江城の増築。ここが長島に対しての付け城となる。そしてもう一つは伊勢の統治。どちらも数日で出来ることではない。だが、雪解けまでかけられるとあれば時間は十分だ。

「本願寺はこの雪を御仏の御計らいによるものであり、自分達は矢張り守られているのだなどと嘯いていたが」

勘九郎がわざと、俺が嫌いそうな物言いをした。狙い通り、俺は大きく舌打ちをし、下らないことを、と吐き捨てる。

「ならば豪雪地帯である加賀や越前一向宗の困窮はどういうことであるのか説明して頂きたいものですな。雪のせいで今年も数百数千という単位の民衆が死んでゆくというに。これも御仏の計らいか。と怒鳴りつけてやりたいものです」

「相変わらず、兄上は坊主と信徒に厳しい」

楽しげな勘九郎。金ケ崎から延暦寺焼き討ちまでの一連の戦いを受けて、どうやら俺は織田家の中でも筆頭の仏教嫌い、強硬派と見なされてしまったらしい。俺は別に仏教というもの自体は否定していない。最澄や空海という人物は立派であると思うし、教えそのものを見ると成程確かにと思わされることは多い。だからこそ、その有難い教えを掲げて馬鹿げた行為を繰り返す今の坊主共や、それに騙されて喜んで死んでゆく信徒が愚かしく思えるのだ。

「兄上は、次こそ勝てるとお思いか?」

俺達二人は今、古渡城の外庭に設えられた長椅子に座り会話している。火鉢で暖を取り、しとしとと降る雪は大きな赤い一枚傘が防いでくれる。温かい茶と、時折持ってこられる餅などを食いながらののんびりとした時間だ。母上と古左が、久しぶりに兄弟水入らずで話すのならばと用意してくれたのだが、傘や長椅子の布が赤で統一されていることと、曇りなき純白の雪とがよい塩梅で、成程これが風流かと納得させられる。街道の茶屋もこのような設えにするらしい。

「勝てるかどうかについては、実は分かりませぬ。ですが、次の戦いは長島や伊勢のみならず、伊賀や紀伊、或いは南大和攻めの端緒になるのではと思っております」

長島に協力する会合衆は完全に潰す必要があると父は判断した。雪が積もるより先に自ら出向き、商人達の首を刎ね、財産を没収。迅速に取り行われたこの苛烈なる処置の後、伊勢湾の海運は九鬼嘉隆殿が牛耳ることとなった。官位を得るのは長島攻めが完了した後であるという約がある為まだ無位無官ではあるが、嘉隆殿の織田家家中での立場は格段に上がっている。当然のことながら信方は不満そうであった。

「北畠か?」

「左様です」

暫く考え、茶を一口飲み、更にもう暫く考えた後勘九郎が言った。勘九郎は成長した。以前よりも自分で考えるようになった。外れることもあるし、読みが浅いこともある。だが、頓珍漢なことは言わない。時には俺よりも余程鋭いことも言い、分からない時には素直に聞いて来る。父の良いところが似たようだ。織田家の次期当主という自覚がそうさせるのだろう。

「北畠具教、具房親子が何やら不穏な動きをしているという事については以前より注意してきたのですが、段々とその黒幕の姿が見えて参りまして」

「熊野三山だな」

頷く。更に、伊賀にて抵抗を続ける六角親子、これらが糾合すれば伊勢を西と南から攻撃出来る。更に北畠親子もこれに同調すればたちまち伊勢内乱となりかねない。故に先手を取って長島を囲み、会合衆を潰した。

「北畠親子を処断してしまえばよいのでは? そうすれば茶筅丸が労せず北畠家当主だ」

「某も、勘九郎様と同じ考えでしたが、どうやら殿はそうお考えではなかったようで」

寧ろ暴発させてしまえば一気に全て叩き潰せる。熊野三山の力を伊勢から完全に叩き出し、茶筅に従わぬ北畠家の者を討滅し、そして伊賀を攻める。伊賀は国人衆が手強く、又伊賀の隠れ里と呼ばれる程森や山が深い地でもある。だが今なら伊賀国人衆の中で協力者が募れる。何故ならばついこの程、畿内とその近郊にて最強の伝手を持つ人物が織田家の外交官としてやって来たからだ。

「あとは、北畠、熊野、伊賀、三者の間を取り持っていると思われる人物を探し……勘九郎様、どうしました?」

解説をしていると、勘九郎が白けた顔をしているのが見えた。何だか誰かに似た表情だ。

「話は分かるが兄上、このような時まで勘九郎『様』やら『殿』やらと呼ぶ必要はなかろう」

そう言われて、思わず笑いが弾けた。父親にそっくりな拗ね方をしている。水臭いことをされるのが嫌いな所が同じだ。

「何を笑うておるのか」

まなじりに涙が浮かぶほど笑ってしまい、勘九郎から怒られた。

「いや、すまない勘九郎。別に父や勘九郎と距離を取っている訳ではないのです。一応、家臣となった身でありますので」

「今は誰もおらぬではないか」

二人で話をしているとはいえ、当然護衛はいる。見える位置だけで十名以上。見えない位置にはその数倍。その中には客人として留まっている疋田殿もいるので備えは万全だ。

暫く、へそを曲げた勘九郎のご機嫌取りに時間を要した。餅を手に持ち、父の真似をして『食え』と言うとそれが面白かったようで笑って『似てる』と言ってくれた。

「しかし、春には勘九郎も元服ですか、そうなれば今以上に、気軽に勘九郎などと呼べなくなります」

「そうなったら又こうやって時間を取れば良い。俺は信重を名乗るのだ、兄上が俺相手に多少馴れ馴れしかったところで誰も文句など言わない」

春に勘九郎が元服することが決まった。大切な世継ぎをなるべく大切に育てていきたいと考えている父は来年には十六になる勘九郎に対してまだ元服をさせていなかった。これは元服をすれば即ち初陣が待っているからだ。だが、一つ年上の兄である俺が最も激しい戦場となった坂本に出陣し、その時の様子を手紙で伝えてしまったので本人が自分も元服をと言い出した。俺としても否やはない。親や兄、伯父を始めとした親族衆がこれだけ戦いに明け暮れているのだ、己も早く戦力となりたいと考えるのは自然なことだろう。であるので、俺はまだ正式には『奇妙丸』である弟を元服後に名乗る通称『勘九郎』と呼び、形の上だけでも一人前の扱いをしている。名前というものは重要なものだ、だからこそ、通称ではなく諱の方でひとつ気になることもあった。

「本当に、信重で宜しいので?」

「兄上は嫌なのか?」

嫌ではない。だが繰り返す通り名前は大層利用価値があるものだ。例えば義昭公から一字を頂戴し幕府との関係を良好に保つとか、武田上杉毛利辺りの大大名家当主から一字を頂戴するとか、やりようはいくらでもあるように思う。武田信玄の諱、晴信『晴』の字は十二代将軍足利義晴公より、臣下への恩恵の付与として偏諱(へんき)が与えられた例であるので直接は使えないだろう。臣下への恩恵の一環であるという性質上、下手に字を頂戴すれば『織田はあの大名の軍門に降ったのだ』などと言われてしまうかもしれない。だが、よくよく考え、然るべき対応を怠らなければ、勘九郎に対して良い効果を与えてくれる筈だ。徳川家康殿のように名前を利用し尽くせとまでは言わないけれど、庶兄の一字を貰ったところで何も得はしない。

「可愛い弟に懐かれるのは嬉しいことです」

言うと、勘九郎がニヤリと笑った。ご満悦の表情だ。表情も似て来たなと思い正面を見ると、全く可愛くない男の表情が見て取れた。手には器と柿が見える。母が用意して持ってこさせたのだろう。

「失礼いたします。大方様が、こちらをと」

「置いてゆけ」

この男、随風は俺が古渡城に戻ってから十日ほど後になってやって来た。渡した一貫文の半分程を律儀に身体に巻き、女達の面倒を見終わった故、金を返し命も返しに来た。だそうだ。曰く、あの時既に失っていた命であるのでいかようにでもしてくれとの事だ。硬骨漢にも程がある。

『お前が見どころのある人間だったから助けたのだ』とは言えず、なら春まで適当に仕事でもしてそれからは勝手にしろと言った。それ以降、本当に何くれとなく仕事をしている。母などはこれまでにないタイプのイケメンが来た。と、又よく分からない喜び方をし、一度面談をした後、とんでもない大物を連れて来たものねと俺を褒めた。

この男、嘉兵衛が驚く程に仕事が出来る。字の読み書きは勿論計算も出来、頼めば即座に終わらせる。頼むことがない時にはいつの間にか掃除などをしていて、足場の悪い道などがあれば自分で石などを持って来て舗装し、馬糞の処理など誰もが嫌がることを率先して行い、素食を食べ眠り、翌日早朝には再び何らかの仕事をしている。だがこの男にとって今最も重要な仕事は上記のいずれでもない。最も重要な仕事、それは『口で俺を言い負かす』という仕事だ。

最初は俺がたわむれに言った一言が発端だった。『比叡山を焼かれたというのに他の仏教徒は誰も同情してくれないな。やはり延暦寺の教えは間違いであったか』石山本願寺の蠢動が激しく、苛ついていたが故出た一言だったが、今思えば不用意かつ愚かな一言であった。

『焼かれて同情されぬからと言って教えが間違いと何故言い切れます? 織田家とて、今滅びて誰が同情いたしましょうや? 織田家の庶長子たる貴方様はご実家を悪く言われるので?』

全く考える時間なく即座に言い返された言葉に俺は驚き、狼狽えてしまった。武家と宗教は違うであろうと言ったが、では宗教の話を致しましょうと、そのまま宗教問答に持ち込まれてしまい、俺はコテンパンにやられた。

『仏の名のもとに戦火を広げんとする坊主達がけしからん』と俺が言えば随風は『だから仏教を否定するというのは間違っている。否定するべきは戦火を広げんとする坊主達である』と言い、

『これほど多くの悪僧が現れるということは大乗仏教の教えそのものに問題があるのではないか』と俺が言えば『良き教えであるからこそ説得力があり、説得力があるからこそ人が集まる。人が集まるからこそそれを悪用する者が現れる。考え方が根本から誤りである』と言い、

『延暦寺とて、園城寺など寺門派をはじめ多くの他宗の寺を焼いているのだから文句を言う権利はない』と言えば『延暦寺に八百年の歴史あり。焼いたことがあるから焼かれても文句を言えぬというのであれば、今日より修行の為山に登った小坊主ですら、焼き殺されて文句が言えぬという事になる。そのような御無体を仰せであるのなら世に罪人にあらざる者は一人もおらず、誰が何をしたところで文句を言える者とてなくなる』と返された。

その後も俺は生兵法で色々と議論を吹っ掛けてみては悉く言い負かされた。これにまず目を付けたのは我が妻恭であった。放っておくと深夜まで書物と格闘をしている俺を見かね、随風を派遣、『何故夜になってもお眠りになりませぬのか?』と突然言われた。

領民の暮らしの為に必要なのだと一応言い返しはしたものの『城主様は拙僧に匹夫の勇と仰せに』の辺りでとっとと降伏し、寝た。その理屈は俺ももう使った。今孔明を黙らせることの出来る優れものだ。その日から俺は早く寝るようになった。恭が喜んでいるし、恭を悦ばせる時間も増えたので悪いことではないが随風にしてやられたことが悔しい。

これがきっかけになったのか、以降俺に言うことを聞かせたいと思った際には随風に陳情するという慣例が出来上がった。城主が赤ん坊を背負って政務を行うのは体面が悪い。余り気軽に城下に出歩かれては困る。最近弟二人、妹二人の面倒を見るのにかまけて、たった一人の母親を疎かにしているのではないか。等だ。一応随風の中にも基準があるらしく弾かれる陳情もあるそうだが、論争になった陳情については全て俺が飲まされる形で終結している。

「随風、御坊は今の石山本願寺をどう思っているのだ?」

そんな風であるから、俺はとっとと随風に去って欲しかったのだが、勘九郎が目元で笑いながらそんな、議論に火を点けんという意図が見え見えな質問をした。

「世俗にある方々を救わんとする寛容な宗派と存じておりまする。『今の』と申すのでありましたら、自家撞着に陥り些か理が薄いとも思いますが」

だが意外にも、随風は石山本願寺に対して否定的でない意見を語った。

「お主は天台宗の僧であろうが。天台宗であれば肉食妻帯を大っぴらに行う浄土真宗など邪教ではないのか?」

「いかにも拙僧は粉河寺にて天台宗を学び比叡山延暦寺や園城寺、大和国の興福寺などで学を深め申した。しかしながら現在の大乗仏教や天台の教えが万物全てに勝り優れておるとは思うておりませぬ。そもそも比叡山に延暦寺を開いた伝教大師最澄をして、大乗仏教について知らぬまま大乗仏教を伝えんとした人物でありますので」

「そうなのか?」

「はい、そこで弘法大師空海に師事し、大乗仏教を学び、やがて袂を分かちて伝教大師は比叡山へ、弘法大師は高野山へ登ったのでございます」

自分でもよく分かっていないことを人に教えるとは、伝教大師は意外と肝が太いな。案外父のようなとりあえずやってしまえ、というような人物であったのだろうか。

「御坊は何を持って寛容と思うのか」

勘九郎が柿を齧りながら訊いた。甘い。と言いながら俺にも一つ。俺も齧る。確かに甘い。旨い。

「仏教の目標とは悟りを開くこと。その目的達成の手法の差が、即ち仏教各派の差にございます。浄土真宗は、その手法が最も簡素。ただ阿弥陀如来の働きにまかせて、全ての人は往生することが出来るとしておるのです。故に『門徒もの知らず』などと馬鹿にされることもございますが、それで多くの門徒が救われていることも事実にございます」

「肉食妻帯についてはどう考える?」

「あれは堕落と捉えられがちですが、門徒の多くは妻帯し、肉も食らいます。むしろ門徒に手を差し伸べる為の方策でございましょう」

ふむふむと、勘九郎は興味深そうに話を聞いている。

「自家撞着とは何か?」

最後の質問は俺がした。俺の方を見た随風に柿を投げる。片手で受け取った随風は俺に頭を下げ、控えめに一口齧る。

「王法為本という考えがありまする。蓮如上人が説いた考え方であり、現世の法律や秩序を根本とする、という考えにござる。その考えに従えば時の政権たる将軍家や織田家に従うのが筋」

柿を齧る。口の中で種を転がし、プッと吹き出した。柿の種が木になるまで何年かかるだろうか。

「という事は、織田家に従わぬ一向一揆は罪人、我らに殺されても文句は言えぬという事であるな」

「さにあらず、さにあらず」

良き大義名分を教わったわ。と言うと随風が何か言いだしたので、再び問答になった。そしてこの日の問答においても俺は随風に勝てず悔しい思いをする。

「兄上は、いい友達を持ったではないか」

「あんなものが友達であるはずがないであろうが!」

悔しがっているところを勘九郎にからかわれ、思わず言い返してしまった。しまったと思うより先に、勘九郎が笑いながら俺に頭を下げた。申し訳ございませぬ兄上。と言われた。何だか勘九郎にまで負けた気がする。

こうして春までに織田家は準備を整え、元亀二年初春、織田家嫡男勘九郎は成人し、織田勘九郎信重を名乗ることとなる。

織田家の目論見は当たり、元亀二年の戦いは伊勢長島から伊勢南部、そして伊賀において行われることとなる。それに伴い、彼ら反織田連合を結び付けた一人の男の名前が浮上した。

その者の名は、林秀貞。かつて織田家において筆頭家老の座にあった男である。