ルクロフ──現在。

燭台の上にくゆるロウソクの光が、深紅のテーブルクロスをほのかに照らし出している。

使用人達が次々と運んでくる料理を暗い気分で眺めながら、ルクロフは微動だにせず椅子に座っていた。テーブルの対岸にはローンが座っており、時々ぶどう酒を口に運びながら、ルクロフのことを探るように見つめている。

メインとなる最後の皿がテーブルの中央に置かれたあと、ルクロフは人払いを命じた。

普段なら少なくともナダルが一人給仕に残るのだが、今夜はそれも断り、呼ぶまで誰も近づかないようにと念を押した。ナダルは多少困惑した顔を見せたが、大人しく主人の命に従い部屋を後にした。

ルクロフとローンが二人きりになると、客間はしばらくひっそりとした沈黙に包まれた。

部屋の四方には燭台が置かれ、この小さな迎賓の間を照らしてはいるが、陰鬱たる雰囲気は消しきれていない。否、陰鬱なのはルクロフだけで、ローンはあくまで彼らしい暢気さを崩してはいなかったが。

「それでは……もう少し詳しく説明してもらおうか」

ぶどう酒の入った杯をテーブルの上に戻したローンは、椅子の背もたれに寄りかかってくつろぐ格好になった。

「長年の念願が叶って、世界で一番幸せそうにしていても良さそうなところを、今のお前はその真逆にしか見えない。チヅルも不安そうにしている。解(げ)せないことばかりだ」

ルクロフはテーブルの上に揺れるロウソクの炎を黙って見つめていた。

答えを考えているというより、どこか上の空でいるような空虚さが漆黒の瞳に浮かんでいる。

手の込んだ肉入りのパイから暖かそうな湯気が立っているので、ローンは遠慮なくそれを口に運び始め、ルクロフが口を開くのを辛抱強く待った。

しばらくすると、ルクロフはまだロウソクの炎を眺めたまま、静かに語りはじめた。

「俺は四年半前にすべてを諦めた……。夢も、未来も、愛も、心も、すべてだ。そしてなによりも、俺はチヅルを諦めた。もう二度と、頭の端にさえも入れないようにしてきた」

「ああ、そのお陰で、それ以来のお前は死んだ魚より生気のない顔をしていたんだっけな」

「なんとでも言え」

ルクロフはわずかに頭を振った。「今さら、すべてを水に流して幸せになれと言われても、もうどうしていいのか分からない。俺は微笑み方さえ忘れた」

ローンの顔に皮肉っぽい笑みが浮かんだ。

「チヅルと出会う前のお前だって、微笑み方なんてすっかり忘れ去っていただろうが。それを思い出させてくれたのがチヅルだった……だからこそお前は、あそこまで彼女に夢中になったんだ。今回だってそれと同じだろう」

「いいや、違う。俺はもう歳を取りすぎた。そして、彼女を失うということの意味を知った。二度目は、ない」

肉入りパイを噛み締めながら、ローンは同時に、ルクロフの言葉をも咀嚼しようとしているようだった。

「それはつまり……もう二度とチヅルを失いたくない、だから、そもそも手に入れないでおこうということか?」ローンは両手の拳をテーブルに打ち付け、叫んだ。「お前は馬鹿か! それこそもう、『今さら』だろうが!」

ルクロフは視線だけで相手を殺せそうな鋭い目をローンに向けた。

しかし赤髪の騎士はかえって語気を強める。

「じゃあ聞くが、俺がこのままチヅルを連れ去ってもいいんだな? 連れて来たうちの騎士にちょうど適齢期で独身なのがいる。奴にチヅルを預けて、結婚させよう。お前はお望み通りこの田舎の領地で一人寂しく生涯を終えることができる。めでたし、めでたし!」

激しい怒りに顔を歪ませたルクロフは、いきなり勢いよく椅子から立ち上がり、ぎらついた目でローンを睨んだ。

ローンも同じように立ち上がる。

ぶどう酒の杯が倒れ、テーブルに紫の染みが広がっていった。

「そら見ろ、それを『今さら』と言うんだ! いいか、俺だってかつてはチヅルを愛していた……お前の持っていたような激情ではなかったかもしれないが、間違いなく愛だった。その俺が言う。彼女を泣かせることは許さない。どんな理由があろうともだ!」

椅子をなぎ倒したルクロフは、狂人のような勢いで対岸のローンに掴みかかり、そのまま二人は床に激しく倒れこんだ。首を掴もうとするルクロフと、それを避けようとするローンとが揉み合いになり、二人の大柄な男達が床でせめぎ合う。テーブルを含めた家具類はひとたまりもなかった。あちこちで物が倒れ、銀の皿が落ち、床に飛び散った。

二人は殴り合い、言っている本人達でさえ意味の分からないような罵声を叫び合いながら、床へ壁へと転がっていく。

騒動を聞きつけた使用人達が数人、慌てた様子で扉を開けた。

「誰が入っていいと言った!! 今すぐ失せろ!」

ルクロフの鬼のような怒声に、使用人達は悲鳴をあげて逃げていった。

その一瞬の隙に、ローンはルクロフを後ろから羽交い締めにして床に倒した。無残に散らばっていた魚料理の残骸に二人してのめり込み、生臭い匂いにまみれていったが、それでも二人の取っ組み合いは続く。

ルクロフもローンも、どこかの時点で争いの意味を忘れ去ったように、ひたすら力の限りを尽くしてお互いに掴みかかっていた。

そして、

「くそっ! くそぅが!」

ルクロフの拳が顔面に命中し、ローンは鼻を押さえた。すぐに指の間から鼻血が溢れてくる。「折れたかもしれないぞ、また!」

ローンはどかりと壁に背を預け、肩で息をしながら上を向いた。

ルクロフは一歩後ろに下がり、あらぬ方向にひっくり返っているテーブルの足を掴んでまっすぐ立ち上がる。

二人とも息が上がっていた。

「いったいチヅルはこんな野蛮人のどこかいいんだ……?」

まだ続く鼻血を滲ませながら呟くローンだったが、その声色にはすでに洒落っ気があった。「顔か? 顔なのか?」

「あいつが愛しているのは、十四年前の俺だ。今の俺じゃない……」

激しい息遣いの間にそう漏らしたルクロフに、ローンはふんと鼻を鳴らして反抗した。さらに血が流れるが、ローンは続けた。

「だったら好都合じゃないか。お前は十四年前となにも変わっちゃいない。まったく同じ、野蛮で礼儀知らずなならず者だ。くそ、俺は客だぞ」

その証拠にこれを見てみろ、とでも言いたげに、ローンは自分の鼻を示して見せた。

ルクロフは首を横に振った。

「それだけじゃない……。俺は、ザインとエディナを殺した。いったいどんな顔をして、再びチヅルを愛せる? いったい俺のどこに、そんな資格がある?」

さすがのローンも、この台詞に身体を硬くして口を結んだ。

ルクロフの瞳は亡霊のように虚ろに宙をさまよっている。過去の悪夢に囚われて、地獄をさまよう亡霊のように。

「あれは……お前のせいじゃない。国王の無茶な命令のせいだ。お前が二人を殺したわけじゃない」

「いいや、俺のせいだ。俺がさっさとチヅルを諦めていれば、それでよかった。二人はまだ生きていた」

「やめろ。ザインもエディナも騎士だった。騎士としての戦いで命を落としたんだ。誰のせいだなんだと言って、彼らの魂を汚すな」

「違う」

急に、ルクロフの声が、まるで彼のものではないかのようにかすれた弱いものになった。「違う……」

ルクロフはそれ以上なにも言わずに目を閉じた。

──ローンでさえも、すべてを知っている訳ではない。彼らの死の真相は、ルクロフが己の墓場まで持っていくつもりでいた。だからこそ、ルクロフはもう十四年前と同じではない。

同じように千鶴を愛することは……できないのだ。