Only with Your Heart

The Longest Night - 2

ルクロフと千鶴の二人が手に手を取り合って、まるで戦場跡のような有様の部屋から出てくるのを、使用人達がそろって息を飲みながら見守っていた。好奇心と、感心と、憧れに満ちた眼差しがあちこちから降り注がれるのを感じたが、千鶴は不思議と恥ずかしくはならなかった。

ルクロフは、まるで敗北を認めた戦士のような重い足取りで、おとなしく千鶴についてくる。

そのせいで余計に驚かれているのかもしれない。

実際のところ千鶴はほとんどなにもしていないのだけれど……。素直に千鶴の先導の一歩あとを歩くルクロフは、多分、この城の住人には不思議なものにしか見えないのだろう。千鶴にだって、こんなルクロフははじめてだった。

そのまま二人で階段を上がって、部屋の前に到着したとき、千鶴は自室へルクロフを招き入れるべきか、彼の部屋へ直接入るべきかで一瞬悩んだ。

先刻、キスを受けたあとに突然拒絶されたのを思い出し、ルクロフを彼の部屋へ送ったら千鶴は自室へ戻るべきかもしれないとも思えた。

しかし、隣り合う二つの扉の前で戸惑っている千鶴の耳元に、ルクロフが、

「お前の部屋がいい……」

と、ぼそっと呟いた。

あまりにも男性的な、低く振動する声。

身体の芯がうずき、千鶴のうなじの髪がぴんと立った。

とてもではないが断れる気分にはなれず、千鶴はこくりとうなづくと自分の部屋の扉を押して中へ入った。ちらりと肩越しに振り返ると、ルクロフも静かに入ってくる。そして後手に扉を閉めた。

ロウソクが一本しか灯っていなかったので、千鶴は慌てて他の燭台に用意されていた別のロウソク数本にも火を移した。部屋が少し明るくなり、ルクロフの髪や服についた汚れがよく見えるようになる。

都合のいいことに、アルデが用意してくれていたお湯の樽とタオルが、まだ暖かい湯気をくゆらせながら机の上に鎮座している。

再びルクロフを振り返ると、彼は千鶴の一挙一動をじっと見守っていて、どうも同じことを考えているらしかった。

「まず、汚れを綺麗にしなきゃ。自分でできる?」

お湯の張った樽を指しながらそう聞いた千鶴に、ルクロフは無言で首を横に振った。

「お湯がいやなの?」

「違う……自分ではできない、という意味だ」

「…………」

千鶴は、すぐにはルクロフの真意に気がつけずに、きょとんとした顔を返した。

ルクロフの方は真剣な顔を崩さず、数回、意味深に瞳をまたたいたあと、例の低い声でそっと呟く。

「お前が、手伝ってくれなければ、無理だ。なにもしたくない」

「!」

今度はすぐに分かった。

千鶴は一瞬にしてその場面を想像し、すぐに真っ赤になって口をぱくぱくさせた。

もう数え切れないほど身体を重ねたあとだというのに、その行為はまた妙に艶めかしく思えて、不自然に心臓が高鳴ってしまう。二人の愛の行為はほとんどにおいて、ルクロフが主導権を握っている形だったから、余計に。

しかも湯浴みの手伝いなどは……特にルクロフのような武人にとって……すっかり心を許した相手にしか頼めないことでもあるはずだ。

「い……いいの……?」

震える声で聞く千鶴に、ルクロフは黙ってうなづいた。こんな反応も妙に新鮮だった。ルクロフはいつだって自分の意思をイエス・ノーではっきり言葉にする人だったし、千鶴の提案に流されるということもない。

でも、今は。

ルクロフがいつまで経っても黙って千鶴を見下ろしながら立っているので、千鶴はお湯が冷める前に行動を起こさなければならなかった。

「じゃ、じゃあ……まず服を脱がなきゃ……」

幸い、今夜のルクロフは複雑な鎖帷子(くさりかたびら)や甲冑は身につけていない。厳かな刺繍の入った長袖のチュニックに、腰は帯風の赤い布が巻かれているだけだ。

千鶴はなにか言いたげにルクロフを上目遣いで見やったが、彼はまるで「どうぞ」とでも言うようにわずかに顎をしゃくるだけだった。つまり……千鶴に、脱衣を任せる、ということだろう。

すでに赤くなっている頰をさらに火照らせながら、千鶴はゆっくりとルクロフの帯へ手を伸ばした。

腰の横で結ばれている布を、そろり、そろりと、解いていき、結び目がほころぶと今度はそれを取るために彼の腰へ両手を回さなければならなかった。二重、三重に巻かれている帯を、ゆっくりと解いていく。彼の胸の前にぴたりとくっつきながらでなければできない動作だった。

「と、取れました……」

帯が取れると、千鶴はつい、そんな、一々言わなくてもよさそうなことを口走ってしまっていた。

ルクロフはまたわずかにうなづく。

彼の方から、次の動きをしてくれる様子は皆無だった。

「じゃあ……次は、その……チュニックを脱いで……」

これはボタンのないシャツと同じで、彼の手伝いがなければ脱がせられない代物だ。頭一つ分ある身長差を考えればなおのこと、ルクロフにも少し動いてもらう必要があった。

千鶴は両手を広げて伸ばし、太もも辺りまであるチュニックの裾を両端から掴んだ。その手が、わずかに震えてしまう。

「これを上げるから、す、少しこっちにうつむいて」

驚くべきことに、ルクロフは千鶴の指示に従って首を垂れた。顔と顔が互いの息を感じるほど近づき、たくましい胸板がさらに千鶴の身体に近づく。

ルクロフの香りが千鶴の周りを包みこんだ。

このまま二人の身体が溶けて一つになっても、不思議ではない気さえした。

千鶴は息を飲み、ゆっくりとチュニックを引き上げていった。ルクロフはその動きに合わせ、さらに背を千鶴に向けて屈めてくれたので、チュニックは彼の背を滑り頭を抜け、なめらかに脱げていった。所々に傷のある、鍛え上げられた背の筋肉が露わになる。

思わず見惚れてしまいそうなほど、ルクロフの肉体は戦士として完璧だった。

例えるなら、ギリシャの彫刻のような美しさだった。この世界ではあまり彫刻は見かけないが、もしミケランジェロがルクロフを見たら、間違いなくモデルにしたがったのではないだろうかと思えるほどだ。

でも、彼の身体はただの石や青銅の塊ではない。

熱い血潮が脈を打ち、力強く躍動し、そして時には……優しく千鶴を抱いてくれる。

「髪になにかついてる……お魚なの?」

白身魚とその皮のようなものの欠片が短く刈られた黒髪に埋もれていたので、千鶴はそれを手で取り除いた。油っぽいソースもついているが、これはお湯で洗わないといけないだろう。

上半身が裸になり、下のズボンだけの姿になったルクロフは、それでもすべてを千鶴に任せきったように自分からはまったく動かなかった。

千鶴はちらりと大柄な騎士の下半身に視線を走らせる。

とりあえず、こちらはまだ脱がせなくてもよさそうだった。

(ま、『まだ』ってなに? もう……)

よこしまな考えが脳裏を横切ったことに当惑しながらも、千鶴はルクロフの手を引いて彼をお湯の桶の前まで導いた。彼は素直についてくる。千鶴は部屋の隅にあった椅子を急いで引きずってきて、ルクロフの後ろにあてがった。

「座って。髪と顔を洗わなくちゃ」

ルクロフは椅子に座った。

女性用の華奢な造りの椅子だったので、ルクロフが腰をかけると肩幅が背もたれから大きくはみ出してしまい、あまり座り心地はよくなさそうだ。千鶴は可笑しくなって微かに笑い声を漏らした。

すると、ルクロフは片眉を上げる。

「どうして笑う?」

「だって……この椅子じゃあなたは座りにくそうだから。家具選びを間違えたんじゃない? もっと大きい椅子を置いておけばよかったのに」

「なんのために?」

「あなたの大きな身体のために」

「ひとつ聞くが、お前はこの椅子に座ったか?」

「? ええ、もちろん。この部屋にはこれ一脚しかないもの」

「座り心地は?」

「よかったわ。だって、ちょうどわたしくらいの小柄な女性用の椅子でしょう?」

「そうだ」

ルクロフは単調に答えた。「だったら俺は、家具選びを間違えたわけじゃない」

その声明の意味に……気がつくのに数秒がかかった。

つまり、この椅子はそもそも千鶴に合わせて選ばれたもの……もしくは、少なくとも、千鶴と同じくらいの背格好の女性に合わせて選ばれたものだ、と。

「ルクロフ……」

「髪を、洗ってくれ」

その、小さな椅子の背もたれに背中を預けたルクロフは、そのままそっと目を閉じた。伏せられた長くて濃い漆黒のまつ毛が、彫りの深い顔立ちによく似合っていて、いつまでも見つめていたくなるほど綺麗だった。

しかし、ぼうっとしていてはお湯が冷めてしまう。ここでは日本のように、スイッチひとつを押せばいいだけの湯沸かし器があるわけではないのだ。千鶴は自分を叱咤しながら、タオルをお湯に浸して、絞った。

千鶴はまず、魚で汚れていた辺りを綺麗にしてから、またタオルをお湯に戻して絞り、他の頭全体をゆっくり拭いていった。

そしてもう一度タオルをお湯に浸すと、今度は顔を拭いていく。

頬、鼻筋、顎……そして、額の番がきたとき、眉尻にまで届く深い傷跡にたどり着いて、千鶴はぴたりと動きを止めた。

国王からの最後の指令で負ったという傷だ──。

ルクロフがすべてを諦めるに至ったという悲劇が残したものは、本当に、この額の傷だけだったのだろうか?

そうとは思えない。

千鶴は、ルクロフを知っている。知りすぎてさえ、いた。

「この傷を負ったときのことと……」

指先でそっと傷跡に触れながら、千鶴は言葉を選んで遠慮がちに尋ねた。「ローンの言っていた、ザインとエディナのことは……関係があるの?」

ルクロフはゆっくり目を開いていった。

驚いた様子はまったくなく、まるで千鶴がこの質問をするのを待っていたかのように、落ち着いてまっすぐ前を見つめている。ルクロフの瞳はしばらく、過去の記憶の映像を見ているかのように宙をさまよっていたが、やがてそっと千鶴に焦点を合わせて止まった。

「ああ」

ルクロフは答えた。彼は、悲しげに微笑んでさえいた。

「聞きたいか?」

きっと魂をえぐられるような辛い会話になると、千鶴にはよく分かっていた。もし聞かないで済めば、心は平安なままでいられるのかもしれない。

でもこれは、きっと、二人が、二人で、乗り越えなければいけない壁なのだ。

千鶴はルクロフの頰に手で触れて、自分の額を彼の額に寄せると、静かにこくりとうなづいた。