ルクロフは、自分がまだ息をしているのが信じられなかった。

とうの昔に生きることの意味を捨てた自分が、なぜこうして、呼吸を続けているのかさえ分からない。

ルクロフは自室の片隅に陳列された甲冑の前に立ち、生気のない瞳で鈍い銀の輝きを眺めていた。すべてにおいて実用を重視するルクロフは、派手な飾りのついた鎧を毛嫌いしている。

人を殺め、殺められるのを防ぐための鉄の防具に、なんの装飾が必要なのか。

しかしその時、ルクロフはおそらく生まれてはじめて、いくつかある兜の中から、実用性ではなくその外観でひとつを選び、手を伸ばした。

顔の上半分を隠し、口元だけをさらす形のものを。

──俺はあんたの天女さんを見つけたんだぜ。

ロドルゴの得意げなしゃがれ声が、ルクロフの脳裏を横切る。

何度も、何度も。

強く、強く。

──さらさらした黒い髪に、珍しい異国風の顔立ちでな。ちょっと変わった服を着てて、少しばかりおかしなことを言う、若い娘だ……。

ルクロフは手にした兜の重みを確かめ、口を引きむすんだ。ありえない。その黒髮の女が千鶴である可能性など、無に等しい。

そうだろう?

ルクロフが最後に彼女を目にしてから、実に十四年の歳月が過ぎている。

若い娘、であるはずがないのだ。

生きていれば三十二歳……。あどけない瑞々しさは失ったかもしれないが、匂い立つような円熟した美を誇る、大人の女になっている頃だろう。ルクロフはそんな彼女の隣にいるはずだった。そんな彼女に、生涯を捧げるはずだった。

すべては潰(つい)えた夢だ。

消えた愛。

だから、ルクロフが今、額から眉にかけて走る傷を隠すような兜を選んだのは、ひどく滑稽な話だった。

期待するな。期待するな。期待するな。

ルクロフは何度も繰り返し己(おのれ)に言い聞かせた。

幾度……幾度、この絶望を味わってきただろう。百? 千? 数えるのもはばかれた。この期に及んでもう一度希望を持つには、ルクロフは傷つき過ぎていた。

──嘘だと思うんなら来てみな。どっちにしてもかなりの別嬪だよ。あんたが金を払わないなら、俺はあの女を他の男に売りつけるまでさ。悪くない値がつくだろうな……。

他の、男。

たとえとうに諦めた夢でも。ロドルゴの言葉を信じた訳ではなくても。千鶴が他の男の手に渡るなどという状況を想像するだけで……ルクロフの理性は跡形もなく吹き飛んでいた。

俺のものだ。千鶴。誰にも渡さない。

渡せない。

これだけの年月が経ち、『もし生きていれば』、他の男と幸せになっていてなんら不思議ではない千鶴に、ルクロフは今でも抗いきれない独占欲を持っている。

滑稽だ。笑止千万の道化だ。

それでも。

それでもルクロフは鎖帷子(くさりかたびら)を着込み、甲冑の防具を身につけると、兜を手にした。

これは心の平安を得るための儀式だ……ルクロフはそう思い込もうとした。その黒髪の女が千鶴ではないことを確認し、また心を閉ざして、静かに生きるためだけの。

ルクロフは目を閉じた。

千鶴。

いつまで俺を惑わせれば気がすむ? どこまでお前を求めれば答えが得られる?

* * * *

約十五年前──ルクロフ

あれは、千鶴がこの世界に現れてからひと月もしない、ある夕暮れの一幕だった。

日が暮れる前に野営地を整え、晩秋の長夜のために焚き火の種になる枯れ枝を集めていたルクロフは、ふと背後に視線を感じて振り返った。

設営したテントの横にぽつねんと立って、ルクロフの様子をうかがっている……千鶴と目が合う。

千鶴と。

ルクロフは彼女をじっと見つめ返した。

すると、千鶴はまるでいたずらを見つかったようにビクリと背筋を伸ばして、さっとテントの中に身を隠した。──くそ。

持っていた枯れ枝を地面に落とし、ルクロフは千鶴が消えたテントへ向かった。それはもう条件反射といってよかった。千鶴が見えなくなると、ルクロフは彼女を追いたくなる。単純な条件反射だった。

変えがたい事実、といえるかもしれない。

「テントの中にいろと言わなかったか、チヅル?」

隠れる場所があるわけでもない狭いテントの中で、千鶴はブランケットを握りながら縮こまっていた。

ルクロフが入り口をふさいで立つと、観念したように顔を上げる。

「そ、そうだけど……なにか手伝えないかと思ったの」

「外は冷えてきている。また燃えもしない生木を集めてこられても困る。お前は大人しくテントで待っていればいいんだ」

「でも……ルクロフ」

千鶴はあらゆる意味で不思議な存在だった。

まず、驚くほど生活力がない。

馬にも乗れなければ、ぶどう酒も飲めず、火も起こせなければ洗濯の仕方も知らなかった。だから元の世界では相当に甘やかされた姫君だったのかと思えば、そうではなく、ただの庶民だったという。

そして、なぜか、周囲の人間が働いていると自分も働かないと落ち着かないという、奇妙な性質を持っていた。

『ニホンジンだから』というようなことを言っていたように思う。彼女は時々、そのひと言がすべてを説明できると思っているらしい節があった。

ルクロフはテントの出入り口を支えるために立てた木枠に寄りかかり、両腕を胸の前で組んだ。

「手伝いたいのか?」

千鶴の目は輝いた。

「うん! いいの? なにをしたらいい?」

くそ……。ルクロフは自分の中でなにかが激しく揺らぐのを感じて、歯を食いしばった。

この生き物(チヅル)は本物なのだろうか?

ルクロフは集中しなければならなかった。

自分には呪われた『悪竜』を討伐する使命があり、多くの責任が肩に乗っている。正直、この世の命運などどうなっても構わなかったが……一度請け負った任務はまっとうしなければならない。それがルクロフの性分だった。

流れるような黒髪の、つぶらな瞳を持った美少女の尻を追いかけ回している場合ではない。

……そうだろう?

「来い……あちらで焚き火に使える枝を探してくれ。俺が教えるから」

「本当? 頑張る!」

ウサギのように飛び跳ねながら、千鶴はルクロフのすぐ目の前までやってきた。その瞳を輝かせ、ルクロフがこれから宝の在処(ありか)を教えようとしているかのように、期待に満ちた視線を向けてくる。

ルクロフは前に手を伸ばした。

千鶴は一瞬きょとんとしたが、すぐ差し出された手の意味を理解し、おずおずとそれに応える。

ふたりは手を繋ぎ、ローンをはじめとする悪竜討伐の騎士団が野営の準備をしている平地から離れた。

燃えにくい生木と焚き火に適した枯れ枝の見分け方を説明すると、千鶴は熱心に耳を傾け、すぐに作業をはじめた。

「わたしが集めるから、ルクロフは少し休んでても大丈夫だよ」

千鶴は言った。

「休みが必要なように見えるのか?」

ルクロフは鋭く言い返した。

千鶴は傷ついたような顔をして、動きを止める。

「そういう意味じゃないの……。ただ、今日もいっぱい迷惑かけちゃったから……今度はわたしが助けてあげたくて」

それだけささやくと、ルクロフの反応から逃げるように目をそらして、枯れ枝拾いに熱中──するふり──をはじめた。

ああ、くそ。

夕空はすでに薄暗かった。

わざわざこんな、仲間から離れた場所を選んでふたりきりになる必要はなかったのに、ルクロフはそれを選んだ。そして、その結果に苦しんでいる。

この異邦人が傷ついた顔をするとき、ルクロフの胸はうずいた。

この乙女がルクロフの名を呼ぶとき、説明のしようのない喜びが心を満たした。

そしてなによりも……この娘を前にすると、ルクロフの男性自身が野生の叫びをあげた。

つまり、股間のあたりが、焚き火の準備どころではない事態におちいっているのだ。

それでもルクロフは、そのあたりを都合よく隠す、長めに前身頃をとった鎖帷子に感謝していた。

「お前を守るのは俺の任務だ。迷惑ではないよ」

ルクロフのつぶやきに、千鶴は顔こそあげなかったが……口元に薄い微笑みを浮かべた。ただし、幸せそうな笑みとは言えなかったが。

「そうだね。お仕事だもんね」

「そうだ」

「うん……あ、向こうの方がたくさんありそう……」

千鶴はなにげなさを装って、ギクシャクとルクロフと距離を取った。そしてルクロフに背を向けた。

千鶴の傷心がルクロフの胸を痛めるのと同じように、彼女の幸せはルクロフの心に平安をもたらした。

──お前を守るのは俺の任務だ。生涯をかけて成し遂げるべき義務であり、どういうわけか……ルクロフの喜びでもある。

しかし……畜生……この娘はどうしてルクロフの思考を乱すのだろう?

どうしてこんなふうに、千鶴の一挙一動に踊らされなければならない?

問題は答えがないことではなかった。

答えなどあろうとなかろうと、ルクロフは千鶴から目が離せなかった。多分……もう一生……治癒不可能な病のように。