Only with Your Heart

Genesis III

本来なら、必要以上に近づくべきではないのだろう。

いくら千鶴には見えないとはいえ、ルクロフの雄は己の生殖能力を主張して危険なほどいきり立っている。

しかし、どこか傷ついたように背を向ける千鶴を、遠くに放っておくわけにはいかなかった……。

ルクロフは足元に広がる枯葉を踏みしめながら、ゆっくりと千鶴に近づいた。

「チヅル」

彼女の名前を舌に転がす。

ただの音の羅列のはずが、この名を口にするだけで、ルクロフの肌や筋肉は緊張した。この名が関わっているとき、好むと好まざるとに関わらず、ルクロフは右に左に翻弄させられる。

それがわかっていたから。

その時、千鶴はしてはいけないことをした……つまり、ルクロフに背を向けたままびくりと背中を震わせ、あらぬ方向へ逃げようとしたのだ。

ルクロフは彼自身さえ気づかないうちに、千鶴の腕を捕まえていた。

「ル……クロフ、あの……」

「どこへ行くつもりだ?」喉の奥からかすれた声が漏れる。「俺から離れるな。なにかあったらどうする」

千鶴は小さな怒りを宿した目でルクロフを振り返った。

──怒り?

「は、離して。どこにも行かないから」

ルクロフがいささか乱暴に彼女の腕を捕(と)らえたせいで、拾ったばかりの枯れ枝がバラバラと地面に落ちた。が、そんなことはどうでもよかった。

「そうは見えない」

ルクロフは指摘した。

「どういう意味?」

「お前は俺から逃げようとしているように見える、という意味だ。そしてその理由は、枯れ枝を探しているからではない」

図星を突かれたように、千鶴はグッと息をつまらせた。

千鶴は手を振りほどこうと腕に力を入れたが、国一番を謳われる騎士に抵抗できるほどの強さは彼女にはなかった。

「痛いから……ルクロフ。お願い……」

震えたささやきに、ルクロフは手を緩めた。

ただし完全に開放してやることはできなかった。

その時、ルクロフは革製の手袋をしていたが、千鶴はなにもしていなかった。革布越しに触れる千鶴の手は繊細で、強く握りすぎては壊してしまいそうだった。自分の手や、枯れ枝などといったものに、彼女の柔らかい手を傷つけられるのは見たくない。

ルクロフはなかば無意識に手袋を外していた。

そして、若干ぶっきらぼうに、脱いだ手袋を千鶴に渡した。

「え」

「はめていろ」

「はめ……?」

「手袋を」

「どうして?」

「お前の手に傷がつかないように」

「あ……」

という、ぎこちないやりとりがあって、ルクロフは千鶴に手袋を押し付けるのに成功した。

千鶴はしばらく持てあますように手袋をひらひらと揺らして眺めていた。

「これ、見た目よりずっと厚いんだね。あったかそう……」

潜んでいた怒りが、表情からも、声からも抜けて、千鶴は普段のおっとりとした口調でささやいた。

「するのか、しないのか?」

「し、しますっ。ちょっと待って……」

コツがわからないのか、いくらかまごついたあと、千鶴はルクロフの手袋をはめた。

多分、その外観は滑稽なものなのだろう。千鶴が手袋をはめているというより、手袋が千鶴をはめているような不釣り合いさだった。

しかし、ルクロフは妙な満足を覚えた。

自分のものを、千鶴が身につける……。直接の触れ合いとは違う、もっと複雑で深い情欲が体の奥から溢れてくる。

よくない傾向だった。

今度はルクロフがくるりと千鶴に背を向けた。

「そのままはめていろ。俺はここで探すから、お前はその辺りを探していてくれ」

千鶴から目をそらしたまま、ルクロフはそう指示を与えた。

実際のところ、千鶴はルクロフの配下ではない。ルクロフの役目は千鶴を守ることであり、悪竜の元へ導くことであり、本来なら千鶴の方がルクロフを使っていいはずだった。

しかし千鶴にそういった高慢さは、一切と言っていいほどない。

今も。

多少理不尽で、気まぐれに変わるルクロフの命令を、素直に聞いて従っている。

こんな茶番は早く終わらせてしまわなくては。

ルクロフは黙々と枯れ枝を拾いはじめたが、しばらくすると千鶴が動いていないのが気配でわかった。代わりに、まとわりつくような強い視線を背後に感じる。

ルクロフは手を止め、ゆっくりと振り返った。

じっとルクロフを見つめている千鶴と、ピタリと目が合う。

ルクロフは警告するように目を細めた。

千鶴は一瞬ひるんだが、ルクロフがそれ以上なにも言わないでいると、少しずつ安心したように表情を緩めた。

「ねえ、ルクロフ……ひとつ個人的なことを聞いてもいい?」

──個人的なこと?

いいわけがないだろう、チヅル。畜生。俺の『個人的な』部分は今、俺の手袋をはめた女の内部に入りたくて猛り狂っている。

「……なんだ?」

うなるようなかすれた声で、ルクロフは聞き返した。

「その鎖帷子(くさりかたびら)って、痛くないの?」

ルクロフはもう少しで、矢を受けた野獣のような咆哮をあげるところだった。

「なんだって?」

「その、それ……鎖帷子っていうんでしょう? ジャラジャラした鉄の上着みたいなの。手袋あったかいから、もしかしたらそれも、実はすごくあったかかったりするのかなーっていう気がして。ずっと痛そうだと思ってたんだけど」

「…………」

「一度、試しに着てみたいな。だめ?」

俺はなにか神に呪われるようなことでもしたのか?

この甘い地獄はなんなんだ?

ルクロフは息を整えるために夕空を仰ぎ見た。彼をあざ笑うかのように、巣に帰る鳥が橙色の空を横切っていく。千鶴はまだ期待を込めた瞳でルクロフを見つめていた。

胸に溢れる、この想いはなんなのだろう。

この熱は。

この破滅と……同時に吹き荒れる、この新しい息吹は。

「いつか、な」

ルクロフは平静を装って答えた。

「今は、だめ?」

「今は……早く枯れ枝を集めてくれ。もうすぐ完全に日が暮れる」

千鶴は落胆に肩を落としたが、それも短い間だけだった。すぐに気を取り直したようで、「はーい」という無邪気な返事をよこすと、作業に戻る。

いつか。

そうだ、いつか。

お前のためなら、いつか。

すべてを。

* * * *

ルクロフは己が着込んだ鎖帷子を見下ろした。

なんの変哲もないはずのものにも、いまだに彼女の記憶が宿っていて、ふとした瞬間にルクロフを苦しめる。

鎖帷子。手袋。甲冑。剣。すべてのものに千鶴との思い出があった。だからルクロフは、必要以上のものを一切持とうとしなかった。

「ルクロフさま? アルデです。お呼びですか?」

扉を叩く音と同時に、アルデの声が響く。

ルクロフは現実に引き戻されて顔を上げた。──多分、これが現実なのだろう。今のルクロフにとって、そのあたりの境界線はすでに曖昧だったが。

「入れ」

ルクロフは乾いた口調で告げた。

アルデはすぐに入室して、軽く膝を曲げ頭を下げる。よく訓練された女中だった。

しかし、ルクロフが長年アルデを雇い続けている理由は、彼女の女中としての素質ではない。

「隣の部屋を……整えておけ。俺は数日後に戻る」

こんなルクロフの命令の真意を。

アルデは、多分にわかっているのだろう。それがどれだけ虚しい希望なのかも。

しかし女中は批判がましい口は一切利かなかった。ただ、ゆっくりとうなずき、再び頭を下げると部屋を出ていく。

扉が閉まる音がすると、ルクロフは深く息を吸った。

孤独が肺を痛みつける。

思い出が肌から溢れ出して、足元に転がっていく。ルクロフは床に這いつくばってそれらを集め、取り戻したいような気分になった。

そんなことをしてもどうにもならないと、もうとっくに知っているのに。

ルクロフは兜を持ち直すと寝室を後にした。

もう二度と会うこともない、最果ての恋人を探しに。