教卓の前に立つ女子生徒が思わず聞き返すように呟いた。

「雫ちゃん……本当なの?」

「本当です」

間髪入れずに断言した雫は、毅然とした態度を崩さない。

クラスメイトの大半が、優斗ですらその姿に目を見開いた。

金曜日の放課後。

生徒会選挙の演説活動の最終日、昨日と同様に体育祭についての話し合いは行われようとしていた。

担任が伝達事項を述べて教室から出た後、誰が言うわけでもなく話し合いの体勢に移るクラスメイト達。

数人の生徒は席を立ち、教室から出ていこうともしていた。

俺は昨日の雫との会話を思い出し、少しの間席に座ったままその光景を眺めていた。

隣で綺羅坂は変わらず文庫本に視線を落とし、優斗はプリント類をカバンの中に入れていた。

そして雫は、担任が出て行って教室の空気が変わった瞬間に勢い良く立ち上がり、手を綺麗に上げて声高々に告げた。

「体育祭の参加種目について、私は二人三脚以外の自由種目には出ません」

その宣言に、騒がしかった教室内は静寂に包まれる。

誰もが言葉を失い、そして視線だけが一点に集まる。

「雫ちゃん……急にどうしたの?」

いつぞや書記を務めていた女子生徒が、教卓付近で立って言った。

「ごめんなさい、私も希望はしっかりと伝えることにしようと思いましたので」

申し訳なさそうに女子生徒の言葉に返した雫は、静まり返った状況で全員が聞こえる程度の声量で続けざまに言い放つ。

「可能であるなら先生にアンケート用紙を作ってもらい希望参加種目を記入後回収、そして人数の過不足を全員で補う形が理想ではないでしょうか?」

「それは、そうかもだけど……」

周りの視線を気にしながら、教卓前の女子生徒は控え気味に周りへの意見を求めた。

何人かの生徒は反対的な意見を言い放つが、それもただの言い訳程度に過ぎない。

どれもこれも、雫が提示した案を覆すほどの意見は出てこない。

「昨日までは反対ではなかったのに、突然だね」

唯一、雫の後ろの席に座る優斗の発言だけは教室内の空気を一変させた。

だが、それもただの感想であって、反対意見ではない。

「少々思う所がありましたので」

普段の雫なら、同じ目線に座り微笑を浮かべながら返事をするところだが、今日は違った。

その場に立ったまま、見下ろすように返す。

その光景に、数人の生徒が押し黙るように席に着く。

「神崎さん、急に意見を言うのね……体も少し震えているし怖いのかしら?」

「……黙っているのは簡単だけど、いざ言葉にするとなると溢れ出す感情があるんだろ、だからあれは興奮気味だとみた」

「そう……昨日の今日で急に変わって……何があったのかしらね」

「皆目見当がつかないな」

怖い、怖いよこの隣の女の子。

視線は本に向けられたままなのに、なんでこんなに威圧感がある声を出せるのだろうか。

握るページが僅かにしわが寄り、切れ始めているのはなぜだろうか。

それにしても、話し合いの雰囲気が整った段階で、雫が意見を言うものだと思っていたのだが、まさか全員が帰る前に手を打つとは。

確かに周りからすれば、意見がまるで正反対のように見えるだろう。

これまでは、肯定や承諾はしないが、否定もしなかっただけに、印象の急変は持たれる。

「じゃ、じゃあ綺羅坂さんはどうかな?」

一人の男子生徒が縋るような視線を綺羅坂に向けた。

タイミングと、彼女の心境的に最悪の質問に綺羅坂は視線だけを男子生徒に向けた。

「……」

パタン

本をわざと大きな音を立てて閉じてカバンの中に入れる綺羅坂。

鋭い視線と無言の圧力に屈した男子生徒は、すぐに「な、何でもない!」と、発言を撤回した。

雫の反応を見て、振り返り教室後方に座る俺に視線を向ける優斗は、彼女の変化に思い当たる点があるみたいだ。

妙に納得した様子で、数回頷くと手を挙げる。

「じゃあ、俺から先生にアンケート用紙については頼んでおくことにするよ、もし難しい場合でも俺が作った簡単なもので良ければ作って来るってことで今日は終了にしようか」

空気が悪くなる一方であることを見越して、優斗が提案する。

賛同する生徒がほとんどで、深く溜め込んでいた息を吐くように多くの生徒が教室から出ていく。

いつもなら、放課後の時間を優斗や雫達と過ごすために群がる生徒も、今日はいなかった。

二人の普段と違う様子を感じ取って、遠慮したのだろう。

そういうところは敏感なんだよな、やっぱり。

今までとは違う意味で慌しくなった教室の端で、一人窓の外を見上げて嘆息をつく。

「……やるしかないか」

周りとは違う議論を脳内で広げ、一人呟くのだった。

五分ほどで残ったのは俺、雫、優斗、綺羅坂の四人だけになった。

「じゃあ、俺は先生の所に行ってくるとしようかな」

そう言って、席を立とうとした優斗を静止させるように声を出す。

「優斗……話がある」

「……」

昨日と同様に俺から声を掛けて、違う点があるとすれば綺羅坂が同席していること。

立ち上がりかけた腰を下ろして、優斗は振り返る。

雫と綺羅坂がクラス後方に移動して、俺は優斗の隣の席に腰掛けた。

視線が交わり、昨日の夜に考えてきた言葉がみるみる消えていく。

「……」

やめだ、白石のような緻密に計算した会話は性分と合わない。

溜息と同時に考えを吐き出すと、正直に口を開いた。

「友達って言葉は明確な決まりがないから厄介だ」

「湊?」

切り出した言葉に、優斗は疑心を浮かべた。

何を言っているのか、そう表情で告げていた。

「線引きが難しいよな……地元が一緒なら友達なのか、一度遊んだから友達なのか……お前はどう思う?」

「……個人差のある質問だな、俺にとっては同じ場所で過ごしていれば友達だと思っているよ」

そう答えた優斗は、逆に問いかけた。

交友関係が広い、コミュニティーが広い人の模範解答のようだ。

「湊にとっては友達ってのはどこからが言える言葉なんだ?」

「……」

俺にとっては、同じ場所や学び舎で過ごした程度では友達とは言えない。

言葉を交わして、行動を共にして、互いを少なからず理解できて初めて友と呼べる。

「……本音が言える奴だ」

その考えを、簡単に伝えるには語彙力が足りない。

だから、短く一言でそう告げた。

「だから、多分何を言っているんだって思うし、それに気を悪くさせると思うけど言わせてもらう……俺は少しだけお前が嫌いだった」

「……はは、こうやって面と向かって言われるとだいぶキツイな」

表情を曇らせて、俯いた優斗は小さな声量で呟いた。

しかし、憤る様子も見せず静かに耳を傾けていた。

「自分と優斗を比較して、勝手に自己嫌悪していただけの話で、お前からすれば勝手な言い分だろ?」

「そういう目で見られるのは、言いたかないけど慣れてるよ」

似たような感情を向けられることも多かったのだろう。

悲しげに告げた言葉には重みにも似たものがある。

「中学からこれまで、お前と一定の距離を空けて接していた理由も、言葉にして出してみればくだらないもんだ」

「―――俺も湊が妬ましいと思っていたよ、いや今でも思っているな」

次に話を始めた優斗に、こちらが耳を傾ける。

初めての交わす、偽りもない言葉のやり取りだった。

「こっちは人の顔色窺って周りと上手に付き合えるように気を使っているのに、湊は誰が相手でもお構いなしで嫌なことは突っぱねるし、初めて好きになった女子生徒はお前に夢中だ……劣等感なら俺だって感じてた」

そこまで言うと、優斗は言葉を止める。

……青春アニメ?

俺達はスポーツ漫画の登場人物で、諍いにぶつかり互いの考えを伝えあっている熱血少年なのだろうか?

本当に真面目で大切な状況であるのに、心の中ではやはりもう一人の自分が訴えかけてきた。

「恥ずかしいな、これは止めよう。俺達らしくない」

同様の感情を抱いたのか、優斗も気恥しそうに言った。

そして、上を見上げて深呼吸をすると晴れた表情でにこやかに言い放つ。

「お前、捻くれて相当面倒なところあるよな!そういうところは否定はしないけど少し嫌いだったわ!」

「……」

試合の鐘が、今ようやく鳴り響いた気がした。

俺も胸の中に溜まった息を吐き出して、口元が痙攣したようにニヤつきながら返す。

「その爽やかに見せてる表情も大概ウザいけどな……お前内心はそんなに爽やかじゃないだろ」

「頭が良いみたいな発言多いけど、実際お前はあんまり頭良くないよな」

俺の言葉に間髪入れずに優斗は言い返す。

それでも、言い出した本音は止まることはない。

「世界が自分中心で回っているとでも思ってんのか?主人公みたいなセリフとか行動がイラっと来るんだよ」

「マイペース過ぎて周りへのフォローが面倒なんだよ、そのキャラを通すなら周りに面倒掛けるな」

「キャラじゃねえよ、性格だ」

「なら俺のも性格なんだよ、湊は昔からそうだ、自分の考えを押し付ける傾向がある」

息継ぎをするかのように二人同時に呼吸を繰り返すと、頭がぶつかりそうな距離まで近寄って全力の睨みを相手に向ける。

背丈の関係上、完全に上から見下ろされていることに少々の苛立ちを感じつつ、次の一言を考えた。

そして、大声ではなく本気での意味を込めて低い声音で言った。

「むっつりスケベ」

「シスコン」

「……ああ?」

「……ああ?」

そこには学園の王子と言われる爽やかな男子生徒も、クラスで静かに過ごしていた男子生徒の姿もない。

ただ、互いに相手の悪い点、気になっていた点を告げて罵り合う二人の姿があった。

おそらく、雫でもこんな姿を見せたことがない。

当然、綺羅坂も同じことで二人とも普段とあまりにも違う俺達の姿に唖然としていた。

そこで一旦、冷静な判断が戻る。

互いに言葉を押し殺して、その場に佇んでいると、綺羅坂が思った言葉を口にした。

「まるで子供の喧嘩ね」

「ふふ……でも、初めて二人が感情的になっている姿を見ました」

笑って光景を見守っていた二人から視線を再び正面の相手に戻す。

依然として、彼の瞳には強い意志が込められていた。

ここまで言い合うと延々と続いてしまう。

だが、互いの言葉が尽きぬ限りもう終わることはない。

「湊は卑屈過ぎてこっちまで暗くなることも多いからな……だから前にも言っただろ、湊と友達として付き合えるのは俺くらいだって」

「……そもそも、お前の行動や発言が原因なのも多いぞ」

落ち着いてから考える。

今、二人がこれまで顔色を窺って告げてこなかった本音の部分を言い合って、この後が重要だ。

悪口を言うために話を始めたのではない。

約束を違えないためだ。

「……」

今一度、自分自身の決意を固めるための沈黙が訪れる。

努力では埋められない決定的な才能の差。

三人と俺の違いは、大きく隔たっている。

「まさか、お互いが悪口の言い合いをして終わりだなんて言わないわよね?」

誰しもが気になっていたであろう問いを、綺羅坂が投げかける。

雫もこの後の俺の言動を注目しているように感じる。

「ああ……優斗、お前は役員選挙に出るで間違いないな?」

「そのつもりだ」

俺の言葉を優斗は肯定する。

理由は今は問うまい、余計な問答になるだけだ。

優斗の考えが変わらないことを再確認したことで、こちらも決意は固まった。

「じゃあやるか、役員選挙」

「……湊」

眼前の少年は意外そうに瞳を見開いて、呟いた。

教室後方の二人も、言葉では発しないが驚いた表情を見せた。

仮に、優斗と相対するのであれば、間違いなく生徒会選挙だろう。

スポーツでも、学業でも、同じ土俵で戦える勝負は無い。

それは、俺が彼よりも劣っていることを意味しているのだが、逆に優斗の苦手分野で勝負を挑んでも意味はない。

導き出したのが、彼も初の試みを土俵にすればいい。

結果なんて目に見えているかもしれない。

だが、言葉だけで言い合って終わるよりか、同じ土俵で戦る状況が目の前に提示されているのであれば活用しない手はないだろう。

周りからの支持が欲しいわけではなく、優斗と本当の意味で敵対して初めて理解できるものがあるかもしれないからだ。

大敗して羞恥を晒すことになるのは覚悟の上。

だからこそ、確固たる決意を持って宣言した。

「次期生徒会に入らないって言ってたとか、言動が変わり過ぎているとか言いたければ好きにしろ……お前を一泡吹かせるなら、プライドなんて捨ててやる」

口元に歪んだ笑みを浮かべて言う。

……完全に、悪役になっている気がしたのは気のせいではない。