音のない部屋に、静かなるノックがささやきかけてきた。
ノックというのはその人の性格を表す。
少なくともオッサンはそれだけで、誰が訪れたかを判別できた。
リインカーネーションは楽しげに、パインパックを抱っこしているときはふたり一緒に。
シャルルンロットやクーララカは乱暴だが、ノックの高さが異なる。
それは、珍しいノックであった。
プリムラやグラスパリーンやミスミセスに似ているが、どれとも違う。
プリムラのように、叩く扉のことすら気づかうようなやさしさはなく。
グラスパリーンのような怯えはなく、ミスミセスのような絡みつく感じはない。
必要最低限の音量が、まったく同じに2回続いた。
このくらいの力で叩き、音をさせれば中にいる人物は気付くであろうという無駄のなさと、正確さ。
こんな芸当ができるのはひとりしかいないと、オッサンは思った。
「どうぞ、ミッドナイトシュガーさん」
返事をすると、ゆっくりとドアノブが回る。
軋む音すらたてずに、ふらりとした姿が部屋に入ってきた。
それは確かにミッドナイトシュガーであった。
彼女のチャームポイントである頭巾(ずきん)は西陽に照らされ、さらに色濃く染まっている。
オッサンは眩しいだろうと気づかって、カーテンを閉めようとしたが、
「おかまいなくのん」
少女は寝ぼけ眼を細めることすらせず、事務机の間に立った。
そして続けざまに、
「設計図を渡せと言われたのん」
とだけ口にした。
それは簡潔すぎたが、オッサンは何のことだかすぐに察する。
「ああ、『蟻塚』……。いまは『不死王の国』の設計図の公開を、ジェノサイドロアーさんに求められたんですね」
『蟻塚』は、ミッドナイトシュガーの養父であったミッドナイトシャッフラーが所有していた地下迷宮(ダンジョン)である。
今でこそ不死王リッチに乗っ取られ、『不死王の国』と改称されてはいるが、法律上の所有権は相続した彼女にある。
もちろん彼女は、『蟻塚』にまつわる書類一式も受け継いでいる。
緋色のずきんが、わずかに前に傾く。
「その通りのん。ゴージャスマートの『不死王の国へのツアー』が、伝映魔法で中継されることになったそうのん」
「はい、噂は聞いています。伝映魔法で映像を送るためには、『法玉(ほうぎょく)』を設置する必要があります。ツアーまでに『不死王の国』に立ち入って、あらかじめ『法玉』をあちこちに埋め込んでおきたいのでしょう」
あうんの呼吸のように、意図を察するオッサン。
『法玉』とは、『記録玉』をはじめとする魔力のかかった水晶玉のことである。
「のんはそれだけだとは思わないのん」
「と、いいますと?」
「法玉の他に、罠を仕掛けてくるはずのん」
「地下迷宮(ダンジョン)のオーナーでもない勇者が、罠を……? それは考えすぎなのではないですか?」
「法玉だけを仕掛けるのであれば、一般にも公開している『見取り図』だけでじゅうぶんのん」
『不死王の国』のマップは、行方不明者救出に向かう者たちのために明かされている。
ただそれには隠し部屋などは書かれていない。
「しかし内部構造まですべてわかる設計図があれば、仕掛けられている罠の増設や減設が可能になるのん。それどころか、改造も……。自分たちの意思で、罠の発動をコントロールすることも可能になるのん」
「それはゼピュロスさんのツアーを盛り上げ、より安全にしたいという意図からでしょう。むしろ良いことなのではないですか?」
心にもないことを心を込めて言えるのが、このオッサンである。
「設置されている罠を改変されるのが嫌なのであれば、ツアー終了後に現状回復の約束を取り付ければ……」
「そうではないのん。妨害が可能になるということのん」
「妨害? もしかしてスラムドッグマートのツアーを妨害するような罠を仕掛けてくるのではないか、ということですか?」
「そうのん。スラムドッグマートのツアーの日程が決まったあとに、ゴージャスマートのツアーが同日になったのが、何よりもの証拠のん」
「それは、ただの偶然では……?」
「ゼピュロス様のツアーの模様は、『不死王の国』の前に設置される特設アリーナと、ゴージャスマートの各店で中継されるそうのん。それにはきっと、スラムドッグマートも映されるのん。そして活躍はもちろんのこと、失敗までそのまま流れてしまうのん」
「新聞記事のように、第三者の手が加わる余地はない、というわけですね」
「そうのん。だからこそ失敗は店にとって、取り返しのつかないマイナスイメージになるのん」
「そうですね。もしマザーやビッグバン・ラヴのふたりが罠にかかって大怪我でもしたら、スラムドッグマートの信頼は大きく損なわれるでしょうね」
「それもハールバリー領だけではないのん。中継はこの国全土で行われるのん。もし何かあったら、この国では二度と商売ができなくなるのん」
「それは困ったことになるかもしれませんね」
「そうのん。だからのんは……」
「渡してしまってもよいと思いますよ。設計図」
耳を疑う一言に、ミッドナイトシュガーの虚空を見つめていた焦点が、オッサンの顔に合う。
しかし彼は夕陽を背にしているので、逆光で黒いのっぺらぼうのようになった表情は伺い知れなかった。
しかし口調だけは、なおも穏やか。
「相手は勇者ですから、提供しないとミッドナイトシュガーさんの立場が危うくなるのでしょう?」
「でも、そうすると……」
「渡すとスラムドッグマートのツアーが危険に晒されるから、渡そうかどうか悩んでいたんですよね? それでこうして、私のところに相談に来たのですよね?」
緋色のずきんが、またほんの少し傾いた。
「ミッドナイトシュガーさんは導勇者(どうゆうしゃ)になりたいのでしょう? 勇者への非協力は評価の低下に繋がり、その道から遠ざかることになります。ですから、渡してください」
オッサンは、確かな口調で続ける。
「なぜならば、スラムドッグマートは誰かの夢を叶えるためにあるのです。それには、スタッフもお客様も関係ありません。もちろんミッドナイトシュガーさんの夢も、例外ではありませんから」
そう諭すオッサンの肩越しには窓があり、通りを挟んだ向こうに『スラムドッグスクール』が見えた。
そこではマザーの授業が行われており、彼女の黄色い声がすきま風に乗って流れ込んでくる。
「みなさんの夢はなんでちゅかぁ~!? えっ、ママみたいな大聖女になること!? じゃあママの夢はゴルちゃんのママになることだから……。あらあら、まあまあ、ゴルちゃんにはこんなにいっぱいママがいるんでちゅね~!? じゃあみんな、ゴルちゃんのママになれるようがんばりましょ~!」
大聖女様からのお言葉は、聖女の卵にとっては神言にも等しい。
なにも疑わない澄んだ瞳の少女たちの、「はいっ!」と凛とした返事が飛び込んでくる。
オッサンは打ち消すように咳払いをした。
「オッホン! もちろん例外もありますが、私はみなさんの夢を叶える手助けをしたいのです。それに、どのみち罠が増えたところで、尖兵(ポイントマン)である私が注意を払わなければいけないことに、変わりはないのですから」
「……わかったのん」
「心配することはありませんよ。私は決して、誰も悲しませるようなことはしませんから」
その一言は心安らぐはずのものだったのだが、少女は目を見開いていた。
なぜならば一瞬、佇む影の背中に、コウモリのような歪(いびつ)な翼が翻ったかのように見えたからだ。
「もちろんそれにも、例外はありますけど……ね」