4月。

春の訪れに、庭じゅうの花が開花する。

少年にとってはいちばんイタズラのし甲斐のある時期なので、身体が疼くが、ぐっとこらえる。

そして肝心の『フラムフラワー』のある花壇だけは、まだ冬の最中であるかのように、なんの息吹きも感じさせなかった。

ある雨の日。

ふと屋敷の中から窓の外を眺めていたハナアラシ少年は、庭に小さな人影が蠢いているのに気付く。

パインパックが、じょうろをもってヨタヨタと花壇に向かっていたのだ。

少年は「フン! あのバカっ!」と吐き捨てて屋敷から飛び出していく。

「傘もささねぇで、なにやってんだよ、パインパック!」

「おみじゅあげゆー!」

「雨が降ってるんだから、水はあげなくてもいいんだよっ!」

「めがでないから、おじゅあげゆー!」

「『フラムフラワー』は発芽が遅い花なんだよっ! 芽も出ないうちから水をやりすぎると根腐れを起こすんだよ! そんなこともわかんねぇのかよっ、このバカっ!」

少年は言い終えた途端、ハッと息を呑んで驚いた。

自分がパインパックくらい幼かった頃、母親から言われた台詞をそっくりそのまま口にしていることに。

「わあああん! はなたんがおこったー! わあああん! うわぁぁぁぁぁぁーーーーーんっ!!」

火が付いたように泣き出すパインパックに、ハナアラシは慌てる。

こんな時、プリムラとマザーはどうしていただろうと考えた。

少年は、姉たちのしていたことを思い出しつつしゃがみこみ、目線を合わせる。

そして本当の妹に接するように、やさしくパインパックの頭を撫でた。

「わ……悪い。ごめんな、パインパック。別に怒ってるわけじゃないんだ。えっと……ほら、空を見てごらん。水が降ってきてるだろう? これは空がパインパックのかわりに、水をあげてくれてるんだよ」

途端、ひくっ、と泣き止む妹。

「おそらが、おみじゅを……?」

「ああ、そうだ。パインパックが花に水をあげたいように、空も水をあげたいんだよ。でもパインパックも空もいっぺんに水をあげたら、花がおぼれちゃうだろ?」

「お、おぼれるの、いやー!」

「だろう? だからどっちかが水をあげるのを我慢しなくちゃ。パインパックはお姉ちゃんだろ?」

「ぱ……ぱいたんが、おねえたん……?」

「そうさ。空は赤ちゃんだから、我慢できないんだよ。お姉ちゃんだったら、雨の日の水やりをゆずるくらいできるよな?」

「うんっ! ぱいたん、ゆじゅるー!」

さっきまでの泣き顔はどこへやら、ひと足はやく天気が回復したような、さんさんとした笑顔を浮かべるパインパック。

そして実はこの時、少年は九死に一生を得ていた。

なぜならば、三女にとって『風神と雷神』ともいえる、二匹が……。

彼女の泣き声があがろうものなら、たとえ地球の裏側からでも駆けつけるような、絶対守護神たちが……。

かたや神風のような速さで、かたや迅雷のように一瞬にして、少年の背後に近づき……。

かたや後ろ脚の蹄(ひづめ)振り上げ……。

かたや少年を趾(あしゆび)で連れ去ろうと、ホバリングしていたのだ。

しかし時限爆弾のようだった幼女の悲しみは、寸前で解除されたおかげで、風神雷神の一撃は炸裂せずにすんだ。

フクロウと馬は、少し残念そうにしながらその場から去っていった。

5月。

ついに発芽。

『フラムフラワー』はとても育成が難しい花で有名だが、芽が出るまで実に半年近くかかったことになる。

ホーリードール家の庭のど真ん中、いちばん日当たりのいい花壇には……。

小さな緑の若芽が、ぽつんぽつんとあった。

それは地味で、美しさも力強さもない光景。

しかしながら三姉妹は、屋敷をあげての大騒ぎ。

いつもは楚々としていることで有名なホーリードール家の聖女たちがハイテンションになるのは珍しいこと。

ついには勇者からお祝いの花輪が届き、新聞が取材に来るほどになってしまった。

しかし贅を尽くした勇者からの贈り物も、聖女としての名をあげられる新聞の一面に対しても、彼女たちは迷惑顔。

この世界において、『真の聖女』とも呼べる彼女たちを、夢中にさせていたのは……。

富や名誉などでは、決してなかった。

ただ慎ましく土から這いだした、小さな生命。

吹けば飛ぶような、踏めば消えてしまうような、儚い生命……。

そして彼女たちから少し離れたところで、静かに佇む……ただのオッサンであった。

6月。

発芽してからはみるみるうちに成長。

芽の先端を摘んで、脇芽を増やしていく。

そして、虫も付きはじめる。

この時はパインパックが大活躍。

いつも庭で虫を捕まえて遊んでいるので、手で掴んではポイポイ放り捨てていた。

それとは真逆に、何事も真面目に取り組む次女がお呼び腰に。

「あっ……あの……すみません、わたし、虫さんは苦手でして……」

彼女は虫を見ているだけで、その虫さんが身体じゅうを這い回っているかのように、プルプル震えていた。

「フン! しょうがねぇなぁ、プリムラ、ならお前の分も俺がやってやるよ」

「すみません、ハナアラシさん。ご迷惑をおかけして……」

「いいってことよ」

そして少年は、心の中だけで続ける。

――あと少しで、この虫以上の恐怖をお前に与えてやれるんだからな……!

このくらいのこと、お安い御用だぜ……!

7月。

暑い日々がやって来る。

しかし『フラムフラワー』は暑さに強い植物なので、世話の手間はここで一段落する。

庭師の仕事も減り、夏休みのようにノンビリしていたハナアラシ少年。

日傘をさしたマザーが、パインパックを抱っこして、花壇の前でなにやらやっていることに気付いた。

――フン! 今は世話することなんてほとんどねぇってのに、アイツら、いったい何をやってるんだ?

あ、わかったぞ。新聞には興味ねぇフリをしてたが……。

ああやって世話するフリだけして、パパラッチにいいところを撮らせようとしてんだろう。

まったく……やっぱり聖女ってのは、どいつもこいつも変わらねぇなぁ。

富と名誉に貪欲で、白ブタみてぇだぜ……!

心の中で馬鹿にしつつ、彼女たちに近づいてみると、

「お花さん、一生懸命咲いて偉いでちゅねぇ~! いい子いい子でちゅよぉ~!」

「おはなたん、いいこー!」

「お花さんとハナちゃんが来てくれてから、この屋敷がますます明るくなったみたいで、ママとっても嬉しいわぁ」

「はなたんも、いいこー!」

キャッキャと楽しそうにしているふたりの間に、ハナアラシは割り込んでいった。

「……なにやってんだ?」

「あら、ハナちゃん。パインちゃんといっしょに、お花さんにお話ししてるのよ」

「……花と話す?」

「ええ。お花さんはこうやって話しかけてあげると、すくすく育つのよ」

「人間じゃあるまいし、そんなことあるかよ」

「お花さんも生きているから、褒められてるのがわかるとママは思うの」

「フン! そうかいそうかい。このクソ暑さのせいで、さらにイカれちまったってことか」

ケッ、と今度は口に出して馬鹿にするハナアラシ。

来て損したとばかりに姉妹に背を向け、屋敷に戻ろうとする。

その背後から、

「うふふ、お花さん。生まれてきてくれて、ありがとうね」

やさしい母親の声がした。

ハッ!? と少年は振り向く。

しかしそこにあるのは、変わらない現実。

実の親からいらない子だと罵られた、つらい現実であった。

……ギリッ!

少年は決意を新たにするように、握り拳を固める。

――フンッ!!

見てやがれ、このニセ聖女……!

テメェがそうやっていられるのも、今のうちだけ……!

この俺を利用して、さらなる名誉を貪ろうったって、そうはいかねぇ……!

この花が満開になったとき、テメェのそのすました聖女面も、最後……!

何もかもこの俺が、メチャクチャにして……!

化けの皮が剥がれたテメェの本性を、パパラッチどもにくれてやらぁ……!

そうすれば、俺は一気に有名人……!

花を荒らして人々を絶望に陥れる、『ハナアラシ』として、世間に名を轟かせるんだ……!!