その日から、男の視界は少しずつ、現実味を失っていった。

まるで、鮮明な写真が、色あせていくように……。

妻の顔は相変わらずボロ雑巾のようだった。

しかし、肌は変色し、土人形のようになってしまった。

そして、眉間のある一点だけは、不自然なほど白かった。

それは、穴に棲み着いたウジだった。

それが、彼女が振り返るたび、うつむくたび……。

穴の開いた米びつのように、白い物体をぽろり、ぽろりと落としていた。

体臭が今まで以上にひどくなり、妻のまわりをハエがたかるようになった。

瞳は死んだ魚のようになり、濁った薄い膜が張り付くようになった。

ハエを追い払いながら、妻はしきりに肌を掻きむしる。

ずるりと皮膚が剥がれ落ち、腐った肉が剥き出しになった。

そこにさらにハエがたかる。

肌のところどころに亀裂が走り、その中にはびっしりと白い卵が植え付けられていた。

その時すでにもう、男の正気はこの世界にはなかった。

無理もない。

守ると誓ったものが、すでにこの世のものではなくなっていたからだ。

……堪えられるだろうか?

自らの手で殺した、最愛の妻が……。

目の前で、生ける屍となり、すこしずつ腐敗し……。

面影を残しながら、違うものに変わっていくのだ……!

醜く、汚く、おぞましく……!

妻でありながら、妻ではない……!

ただの、腐った肉塊に……!

人は、誰かが死を迎えると、葬儀を行なう。

それは古くは土葬であったり、いまは火葬であったりと……。

その儀式は、別れゆく者の姿を最後に見届けるためのものである。。

変わり果てた姿であってもなお、その人である姿を最後に目におさめ……。

この人はもう、この世にはいないことを腹におさめ、決別する。

しかし男には、たとえ最愛の人であっても、それは許されないのだ。

変わり果てた姿を片時だけ目にするどころか、添い遂げなくてはならないのだ。

しかも、変わり果てた妻を、さらに陵辱するかのように、ウジどもがたかり……!

屍肉をついばまれる様を、見せつけられ……!

それはたとえ一瞬たりとも目にしてしまえば、正気など吹き飛んでしまう光景だというのに……!

逃げ出したくても、逃げ出せない……!

なぜならば鎖で結ばれているので、片時も離れることができないのだ……!

ある日、妻は笑った。

「んまぁ、あなた、見て見て」

嬉しそうに振り向いたその瞳が、

……ぼろり。

目玉ごと落ち、腐った卵が割れたかのように、ぐしゃりと崩れた。

無間の暗闇のような眼窩で、男を見据えたまま、

「オナカヲ、ケッタノヨ」

股間から、ぐじゅりとした液体が漏れ出し、肉片のようなものがぼたぼたとしたたる。

ホラ、ミテ……。

コ レ ガ 、 ア ナ タ ノ 、 ア カ チ ャ ン ヨ …… !

「うっ……! うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!?!?!?!!?!?」

……ゴオンッ!! ゴオンッ!! ゴオンッ!! ゴォォォォォォーーーーーーーーンッ!!

明滅する世界のなかで、男は見ていた。

妻の笑顔が、右に、左に、大きくぶれ……。

殴りつけられた紙粘土のように、ぐにゃり、ぐしゃりと変形していく様を。

……くたり。

それは、ガスでまあるく膨らんだ腹に、突っ伏して動かなくなった。

男は、まだ硝煙が立ち上っている銃口を、深く口に咥えた。

ジュッ……!

焼けた鉄が押し当てられ、鋭い痛みが走る。

男はまた……。

そして今度こそは完全に、『狭間』でいることをあきらめたのだ。

――これが……これが……!

あのバケモノの言っていた、本当の『黒白(コクビャク)』……!

俺に、『死』という色を、選ばせるための……!

俺に、自らの手で『狭間』を捨てさせるための……!

俺の、負けだ……!

俺はもう、『狭間』はこりごりだ……!

もう、一秒たりとだって、いたくねぇ……!

いますぐ楽に、いますぐ楽にナりてぇんだ……!

次の行先が地獄であったとしても……。

この世界に比べりゃ……。

俺にとっちゃ、楽園だナ……!

片道切符に、ついにハサミが入る。

このハサミの引き金(トリガー)を引き絞れば、すべてが終わる。

男の、完全敗北で……!

……ガキインッ!

撃鉄が、金属音とともに雷管を叩く。

このあとに続く爆音を、男はこれほど待ち望んだことはなかった。

しかし、

「……? ナ……? ナんで、だ……? なんで、弾が出ねぇんだ……?」

男は再びハンマーを降ろすと、もう一度引き金を引いた。

しかし、

……ガキインッ!

空を切るような金属音が、虚く響くばかり。

「ナっ、ナんでナんだよぉっ!? ナんで、ナんでナんでナんでナんでっ!? なんで、死ねねぇんだよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ~~~~~~~~っ!?!?」

ガキンガキンと何度も空撃ちしていると、ふと、足元になにかがまとわりついた。

それは……。

ア ・ ナ ・ タ …… !

うぐっぎゅるrfごいじゃあおs@いdふjがえ「-rt9いう8あds@pr0おい:gjふぁdsぃ:fgじゃそ@い:dfgじゃsdl:;いj^わえr0-t-------------------------!~【“”)

◆  ◇  ◆  ◇  ◆

妻が死ぬことがないように、男もまた、死ぬことがなかった。

銃は、妻にだけに当たり、他人には決して命中しない。

そして、自分に向けても、必ず不発に終わる。

他の手段で死のうとしても、死ねなかった。

なぜならば、男も妻も、すでに選んでしまったからだ。

『白』でも『黒』でもない、『灰色』を。

『生』でも『死』でもない、永遠の『狭間』を……!

ふたりは、『勇者狩り』に狙われることはなくなった。

なぜならば勇者組織の上層部が、男を『勇者狩り』の対象から外したからだ。

勇者に弓引く者はこうなるのだという、哀れな末路を永遠に晒し者にするために。

彼はいまも、干からびた妻にすがりつかれながら……。

どこかをさまよい歩いているという。

頭に銃を突きつけ、カキン、カキンと、打ち鳴らしながら……。

「 コ ロ …… シ テ …… モウ …… コロ …… シ …… テ …… 」

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