Ouroboros Record ~Circus of Oubeniel~

076 And the support of the feast

「トゥリウス閣下。この度は加増及び侯爵位叙爵、誠に祝着至極ですな」

「ドルドラン辺境伯……。心が全く籠っていませんね、やり直しです」

僕ことトゥリウス・シュルーナン・オーブニルの気の無い返事を聞いて、客人である少壮の貴族は目に見えて苦笑した。

「では、こう言わせて頂きましょうか。してやられましたな」

「ええ、本当に……最期の最期までやってくれましたよ、あのご老人は」

口の中に込み上げて来た酸い物を吐き出すようにして溜め息を一つ。

僕が肘を置いて頭を抱えているのは、王都のオーブニル邸、当主執務室のデスクの上だ。数ヶ月前まで兄である伯爵の物だったそれは、いまや弟である侯爵――即ち僕の物になっている。ハッキリ言って、座り心地は良くない。古くて見た目だけ立派で柔らかみに欠ける椅子と、装飾性にかまけて機能性に乏しい机。こんなもの、どうして有り難がるんだか。

予想外の顛末に終わった戦勝式典兼論功行賞。その後の対応諸々を協議する為に、こうして会議に集まって貰ったんだけれど……残念なことに主宰である僕の機嫌は、最悪の方向へと斜めに傾いている。しばらくは建設的な話題を出せる気分ではない。

そんな中、一人話題に着いてこれずに不思議そうにしている男が一人。

「なァ、そんなに悪いことなのか? 一応、出世したんだろ、アンタ?」

当家の筆頭武官であるドゥーエ・シュバルツァーである。一応、僕の下での軍事部門のトップなんだから、もうちょっと政治面でもあれこれ理解しておいてほしいもんだ。まるで素人みたいな発言じゃあないか。

「それは本気で仰っているのでしょうか。でしたら、些か見識を疑わざるを得ませんが」

手厳しくそう言うのはユニだ。政治は専門外、と普段から公言している彼女でも、状況の拙さは分かっているのである。仮にも公的な身分を持って仕事をしているドゥーエは、もっと手厳しく言われても良いだろう。

脇に控えて佇んでいたヴィクトルも、軽く肩を竦めた。

「チーフメイド殿もお厳しい。こちらとしても同感ではありますが」

「ぬぐっ……! じゃ、じゃあ、どういうことだってんだよ?」

「現状でもヴィクトル卿らが、引き継いだばかりのヴォルダン州の統治を確立しようとお骨折りなさっている最中でしょう。そこへ来てこの新領地です。エルピス=ロアーヌは一つの地域とされていますが、厳密に言えば州二つ、でしたか。今の仕事量が三倍になると言えば、どれほどの難事を課されたか分かりやすいと思います」

と評するのはユニだ。兄から相続したばかり、そして戦禍を受けた直後のヴォルダンだけでも手を焼かされているって言うのに、そこへ新たな州が二つも押し付けられた。三つの州で統治機構の確立を進め、実際に運用し、上が満足出来る成果まで挙げなければならない。……心底ふざけている。明らかに僕らのキャパシティを超過しているじゃあないか。

「それだけでは済みませんよ。エルピス=ロアーヌはこの五十年間、ザンクトガレンの一部だった地域です。当然、そこを治める為の役人も彼の国の貴族。……アルクェールに割譲された際に、その者らがどれだけ残っているでしょうね?」

ヴィクトルが溜息と共に言う。敗戦国が戦勝国の統治を助ける為に、これから割譲する土地に役人を残す義理は無い。大方が引き上げられていることだろう。それでも地元に密着した出自の者は残る目もあるが、僕らに対して協力的に振舞ってくれるかというと、正直望み薄だ。

また民衆の意識も問題である。昨日までザンクトガレン人だった人々に、今日から貴方たちはアルクェール人です、と言っても容易には納得出来まい。守るべき法律も、喋る言葉も、仰ぐべき支配者も違うのだ。こちらの統治に馴染むのに、どれだけの時間が掛かるものか。

言語に関しては……イトゥセラ大陸の諸国の公用語は、地球で言えば共通してラテン語から発展した欧州諸国の言語みたいなものなので、一つの国の基礎さえ覚えれば、まあ、他国の言葉もすぐに覚えやすい。昔、ザンクトガレンに留学していた僕が良い例だろう。それでも教育の手間と費用は莫大なものになる。

あの地方の西半分は五十年前以前もアルクェール領だった。それを今回の講和条約で奪還した形になる。そちらの方は馴染むのも早かろうが、東半分は生粋の元ザンクトガレン領。ついこの間まで敵国だった国に骨まで浸かっていた土地だ。統治は難しいだろう。

そこまで滔々と説明したヴィクトルは、チラリとこちらに目を向ける。

「失礼ですが、閣下。他の問題点についてお心当たりはございますか?」

こんな時にまで帝王学の成果のテストらしい。やれやれ、冗談じゃない。失礼ですが、なんて前置きをすれば、どんな失礼でも許されるなんて訳は無いだろう。少しはこちらの気持ちに配慮してくれても良いじゃないか。

僕はむっつりとしながら、片手を差し伸べた。

「ユニ、地図と書く物を」

「こちらになります、ご主人様」

デスクの上に手早く広げられた地図。ユニから万年筆を受け取ると、そこへインクに濡れたペン先を落とす。まず今までの所領であるヴォルダン全域を線で囲い、強調した。

「ここが僕が兄から受け継いだばかりのヴォルダン。で、今回加増されたのがこの――」

次に山の向こうに広がる平野部を丸く囲う。

「――講和条約で割譲されたエルピス=ロアーヌ地方だ。ほら、こう見ると分かりやすいだろう? 行政区分上は隣り合っているけれど、地理的には山向こうの飛び地なんだよ。まさか軍隊がこれを越えて奇襲しては来ないだろうなんて、五十年間も考え続けられたくらいに隔たっている」

ザンクトガレン軍もよく越えて来たもんだと感心するくらいだ。この五十年以上、碌に整備されていない細い山道である。そんなルートを利用して進軍出来ただけでも敬服に値する。まあ、攻められた僕にとっちゃ迷惑でしかないが。

「ヴォルダンと新領地の間の山道……このルートは普通に行き来するだけでも大変だって言うのに、冬になれば雪で通行不能になる。一年の四分の一、気象条件によってはそれ以上の間、使者の往来にすら支障がある二つの地域を統治するんだ。これだけでも無理難題ってレベルじゃないよ」

ちなみに転移魔法で移動時間を短縮、というのはNGである。僕らは割と気軽に使っているが、≪グレーター・テレポート≫は本来なら大魔法の領域にある高等呪文。そんな物をホイホイ利用していると知られれば、また新たな面倒事の種になる。

「確かに大変ではあるがよ……そうだ、平地伝いに行けば問題無ェだろ。時間が掛かるのは不便だが――」

何ともまあ、浅墓な意見である。ユニなんて凄く白けた目をしてるじゃないか。普段表情が動かない分、こういうちょっとした変化が凄く目立つ。目は口ほどに物を言う、だ。

「時間が掛かると一言で言いますが、どれだけ掛かるかはお考えですか? 平野部を選んで進む場合、ヴォルダンからエルピス=ロアーヌに至るまで、一体何人の貴族の領地を通過するのでしょう? その度に関所で足止めされたり、事と次第によっては領主自身と折衝する必要こともあるやもしれませんね」

「あ……」

ドゥーエは彼女から指摘を受けてあんぐりと口を開ける。

アルクェール王国は封建制国家だ。貴族が民と土地を所有し、それらから出る上がりを取って地方を経営している。が、その農民が他貴族の領地に逃げたりしたら? その土地から取れる税が減少して、領主が食えないことになる。だから領主たちは、民を自分の土地に縛る為に、人の往来を関所で取り締まるのだ。

無論、領地の境を関で封鎖しているのは、国王ではなくあくまでその土地の領主である貴族。だから通行税は払う必要は無い。同格の相手に税金を納めるも何も無いだろう。

が、通行税が不要である代わりに他の義務がある。封建貴族にとって他領土の者は外国人同然だ。だから通過する度に、一々面倒な外交的儀礼が必要となる。親書を送ったり、贈り物をしたり、宴席に出席したり、他にもあれそれ、ああだこうだ……やらなきゃならないことが、うんざりするくらい出て来るのだ。

特に問題なのがノヴィヨンとアルマンド。陸伝いのルートでは必ず通過するこの二つは、どちらも広大な領地を持つ大貴族だ。何かと顔を立ててやらないといけないだろう。どれだけ面倒に思っていても。

次に、

「それに新領土はザンクトガレンと川一本を挟んで向かい合う格好だ。今までみたいに山を壁にして安穏としていられないよ。軍隊を組織して駐留させたり、敵侵攻に備えて要塞を整備したり……軍事面にも、今まで以上に力を入れなきゃいけない。軍隊なんて、それだけじゃ何ら利益を産めない金食い虫だって言うのにね」

軍隊という新たな支出先が増える。今まで僕らは保有する騎士団や砦などを削減し、軍事面でのコストを抑えることにより内政面を切り回していた。それが通じなくなる。ばかりか、ザンクトガレンへの備えとして、一体どれだけの軍備が要求されるものか。予算について考えれば、今はマルランで留守番中のルベールも、目を飛び出させることだろう。

「うむ。軍備において手抜かりは出来ぬな。トゥリウス閣下はヴォルダン戦役の英雄的な戦果を評価され、彼の地を賜った。である以上、国防に寄与することも宮廷から期待されている筈。生半なことをしては、すぐに詰問の使者が飛んで来よう」

「……ドルドラン辺境伯も、捕足、どうも」

この人も辺境鎮定を長年務めていただけあって、その手の苦労は随分と買っているらしい。言葉の端々に実感が漂っている。

にしても、例の席から辺境伯の口の利き方が一変しているなあ。侯爵は辺境伯と権限の面ではほぼ同等だが、格式の上では一段階上。今までのように対等目線とはいかない、ということか。キッチリとしていることだが、今回の件は僕としては望まない出世である以上、それを認識させられるのは少し息苦しい。

「でもって、こんなに難しい仕事をこなさきゃならないのに、他貴族の援護も期待できない」

「なんでまた?」

「侯爵位なんかを押し付けられたからね」

言いながら、ついさっきのことを思い出す。あの宣言の瞬間、玉座の間に集った貴族たちから向けられた視線ときたら。余程僕のことが気に入らないのだろう。今までも決して好かれていた訳じゃあないが、従来向けられていた感情は軽侮や蔑視。軽く見られている訳だったから、適当におどけた素振りを見せていれば、小馬鹿にはされるだろうが深刻な敵意は向けられない。どこかの兄とか爺とか以外には。

ところが侯爵位なんて得てしまっては、そうはいかない。王族や宰相、元帥以外は叙されない公爵、それを除けば貴族社会における頂点と言える。そんな高い地位を占めた僕に向けられるのは、嫉妬や憎悪、それに大封を蚕食しようとする欲望。容易に敵対関係に発展しかねない、危険な感情ばかりだ。

まったく、どうしてこんな物を有り難がり、また欲しがるんだか。どいつもこいつも、トゥリウス・シュルーナン・オーブニルなど侯爵の地位に相応しくないと、自分の方が相応しいと、目だけで主張していやがった。

そんなに欲しけりゃくれてやる、と言いたいところだが、畏れ多くも我らが国王シャルルVIII世陛下の御意である。ありがたい国王陛下のご恩寵なんて、迂闊に投げ出せる訳が無い。そんな真似を仕出かす貴族は、誰も信じないだろう。社会的信用は大暴落必至だ。貴族間の付き合いはどうだっていいが、商人たちとまともに取引が持てなくなるのが痛い。誰だって不良債権なんぞには出資してくれないのだから、研究に用いる実験体や素材を安定して手に入れる為にも、精々優良株のように見せかける外無いのだ。

「そんなに大事なのかい?」

「ええ、一大事ですよドゥーエ殿」

飲み込みが悪いドゥーエを、ヴィクトルが横目で見る。

「この件の問題は、我らが悪名高き閣下お一人だけに帰するものではないのです。貴族社会における、オーブニル家そのものの序列が質されているのですよ」

棘のある言い方だなあ。もうちょっと柔らかい表現も出来るだろうに。

「オーブニル家は建国以来の功臣ではなく、二百年ほど前に取り立てられた新興の部類に属する貴族。同じ爵位の家の中でも一段低く見られることが多かったでしょう」

「二百って……ザンクトガレンで言えば連邦が成立したばかりの頃じゃねェか。それで新興とか、どういう冗談だ? 十分古いだろうが」

「ホントに馬鹿げているだろう? でも、それがアルクェール王国の貴族たちの価値観さ。古くて由緒ある方が、問答無用で序列が高い。……馬鹿馬鹿しい。ワインだって五十年もすれば飲めたものじゃ無くなるってのに、古い物ばかりを有り難がる」

言いながら、椅子の背凭れへと乱暴に体重を掛ける。ギシリ、と耳障りな軋みが鳴った。

無論、古い血統に根差した価値観も悪い面ばかりではない。極端な実力主義、競争主義の社会は、即ち不安定な情勢が続くということ。発生する諸問題を全て力だけで解決しようとすれば、当然莫大量のエネルギーが浪費されることだろう。それに替わって社会を安定させる為の権威として、歴史や格式、血統が有効であるというなら、使わない理由は無い。

もっとも、僕の見たところでは、今のアルクェール王国は、権威に頼り過ぎて動脈硬化を起こしている節があるのだが。これでは良い面があったとしても機能不全に陥っていることだろう。

それはさておき、

「特にランゴーニュ伯なんかは、えらい目で睨んでくれてたよね……。あれじゃあ、彼を通じて中央集権派に介入していくって策は、もう使えないだろうさ」

「物凄い表情をされておいででしたね。恐らく、あのご老侯と今回のご主人様の栄達に関しても、あらぬ想像を巡らせていたことでしょう」

ユニの言う通り、大方、僕と爺さんが何か裏取引を行っていたとでも考えているのだろう。まったく、今まであの糞爺の何を見て来たんだろうか。ラヴァレが他人に領地を与える為に動くだなんて、相手にババを引かせる為に決まっているじゃないか。

「まったく、余計なことばかりに頭が回る人だよね。その想像力をもっと別の面で活かせば良いのに」

「……ちょっと待て。どうしてユニが、ランゴーニュとかいう伯爵について、見て来たみてェに言っているんだ?」

何言っているんだ、ドゥーエは。そんなの、答えは決まりきっているだろうに。

「私がご主人様をお一人にすると思われますか?」

彼女が陰の護衛として、僕に着いて王宮に入ったからに決まっているじゃないか。

当然、玉座の間でも柱の陰かシャンデリアの上か、兎も角どこかに潜んでいた筈だ。何せ僕には敵が多いし、この国の王様は情緒不安定で何を言い出すか分からない。そんな伏魔殿めいた王宮など、一人でノコノコと行けるような場所じゃないだろう。

「……納得した。我ながら馬鹿な事を聞いちまったぜ」

「いや、普通は王宮に陰供を連れ込むなど、納得出来ぬであろう……。特に奴隷など、身分や格式にうるさい連中に気付かれれば事であるぞ?」

「ドルドラン辺境伯閣下、これが我が主の常識なのです。洗脳された以上逃れる術はありませんので、お早く慣れられるのが得策かと」

まあ、ヴィクトルの言うとおりだろう。僕は僕である限り僕のやり方以外出来ないので、味方にはそれに慣れて貰わなきゃ困る。

……話が逸れた。

「そういう訳で、課題ばかり押し付けられた挙句に、他の貴族との連携を断ち切られたのが現状なのさ。上手く行けばシャンベリ伯くらいは引き込めるかもしれないけれど、望み薄だね。三州太守の侯爵ともなれば、巨大過ぎて蝙蝠の手には余る。切り倒して利益という果実を分配しようとするだろう」

「地方分権派は? 元々集権派とは敵同士で、隙が見えたから近付いただけなんだろ? 今度は地方貴族とくっつけば――」

「駄目だね。州を三つも持つ新たな侯爵、しかも家が出来て二百年程度の成り上がりなんて、連中が素直に仲間に入れてくれると思うかい? しかも僕には既に自前の派閥がある。分権派と言えば聞こえは良いけど、所詮は中央集権派憎しで寄り集まった、地方の欲ボケどもさ。領地の利権に食い込み、僕の派閥を解体し、それで自分たちを潤すことしか考えないだろう」

老舗企業の集まりが、自分たちの業界に急に勃興した若手社長率いる新興の会社を、すんなりと利益共同体に受け入れられるだろうか? いや、否だ。まずは首輪を付けて飼い馴らすか、解体して好餌とするかだろう。つまりはそういうこと。付き合いが浅い新参のライバルなど、出る杭にしか見えない。叩けるだけ叩くのが流儀というものだ。

中央とは切れた。地方とは、今更繋がるには身代が大きくなり過ぎている。八方ふさがりである。

「考えてみりゃ、随分と酷い状況になっちまったな。……いっそのこと、反乱でも起こしてみるか?」

ドゥーエが半分冗談めかして、つまりは半分くらい本気で言う。

気持ちは分かる。僕だってこんな国、叩き壊してやりたい。玉座の上で金切り声を上げるだけの灰色猿や、死人の黒子に操られるだけの傀儡、その他有象無象ども。そんな奴らに振り回され、貴重な研究の為の時間を浪費するなんて我慢ならないし、そのストレスで病気になるのも怖い。なので反乱という選択肢は実に魅力的だ。足枷も鬱憤の元凶も全部叩いて潰して、真っ平らにしてやりたくもなる。

だが、無理だ。あの陰謀屋の生涯最後の策が、ちょっとヤケになった程度で破れる筈が無い。

「……おいおい、ドゥーエ・シュバルツァー。君には地図が読めないのかい?」

「あァん?」

「ほら、見てみなよ。今、君にも分かりやすく書き込みをしてやるからさ」

言いながら、地図上に新たな情報を書き加える。

ドルドラン、アルレズなど、脳改造されて僕の傘下に加わった貴族たち。その所領を、他勢力の領と区切る形で線で囲う。それを僕の領地と繋げると――

「――ほら、エルピス=ロアーヌからドルドランまで、東西に細長く延びる一本のベルトの出来上がりだ。こうして見ると、僕の勢力は大体王国の南方に集中しているのが分かるだろう?」

「言われてみれば、そうだけどよ」

「で、僕が反乱を起こしたとする。すると、だ。まずは北から王国正規軍が攻めて来る」

王都から南へ向けて、大きな矢印を一本引く。そこから枝分かれして、西のドルドラン辺境伯領にもインクを伸ばす。更にアルマンド公爵領からエルピス=ロアーヌに向けても一本。

「次に南。オムニア皇国。……結局、今回の戦争は増援も何も間に合わなかったね。坊さんを寄越して負傷者の治療や戦死者の埋葬をしたくらいだ。でもまあ、一応はアルクェール王国の同盟国だからさ。もし反乱が長期化したら、援軍の一つでも送って来るに違いない」

南方の半島からヴォルダンに向けて太い矢印を一本。アルレズ男爵領を始めとする南方沿岸地帯にも、枝分かれした小さな矢印を加える。

「オムニア……第二騎士団長様が聖騎士候補として送られてしまったのも厄介ですね。ご主人様に隔意を持つ方が権威まで得てしまわれますし、十中八九彼の国と王国との連絡役の任も帯びていましょう。かと言って、渡航前に処分するのも難しいかと」

「ユニも中々政治が分かって来たじゃないか……きっとこれも、爺さんの手配りの一つだね」

候補とはいえ誉れ高き聖騎士様を殺したり、洗脳したことが露見してしまえば、宗教的権威に真っ向から喧嘩を売る羽目になってしまう。オムニアが仮想敵から完全な敵にランクアップだ。死んだ爺さんはあそこともパイプを持っていたと記憶している。何かあったら息の掛かった騎士を聖騎士候補に推薦して送り込み、オムニア上層部に働き掛ける為の楔にするつもりでいたとしてもおかしくない。

それは置いておいて、だ。

「そして、ザンクトガレン連邦王国。こいつらも割譲してしまったエルピス=ロアーヌを取り返したいだろう。オマケにヴォルダンじゃ焦土作戦だの塹壕戦だので、僕らに痛い目を見せられているからね」

「その上、焦土作戦の汚名はあちらに転嫁しましたからな。恨み骨髄でしょう」

「うるさいよ、ヴィクトル。……だから当然、アルクェール王国で反乱となれば即時直接介入だ。この場合、僕の味方に回る公算は低い。恐らくこっちが王国を裏切って、『アルクェール貴族辞めました、今日から仲間に入れて下さい』って頼んでも無理だろう」

そう言えばアカデミーで向こうの貴族の子息と揉めて退学になった過去もあったかしら、などと思いながら作業続行。連邦盟主グランドンブルクの王都ガレリンと、南方の連邦構成国バハリア王国から伸びる二本。それを束ねて一本の大きな矢印に。

するとどうだろう。

地図の上には、大陸中から包囲される僕の勢力圏の姿が描き出されていた。

「ほら、ご覧? 四大国の内、実に三ヶ国も敵に回しての大戦争の始まりだ。加えて、立地的に後背となる安全地帯が全く無い。酷い戦いになりそうだねえ。……君、こんな戦いがやりたいのかい?」

僕は引き攣ったやけっぱちの笑みを浮かべながら聞く。地図から想像を膨らませるだけで嫌になる光景だった。ドゥーエはバトルジャンキーな気があるとはいえ、基本的には常識的な物の考え方をする男だ。流石にこんな馬鹿げた戦いは、彼とて遠慮するだろう。

当然、彼は僕の問いに渋面を作った。

「……冗談じゃねェ。これじゃ殺し合いにもならねェだろうが。ただ嬲り殺しにされるだけだ」

「そういうことだね。更に言うなら、ザンクトガレンも今度という今度は、大王家直轄の最精鋭を繰り出して来る。ヴォルダンでやりあった領邦諸国の混成軍なんて比較にもならない、本物の大陸最強軍隊のお出ましさ。アルクェール一国を相手取るだけでも大変なのに、オムニアに後ろから狙われながら、そんな連中に横からぶん殴られるんだ。これで喜べるような人間は、マゾどころじゃない。単なる破滅主義者だよ」

当たり前だが、僕は違う。破滅だとか苦痛だとかは大嫌いだ。僕の嗜好は寧ろ真逆。永遠に安穏とした幸福の中で過ごし続けたいのである。

だから、こんな鉄火場に叩き込まれるのが目に見えていては、反乱など起こせる訳が無い。

「……本当に良く出来ているよ。流石は王国第一の策士の遺作だ。これじゃあ僕は、領地を破綻させないよう内政に励み、隣国に隙を見せないよう軍備を整え、王都の連中から誅罰を受けないよう大人しくしているしかない。この王国の為に、懸命に尽くさなきゃいけなくなった訳だ」

中央集権派の理想とする、『王都の意向を叶えるために働く地方貴族』の完成だ。よりにもよって、この僕が、である。

考えるだに、あの老人の得意げな顔が、瞼に浮かぶようだった。今頃、棺桶に覆われて墓石で蓋をされている筈の皺くちゃの顔が、それ見た事かとこちらを嘲笑っている。

まるで幽霊だ。なんて往生際の悪い。

憂鬱に沈んでいると、ドルドラン辺境伯がつるりと顎を撫でるのが見えた。

「しかし、解せぬな。トゥリウス閣下にこれだけの荷を背負わせるという策。あの古狐めは、どうしてこのような手を打てたのだ? 予め遺言を認(したた)め、式典の場での卿の行動を当ててみせることで、無理押しの正当性を確保する……このような手配り、不確定要素が多過ぎやしまいか?」

あの声がデカい宰相が言うには、ラヴァレの爺さんが遺言で僕をエルピス=ロアーヌ太守に推薦し、その重責に相応しい行動を取ることを当てて見せたという。確かに一見すると、どうしてそんなことが分かったのかと不思議に見えるだろう。

だが、まあ、トリックは簡単だ。

「……遺言は、果たして本当に一通のみだったのでしょうか?」

ユニがそう言うと、辺境伯とヴィクトル、それとドゥーエは彼女を見て目を瞠る。

僕はどうでも良い。そのくらいのことは分かっていた。

「予め、ご主人様のお取りになりそうな行動を推量し、複数のパターンを書面に記します。それを宰相様に送り、その中から実際に起こった出来事に当て嵌まる遺言だけ、採用すればよろしいでしょう。そして外れた予言が書かれた手紙は、後ほど焼き捨てれば誰にも内容は分かりません」

言われてみればすぐにでも分かる子ども騙しだ。が、これをやるのが王国宰相ロシュブール公で、場所が王の御前というのが、狡猾なところである。

嘘だペテンだと言われても、宰相は懐から紙切れ一枚を選んで取り出して、群臣に示せばそれでラヴァレの予言は立証される。疑い深い者なら、複数の遺言に思い当たることもあるだろう。だが、どこの誰が、玉座に座る国王の前で、王国公爵かつ宰相を務める男の懐に、手を入れられる? 幾ら詐欺を指弾したとしても、その証拠はこの国最大の聖域の中だ。どうにもならない。

「ぬう……確かに」

「だ、だがよォ、もしご主人が、こんな馬鹿げた恩賞をやれるような行動を起こさなかったらどうするんだ? 普通に何もせず、作法通りに決められた恩賞だけ貰うように動いたら?」

「……それをすれば、閣下は破滅していたでしょうね」

ヴィクトルが蒼い顔で言う。

「おそらく、ドゥーエ殿が言われるパターンで動いた場合の恩賞は、単純な加増ではなく国替えとなる筈。ヴォルダン、いえ手塩に掛けて育てたマルランから切り離して、エルピス=ロアーヌでも、改易された貴族の領地にでも良いから別の土地へと押し込む。その後、こちらが慣れない土地の統治に手間取る間、何やかんやと無理難題を押し付けて取り潰す。それを思えば……口惜しいことですが、現状が最良の部類でしょうな」

「ヴォルダン州の免税を勝ち取ったし、国土防衛の一角も担わされているからね。そうなると僕も迂闊に動けないし、逆に王宮の側も下手に切れない」

「いや、待てよ。そんな真似が出来るんなら、恩賞がどうのとかやる必要は無ェだろ? ご主人が例の問答の作法を破るって予言して、それを口実に無礼討ちで処刑すりゃいい。ラヴァレの爺さんにとっちゃ、一番楽な方法じゃねェか」

相変わらず、ドゥーエは分かっていないな。僕は思わず溜め息を吐く。

「あのねえ、君は僕を誰だと思っているんだい? 自分が生き残るために王都だって焼いた男だ。そのことはあの爺さんだって、とっくにご存じだよ。……だから、そんなことは出来ない」

「あん?」

「だって、あの場で僕を殺そうとしたらさ……逆に殺されちゃうじゃないか。この国の中枢である国王、宰相、その他大貴族の面々がさ」

そう言って僕はユニを見る。あの日も陰から僕を守るために王宮へ潜入していた、僕の最も信頼する懐刀を。

「国が僕を殺すくらいなら、僕が国をぶっ潰す。そういう男だって、ラヴァレの爺さんは知っていただろうさ。下手に王手を掛けると、盤面ごと引っ繰り返すような真似を仕出かす。だから、いずれ詰みに至る布石を打つだけで良しとすることにしたんだよ」

あの陰険爺の嫌なところは、自分が死ぬからって自棄にならず、冷静に現状で必要な手だけを打って来るところだ。策謀に淫するだけの輩なら、寿命が迫る時期に宿敵がいれば、無理押しにでも殺しにかかる。その結果、守るべき理想を穢して本末転倒な結果を呼びこもうとだ。

けれどもラヴァレは、僕が王国をこれ以上蚕食出来ないよう、動きを制限する方向に舵を切った。位打ちで他貴族との紐帯を切って洗脳の機会を潰し、内政と国防にキリキリ舞いにさせる。しかも大人しく課された義務をこなしている限りは、危機は無い。あくまで、しばらくは。

「僕がドルドラン辺境伯を日傘にしている地方貴族程度なら、目溢しもされただろうし、上手く味方につけようと躍起にもなっただろう。けれど身代が侯爵にまで膨れ上がると駄目だ。迂闊に組み込めば派閥を飲み込まれかねないと、中央も地方も戦々恐々になる。下手をすれば、不倶戴天だった筈の二大勢力が手を組んで、僕を攻撃し始めかねない」

「それが嫌なら、御国の為に奉公せよ。狼ではなく狗ならば飼ってやろう。古来、狡兎死して走狗煮らると言う。だがザンクトガレンという獲物がいる以上、走狗の身の上は安泰であろう……こんなものが、あの老人の本当の――閣下に向けた遺言でありましょう」

ヴィクトルがそう結ぶと、室内には重苦しい沈黙が流れた。

墓の下から伸びる枯れた老人の手に、口元を押さえられたように。

やがて、ドゥーエが頭をガシガシと掻きながら沈黙を破る。

「何て言うか……勝ち逃げされたな、あの爺さんに」

その言葉が堪えたように俯いたのは、やはりというかヴィクトルだった。

母と自分を捨てたラヴァレを恨み、憎むべき父を超えようとしていた隠し子。だが、それが叶わないまま、寿命という形で逃げ切られてしまった。彼が考えているのは、そんなところだろうか。

ああ、なんて――

「――馬鹿馬鹿しい」

「か、閣下?」

「き、急に何だよ? ご主人……」

ドゥーエもヴィクトルも笑わせてくれる。

勝ち逃げされた? とうとう父を超えられなかった? 戯けたセンチメンタリズムも大概にしてくれないだろうか。

「馬鹿なことを言うなよ、ドゥーエ。落ち込んでいる暇は無いだろう、ヴィクトル。まったく、二人とも爺さんの影に振り回され過ぎだよ」

「はい、ご主人様。……借りをお返しする前に身罷られたのは口惜しくあります。が、御老体にはこれ以上、状況の変化に対し打つ手が無くなったのも事実です。人間、死ねば手を動かせないのですから」

「そう。魔物に魂を売って、アンデッドにでもならなきゃね」

冗談口を交えて、ユニの言に肯く。

どう言葉を飾ろうと、あの爺さんは僕を完全に引き摺り下ろす前に死んだのだ。僕は詰みに至るかもしれない盤上にいるが、ラヴァレはというとゲーム自体から脱落した。

なら、勝ち負けを言うならば、

「勝ったのは僕だ。爺さんは死んで、僕は生きているんだからね。……違うかい、二人とも?」

「それ、は……」

「流石にちいっと、負け惜しみが過ぎるんじゃねェの?」

ヴィクトルは多少気力を取り戻したようだが、ドゥーエはこれだ。まったく、分かっていないなあ、この棒振りは。

「だって、爺さんの後にこの国には誰が残っている? 耄碌した王様に、今度こそ糸の切れた操り人形の宰相。中央集権派は領袖の後継者が明確じゃなく、分権派は結局自領の利益を求める貴族の寄り合いでしかない。兄上は修道院送りで、ドルドラン辺境伯は僕の味方……有象無象の障害物はまだまだあるけれど、唯一敵と言えるラヴァレは寿命切れでいなくなった。運良くとはいえ、僕は勝った」

確かに僕は包囲網を布かれ、追い込まれているように見える。政略的には国内の二大派閥から孤立し、戦略的には三大国の重圧の下だ。

だが、その全てが連携するには時間も伝手もまるで足りない。集権派と分権派は僕を敵視するだろうが、まずお互いの遺恨を捨てて手を組まなくてはいけないだろう。そんな真似は今日明日に出来ることではない。現状で集権派の頭を張っているのがあのランゴーニュ伯では、特にだ。

アルクェール、オムニア、ザンクトガレンの三国に挟まれていようと、それを気にする必要があるのは反逆する場合のみ。権力にそっぽを向いて内政と研究に勤しんでいれば、どうということは無い。ザンクトガレンだけは恨み骨髄だろうが、あそこはまず盟主の大王家と連邦構成国の仲が悪い。まずは敗戦の影響を禊ぐ為の国内整理が最優先で、アルクェールに目を向けるのは、もう少し先だろう。

しばらくは僕も大々的に動けないが、邪魔者どもも動けないのだ。

ラヴァレは確かに僕を追い詰めて見せた。だが、追い詰めて見せただけである。

彼は見事な策を披露してくれた。本当に見事な……悪足掻きだ。

「爺さんが墓の下から自分の勝利を主張するなら、快く認めてやるとも。ええ、そうです、確かに貴方は『一回』僕に勝ちましたね……ってさ。だけど、この後に僕のターンはあっても、ラヴァレの手番は回って来ない。生き残りを賭けたゲームには、今を生きている者しか参加できないんだから。これじゃあ、文字通り勝負にならないじゃあないか」

「更に捕足させて頂きますれば――」

と、ユニの声。

「――彼の侯爵は、見落とすべきではない事実を忘れておられます。謀略の為にご主人様に領地を献じたら、何が起こるのかを」

言われてみればそうだ。僕がこんな権力闘争に関わることになった端緒は、兄ライナスがマルランの子爵なんぞにしてくれたことにある。お陰で僕はカナレスでドライを手に入れ、地下にラボを密かに建設し、人目の付かない場所にシャールやフェムのような存在を手駒として隠匿していられる。それが今度は侯爵、領地は州が三つと来た。大盤振る舞いにも程がある。

僕らに言われたヴィクトルは、しばらくフルフルと身体を震わせていたが、

「くくっ、成程……生きている者の勝ち、ですか。あの男の見落としですか! はははっ、確かにっ! 私が気を落とす理由など、何も無いではないですかっ! これは傑作だ……!」

激励を受け止めてくれたらしい。元気な笑顔を見せてくれた。

ドルドラン辺境伯も、例の顎鬚を摩る仕草をしながら言う。

「卿らの弁は極論ではあるが……生きていればこそ花実も咲こうというもの。死に花、仇花の類に目を奪われるよりかは、建設的であるかもな」

「そうですとも。何事も生きていてこそ、でしょ?」

僕は口の端を持ち上げつつ肩を竦める。

勿論、状況が悪いことに変わりは無い。一手のミスでそこから崩されるような、危うい盤面に置かれている。だが、そこから詰めていける打ち手は、この国にはもう存在しないのだ。

ジョルジュ・アンリ・ラヴァレ侯爵の最大の失策。それは僕に重荷を負わせるつもりで余計な力を付けさせたこと――ではない。それは血統の面であれ思想の面であれ、真っ当な後継者をついぞ用意出来なかったことにある、と僕は思う。侯爵家を継ぐ孫は、祖父が八十になる瀬戸際まで跡目を譲られなかったという体たらく。彼の派閥である中央集権派はご覧の有様だ。僕のように自分が永遠に生きる気でも無かったというのなら、その辺りの用意が無いというのは片手落ちに過ぎる。

もっとも、才幹と思想の面では最有力の後継者候補だったろう男は、僕の下に着いてそこでケタケタ笑っているが。

ああ、ようやく気分が落ち着いて来た。やっと、いつもの僕らしくなれてきた気がする。

そうだよ、苛立つことなんてないじゃあないか。さっきも言ったが、この国で僕の敵はラヴァレ一人。彼が亡き今、その他の連中は時間さえ掛ければどうにでもなる。不老不死を研究する為の時間を割かなきゃいけないのは癪だが、これも生き残る為だ、仕方ない。

「長話していると、喉が乾いちゃったな」

「畏まりました。少々お待ちを」

そうしてユニは、いつも通り僕の為にお茶を淹れに行く。ドルドラン辺境伯もいるので、ついでにワインとつまみも持って来なくちゃいけないだろう。

これからの僕のもそれと同じだ。いつも通り、今まで通り、ただ幾つか、新たにやるべきことが出来ただけのこと。まったくもって通常進行。煩わしい雑事が増えただけのこと。

……残念だったね、爺さん。これがアンタの得意なお貴族様のゲームなら、そちらの勝ちで終わっていた。最期の詰めをする打ち手がいなくとも、これだけの包囲網を布かれた時点で、二進も三進もいかなくなる。けど、僕はあくまで錬金術師。貴族の身分なんて余禄に過ぎない。無様だろうと地を這おうと、生き残って永遠に辿り着ければ、僕の勝利だ。その為なら、領地も権力も民も貴族も王も国も、奴隷と同じで幾ら磨り潰そうと構わない。勝負の土台が違うから……だから、僕とアンタじゃ勝負にならないんだ。

さようなら、僕の第二の人生に現れた、最初の敵。僕は君のいない世界で、君と戦わずに勝利する。だから爺さん、精々勝ち誇ったまま、安らかにあの世に行くと良い。

僕はユニが戻って来るまでの間、目を閉じて静かに黙祷を捧げた。

あの厄介な敵が化けて迷い出て、この世に舞い戻ったりはしないように。

それと、

(――爺さんも死ぬんだな。僕が殺すまでは、往生際悪く生きていると思っていたのに)

胸に残る、小さなしこりを無視するように。

死は無慈悲で平等という摂理から、目を背けるように。

※ ※ ※

ザンクトガレン連邦王国は東、森が切れて開けた平野部にその都はあった。

連邦盟主、グランドンブルク大王国が王都ガレリン。

その景観の特色は、一言で言えば質実剛健。皇都オムニアの重厚な歴史的情緒も、アルクェール王都ブローセンヌのような芸術的繊細さも、マールベア王都ヘプタークに見られる神秘的風景も無い。だが、精緻な都市計画により生み出された機能美に溢れた街並みは、石造りの灰色の街に、支配者の重圧と市井の活況という二要素を、矛盾無く並立させている。

街を貫く大路を中心に放射状に広がる、網の目の如き区画。夜になればそれを煌々と照らすだろう、街路に設えられた背の高い魔力燈の数々。市民の心を潤す緑野に溢れた公園。劇場、音楽堂、美術館、公会堂、学校、教会、その他の工夫を凝らした建築物。それらが計画性に満ちた景観を、決して殺風景な物としないよう彩りを添えていた。

秩序ある大都会。それがガレリンという都を、最も端的に言い表した言葉なのかもしれない。

その整然とした都市を、時ならぬ騒擾が包んでいた。

変事ではない。街をゆく人々の顔に危機感は無く、商店は常と変りなく物を商っている。

だが、今日の都に広がっている光景は、瞠目に足るものだった。

中央の大路を行く、兵士、兵士、兵士。先頭を行軍する騎馬の将校に、徒歩の儀仗兵が続く。装飾性を優先した装いとは言え、武装は武装。槍を携え弓を抱えた軍隊が、威圧的に街中を練り歩いている。その脇を等間隔に大きく開いて騎馬隊が進み、列の中ほどにはチャリオットを思わせる馬車に乗った魔導師たちが姿を誇示する。

軍隊によるパレードだ。

知っての通り、ザンクトガレンは先立ってのヴォルダン戦役で一敗地に塗れている。でありながら、まるで凱旋する戦勝国軍が如き奇妙な振る舞いだった。しかし、行列を見物する市民のほとんどには、それを指弾する気配は無い。一様に王都を行く軍列の美々しさを称賛し、逞しさに信を寄せ、その強兵ぶりを疑ってはいなかった。

彼らの不可解な心理を表すと、下のような一言となる。

――敗れたのは、自分たちの国ではない。

ヴォルダンで、隣国の一伯爵風情に後れを取った軍隊は、所詮は領邦たちが連合した二線級の兵たち。大王家直属の最精鋭には、二枚も三枚も劣る雑兵に過ぎない。その不甲斐無さを嘲る気持ちはあれど、怒り、悲しみ、悔しがる必要など何処にあろう。その証拠に、見よ、我らが軍は今ここで物々しく雄姿を誇示しているではないか。負けたのは、同じザンクトガレンに属してはいるが、ガレリン市民からすれば別の国の軍……複数の国家が野合した連邦故の、国民意識の捻じれである。

他国から見れば奇妙な、ガレリンに住まうグランドンブルク国民からすれば当然の、その行進を、街路を見下ろすバルコニーから眺めやる一団があった。

「いやはや、流石はザンクトガレン、いえ大王家直属の直轄軍。見事な装備と規律ですな」

「はははっ。斯くもお褒め頂けるとは、兵たちも面目を施せるというもの。光栄の極みであります」

「この軍を発して攻め入れば、割譲した領土も一日で取り戻せるやもしれませぬ」

「割譲? はて、我らがグランドンブルク、そしてハイデルレヒト大王家は、寸土たりとも他国に献じた覚えはありませんが?」

「おっと失礼。情けなくも敗北し、領土をアルクェールめに差し出したのは、あくまで領邦の者たちでしたな。これはこれは、私としたことが……」

「滅相も無い。これも我が国の複雑な成り立ち故のこと。お気に為さらずとも結構」

「ははははははっ!」

空疎に飾り立てられた世辞を交わし合うのは、国家間の外交に携わる職責を持つ者たちだ。

片方は言うまでも無くザンクトガレンはグランドンブルク大王国の宮廷人。もう一方は海を隔てた先にある島国、マールベア王国から派遣された駐在大使である。

ヴォルダン戦役の敗北により、ザンクトガレン王国は四万から成る軍団を失った。幾ら盟主の懐を介さぬ領邦国家群の兵とは言え、数が数だ。加えて出兵に掛かる費用に関しては全くのロハとはいかない。普通であれば、その穴の為に国力を落とす筈。

そんなことはない。大王国の、大王家の力は些かたりとも減じてはいないのだ。都に列為すこれなる将兵たちの姿こそ、その証拠。我らを侮るなかれ、侮らばその間隙を、この軍が討つであろう。それを十分肝に銘じよ……。

このような意思を内外に示す目的で、このパレードは組まれているのだ。

「実際、アルマンド方面では貴国が優勢、いや圧倒しておりましたしな」

「そう仰って頂けるとは、軍の者たちも鼻が高いでしょうな。我々としましては、せめてアルマンド公ご自慢の要塞線を、砦一つでも削って貰いたかったところですが」

「いえいえ、敵方に守勢を強いるはザンクトガレン軍本隊の武威あってこそ。それが故に、兵を損じることなくあの国から食糧を手に入れられたのでしょう?」

マールベア大使の言葉に、グランドンブルクの外交官が人の悪い笑みを漏らす。

ヴォルダンで別働部隊が殲滅されている間、北部方面を担当していた本隊も遊んでいた訳ではない。アルマンド公爵家の軍が骨子とする戦略は堅守。基本的に砦に籠り、野戦に及んでも陣を堅くして耐え抜き、本国からの来援を待ってから反撃に掛かる。そうして相手が守りに回っている間、グランドンブルク直轄の主力部隊は、刈り入れ未了の畑から略奪を恣(ほしいまま)にした。

開戦の原因は食糧難で、求めていた物もまた食い物。それが得られれば戦争を継続する旨みは無い。賠償を求める声を封じる代わりに寸土を献じて、後は頬かむりすればいい。領土割譲に不満を抱く連邦を構成する領邦群も、今回得た食糧から分け前をやれば黙らせられる。バハリア王国のような別働隊で貧乏籤を引かされた連中は、それでは収まらないだろうが……その意を主張する為の後ろ盾となる軍事力は、アルクェールの若造一人を前に消し飛んでいる。ザンクトガレン全体としては負けた上に領土を失った大損だが、連邦盟主のグランドンブルクにとっては、食糧危機を回避しつつ連邦全体への影響力を増した格好だ。

「食糧と言えば、貴国の支援には誠に助かり申した」

ザンクトガレンの宮廷人が、目を伏せつつ礼を述べる。

「マールベアよりの食糧輸入あって初めて、何とか糊口を凌ぐ目途が立つというもの。この恩には何とも報いねばなりますまい」

「はて? 何のことでしょうかな?」

マールベアの大使が含み笑う。

「我が方の商人が、己の利分の為に食糧を商っただけのこと。感謝の謂れなどありますまい」

「これはこれは……何とも慎み深いお言葉で」

「慎み、と言えばですが――」

抜け目無さげに細められた眼光がチラリと覗いた。

「――此度のアルクェールの仕儀、誠に慎みを欠いた挙であること。豊かな実りを独占し、隣国の苦境を素知らぬ顔で高い麦を売り付けるとは。これぞ正しく不届き千万というものですな」

「然り然り。同じイトゥセラの民、同じく聖王の御心に仕える信徒とは思えませなんだ」

「我がマールベアの女王陛下も、この件については御不快であらせられると伝え聞いております」

「何と! あの慈悲深さで知られる、貴国の女王陛下が!?」

「アルクェール人の無慈悲で貪婪な振る舞い。恩愛に満ち人道を知るものであれば、快く受け止めるという訳には……」

「成程。当然の仕儀と言う訳ですな?」

「はい」

口々に上がるは、アルクェール王国に対する非難の意思。それを共通して言葉にする以上、両国の意思は明白だった。対アルクェール王国への、共同歩調。大陸に冠たる二大国が、軌を一にしてこれに当たろうという同盟に他ならない。

今回、アルクェール王国は勝ち過ぎた。戦前には貿易でザンクトガレンから暴利を貪り、戦後には圧倒的戦果と相手方の継戦能力の欠如を良いことに、短時日のうちに有利な講和をせしめている。領土を増やして大陸東方に進出し、ますます国力を増大。手を拱いていれば、敗れたザンクトガレンは元より、マールベア王国もまたアルクェールを掣肘出来ずに外交・貿易の面で不利益を被るのは目に見えている。

それを防ぐ為のザンクトガレン・マールベア同盟。互いに国益を得んが為の最大の障害、アルクェールに対する為の後ろ暗い握手だ。

「当面は、我らマールベアが貴国の食糧調達に関して、全面的な支援を約しましょう。商人どもは、少しばかり値を吊り上げ過ぎておりますからな。今少し融通を利かせるよう、何とか説き伏せる所存」

アルマンドから入手した食糧も、所詮は一地方の一年の収穫、その更に何割かが精々である。飢饉に喘いでいたところに一息つけたが、今後大胆に活動するにはまだまだ足りない。そこへ来てこの支援の提案は、まさに干天の慈雨だ。

「おお、これは心強い。その間に我がザンクトガレンは……いや、グランドンブルクは――」

「地歩を固めて、再戦を期すという運びになりましょうな」

「その為には……足元を取られぬよう、余分な雑草は刈り取る必要があると愚考しますが?」

グランドンブルク側が言っているのは、領邦国家への対処に関してである。今回の戦役で最も不利益を被ったのは、必勝を期した筈の出兵で無残に兵を損なった、バハリア王国を始めとする連邦構成国。これらの不満を抑え、連邦盟主グランドンブルク大王国の権威を高める為に――眼下で行軍する大王国軍に、その本領を存分に発揮させる。

国家群の寄り合い所帯とその議長役。そんな不安定で柔弱な立場などに飽き足らず、大陸東方全土を糾合し号令する、大王の名に相応しい絶対君主を目指す。それがグランドンブルク、ひいてはその上に君臨するハイデルレヒト大王家の意向だった。

連邦のくびきに身動きを封じられていた巨獣が、ついに更なる拡大へと動く。野心も露わな宣言に、それを聞かされた大使はニッコリと微笑む。

「友人の家の庭が綺麗に片付いた光景は……紳士のみならず貴婦人をも喜ばせましょうな」

大陸で最も高名な貴婦人、女王を頂点に戴く紳士たちの国。海と女王の国とも言われるマールベアから来た男は、そう言って茶で喉を湿した。

「これはこれは……では草刈りに際しては入念に致す所存」

「結構なお心意気と存じます」

両国の外交を担う男たちは、穏やかに、しかし油断ならぬ笑顔を交わし合う。

そこへ、

「ふあぁ……」

老人の気の抜けた欠伸が割って入った。

「……君たち。先程から二人で話し込んでばかりで、儂のおる意味が無いではないか。茶会で時間を潰す趣味は無いでな、用が無いなら帰らせて頂きたく思うが?」

「お止め下さいまし、教授」

見事な銀髪に見合わぬ稚気じみた言を漏らした老人を、傍らに立つ女性が諌める。

「貴方も貴族にございましょう。こうしたやり取りを厭っていては、他家の者との社交すら儘なりませんでしてよ?」

「貴族と言うてもなぁ……儂はその前に学徒にして錬金術師よ。領地も猫の額程度であるし、税の上がりもスズメの涙ほど。研究資金の足しにもならん。土地と位を売って儲けが出るなら、今日にでも手放しても――」

「きょ・う・じゅっ! 他国からお越しの方の前ですっ!」

「やれやれ、相変わらず口煩い娘だ。だから二十歳となっても一向に嫁の貰い手が――」

「……何か仰いまして?」

「――いや、何でもない」

穏やかさの下に剣呑さを隠した外交の場で、漫才じみたやり取りを始めた、歳の差隔たる男女。その姿にマールベアの大使が目を丸くする。

「あの、こちらは?」

「ああ、失敬。このパレードの出し物の一つに協力した、当方の魔導アカデミーの学徒でしてな」

「……ほら、教授。ご挨拶を」

「何故、そんな無駄なことを。マールベアの使者など、付き合いは今日限りに決まっておろう? 今後に会う訳でもない相手であれば、顔も名も覚える必要など――」

「い・い・か・らっ!」

介添えの若い女性にせっつかれて、銀髪と銀の髭を蓄えた老紳士が、顔を顰めつつ口を開く。

「……ガレリン魔導アカデミー、錬金学科教授、パウル・エグベルト・フォン・グラウマンと申す。以後――別にお見知り置きせずとも良い」

「何ですの、その非常識な挨拶は……失礼。同じく錬金学科研究生、フレデリカ・ユリアンナ・フォン・カステルベルンと申します。我が師の粗相に寛大なお許しを頂けますよう、お願い致ししますわ」

続けて、亜麻色の髪の娘が見事なカーテシーを決めつつ頭を垂れる。

錬金術師。魔導先進国であるザンクトガレンにあってさえ、他の魔導師に比べ一段も二段も低い位置にあるとされる賤業の術者。鉛に鍍金(メッキ)を施して黄金を産んだと喚くが如き詐欺師。それが非公式の色が強いとはいえ外交の場に引き出されたことに、大使が眉を顰めた。

その視線の先で、フレデリカと名乗った娘が外交官に向かって小声で囁く。

「だからあれほど申し上げましたでしょうに。教授(こんなもの)など他国の目に触れさせては、赤っ恥を掻くだけです、と」

「いや、まさか、ここまでの振る舞いをされるとは……」

「その、話が見えないのですが?」

大使は声を低めつつ口を挟んだ。

宮廷人とフレデリカは、さっとを身を翻し揃って顔を赤らめる。

「あ、あはは。その、何ですか。これよりお目に掛けたき儀に関して、この両名の協力が大なる訳でして。是非とも貴殿にもお見知り置き頂きたく」

「錬金術師が、ですか……」

多分に偏見を含んだ声音が漏れる。古今、錬金術師とは、魔力に乏しい魔導師が、霊薬の調合などで口に糊するのが常態となった稼業だ。でなくば、先に述べたような詐欺師である。ザンクトガレンの魔導アカデミーでは学科を置いてまで研究を続けているようだが、その規模は小さいと聞く。一般的に魔導師らしい魔導師を育てる魔導兵学科と比べると、雲泥の差というものだ。

相手もそれを察したのだろう。グラウマン教授とかいう、偏屈そうな老人が鼻を鳴らした。

「ふん。マールベアもザンクトガレンも、アルクェールと変わらんな。先入観に囚われ事の本質を見失い、時間と資材とを浪費する。これでは我が道への理解を求めるのに、如何ほどの時間が掛かるか。これではこんなところに来ないで、研究の続きでもしていた方がマシであったな」

「教授っ! 国賓の前ですわよっ!?」

「知らぬ知らぬ。国賓だろうと赤貧だろうと、悉皆どうでも良かろう」

そうしてプイっと顔を背けてしまう。まるで子どもだった。到底、髪を白くした老人の言動とは思えない。或いは子どもに返っているというやつなのかもしれないが、見たところ六十代半ば。まだそのような歳には少し早いだろう。

「まったく、政治屋どもは研究者の意を解さぬ者ばかりじゃて。この前もデータを取る前の試作キメラを、国策だ何だと接収されたばかりと言うに。アレの顛末を聞いたか、カステルベルン? 無理に実戦投入した挙句に暴走したらしいぞ。だからあれ程止めよと言うたであろうに!」

「痛ましいことですわね。調整スタッフとして徴用されたお弟子たちの事を、教授が悼んでいらっしゃらない辺りが、特に」

「? あ奴らは弟子ではないぞ、単なるゼミナールの学生どもだ。死のうが生きようがどうでもよい。儂が弟子と呼ぶ生徒は、君のレベルに達するのが最低限度であると認識しておるのだが」

「はいはい、私は不出来で未熟で最低限度の弟子ですわね。どうも申し訳ありませんことっ!」

などと言い合う二人に、宮廷から派遣された男は、冷や汗を掻きながら必死に愛想笑いを浮かべた。

「とまあ、変わったお人ではありますが……う、腕の方は保証します。我が国屈指、いえ一番の錬金術師であります」

「はあ、左様ですか」

国一番の錬金術師と言われても困る。一番だろうが二番だろうが、普通はこのような場に出て来るような職種ではないのだから。感覚としては、パーティーの会場で先方から、仕事の早い掃除夫や腕の良い靴磨きを、さも重要そうに紹介されたようなものだ。戸惑う外無かった。

「それで彼らの研究の成果ですが――」

「儂らの研究? 馬鹿を申すな。あのような人真似の児戯、研究の成果などと胸を張れるか。このグラウマンを、弟子の成果を盗んで鼻高々になるような小人とお思いか?」

「教授は黙っていて下さいまし」

「むぅ……」

「――と、兎も角、あちらをご覧下さい」

そう言って、眼下の大路、パレードの後方を指差す。

軍列の中に、奇妙な一団があった。木のストックを着けた鉄の棒のような物。その奇妙な物体を携えた、十名ばかりの兵士たち。鉄棒は、どうやら筒状に成型された物らしく、目を凝らすと先端に穴が空いているのが見える。根元付近からは縄が不格好に飛び出しており、どうにも見栄えが良くない。兵隊が所持している以上武器なのだろうが、それほど強そうには思えなかった。

「何でしょうな、アレは?」

「まあ、見ていて下さい」

ザンクトガレン側は、妙に自慢げである。

訝る大使をよそに、丁度バルコニーの下の広場のような空間に着くと、パレードの兵士たちは足を止めた。そして、訓練用の人型に括られた藁束が並べられ、兵士たちは十メートルは離れたそれに向けて鉄棒を構える。例の飛び出た縄のような物に火が点され、チリチリと焦げ臭いにおいがここまで届いた。

指揮官の合図とともに、ストックに備え付けられた引き金が絞られる。

――パァンっ! パァン、パァン、パンパンっ、パァンっ!

断続的な破裂音が響いた。

同時、標的とされた藁束が、見えない何かに打ち据えられたように藁を散らす。

見物の市民がまず驚きの声を、次いで歓声を上げた。

「こ、これは……!?」

「俘虜となった後に帰還した兵たち、その証言から作らせた、新兵器です。……領邦国家の連中がヴォルダンで苦杯を舐めた、例のアルクェール軍の、ね」

轟音とそれが齎した結果に驚愕するマールベアの大使へと、続け様更に驚くべき事実が告げられた。

アルクェール軍の新兵器? それを作らせた? 証言だけを元にして?

そんな馬鹿な。今見た物が真にアルクェール軍の使った物だとすると、時間が合わない。ヴォルダン戦役からまだ一月しか経っていないのだ。幾ら複製元が存在するとしても、驚くべき開発期間の短さである。

森と精兵の国ザンクトガレン。大陸最大の軍事力を誇る国家。その底力の程を、まざまざと見せつけられたようなものだ。

グラウマンが退屈そうに顎鬚を弄りながら言う。

「確かマスケット、とか言ったか。つまらん。単純な原理の玩具に過ぎん。要は火薬に点火した縄で以って着火し、筒の中で爆発させ、その圧で弾を打ち出す。それだけの物よ。雑兵が雑兵を打ち払うだけの、下らない武器だ」

「……その下らない武器に使う火薬を調合する為に、私は大変苦労致しましたのですけれど? 硫黄だのご不浄の下の土だの、臭い物ばかりを扱わされて――」

「ふんっ、調合中に爆発事故が起こらんかっただけ良かろうよ」

「ばっ――!? そ、そんな危険な物を作らせていたんですの!?」

「硫黄も硝石も火の霊薬であろう? 扱いをしくじれば、爆発の一つや二つ起きるわい」

錬金術師どもの漫才を聞きながら、マールベアの男はその頭脳をブンブンと音が鳴るほど回転させる。それは彼らの技術力に対する考察……ではない。この男の脳裏を占めるのは、もっと実際的で、軍人らしい思考であった。

(鉄の筒に爆発する霊薬を詰めて点火し、その勢いで弾を打ち出す? これは……もっと大型化出来るのではないか? そうすると陸上では輸送するにも手間だが、船に乗せれば運べるか。……いや、待て。船だと!? そうだ、コイツを大型化して艦船に大量に搭載すれば、希少な魔導師に依存せずとも軍艦の火力は飛躍的に上がる! ……こうしてはおれぬ。我が海軍を更に精強ならしめる転機だ! 早急に本国に連絡を――)

「どうなされた、大使殿? 何やら考え込んでおられるようであるが」

ザンクトガレンの宮廷人が、ニコニコと笑みを浮かべながら親切ごかして聞いてくる。マスケットのお披露目でに衝撃を受けているだろう相手に、稚拙な優越感を抱いているに相違無い。

無論、笑顔と口舌とで交わされる紳士的なゲームに長けたマールベア人である。そのような裏など、子どもの隠し事を見抜くより容易く読み切っていた。

「……いやはや、思いの外大きな音に肝を潰しましてな。それに新たな武器の登場となると、どう攻略するかを思うと頭が一杯になりまして」

嘘は言っていない。彼はこのマスケットを攻略する気でいた。ただし、このちっぽけな新兵器から着想を得た、より強力で強大な兵器によってである。

イトゥセラ大陸にはこんなジョークじみた警句があった。

料理の味とかけて外交と解く。その心は……どちらもマールベア人の舌を信じてはいけない。どうやら目の前のザンクトガレン人は、迂闊にもその言葉を忘れてしまっていたようだ。

「そうですかそうですか! 当然のことでしょうなあ、何しろマスケットはアルクェールの連中が先んじて導入した代物。我々としては、これをどう無力化するのかにも、知恵を絞らねばなりますまい」

「まったくですな。これは難物であります故……」

自分の得た発想を隠し通せたことに安堵しつつ、純朴に大笑するザンクトガレン人を腹の底で見下す。勿論、祖国の王都ヘプタークの霧の如き笑顔の裏へと、その意を慎み深く隠して。

(ふふふ……所詮は東方の田舎者か。目新しい物を手に入れると、見せびらかさねば気が済まぬと見える)

軍事力に驕り、剛腕に物を言わせて領邦を締め付け、大陸東方に地歩を築かんとするザンクトガレン。彼らからすれば、マールベア王国などちっぽけな島国。折り良く食料などの輸入品を都合してきた、廻船問屋くらいにしか見ていないだろう。

だが、実態は違う。

(貴国の食糧問題はいまだ完全には解決しておらぬ。今は民力を養い、魔物の発生や飢饉で荒れた農地の回復を待つ時。それを我らの助力に躍り上がって忘却し、傘下の領邦へと牙を向けようとしている。……愚かな。それでは連邦構成国の恨みを買うだけよ)

如何に精強な軍事力を持とうと、力による支配だけで広大な連邦全土を統治することなど出来ない。ましてやグランドンブルク大王国一国だけの力では、だ。同盟関係にあるマールベアとしては、友邦の不安定な政治情勢に憂慮し、有形無形の支援を行う義務が生じるだろう。だが、外国の力を借りた統治は、必ず国内に不満の種を育てることになるのだ。

そしてそれを宥める為の食糧や嗜好品も、マールベアから輸入される。食糧の自給に事欠く中で、必需物資の供給を外国に依存するのだ。ザンクトガレン商人たちもマールベアとの間にコネを結び、苦労して復興を遂げようとする自国の農村からではなく、格安で提供されるマールベアの食糧を買うだろう。

するとどうなるか。復興の立ち遅れたザンクトガレン全土を、マールベアが政治経済の両面で影響下に収めるのだ。

海と女王の国の侵略に、必ずしも血を流す必要は無い。このような手合いに対しては、船から降ろした物を流せば良い。

そうして傀儡と化したザンクトガレンをぶつけ、アルクェール王国の疲弊を誘う。後は適当なところで仲介の労を取り両国への影響力を増すか。それとも一挙にアルクェールへトドメを見舞い、土壌の豊かな同国を、友邦と仲良く分割するかだ。

(踊れ踊れ、旧大陸の愚者どもよ。最後には、我らが女王が全てを統治し給う、さ)

脳裏の未来図に祖国の勝利を描き、マールベアから来た男は笑う。腹の底に本心を押し隠し、表向きは外交の相手と歓談する風に見せかけながら。

そんな芸当に興じていた為だろうか。

男はすぐ傍で交わされていた会話を聞き逃していた。

「それにしても、あの男が手掛けたにしては随分と大人しい代物ですわね、マスケットは」

「なに、慎重な彼奴のことだ。恐らくはより強力な何かを隠し玉として抱えておろう。先にも言うたが、これは所詮玩具の域を出んよ」

「本当に碌でもない物しか作りませんわね、アレは。何でもこの戦争での武功で大層出世したと聞きましたけれど……信じられませんわね。アルクェール王国は内側から滅びたいのかしら……?」

大陸を揺るがす騒乱の鍵を握るであろう男。

それに繋がる情報を秘めた、錬金術師たちの会話を。

※ ※ ※

オムニア。

それは歴史と信仰の国と称される、大陸最大の宗教・聖王教の総本山である皇国の名であり、かつその国の首府である皇都の名でもある。

古代の言葉で『全て』を意味する国号通り、皇国はかつて大陸で唯一の国家であった。

千年以上前、イトゥセラ大陸は魔物に支配されており、人類は南方の半島に逼塞する弱小種族の一つに過ぎなかった。平野の城砦に籠り、身を寄せ合うかのように怪物の脅威に震える人々。非力であり文明も未発達であった彼らは、強大な力を誇る魔物によって、すぐさま駆逐されるかと思われた。

転機が訪れたのは、一人の聖人が世に出た時である。

聖王。

その本名は経典においても秘密めかして隠されており、杳(よう)として知れない。出身については諸説あるが、聖典に残る言行からは、洗練された知識と善性に満ちた人となりが伝わる。そのことから、当時としては富裕であり、教育を満足に受けられるだけの階層に生まれついたことは、歴史家たちも一様に認めるところだ。聖王の名の通り、古代都市国家の王族出身であったのかもしれない。

彼は滅亡間際の人々に説いた。勇気を、希望を、信頼を、愛を……人間の素晴らしさを。東の城壁に貧しい者がいれば施しに行き、西に葬列があれば弔いの涙を流し、南に新たな子が生まれれば祝福の声を掛け、北に魔物との戦いがあれば馳せ参じた。

人々は彼の姿に希望を見た。彼の人ならば、風前の灯火であった人類を救うことが出来ると。多くの人が彼の下に馳せ参じ、団結し、戦った。

普通であれば、これにて一件落着。人類の軍勢は魔物を押し返し大団円を迎える……ありふれた英雄譚ではまま見られる展開だろう。

だが、そうはならなかった。それ故に聖王の伝説に異様な生々しさを与え、人間離れした聖人の存在に真実味が付与される。

聖王の軍は、魔物との戦いに大敗北を喫したのだ。希望は打ち砕かれ、勝利は幻想と化し、愛は誰一人何一つとして救うことは無かった。

人類は再び絶望の只中に飲み込まれる。笑顔は消え、友情の萌芽は苦境に瀕しての裏切りに踏み躙られた。そこにあったのはまさに負の人間性の坩堝。その渦中にあって、彼は悲憤慷慨し我が身を嘆く。

――どうして、私には彼らを救えないのか。

――どうして、愛する人々を笑顔に出来ないのか。

――人々に、希望を胸に朝日を迎える日々は来ないのか。

涙を流し、悲嘆に暮れ、僅か三十人にまで打ち減らされた敗残の軍と共に撤退の途に着いた聖王。彼が現在のオムニア皇都のある土地に辿り着いた時である。

……初めて、奇跡が起きた。

「『かくて、彼の人は十二の使徒と共に神座に上った。父なる光と一つとなり、神々の聖なる王となった。故に彼の人は以後、聖王と称され、昇天の地は、全てに祝福あれ、との祈りによりオムニアと名付けられた』……だったか」

「十二正典の最初の一巻、『昇天記』の最終節ですね。よくご存じで」

「どうと言うことは無い。最重要の聖典、その中でも最も有名な一節だ。この大陸の人間なら、余程の不信心者以外、誰だって諳んじられるだろう」

そう言って、エリシャ・ロズモンド・バルバストルは肩を竦めた。

ここは皇都オムニアの一画。この都に複数ある聖堂の一つだ。画一的な石材で組まれた白亜の建物は、壮麗でありつつも清廉。落ち着いた佇まいは、訪った巡礼の徒の胸に、信心を新たにし背筋を伸ばさせるような荘厳さを湛えている。

無論、女だてらに近衛最強と謳われ、合戦に狂奔する彼女だ。巡礼だの観光だのの為にここまで足を延ばした訳ではない。

先立ってのヴォルダン戦役において、彼女はヴァンパイアの討伐を記録していた。人類の庇護と繁栄を謳う聖王教にとって、人の血を啜って命を奪い、牙に掛けた者を不浄の怪物に変える吸血鬼は、特に危険視されている魔物の一つ。それを討ったエリシャは功を称えられ聖騎士の称号を得た。オムニアを訪れたのは、与えられた名に実を伴わせる為の修行が目的だ。

並んで聖堂の廊下を歩いているのは、彼女の案内の為に王都から同行している尼僧である。何でもオムニア本国に帰国するついでに、とのことだ。道すがらに知った人柄からして、明晰かつ穏やかな模範的な修道女であるが、時折影が差したように悲しげな表情を見せることがある。それが、少し彼女には気に掛かるところだ。

そんな尼僧は、不意に聖典の一節を口ずさんだエリシャに、興味深げな視線を投げ掛けている。

「ところで、どうして急にそのお言葉を?」

「いや、私としたことが、ここの空気に当てられ過ぎたかな。何故だかポロリと勝手に口を衝いて出ていた」

「大変結構な事かと。貴女の胸に、確かな信仰が根差している証しですわ」

「……それはどうであろうかな」

女騎士の口元が微苦笑を刻む。エリシャは自分が熱心な信仰者だとはとても思えない。聖王は仁愛を説き人々の和を尊ぶが、彼女の持って生まれた性はまるで逆。強者との戦いに胸を躍らせ、鮮紅の流血に濡れ、生死を賭する瞬間に熱っぽく喘ぐ。そんな女が敬虔な聖王教徒であろう筈が無かった。

謙遜にしても妙な態度だったろう。不思議そうに小首を傾げた尼僧に、彼女は誤魔化すように言葉を継ぐ。

「しかし、その、何だ。昔からこの一節は不思議に思っていた」

「と、申しますと?」

「『父なる光と一つとなり、神々の聖なる王となった』……この一文さ。神々とは、何なのであろう?」

聖王教における神とは一つ。天に昇り人々に加護を与え、魔物を退ける力を施して安寧を与える聖王のみである。他の神々など聞いたことが無い。ましてや、その存在を仄めかされたのが、あらゆる経典の原初であり、最も人口に膾炙した『昇天記』の最後も最後。ここへ唐突に記述され、続く他の正典には一切記されていない。昇天せず地上に残された使徒の活動記録である『十八使徒列伝』、皇国の前身である神聖オムニア帝国の誕生を記した『興国記』、教徒の守るべき戒律を列記した『民教の書』、現アルクェール領に向けて発した聖王以来の外征の軍記『聖征伝』、マールベア諸島を発見し彼の地にて伝道を行った記録『七王への福音』……。その他の経典にも、聖王以外の神に関する記述は無かった。

昔から気になっていたとの言は、決して嘘偽りの類ではない。この点についての疑問が、腑に落ちることなく、しこりのように胸に引っ掛かり続けていた。なので、不意に信仰について思いを馳せた時に、真っ先にこれが頭に浮かぶ。

説明しつつ、はっと相手の立場を思い出して捕足する。

「聖句に対して疑義を呈すとは、不心得かもしれんがな」

「そんなことはございません。聖なるお言葉を守るには、その意味を理解するよう考えることも大事ですから。第一それを禁じていては、神学という学問が成り立ちません」

穏やかに、寧ろ感心したような顔でそう言われるのに、安堵を覚えた。世の中には、信仰への熱烈さが過ぎて、茹で過ぎた卵のように脳味噌の固くなった神官も多い。目の前の修道女は、そうした偏狭さとは無縁のようだった。

「言われてみれば確かにな。では、参考までに貴女の見解を伺いたいのだが?」

「一般的には、聖王様と共に天へと昇った、十二の使徒を指すのではないかと言われておりますね。彼らもまた神へと至り、地上にいた時と同じく主へと仕えた。その旨の記述は、主の神性を強調する為に敢えて省かれたのでは、と。……私としても、それが妥当な解釈かと」

「では、父なる光とは?」

「『昇天記』に書かれております聖王様の説法には、光を用いた譬えが多くございます。有名なのは……『天より下る光のように、人々を愛しなさい、暖かく、道を照らすように隣人に接しなさい。そうすれば、天より光が下るように、あなたもまた暖かく、道を照らされるでしょう』」

「ああ、あったな。確か十一章……だったような気がする」

「十一章二十二節ですね。このように光を強調したお話が多いものですから。当時の民は主のことを、光の御子と呼び習わしていたそうです。それが転じて、神となられました主と合一する概念として、父なる光という言葉が生まれたのではないでしょうか」

尼僧の言うところによると、聖王を光の御子と呼んだという記述は、正典ではなく外典扱いの古文書にあるとのことだった。元々は聖王が地にあらせられた時節の、市民の著作集だという。彼の人を信仰の対象とする思想が浸透する前であった為、神懸りだの何だのと、随分と聖王を腐すような内容が多かった。光の御子、という呼び方も、本来は皮肉や揶揄の成分を多分に含んでいるものだ。なので、教会がこれらの史料を纏めた際に、正典扱いするのを拒んだとか。一応は聖王誕生前後の時代を記した貴重な史料として保管されているが、写本は許されず、閲覧も「悪魔の言葉に耐え得る信徒にのみ」許可されているらしい。

余り広めたい話ではないらしく、これは内緒ですよ、と最後に悪戯っぽく付け足された。

「成程な。何となく分かった……ような気がする」

一応口ではそう言うが、内心では完全な納得を得られずにいる。何となく、筋を通す為だけにこじつけられた理屈、といった感が拭えない。

そんな思いは、簡単な講義をしてくれた尼僧にもお見通しだったようだ。

「経典の解読、解釈に興味がお有りでしたら、是非とも神学の講堂にお越しくださいませ。知識を蓄え、御神たる主への理解を深めることも、聖騎士の修行の一環でありましょう。エリシャ様ほどの高名なお方であれば、学士や博士も喜んでお話しすると思われますわ」

「ご助言、感謝しよう。一応、考えておくことにしようか」

恐らく、その機会は余り無いだろうなと思う。エリシャは黙って話を聞いたり、勉強したりすることが苦手だった。いや、正確に言えば興味の薄い分野に対する勉学を苦にするタイプだ。軍学などの実践的な――或いは彼女好みの――学問ならば何時間でも講義に耐えられるが、神学や神話的色彩の強い古代オムニア史にそこまでの関心は無い。ちょっとした疑問を解消する為だけに、何日も学ぶだけの根気は無かった。

などと、聖騎士候補としては不埒な考えを弄んでいると、

「――であるからっ! 御坊ら僧兵団にも、今少しの働きを求めているのだ!」

通りすがった部屋の一つから、男の怒鳴り声が漏れ聞こえた。尼僧はピタリと案内の足を止める。

「ああ、こちらにおいででしたか……」

「どうした? 修練の監督を行う責任者に接見しに行くのであろう?」

「ええ。丁度その方が、こちらの部屋にいられるようで」

そう言いつつ、扉の方を見やる。

拵えや聖堂内における位置からして、高位の聖職者が公的に利用するような部屋には見えない。下位の神官が使う会議室、それも使用頻度は高くないと推測出来た。おそらくは私的な内緒話でも行っているのだろうが、こうも声が大きいとどこまで機密が保てるものか。

「そうは言いますが、我々も俗世のことにかまけ過ぎては――」

「その俗世の不安定な現状が、人心の荒廃を呼んでおるのではないか!」

「だからこそ、教理を説いて衆生に安寧を齎すのが僧職の務めであろう?」

「左様な物言いで手を拱いている間に、我らは一体何人の信徒を見殺しにしたと思っている!? ザンクトガレンでの魔物の跳梁、それが遠因となった戦役。このままでは――」

「伝説の魔王が復活するとでも? では、我らは勇者の裳裾にでも縋りますかな?」

「戯言を弄するのは止めぬかっ! ええい、御坊はいつもそうだっ!」

未だに何のかんのと言い争う声が聞こえる扉をノックする。

「失礼します。ファントーニ枢機卿猊下はいらっしゃいますでしょうか?」

扉の向こうの口論がピタリと止まり、しばらく気まずい沈黙が流れた。

ややあって、固い声での応答が聞こえる。

「……何だ?」

「何だ、ではございませぬ猊下。ご公務です。アルクェール王国より新たな聖騎士、エリシャ・バルバストル様をお連れしました。オムニア聖騎士団長として、ご引見願います」

「分かった。すぐに行こう」

「おやおや。我らを働かせる前に、御坊自らが勤めに励まれては如何かな?」

「くっ……!」

粘着質な皮肉の声に押されるようにして、一人の男が扉を開けて現れた。

エリシャから見た第一印象は、天然の花崗岩だ。赤熱する溶岩を理性と信仰心で固めたような頑健な体躯。全身鍛え込まれた巨体を、巡礼者めいた質素な修道衣で包んでいる。この大男も、枢機卿と呼ばれたからにはオムニア屈指の実力者なのだろうが、そうとは思えない格好だった。それが無様や場違いではなく清貧と目に映るのは、顔つき体つきの逞しさだけでなく、聖職者として培った陰徳が故だろうか。

反面、室内で木椅子に腰掛けて、こちらを窺っている痩せぎすの男。彼はこの大男と悪い意味で好対照である。厚手のローブ、首から下げたストラ、手にした短杖、ひけらかすように床から浮かせている靴。身に纏う全てが豪華絢爛。世人が高位の司祭と聞いて思い浮かべるだろう絵図そのものの、宗教的権威に満ちた装い。それらばかりが目について、肝心の男本人は印象が薄い。その顔で唯一記憶に残りそうなパーツは、人を値踏みするような俗で下卑た両目だけだ。

どれほど壮麗に飾り立てようと、一片の聖性すら見出せない。まるで堕落した神官を描いた生ける風刺画である。そんな男の姿を恥じ入って隠すように、大男は後ろ手に扉を閉めた。彼はエリシャに向き直ると、抑制された低い声で名を名乗る。

「ジャンフランコ・パオロ・ファントーニだ。教団にあっては枢機卿であり、聖騎士団を率いる身でもある」

「はっ」

エリシャは廊下に跪いた。相手は聖王教会の枢要であり、これから指導を請う相手でもある。頭を下げるにしくは無かった。

「お初お目に掛かります、枢機卿猊下。アルクェール王国より聖騎士候補として参りました。エリシャ・ロズモンド・バルバストルであります。よろしく、ご指導ご鞭撻の程を」

「うむ。以後、よしなに。詳しい話は私の部屋でしよう。……着いて来るが良い」

そう言って先立って歩き出すファントーニ枢機卿。巌を思わせる背中へと重荷を負わされたような足取りに、エリシャは先程の男との口論を想起する。

(オムニアといえど人の国。教団といえど人の組織か)

ブローセンヌで嗅ぎ慣れた、権力の腐臭と相克の気配。光輝に満ちた聖なる国、オムニア皇国も、人間的な利害や打算、欲望とは無縁ではいられないらしい。

天に坐します我らが聖王は、この有様をどう思っているのだろうか。彼の愛した人の善性に滴った汚濁を嘆いているのか、はたまた、それもまた人であると思し召して良しとするのか。

重々しい足取りのファントーニに着き従って、聖堂の廊下を歩く。道すがら、エリシャは神官や神学者には決して訊ねられないだろう新たな疑問を、胸中でしばらく玩味した。

※ ※ ※

――初めに闇があった。次に光が生まれた。青く揺らめく不浄の炎。宙空を不気味にたゆたう無数の人魂。無念の裡に死した莫大量の霊魂。それが彼らの光であった。万余の光源が存在しながらも、依然として暗がりに閉ざされた世界。

彼らはそこで、しばらくぶりの目覚めを迎える。

「……無念の匂い。呪詛の匂い。死の匂い。また、人の世で戦が起きたか」

「この規模。四大国のいずれか同士の合戦だな」

「となると、おおよそ五十年ぶりか。周期が少しずつ短くなっているな」

「愚かねえ。何百年経っても変わらない。無知のまま産まれ、無能のまま生き、そして無様に死んでいく。救われない、救いようが無い。そしてアタシたちに巣食われるんだわあ」

闇に響く四つの声。それは単なる空気の振るえによってのみ生じたものではない。空間そのものが軋みを上げる程の質量を持った魔力。彼らが身じろぎするだけでうねりを生むそれが、声にすら心弱い者を殺すだけの呪いを含ませているのだ。

「……此度の目覚め、三百年ぶりに我らの一人くらいは外に出られよう」

「あら、一人だけぇ? 戦争での死人よ? 二人分くらいにはなるんじゃないかしらあ?」

「大方の魂は……天に召されたということだろうさ。彼奴めを信じる愚者どもも、まだ多いということだ」

「慈悲深い聖王様の御許に、か。……気に入らないな。貶し、罵り、傷付け、盗み、犯し、挙句に殺しにまで手を染めた人間すら救おうって言うのか。愛するって言うのかっ! ……ああ、神々の中で奴ほど気に入らない者はいないっ!」

漏れ出た憤怒の情だけで、空洞が悲鳴を上げる。高く遠い天井からパラパラと切片が降り注ぎ、宙を舞っていた人魂たちが逃げ惑う。その幾つかは余波を受けて掻き消えた。

声の一つは、鋭くそれを制止する。

「鎮まれ。折角、私たちの方に流れた魂だ。八つ当たりなどで無為に散らせば、次の目覚めも遠のくというものだろう」

「偉大なる御方の復活もねえ?」

「ちっ!」

「……やれやれ。貴様も相変わらず寝起きが悪い」

空間は、一転して静寂を取り戻した。

だが、そこにあるのは穏やかな静謐ではない。四つの存在が互いに牽制し合う、見る者の寿命が縮むような緊張である。

――外に出たい。それが彼らに共通する欲望だった。しかし、そこにある切符は一枚きり。自分がその権利を掴みたい。それ故に牽制し合っている。

声の一つが、口火を切った。

「で、誰が行く?」

「俺に決まっているだろう。なあに、お前らを待たせはしないさ。殺して殺して殺しまくって、すぐにまたお前らの分まで溜め込んでやるからな」

「……愚か。未だに一人分がやっとのところなのだ。我らが自ら手を下すのは、時期尚早というもの。三百年前も、貴様の短慮で機会を不意にしたこと、忘れてはおるまい」

「何だと――」

「だから激するなと言っている。それに、だ。直接的な暴威は奴らを団結させる恐れもあるだろう。お前の嫌いな――いや、我らの忌むべき聖王の下僕どもに、わざわざ殉教の機会をくれてやる訳にもいくまい」

「しばらくは、人間ども自身の手で殺し合わせるってことねえ。となると、アタシかアンタが適任かしらあ?」

「……我は遠慮しよう。縛ることを本領とする我では、惑わし唆し堕とすことに長けた貴様には及ぶまい」

「決まり、だな」

「あら、そう? それじゃあ――」

決が出ると同時に、異変が生じた。大空洞を頼りなく照らしていた霊魂たちが、吸い込まれるように一点に収束していく。青褪めた火の玉が凝集して巨大な炎となり、それもまた次第に小さく人型を為す。

そして再び闇が生まれた。

だが、それは闇より深い闇。光無き世界にあって、明瞭に姿形を誇示する程の色濃い暗黒の結晶。光を遮られた故の影ではなく、光を冒涜し侵食する邪悪の化身である。

姿を取り戻した存在は、一見すると女に見えた。緩やかに伸ばされたぬばたまの髪。濡れ光り零れ落ちそうな宝玉の瞳。整った鼻梁に扇情的な厚い唇。伸びやかな四肢を備えた身体は、胸元の豊満さと腰つきのくびれとで、狂的に追求されたように精緻な黄金比を描く。それだけ見れば、蠱惑的な美しい女性と思えるだろう。

しかし、そう評するには余計な異物が多過ぎた。髪を掻き分けて伸びる羊のような歪んだ双角は何だ。角度によって輝きの色を変える縦に割れた瞳。酷薄に歪んだ唇で表している感情は一体。背中から生えた二対四枚の蝙蝠の羽、淫蕩な媚肉の合間から鎌首を擡げる蛇頭を備えた尻尾はどういうことなのだ。

美しい女? いや、おぞましい女だ。

斯様な異形の姿を晒す女が、人間である訳は無い。エルフのような長命種でもない。

それは魔物を超えた魔物。魔の頂点に立つ者の眷族――即ち魔族。

またの名を、悪魔である。

これ以上無い程に悪魔らしい姿に受肉した女は、今は蟠る闇でしかない同胞たちに艶然と微笑みかけた。

「――それじゃあ、一足先に楽しんでくるわねえ?」

欲望を満たす権利を得たことを勝ち誇るような、妖艶ながらも驕慢な笑み。美を極めた果ての醜悪さに鼻白みながらも、悪魔の輩は彼女を送り出す。

「ああ、行くが良い。生ある者の苦しみと死こそ、我らの本願にして糧」

「お前が愉快に遊べば遊ぶほど、俺たちの出番も近付く訳だ」

「……努々、油断などせぬようにな」

「油断? このアタシが警戒する必要があるかしらあ、人間なんてお馬鹿な種族にぃ?」

「馬鹿、か。確かにそうだが忘れるな。馬にも蹄があり、鹿には加えて角もある。いずれも狩りの獲物に違いは無いが、油断から手痛い目を見れば、馬鹿にも劣る愚者となろう。よく覚えておくことだ」

「はいはぁーいっ。気が向いたら覚えておくわねえっ」

忠告を本気にした様子も無く、女悪魔は魔力の光と共に姿を消す。転移の魔法で飛び立ったのだろう。形の無い三つの闇は嘆息めいた気配を漏らした。

「相変わらず頭の軽い売女だぜ。本当に任せて大丈夫か?」

「……いや、軽いのは頭ではなく目だ。敵を軽く見ることさえ無ければ、貴様より余程の知恵者よ」

「それが出来ないから馬鹿なんだろうが。……おっと、お前の例えに倣えば、馬鹿相手に痛い目を見たら馬鹿未満の愚者か」

「皮肉るのは止せ。今、大陸に忌々しい神の走狗の気配は無い。大方、それで舞い上がっているのだろう」

「……七百年前と、三百年前。我らを阻んだ、この世界にあ――」

「やめろやめろっ! 聞くだに奴らに刻まれた傷が疼く!」

「まだいないのか、それともまだ弱いのか。何にせよ、最大の邪魔者はいないのだ。あの女が上手くやることを祈ろう。我らが御方に――」

その言葉を合図に、三体の意識は暗闇の空洞、その最奥へと向けられた。

そこには玉座があった。人間たちの王が身を置くそれとは、比較にならない程に巨大な玉座だ。

腰を据えるのにこれほどの高さを要するとは、一体どのような存在の為に設えられたものなのだろうか。

「「「――これより捧ぐ、数多の御霊もて目覚め給え、不滅なる我らが主、偉大なる魔王陛下」」」

地の底、地の獄、不浄の奈落に、祈りの言葉が響く。

皮肉にもその祈念の真摯さは、神に縋る人間のそれに似ていた。