国の西南方への大規模な視察が決まった。

ハロルドは今回の行幸に第二妃ベルタ・カシャの随行を下命していた。そのため、先だって一歳の誕生日を迎えたばかりの幼い王子も生母の腕に伴われて同行することになる。

ベルタ・カシャの同行は、もちろんハロルドの個人的な都合で決めたことではなかった。

西南地方は、元来異邦人である大陸北部出身の王侯貴族に対して距離を置いているところがある。

祖父や父の代まではそれで済んだが、交易により力を付けてきた現地の民の力が侮れないことをハロルドは悟っていた。

彼らは王家に表向き服従しているが、感情面はそれと同じとはいかないだろう。

端的に言えば、現地の諸侯の警戒を和らげて懐柔するために第二妃を連れて行くのだ。

正妻ではないとはいえ、はじめてペトラ人の出自から王家に入ったベルタ・カシャの国民人気は高い。ましてや彼女は現国王の一人息子の生母となった。

その存在感は大きく、彼女を蛇蝎のごとく嫌っている派閥ですら、もはや彼女をただ無視していられない程になっている。

「今回の視察の日程と経路をまとめた書類だ」

なぜこんな業務連絡をわざわざハロルド本人がしているのかと言うと、第二妃の政治介入を過剰に気にする輩が彼女と外朝の人間の接触をこのごろ厳しく警戒しているからだ。

「目を通してもよろしゅうございますか?」

書類を受け取ったカシャ妃は、その場で内容を確認したそうな様子を見せた。

同じ王宮内とはいえ、表の王宮の執務室と、彼女が住居としている宮は少々距離がある。間を置かずそう何度も来るのは骨が折れるだろう。

「その席を使うといい」

「ありがとう存じます」

相変わらず完璧な所作とそつのない態度で、執務室の硬い椅子に腰掛けた彼女は、ハロルドが思っていたよりじっくりと内容を精査し始めた。

「何か気になっているのか?」

「ルイは先般ようやく1歳の誕生日を迎えたばかりです。幼児を連れての旅は不測の事態が付き物です。ルイが体調を崩して日程が乱れ、陛下の視察のご予定に影響を及ぼさないか憂慮しております」

自分より十歳近くも年下の彼女だが、ハロルドはなぜか昔の家庭教師だったハイ・ミスのことを思い出した。

饒舌に話すカシャ妃と接するのは妙に新鮮だった。

ルイが産まれて以来、彼女と顔を合わせるのはほとんど公の場に列席する時だ。そうした場で彼女はいつも慎ましい臣下のような態度で控え、必要最低限の主張しかしない。

「それは無論こちらの頭にもある。長距離続けての移動は極力控え、必要になればやむを得ず隊列を分けることも視野に入れている」

カシャ妃は少し黙ったまま考えた後、視線を紙面から上げた。

「隊列を分けることを考えるならば、私の侍女を二、三名ほど増員しても構いませんか?道中ルイのそばにも常にペトラ人の侍女を配置できるようにしておきたいのですが」

「それくらいなら構わない」

淡々と話す彼女は落ち着いているのか、それとも機嫌が悪いのか、ハロルドには今ひとつ分からなかった。

視察の全日程は二ヶ月近い。その間、妃として連れて行くのだからおそらくカシャ妃と馬車も同乗することになるだろう。考えると気まずくて気が重くなる。

彼女の、彫りの深い眼窩に隠された暗い虹彩が、瞳の中でぎょろりと動くのがハロルドにとっては少し不気味だった。

ハロルドがカシャ妃に苦手意識を持っているのは、一度激昂した彼女を見ているからだ。

普段穏やかな人間が怒る時ほど怖い。

そして彼女をあれほど怒らせる事態に至るならば、おそらくまたハロルドのほうに言い逃れようのない非がある時だ。

「陛下」

「な、何だ」

「南部の食事はこちらよりも味付けが濃いものが多いです。事前に充分兵士たちに周知するか、道中立ち寄る館の厨房方に北方風の薄味を言付けておいたほうがよろしいかと」

一人で狼狽えているハロルドをよそに、カシャ妃はまるで淡々と、侍従ですら言ってこないような細やかな助言を重ねた。

「なるほど。同行の内務官にその旨伝えておこう。だが郷に入っては郷に従えとも言うし、私は南部風の食事も試してみたい」

カシャ妃はその日初めて笑みを見せた。愛想笑い程度ではあったが。

「でしたら、メセタがよろしいでしょう。あちらでは手に入らない食材はございません」

笑うと目元がはっきりしなくなって冷たい印象が薄れるな、とハロルドは思った。

思いがけず身になる内容の多かった面会時間が終了し、カシャ妃は来た時と同じように恭しく礼を取って立ち去ろうとした。

ふと、ハロルドは一つ聞き忘れていたことを思い出した。

「カシャ妃。そなたにとっては久々の故郷だろう。道中どこか立ち寄りたい場所はないのか」

ハロルドの質問が予想外だったのか、振り返ったカシャ妃は驚いたように目を丸くしていた。

だが、彼女の答えは簡潔だった。

「特別にここという場所はございません。私にとってはカシャ領すべてが故郷ですし、産まれ育った古都市メセタは、元より視察の目的地に組み込まれております」

古都市メセタ。言わずと知れた国内最大規模の交易拠点の街であり、南部広域に影響力を持つカシャ一族の本拠地だった。

メセタをこの目で見ることが今回の視察の大きな目的の一つだ。