執務室の控えの間で待たされた女たちは、間違っても隣の部屋の主人に聞こえないように小声で侍従に突っかかっていた。

「ちょっと。陛下と妃殿下がお二人で大切な話をされているのよ。あなたたちは控えなさい」

女官たちにここで待つよう指示を出した後に、侍従がまた執務室に入っていこうとしたのを止めていたのだ。

ジョハンナをはじめとする女官たちは、王とその妃であるベルタが二人きりになって、まさか色気の欠片もない業務連絡しかしていないとは考えていない。

彼女たちの多くはベルタが懐妊した後に増員されているので、王と第二妃の間にある関係について多少ロマンチックな勘違いをしていた。王子誕生以来、互いのお立場や周囲の諍いで関係が冷えがちだが、子までもうけた彼らには蜜月の新婚期間があったのだろうと。

これについてペトラ人侍女たちは、敢えて同僚の夢を壊して事実を伝えることもないかと静観していた。二人は実際のところ蜜月どころか、絶望的に噛み合っていない期間しか過ごしていないけれど。

だからジョハンナはこの時、なかなか親密にお過ごしになれない二人のささやかな逢瀬の時間だわ、と思って意気込んでいた。

「妃殿下だと?確かにベルタ・カシャは王室法を曲げさせてまで強引に第二妃の座を奪い、得意げにそう名乗っているがな。だが我々プロスペロ教徒は一夫多妻などという禽獣のような野蛮な真似は認めていない!カシャがいくら虚勢を張ろうが神の前では無意味だ」

この得意げに吠える侍従がベルタのほうに行かないよう、ジョハンナはしばらく言い合いの相手をするつもりでいたが、彼女が口出しをする前に横にいたもう一人の侍従が口を開いた。

「まあまあ、落ち着いて。その理論で言うならハロルドさまは既に改宗されて、その教義では神は複数の妻を愛することを禁じてはいないよ。それにハロルドさま自身、ご生母は正室ではあらせられないし、アンリ、君はハロルドさままで否定するのかい?」

「なっ!」

勝手に仲間割れを始めた二人の侍従。

王の側近の中では一番下っ端の、小間使いのような立ち位置の侍従たちは、名物の双子の兄弟だった。

悪しざまに噛み付く血の気の多いアンリと、それを人好きのする笑顔で宥めるジョエル。

二人は瓜二つの外見に対して、主義主張や気質がまるで正反対だから面倒くさい。

「お前まであの毒婦の味方をするのか?」

「敵味方の話じゃない。君の無礼が過ぎればハロルドさまにも迷惑がかかると言っているんだ」

ちなみにジョハンナの雇用主であるベルタは、それなりに長い期間彼らが双子だとは気がついていなかった。

あの聡明で大らかな妃殿下は、変に抜けているところがあって、会うと吠えかかってくる侍従のことは興味関心の外だったらしい。

彼らは双子で、無礼なのはアンリ、大人しいのがジョエルだとジョハンナが教えた時に『そうなの。なんか会うたび態度が違う情緒不安定な侍従がいると思ってた。別人なのね、どうりで』と彼女は大した感慨もなさそうに言っていた。

「アンリ。君はどうしてそう、マルグリットさまが絡むと冷静な思考ができなくなるんだ?仮にも僕と一緒にハロルドさまの側近に選ばれるくらいには優秀な頭脳を使って考えてみろ」

「考えるまでもない。あの女は今日もここに来る前、厚顔にもマルグリットさまに道を空けさせて礼を言いもしなかったんだぞ!臣下として礼を欠いているのはどっちか明らかじゃないか」

ベルタを臣下扱いするアンリの発言に、ペトラ人侍女たちが殺気立ったのに気がついて、ジョハンナは小声で双子の応酬に口を挟んだ。彼らの声はうるさすぎ、分厚い執務室の扉さえ突き抜けそうだった。

「……ちょっと。妃殿下は正式に嫁がれたのだから、臣下ではないわ。れっきとした王族のお一人よ」

「うるさいぞ、口を挟むなメイスフィールド!」

顔も向けずに一蹴された上、旧姓を呼び付けにされる無礼にジョハンナも我慢できずに切れた。

一瞬前までの努力も台無しに声を張り上げる。

「シュルデ子爵夫人とお呼びなさい!」

彼ら侍従兄弟は、国内の伝統的貴族の端くれだった。

つまり、似たような境遇のジョハンナとは幼い頃から知り合いの、いわば幼馴染のようなものだ。

「無礼は許さないわよ!それにもう貧乏メイスフィールド家の次女じゃないわ。私はシュルデ家の夫人、そして国王陛下のご長男の乳母よ!」

未だに未婚の小娘に間違われることの多い乳母ジョハンナにとって、旧姓は地雷源だった。

「……悪かった。今のは俺の失言だ、シュルデ夫人」

第二妃のことはこき下ろせても、王子には忠義心があるらしいアンリは途端に大人しくなったが、今度は逆になぜかジョエルのほうが慇懃無礼な笑顔で当てこすってきた。

「これはこれは兄弟が失礼致しました、シュルデ子爵夫人。それにしても随分ご出世されたことで。親子ほども歳の離れた子爵に嫁げるような野心家の貴女ならやり遂げると思っていましたが、一体どんな手を使って乳母の座に齧りついたんですか?」

ジョエルの方も外面が良いだけに過ぎず、性格は兄弟揃って同じく最悪だということをジョハンナは知っていた。

「私は旦那さまを愛しているから結婚したのよ。打算じゃないわ、失礼ね!」

「打算なくあの髭面と結婚できるとは酔狂な」

「髭面の何が悪いのよ!だいたいうちの人は商売も下手だし放蕩だし、私がもし計算高かったら絶対に結婚しない相手よ!」

実にくだらない内容の小競り合いは、ベルタが執務室から出てくるまで続いた。

開いた執務室の扉の内側に、国王陛下の姿も少し見えたので、二人の侍従はピタリと応酬を止め、壁際でベルタに頭を下げて見送る素振りを見せた。

ベルタが横を素通りする直前、アンリが強い目でベルタを睨みあげたのが、ジョハンナからは見えた。本当は先程さんざん言っていたように、今日の直前の正妃に対するベルタの無礼を罵りたくて仕方ないようだ。毎度のことながらベルタに噛み付くネタの仕入れが迅速なことだ。

いつもと違ったのは、今日はベルタのほうもアンリの視線に反応を返し、高い位置から睥睨したことだ。

いつもは暖簾に腕押しの相手に真っ向から反応を返されたアンリは、それだけで鼻白んだように視線を揺らす。

だがベルタはそれ以上は何もせず、もちろん声もかけないまま無言で部屋を後にした。

「あの侍従がいかがしました?」

宮に戻った後で、ペトラ人侍女の一人が思案顔のベルタに問いかけた。

視察の打ち合わせ自体は概ねうまくいったらしいものの、ベルタの顔は浮かない。

「あの目つきの悪いほうは置いて行けないかしら」

「それは、難しいでしょう。恐れながら陛下の身の回りは人材が潤沢なわけではございませんし」

「護衛もできる侍従として道中むしろおそばに付き従うはずですわ」

それは充分わかった上で言っているのか、彼女は大仰にため息をついた。

「……絶対に問題を起こすとわかっている者を連れて歩くのは憂鬱ね」

彼女の侍女たちは主人に同意するように頷いたり各々納得する様子を見せる中、ジョハンナたちはその時はあまりピンと来ていなかった。

だが、視察の旅の道中ですぐにそれを理解することになる。

あらかたの予想通り、南部視察で真っ先に問題を起こしたのは侍従アンリだった。

そこは王宮ではない。南部において、大領主カシャの嫡女に無礼を働くことがどういうことか、彼らはまだ実感していなかった。