Portrait of Queen Berta: I accidentally got pregnant with His Majesty’s child
[16] The Queen of Lower Town
聞いたセルヒオは耳を疑う顔をした。
けれどベルタは、彼が何か言い出す前に言葉を続けた。
「誰か、リサ。午前のうちにそれらしい服装を街の古着屋で調達してきてちょうだい。それから金貨の換金も忘れずにね」
「承知しました。心得ておりますわ」
「お待ちください、妃殿下? なりませんそれは、……いくらなんでも」
心得た侍女のリサは、困惑するセルヒオを華麗に無視してさっさと部屋を出ていった。生家にいた頃から色々と一緒に悪さをしてきた侍女はこなれている。
そしてベルタは実際、なにも夫の侍従からいちいち行動の許可をもらうような必要はなかった。彼はそこまでベルタに対して権限がない。
「あなたは私の家庭教師ではないわ」
こういう時は悪びれないことが大切だ。
この手の頭でっかちな優等生相手には、堂々としていれば押し勝てるということをベルタは経験則として知っている。
言葉を探して言い淀むセルヒオを、ベルタは続けて丸め込む。
「別に陛下にご報告しても良いけれど、私たちはこの街に視察のために来ているの。街の実際の様子を見て回るのも大切よ。私はこの方向性の主張で陛下ご自身も説得できるわ」
「……ええ、ええ、楽しそうな妃殿下のお口を止められる者はいないでしょうとも」
「大丈夫よ。お土産は買ってきて事後報告はちゃんと自分でする」
この発言に、セルヒオは更にもう一段血相を変えた。
「お待ちください、市に行かれるおつもりですか? あそこは人も多く、警護の目も行き届きません」
当たり前だろう。商業都市で外に出て、買い物をしないでどうするというのだ。
「それを今から打ち合わせするのよ。私の護衛の近衛たちと、あとはこの街に慣れた衛士の中から数人を選んで連れてきて。用向きは濁してこっそりね」
セルヒオはその後もしばらく渋ったが、そのうち考えるのを止めたように死んだ目で共犯者となった。
*
「ニーナさん。あなた、そういう町娘の格好が本当よく似合うのね」
先輩侍女のリサにそう言われ、絶対に貶されていると思ったニーナは思い切り嫌な顔をしてみせた。けれど、リサは全く嫌みの意図などないというように明るく笑い返す。
「あら。純粋に褒めているの。そういう服を着ても貴族にしか見えない人はいるし、そういう侍女はベルタさまのお忍びに付き添えないもの」
言われてみれば彼女は、数人の女たちの支度を手伝うだけで自分は着替えていなかった。
「…………そういうリサさんは行かないんですの」
「残念だけれど私はお留守番。ベルタさまの不在をごまかしたりと色々やることがあるのよ。お風呂の支度をしたりね」
お風呂? とニーナは少し引っかかったが、それよりもやたらと慣れた手口のほうに疑問を持つ。
「まさか妃殿下は度々こういうことをなさっておられるのですか」
「まさか。王都では一度もないわよ。お妃さまがお膝元で庶民に顔を覚えられたら大変だわ」
「では、ご生家にいらした時分は?」
「陛下や同行の諸侯たちは夕刻には戻られるようだし、あなたも早めにベルタさまにお帰りを促してちょうだいね」
突然耳が遠くなるわけもないのに、リサはニーナの問いを完全に無視してやり過ごした。察するに余りある。
少しして、奥の部屋から出てきたベルタの姿に、それこそニーナは唖然とした。
「上出来ですわ。ベルタさま」
「ふふ、リサの調達の腕が良いのよ」
彼女はとても上機嫌に、つぎはぎのある灰色の衣服の裾を靡かせてくるりとその場で回って見せた。
いつも艶やかに櫛を入れられている黒髪は、わざとボサボサに雑な手で結われている。高価な紅や貴族らしい化粧も落とした素顔だ。
庶民の服装に身をやつしてもやはり零れてしまう気品が。……などという生ぬるいものではない。
「いいこと。やるからには中途半端はいけないわ」
彼女は心なしか普段より足音を立てて歩きつつ、侍女たちに言った。
「お忍びなのだから、外にいる間は敬称や名前は控えて。私のことは姉さんと呼びなさい」
「かしこまりました」
「言われなくたってわかっているわよ、姉さん」
彼女に順応し切っている侍女たちは、付き従ってすんなり態度を変えていく。
いつの間にか着替えて待機していた護衛の兵士たちと合流し、ベルタは淀みなく注意事項の確認を続けた。
「私から二十歩ほど離れた距離に護衛が控えているから、あんたたちもなるべく見失われないように、私から離れないのよ」
ニーナが目を白黒させているうちに、お忍びの一行は裏口からそっと屋敷を出た。侍女の服装をしたままの侍女たちやセルヒオの先導がなければ、妃殿下ですら今の服装では庶民と間違われ、屋敷の警備兵に呼び止められていただろう。
(嘘でしょ。ほんとに行くの? 誰も止めないの?)
いや。ニーナだって困惑の中に、多少なりとも好奇心がないと言えば嘘になる。けれど仮にも一国の王妃たる妃殿下が、これほどすんなり警備の目を抜け出せるものだとは考えてもみなかった。
(……なんなの、ここは)
けれどニーナの好奇心は、現実に一歩足を踏み入れるなり急速に萎んでいった。
ニーナは市場の通りに入った途端怖気づいた。
人々の密度と熱量。祭りの時だってこんな喧騒の中に入ったことはない。
「すごいわね」
「一番人が多い時間かもしれないわ」
同じお忍びのはずの女たちは妙に淡々としている。どうして平気なのだろう。商人たちや露店の店主たち、客らしき人たちの怒号のようながなり声。
それに、焼いたパンや揚げ物の匂い、その他にも色々な匂いがしている。気持ち悪くて立っていられない気がする。
「……い、やっ」
少し冷静になれば、離れたところには王妃を警護している護衛たちがいたのだろうが、その時そうは思いが至らなかった。冗談ではなくこんなところではぐれたら死ぬ。
どうして王都から遠い妙な街に連れて来られて、こんな目に遭わなければならないのか。混乱で涙が溢れそうになる。
その時、人込みの中から急に伸びてきた手が、強くニーナの腕を掴んだ。
「ひっ!」
悲鳴を上げかけたニーナが見たのは、険しい顔をした長身の女。いくら人ごみの中でも一瞬で判別がつく。
「もう! 何やってんの、置いてくわよ」
「ひ、妃殿下、」
彼女はニーナがうっかり漏らした呼び名に目を剥いて怒った。
「はあ? なに寝ぼけてんのよ」
本日の服装と場に完全に馴染んでいる妃殿下に、迫力満点に睨まれて、そこでようやくニーナはほんの少し落ち着いた。
というか、この状況よりも彼女そのもののほうが普通に怖い。
「ね、えさま」
「行くわよ」
ベルタはそのままニーナの手を掴んで繋いだまま、ずんずん市の中心部に進んでいった。
――奥さん奥さん、ちょっとこっち! 見ておいでよ!
――寄ってかないかい?
――新鮮な魚だよ!
彼女は方々から遠く声をかけられながら、さも目移りしているという様子で色々と見て回った。その中のひとつ、果物がたくさん並んでいる露店の前で足を止める。
「のっぽの奥さん、どれも今朝仕入れたばっかりで新鮮だよ」
「あらほんと。柘榴が安い」
知り合い同士のわけがないが、彼らはまるで馴染みのように話し始める。
「最近南部からよく入ってくるのさ。一つなら銅貨三枚、二つ買うなら五枚でどうだい?」
「三つもらうから六枚にしてよ」
彼女がなんの会話を始めたのかわからない。ニーナには品物の値段を交渉して値切るという概念がなかった。
「ああ、いいよいいよ。持ってきな」
ベルタは手に持った小さな籠から銅貨を取り出して手渡した。並んだ商品を眺めながら応酬を続ける。
「良い品揃えね」
「もちろん味も良いぞ」
「この柘榴、かなり南から仕入れてるんじゃない? 実が小粒で甘みが強いやつよね」
「サラマクの商人から仕入れたもんだよ」
「サラマク? 悪路を迂回して船で来たって五日はかかるでしょう。それでこんなに新鮮な果物が来てるの? 利益は出る?」
店主は、ベルタを怪しんでこそいなかったが、多少意外そうな顔をした。
「奥さん詳しいねえ。もしかしてあっちの出身かい?」
「そうよ、嫁に来る前は南にいたわ」
嘘は言っていないが、彼女があまりに自身の結婚を一般化した物言いをするので、ニーナは一瞬ぎょっとする。
「最近南部の支流の街から、大きな船が渡れるようになったんだ。これからどんどん南のものが安く、質も良くなるぞ」
「それは良いことね。懐かしい味が簡単に手に入るようになるなんて」
自身も南部出身だという店主は気を良くしたのか、ベルタに品物をもう一つおまけした。
「あら、いいの? ありがとう」
「持ってきな。南部の味を旦那に食わしてやんなよ」
「うん、そうする!」
ベルタは果物を籠に丁寧にしまい込み、大きく手を振りながら店主と別れた。
その後も彼女は数店の前で無造作に足を止め、まるで普通にこの街の主婦のように買い物をした。
ニーナは彼女にしがみ付いていたり、別の侍女にしがみ付いていたりしながらなんとかついて行った。
妃殿下はまるで庶民の女のように、口を開けて大きく笑う。
普段王妃としてなんら問題のない、済ました微笑を浮かべた顔と、同じ女のものとも思えない。
王宮にあっては周囲に威圧を与え、その容貌に冷たい印象を持たせる妃殿下は。
(……誰? 今私の目の前にいる女は、誰なの)
しばらくそうして、ニーナがそろそろ痛んできた足を耐えてやり過ごしていた頃、群衆はにわかに騒がしくなった。
騒ぎは、どうやら街の大通りの方角から伝播しているようだ。
「近衛騎士が大通りの人払いを始めた! たぶん国王陛下のお通りがあるぞ!」
「ほんと? 昨日ご到着の時は見れなかったのよ」
「一目でいいから見たい、滅多にない機会だ!」
人々は好奇に目を輝かせながら大通り沿いに流れていく。
それを見ながら、お忍びモードの妃殿下は何か言い出した。
「私たちも見に行きましょ!」
いや、あなたは滞在中の屋敷に戻ればいつでも見られるでしょうに。
というかさすがにそろそろ時間ではないだろうか。陛下も本日の視察のご予定からお戻りになられているということだ。
言いたいことはたくさんあるが、彼女の勢いに逆らえず、一行は群衆と共に流されて大通りに向かった。
ニーナは人いきれの中で押し潰され、とても前を見るどころではなかった。
けれど、しばらくして人々の歓声が一際大きくなったことで、状況はなんとか把握できた。
たぶん真横のあたりを、もうすぐ陛下と近衛がお通りになるのだろう。
選び抜かれた美しい駿馬と、憧れの職業である近衛騎士。そしてそれらを従えて囲まれる、我が国の国王陛下その人。その行列はさすが見栄えがする。
ニーナは身動きが取れず、すぐそばに立つベルタの横顔をただ見上げていた。
長身の彼女の視線からは、大通りが見渡せているようだ。
彼女は興奮する群衆の中にあって多少浮いていた。ただ涼しげな、凪いだ表情を見せる。
それはその日ずっと楽しそうに、庶民になりきったような顔の女とは違う。しかし普段の妃殿下の表情というわけでもなかった。
群衆の中で明らかに一人。彼女だけが時が止まったように静かに、こうして遠くから、自分が本来いるべき場所を見つめている。
実際のところベルタは今、何を思うのだろう。ニーナにはとうてい想像もつかない雲の上の人だ。今日はただの気風の良い主婦に見えるが。
「あ」
彼女が若干不吉な声を出したので、近くにいた侍女の一人が尋ねた。
「いかがなさいました?」
「たぶん今見つかったわ」