Re:Zero Kara Hajimeru Isekai Seikatsu (WN)

Chapter Four, 64: The Missing World

目が覚めたとき、スバルが最初に気付いたのは耐え難い体中の激痛だった。

特に首から上、顔面から伝わる痛みの程度がひどい。左頬が、右目周辺が、奥歯に前歯、左の耳――挙げれば切りがないほどに、苦痛の傷跡があちこちにある。

舌で口の中を探り、スバルは奥歯二本と前歯が一本、犬歯も一本足りないことを自覚。それから、瞳を開いてあたりを見回し、右目が腫れ上がって塞がっていることも理解する。

「こ、れぁ……」

口の中の出血と、歯の足りない不協和音がスバルの口から紡がれる。

呼吸のたびに歯の神経に冷たさが響き、鼻で呼吸したくても乾いた鼻血でこちらも塞がっている状態だ。喘ぎ、口の中の血を吐き捨てて、

「まさか……死ね、なかったのか?」

ダメージの大きすぎる体を引きずりながら、スバルは自分があの絶体絶命の状況から、命を拾ってしまった事実を思い知らされていた。

半分だけの視界で見渡す周囲、薄暗い廊下にスバルは横倒しになっていた。人の気配はない。意識を失う寸前の、やり取りを思い出す。

「エルザ、は……」

いない。

少なくとも、スバルの目につくところに彼女の姿はない。

闇に潜むのが生業の女だ。あるいは視界に入っているにも拘わらず、それを察知させない技法を会得している可能性はあるが――それを駆使する理由がない。

エルザはいない。いなくなっていた。少なくとも、スバルを殺さずに。

「何の、ために……いや、それより……」

口を動かすたびに出血があり、煩わしくそれを吐き出してスバルは頭を振る。体の各所を動かし、痛む箇所と使用不可の箇所を見極めようとして、気付いた。

――自分の腕の中に、かすかに呼吸を繰り返す温かな存在があることに。

「――レム」

青髪の愛しい少女。眠り続ける、スバルを奮い立たせる少女。

レムが、スバルの腕の中で静かに鼓動を刻んでいる。浅く繰り返される呼吸と、確かに血が通い、赤みの差している肌――生命のリズムが、続いている証だ。

「――――」

思わず、感極まって彼女を抱く腕に強く力を込めた。

反応がないことをいいことに、掻き抱くようにして小さな体の温かさを味わう。彼女が生きている証を、肌越しに感じ取ろうとでもするように。

「なんで、俺もレムも殺さずに……出ていったんだ……」

レムの体を抱きながら、スバルはエルザの行動の不可解さに述懐する。

ペトラを殺し、フレデリカを殺し、ベアトリスまで消滅させたにも拘わらず、この場に居合わせたスバルとレムの命は取らずに去った殺人鬼。

確かにスバルは意識を失う寸前、エルザにレムの命乞いじみたことはした。エルザはそれに了承とも受け取れる返答をしたが、まさかそれを律儀に守ったとでもいうのか。

人格破綻者であるところの『腸狩り』の思考など理解できるとも思えないが、レムが助かった理由はそういうことなのかもしれない。

「だったら……俺はどうして……?」

殺される、とそう思った。

少なくとも、エルザはスバルに対して明確な害意を抱いてナイフを振るったはずだ。砕かれた各所が、刻まれた肌や肉が、それを痛みではっきりとスバルに伝えている。

それでもなおエルザがスバルを生かした理由は、いったい何なのか。

「とにかく、今は……」

わかるはずがない、と首を振って、スバルは痛む体を酷使してレムを抱き上げる。

軽いレムを両腕に抱き、廊下の端――今もなお、打ち捨てられたように横たわるフレデリカの亡骸を見て、やらなくてはならないことを決めた。

――まずは、フレデリカとペトラを弔ってやらなければならない。

「終わる世界だって割り切ってるなら、そんなこと意味ないのにな……」

感傷的で、不合理で、ひどく浅ましい行いだと自嘲する呟きが漏れた。

スバルはすでに、この世界を己の『死』でもってやり直すと決めている。

失ったものが、あまりに多すぎた。得たものもあるが、その得たもので守りたいものを守ることは一つもできなかった。これまでと同じ、あるいはそれ以上に、スバルは失った。失いすぎたこの世界を、生きていく勇気はスバルにはない。

自分の命を支払ってそれを取り戻せるのなら、何も躊躇うことはない。

この世界は、終わる世界だ。

ペトラの死も、フレデリカの死も、ベアトリスの死も、何もかもやり直せる。

ペトラとの約束も、フレデリカを疑ったことへの謝罪も、ベアトリスの嘆きへの確かな答えも、次の世界で届けられる。

そう割り切ってしまえば、死した彼女らを弔うことに本当は意味はない。

消えてなくなる世界へ残す感傷など、スバルだけが耐え切れれば誰の記憶に残るものでもないはずなのだから。

――そこまで割り切れるなら、ナツキ・スバルはきっと、もっと早く、こんなループの世界を乗り越えることができるのだろうけれど。

「覚悟も、決意も、能力も……本当に、どこまでいっても何もかも足りねぇ。なんで俺はこんなに弱いんだ。なぁ、レム」

腕の中の少女からの、答えはない。

弱さを吐き出せるのも、弱みを見せられるのも、今のスバルにとっては、この眠る少女の前だけが、ここだけがそれができる場所だった。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――スバルがそれを見つけたのは、屋敷でペトラたちを弔うと決めてから、ほんの数十分後のことだった。

「なんだ、これ?」

目の前に鎮座している物体を見て、スバルの喉から間の抜けた声が漏れる。

だが、そうなるスバルを責めることは誰にもできないだろう。それほど、今のスバルの目の前にある物体は、得体の知れない、正体の見当もつかないものなのだ。

ピンクの色合いをした、肉の塊――それが、表現として近い気がする。

子どもが作った泥団子のように歪な形をした、丸い肉の塊。その説明だけで十分に異様さは伝わるだろうが、スバルを困惑させたそれ以上の理由がある。

「でかい――」

純粋に、その肉の塊はあまりにも巨大だったのだ。

見上げるほどの大きさで、みっしりと中身の詰まった重量感が見た目から伝わってくる。精肉売り場で見かける、鮮度の高い豚や鳥の肉に色合いや質感は似ている。もっとも、触れてそれを確かめる勇気はスバルにはない。

その巨大な肉の塊が、目につく限りでおおよそ十二。いずれもサイズは同じ程度で、それが見せつけるように散らばってあちこちに点在している。

「これは、何なんだ……?」

困惑したまま答えが出せず、スバルは同じ疑問を何度目か繰り返す。

そして首をめぐらせ、

「村の人たちはみんな、どこに行ったんだ?」

無人のアーラム村の中心で、肉の塊に囲まれてスバルは呆然と呟いた。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――アーラム村へスバルが下りてきたのは、ペトラとフレデリカを弔うための人手を借りるためであり、何よりペトラの死を家族らに伝えるためであった。

殴られる覚悟も、罵倒される覚悟もあった。

屋敷での感傷と同じだ。ここでも、スバルはその痛みを避けることはできた。ペトラの死を押し隠し、村人に知らせないまま世界をやり直す。

そうすれば、スバルはペトラを死なせたことの責任を自分の胸の内に隠して、罪悪感にだけ怯えていれば救われただろう。

ただ、それをする自分を許せるかどうかと考えたとき、それは無理だった。

「けっきょく、それもただの自己満足なんだろうけどよ」

ペトラのことを家族に伝えて、それから二人の埋葬をしようと考えていた。

ベアトリスの弔いは、どうすればいいのかわからない。精霊は亡骸も残らない。そのいっそ清々しいぐらいの消え方が、かえって彼女の死の実感をスバルから奪った。

ひょっとしたら――そう、未練がましく思ってしまっている。

そんな前向きでも後ろ向きでもない思考をしたまま、スバルはアーラム村へ降りた。

埋葬の間、世話を頼もうと眠るレムを連れて一緒にだ。

そして、村に到着したスバルが村人の姿を探して、村内を歩き回っていて出くわしたのが、先の肉の塊たちだったということだ。

「――誰も、いない」

腕の中のレムを一時的に民家の軒先に下ろし、村中を走り回ってスバルは結論する。

額を伝う汗が固まっていた血を溶かし、赤い斑に顔を染めるスバルはひどい有様だ。村民が今のスバルを見たら、まずは悲鳴の歓迎があって然るべき状態。

だが、スバルの今の姿を見て悲鳴を上げてくれるはずの住民は見当たらず、スバルは眠るレムの隣に腰を下ろして途方に暮れる。

――エルザが屋敷から姿を消していたとき、まさかと思わないではなかった。

王都での一件では、関係者皆殺しを即座に決断したエルザのことだ。あるいは屋敷の面子だけで飽き足らず、アーラム村にまで下りてその凶刃を振るうのでは、と。

色々と理由をつけながら、アーラム村までスバルがやってきたのにはそんな不安感も一部あった。が、下りてきたスバルを出迎えたのは想定外で予想以上の状態だ。

散らばる肉の塊たちと、見当たらない村人。

――自然と、嫌な想像が胸中に浮かび上がるが、スバルはそれを無意識的に無視した。

「誰もいないんなら、用はない。……早く、二人を弔ってやらなきゃ」

言い訳じみたことを口にして、スバルはレムを抱き上げると村を離れる。

動きもしない、巨大な肉の塊たちはそのままだ。そのままにしておくことに、何ら呵責は覚えなかった。記憶の片隅にすら、それを残しておきたくなかった。

もう、頭がパンクしそうだった。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

ペトラとフレデリカの埋葬は、思いのほか、簡単に済んだ。

二人の死相を整えて、血で汚れた肌や顔を綺麗な布で拭う。服は、申し訳ないと思いながら替えのものへ着替えさせた。当たり前だが、不埒な感情は湧かなかった。

それ以上に、冷たく硬くなった彼女らの体に衣服の袖を通すとき、泣きたいのに瞳の奥が乾いてゆく、不可解な感情に心が囚われた。

「……せめて、安らかにな」

かぶせた土の上から二人の安寧を祈り、スバルは気休め程度の声をかける。

この世界の祈りの作法はもちろん、元の世界での死者の送り方もスバルは知らない。親類縁者は皆健在で、スバルは誰かの葬儀に顔を出したこともなければ、日本人的無宗教でそういった礼式に興味を持ったこともなかった。

今はそのことを、後悔している。

――二人を送る、作法も言葉も修めていないことが、無性に悔しかった。

「お前にも、迷惑かけちまったな。手伝ってくれて、ありがとよ」

言ってスバルが手を伸ばすと、漆黒の地竜が鼻面をその指へ寄せてくる。

四肢を掘り起こした土塊で汚しながらも、スバルを案じるようにすり寄ってくるのはパトラッシュだ。

厩舎にいて惨事を免れていたパトラッシュを見つけて、彼女の力を借りてスバルはペトラたちを埋葬した。スバルの拙い訴えを賢い彼女はすぐに理解し、シャベル風の道具で土を掘るスバルの隣で、体の大きなフレデリカの穴を足で掘ってくれた。

力強く地を駆け、風になるその両足を泥塗れにしてなお、漆黒の地竜は気高く美しかった。その存在があることに、改めて強く感謝する。

ペトラを埋める穴はスバルが掘った。体の小さな彼女であったが、それでも窮屈な思いをせずに済むように、慣れない道具で掌の皮が幾度も裂けるほどに。

土をかけ、ペトラの姿が見えなくなるのを見届けて、ついに堪え切れなかった涙が頬を伝ったが、スバルはそれを乾くまで拭うことをしなかった。

フレデリカも同様に見送り、簡素な墓標を作って埋葬を終えたものとする。

一つの作業に区切りをつけたのに、肩は軽くなるどころか重みを増すばかりだった。

「……もう、ここにいてもしょうがない」

ぼそりと、そう呟く。

屋敷での、取り返しのつかない惨劇はすでに終わってしまった。

一連の出来事を記憶にしっかりと刻み込む。今、こうして二人を見送ったことの無念もまた、決して忘れないように強く深く。

こうして魂に刻んだ後悔を、次の機会には必ず払拭してみせる。

それができて初めて、スバルは彼女らのこの『死』に責任が取れるのだ。

「確かめることだけ確かめたら、『聖域』に戻ろう。――レムも、置いてくわけにはいかないから一緒に」

日差しがゆっくりと落ち始めている。

暗くなりつつある世界は、スバルの認識が正しければ三日目の夜を迎えるところだ。確かめることを確かめて、明日の朝方に屋敷を出れば、四日目の夜までに『聖域』に戻ることができる。

運命の六日目まで、一日半の猶予だ。そして今回はスバルが『聖域』を離れてから、再び戻るという初めての経験でもある。

屋敷を守り、『聖域』も突破する。

必然的に乗り越えなくてはならないハードルと定めた二つだけに、その経験値はクリア回に挑むまでに絶対にしておかなければならない。

スバルが『聖域』を離れている間に、『聖域』にどんな変化が訪れるのか。

おそらくは、スバルがガーフィールに一撃されて、そのまま監禁されたときと同じような流れを辿るものと思われる。そうなると、五日目の夜にはオットーやラムがアーラム村の避難民を脱出させようと動き出すはずだ。

「そうなる前に……だな」

残してきたガーフィールのことも気掛かりだ。

強引な手段を使い、スバルはリューズを盾にすることで彼の追撃を防いだ。そのことがどれほど彼の逆鱗に触れたものか、想像だけでは届くまい。

そしてガーフィールには、姉であるフレデリカの死も伝えなくてはならない。彼女を内通者と疑い、助けるための手立てを打たなかったのはスバルの失態だ。

ガーフィールの怒りは甘んじて、全て受けなくてはならないだろう。

「『聖域』に戻ろう。――エミリアに、会いたい」

頭の重くなる出来事の数々を思い、スバルはぼんやりと本音を漏らした。

弱音に近いものだったのかもしれない。

けれど今は、素直にそうしたかった。

エミリアの顔が見たい。彼女に触れていたい。

折れてしまいそうな今のスバルの心を、エミリアの存在を実感することで癒してもらいたい。

そう思う程度には、スバルは疲れ果てていた。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――スバルが異変に気付いたのは、『聖域』へ程近い森へ入ったときのことだ。

パトラッシュにまたがり、眠るレムを胸の内に抱きながらの二人乗り。バランスを崩しそうでひやひやする姿勢だが、幸いレムは身じろぎ一つしない上に、パトラッシュが主の無能を完璧にフォローしてくれており、問題なく道のりを進んでこれた。

さすがに屋敷へ戻ったときのように全力で走ることはできず、道のりを戻るのにかかった時間は十七時間ほどで、四日目の夜に差し掛かってしまった。

『聖域』で過ごせる予定時間の一日半は、一日にまで縮んだと思っていいだろう。

必要な時間の使い道だ。パトラッシュを責める気はもちろんない。

ただ、そうして慎重に道を進んできたスバルにとって誤算だったのは、

「本当に冗談じゃねぇ……何が、どうなってやがんだよ……!」

『聖域』への道筋、結界の存在する森――その道半ばから、肌を刺すような冷気が世界を取り巻き始めていたのだ。

緑の木々の葉には霜が降り、うっすらと幹の表面は白く凍りついている。地面は窪地の水分が凍結し、ちょっとしたアイスバーンがあちらこちらに出来上がっていた。

気温の異常な低下――真冬か、それ以上の寒さにスバルはレムを抱く力を強めて、白い息を吐きながら周囲を見回す。

生き物の気配が相変わらず薄い森だが、木々の生命力すらもこの寒さの前に失われつつあった。森が極寒を迎える準備を何もしていないことこそが、この寒気が自然的な現象とまったく異なるものであるなによりの証拠だろう。

「目の前が白くなるほどの寒さ……嫌な予感しか、しねぇ。パトラッシュ」

「――――」

「おい、パトラッシュ?」

胸中に浮かぶ嫌な予感に急き立てられてパトラッシュを急がせようとするが、肝心のパトラッシュからの応答がない。

眉根を寄せて愛竜を見下ろすと、漆黒の地竜は足を止めて、ひどく苦しげに呼吸を乱しているのがわかった。

「パトラッシュ!」

慌てて、スバルは手綱を引いてパトラッシュに制止を呼びかけ、その背から下りると首筋へと手を伸ばす。岩肌のような質感のパトラッシュの首筋、その感触はおおよそ普段と変わらないが、恐ろしいほど冷たい。そしてスバルは気付く。

「まさか地竜って、寒さに弱いのか……? 爬虫類っぽい見た目だし、冬とかはどうしてるもんなんだ」

トカゲや蛇といった爬虫類は、冬の間は寒さを乗り越えるために冬眠する種が多い。見た目の類似性が多い地竜であるパトラッシュも、ひょっとするとそれら爬虫類と同じ性質を備えている可能性があった。

そうなると、この寒さの前ではパトラッシュの行軍は自殺行為に他ならない。

なぜならスバルの想像が正しければ、この寒さは『聖域』の中心へ向かえば向かうほどに、より厳しさが増すことが想定されるからだ。

「一緒に行くのは厳しい……よな。この分だと、まさか『聖域』に残ってる方の地竜たちも危ない気がするぞ」

小刻みに体を震わせているパトラッシュを手で撫ぜる。気休め以上の効果はないだろうが、スバルの掌の感触に縋るように身を寄せるパトラッシュ。

彼女なしで『聖域』へ向かうのはさらなる時間の経過を免れないが――このまま一緒に向かっても、途中で行き倒れになるのが関の山だ。

「パトラッシュ。悪いけど森の外で……いや、屋敷まで戻っててくれるか?」

スバルの決断と指示に、パトラッシュが悲しげに鼻を鳴らす。

が、賢い彼女はスバルの考えも、自分の体の状態も、この先の森の様子も理解しているのだ。幾度かなだめるように言葉を重ねると、やがては抵抗を諦めたようにスバルに対して頭を垂れる。

その頭をしっかりと撫でてやり、スバルはパトラッシュに持たせていた荷物の中から衣類と簡易食糧を取り出し、着れるだけ着込んで寒さに備える。レムにも同じように上着を着せ、荷物を彼女の体にくくってその体を抱き上げた。

「『聖域』までの道は、真っ直ぐ……だな」

「――――」

「そう心配そうな顔するなって。俺はお前の方が心配だよ。辛かっただろうに、こんな状況まで気付かなくて悪かった。気が利かなくて、ホントにすまねぇ」

頭を下げるスバルに、そんな必要はないとばかりにパトラッシュは小さく嘶く。それから、パトラッシュは森の外へ向かって歩き出し、スバルはその姿が見えなくなるまで見送った。

途中、一度も振り返ることはなかった。未練を見せることをよしとしない気高さと、スバルに負い目を感じさせないための優しさが同居した地竜なのだ。

つくづく、スバルには出来過ぎた愛竜であると思う。

「パトラッシュなら無事に森は抜けられるだろ。……あっちの心配より、こっちの心配する方がずっと先だ、クソ」

レムを抱き直し、スバルは霜柱の立つ足下を音を立てながら進む。

息が白く、気を抜けば歯の根がかちかちと鳴りそうな寒気にさらされながら、前へ前へと、『聖域』を目指す。

「なにがあったんだよ、エミリア……」

この寒気の中心に、きっといるだろう少女の名前を呼びながら。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

かじかむ足を無理やりに前に出し、震えを忘れた唇を動かして呼吸を浅く繰り返す。睫毛が張り付いてなかなか開かない瞼を押し開き、白い靄がけぶる視界をどうにか確保しながらスバルは森を進んでいた。

――『聖域』を包む極寒は、スバルの生温い想像をはるかに上回っていた。

深部へと一歩進むごとに、体感温度が低下しているような気がする。

すでに肌の感覚は失われて久しく、スバルの肉体を支えているのは亡霊のような使命感と、前に進むという意思と、

「――――」

腕の中で、外の環境の影響があるのかどうか、わからないほど一定の生命反応を刻み続けるレムの存在あってのことだった。

真っ直ぐ、ただ『聖域』を目指して進んでいるはずだ。

自分の足取りが正しく進めているか、目で確かめることができない。ただ、こうして極寒が強まるのを感じることで、正しく進めていると信じるしかない。

脛のあたりにまで雪が積もっていて、森の中はいつの間にかすっかり冬景色へと様相を様変わりさせていた。

世界そのものを、変質させるほどの影響力。それを、スバルは知っている。

「――――」

唇を震わせ、呼吸を求めて喘ぐ。くっついてしまった上唇と下唇の皮が剥がれ、ちくりとした痛みがして血が滲む。わずかに温かなそれを舌先で感じて、まだ自分の体が芯から冷え切ったわけではないことを自覚できた。

まだ進める。まだやれるだろう。

まだ何も確かめられていない。これで、こんなところで立ち止まっていては、何のためにあらゆるものを犠牲にしてきたのかわからない。

だから、

「――ぁ」

ふと、スバルは真っ白な視界を何かが横切ったのに気付いて足を止めた。

閉じかけの瞼を擦って押し開き、スバルは視界に割り込む異物に目を凝らす。次第に輪郭を結んだそれは人の形をしていて、そしてそれは見知った人物でもあった。

「リューズ、さん?」

「――――」

スバルの呼びかけに、少女は無言の視線だけで応じる。

その態度を見て、すぐにスバルは少女が『リューズ』ではなく、『リューズ・メイエル』の複製体であることを看破した。

それと同時に、彼女が複製体であるというのなら、『聖域』に戻ってきたスバルに彼女への指揮権があるということも。

「ちょうど、いいとこに……頼む。『聖域』に、案内して……」

「その頼みァ、そいつァ聞いてくれねェぜ?」

途切れ途切れに白い息をこぼし、スバルは複製体の少女に呼びかける。が、その言葉を遮るように上から誰かの声がかぶさってきた。

顔を上げる。途端、少女の隣の雪原に何者かが落下、着地。雪が沈み、押し潰される音がして、そこに一人の青年が現れる。

短い金髪に鋭い目つき、今にもスバルを射殺しそうな敵意を全身から放つ人物。

「ガーフィール」

「よォ、どの面ァ下げて戻ってきたんだか。よくもまァ戻ってこれたもんだぜ。『嘘吐きビートゥーンのお辞儀は立派』たァ言ったもんだがなァ」

理解不能の言い回しも健在に、スバルの前で牙を鳴らすガーフィール。

彼は息切れするスバルを忌々しげに見下ろし、それからスバルが腕に抱くレムの姿を見て、ひどく驚いた様子で目を見開いた。

「あァ……? なんでてめェがラムと……いや、ラムじゃァねェな。あァ? どういうこった。その女ァ、誰だよ……」

「説明して、通じるか微妙だけどな。……レムだ。ラムの、正真正銘の妹の」

「ラムに妹がいるなんて話、聞いたこたァねェが……嘘だと決めつけるにゃァ、ちィっとばかし無理があんなァ、オイ」

想い人と瓜二つの顔立ちの少女を前に、ガーフィールの意気がわずかに削がれる。即座に殺しにかかってこない分、まだ彼が理性的であるとスバルは判断し、切り返して逃走するかの決断を後回しに。

それからスバルは、ガーフィールの隣で静かに立ち尽くす複製体を見やり、

「その子が、俺の言うことを聞かないってのはどういうことだ?」

「……簡単な話だろが。てめェが『聖域』を出てったあとで、俺様もすぐに実験場に入った。んで、また指揮権を上書きして取り戻したってェだけの話だ。おかげで、嫌ァなことまた思い出させられちまったがなァ」

「そんな簡単にぽんぽん、指揮権の移譲ってできんのか」

「基本はアレに触るだっけだ。てめェだってそうだったろがよォ」

アレ、とガーフィールが指すのは、リューズ・メイエルの本体が封じられているクリスタルのことだろう。アレに触れることが指揮権移譲の条件なら、スバルから彼にそれが戻るのも当然の成り行きだ。

ともあれ、

「わざわざお出迎えとは、気が利いてるな」

「てめェの戯言に付き合ってやるつもりァねェよ。今のこの状況を見りゃァ、笑って話し合える領分はとっくに過ぎてんのがわかんだろォが、あァ?」

「そう、だな。……じゃあ、単刀直入に聞くけど」

凄むガーフィールに頷き、スバルは首を小さく振ってから息を吸い、言った。

「――これは、エミリアがやってるのか?」

「それもわかりゃァしねェな。なにせ、墓所から出てっこねェからよォ」

「墓所から出てこない?」

思わぬ返答に眉を寄せるスバル。そのスバルの反応に苛立たしげに舌打ちし、ガーフィールは足下の雪を盛大に蹴り上げると、

「てめェが消えた日っから、半魔の様子がおかしくなりやがった。落ち着いてるかと思ったら、墓所に閉じこもってこれだ。気付きゃァ取り返しがつかねェぐらいに、『聖域』は氷に覆われちまった。――エリオール大森林と、おんなじになァ」

「お前、エミリアの故郷の話を……!」

「聞いてねェとでも思ってんのかよ。ロズワールはいけ好かねェ野郎だが、必要な質問にゃァ答えァ返すぜ。俺様ァ、だからこそエミリア様とやらを信用してねェ」

酷薄に言い捨てて、それからガーフィールは表情を厳しくするスバルに接近。とっさの彼の動きに反応できないスバルは、目の前に立つガーフィールになす術もない。

「なっさけねェ面ァ、しやがって」

「な――!?」

胸を掌で押されて、スバルは無様にそのまま後ろに倒れ込む。

慌てて腕の中のレムを庇おうとするが、その手は空振った。なぜなら、

「おまっ、レムを――!」

「返せ、ってか? おいおい、ずいぶんとご執心じゃァねェかよ。てめェの惚れた女ってなァ、エミリア様のことじゃァねェのかよォ」

スバルにとっても痛いところを突き、ガーフィールは鼻を鳴らす。

その彼の腕の中に、先ほどまでスバルが抱いていたレムの体が奪われていた。

かじかむ体を必死で動かし、スバルはガーフィールに取り縋ろうとするが、跳躍して距離を取る彼には追いつけない。

「レムを、どうする気で……!」

「別に痛い目に遭わせるつもりァねェよ。そりゃァ筋違いってやつだ。俺様ァ筋ァ通すぜ。道理に合わねェこたァ、気持ちが悪ィからよォ」

そう言って、レムを見下ろすガーフィールの瞳には、確かに害意はない。

少なくとも、想い人と同じ顔をした少女に危害を加えるほど、ガーフィールの性根は歪んではいないのだ。

ならば何故、と言葉を作りかけるスバルに、ガーフィールは先んじて言った。

「墓所に入れ。――それで、中にいる半魔を引きずり出してこいや」