Re:Zero Kara Hajimeru Isekai Seikatsu (WN)

Chapter IV 106: Otto Suwen

ちりちりと、肌の焼けるような感触に顔をしかめて、ガーフィールは降り積もる落ち葉を乱暴に蹴り上げた。

「やって、くれやがるじゃァねェかよォ」

苛立たしげに呟かれた言葉ではあるが、そこには素直な賞賛の気持ちがある。

舐めていたのが敗因、とあの男はのたまった。そのことは否定できない事実だ。

ガーフィールは間違いなく、オットーに戦闘力などないと、完全に見くびっていたのだから。

「火の魔鉱石……威力のあるやつにしなかったってェのは、何のつもりなんだっかなァ」

一瞬、視界を覆い尽くした炎の幕。

硬直した体を刹那だけ炙り、消えていったそれをガーフィールは忌々しげに思い出す。

虚仮脅しも同然の一撃だ。かすかにひりつくような感覚が肌にあるが、日焼けと変わらないそれはダメージなどとは程遠い。

ただ、はっきりと言えることがある。

「もしも今のが殺傷力のある一発なら、俺様でもタダじゃァ済まなかったってこった……ッ!」

致命的なはずの一瞬を、相手の判断によって外されたのだ。

これが情けをかけられたという状況でなくて何だというのか。手加減して意識を奪い損ねた相手に、まんまと一杯喰わされた現状。

これではあまりにも、自分が惨めで愚かしい。

「ふざッけやがってェ……!」

さらに苛立たしいのが、今の攻撃を仕掛けてきた相手が、炎に意識を奪われるガーフィールを無視して、一瞬で逃亡を選択したことだ。追撃など微塵も考慮しない潔い行動に、対応の遅れたガーフィールはオットーを完全に見失った。

柔らかい土。降り積もる落ち葉。慣れない足場であるはずの土地を、ずいぶんと器用に走り抜けたものだ。夜中、森を歩き回っていたという発言も頷ける。

それでも、純粋な追跡劇になれば、ガーフィールから逃れられるはずもない。オットーの走る十歩を、ガーフィールは二歩で詰めることができる。身体能力、種族としての差はそれほどまでに大きい。

ただしオットーは、それすらも抜け目のなさでカバーしていった。

「――っづ! ん、っだァ!? この……あァ! クソ、鼻がいかれるッ」

逃げたオットーを追おうと鼻を鳴らした瞬間、ガーフィールの鼻孔を痛みを伴うほどの刺激臭が貫いた。思い切りに呼吸してしまったガーフィールは顔をのけ反らせて、視界が明滅するほどの鋭い痛みに頭を振る。

見れば、先ほどまでオットーの立っていた位置に、透明のビンが投げ捨てられていた。蓋の空いたそこからは無色の液体が流れ出しており、刺激臭がそこから漂ってきているのを感じ取る。しかし、嗅覚が役割を果たせるのはそこまでだ。

「野郎……俺様の鼻を封じて、勝ったつもりでいやっがるんじゃァねェだろうなァ」

牙を剥き、次々と手段を封じられるガーフィールは怒りを露わにする。

どれほど、対ガーフィールのための策を練り続けていたのか。ことごとく、ここまでの策は完璧にガーフィールを封殺している。

「――――」

額に傷に触れて、荒い息をつくガーフィールは己を落ち着かせる儀式を行う。

深い呼吸で心肺を落ち着かせ、怒りに押し流されそうになる思考を引き寄せた。考えるのは、オットーがガーフィールを完璧に罠にかけ続ける手並みのことではない。

なぜ、オットーがこんな無謀な戦いにその身を投げ出しているのか、だ。

そもそもの前提として、オットーがガーフィールに挑むのはおかしいのだ。

彼の目的は時間稼ぎ――自分にガーフィールの目を引きつけ、その間に『聖域』に残っていた避難民たちを別々のルートで次々と脱出させる。

それはオットー自身が種明かしして聞かせた通りで、彼の言葉が事実であれば、今から追いかけたところで、ガーフィールであっても到底全ての竜車は止められない。

一瞬、指揮権を利用してリューズの複製体たちに追わせようかとも考えたが、それぞれの竜車の出発点がはっきりしない限り、無駄撃ちになるのが関の山だ。

複製体たちには知識や経験がなく、大雑把な指示しかやり遂げることはできない。

しかも彼女らは、定期的に食事をとるという習慣すらこちらから指示してやらなくてはならず、森の中で活動限界を迎えると小さく丸まって生きるのを投げ出そうとする。

それを見つけ出しては消えないように奔走するのも、ガーフィールは飽き飽きだ。

「結局、頼れるのは俺様自身だけってェわけだ。ハッ! いつものこったなァ」

手数は足りず、鼻は封じられた。

それでも、ガーフィールは悲観しない。自分には鍛え上げたこの肉体がある。森を駆け抜け、目的を達成するには十分なだけの力が残されている。

オットーの目的がなんであれ、こうまでガーフィールに抵抗したのだ。ガーフィールの逆鱗に触れて、爪と牙を振るわれることも覚悟の上だろう。

もはやガーフィールは、オットーをただ食われるだけの獲物と侮るのをやめた。

力を尽くして狩る必要のある相手と判断し、必ず追い詰めて仕留める。

――そう考えている時点で、ガーフィールはすでに自分が当初の目的を忘れて、オットーの策謀に乗せられていることに気付かない。

「ずいッぶんと、大人っしくしてんじゃァねェか、てめェら。それもあの野郎に指示されてた……なァんて、言いやがるってのかよォ」

森に潜んだオットーを追うにあたり、首を巡らせるガーフィールは佇む竜車を見る。

避難民を乗せて逃げると見せかけた、ダミーの竜車二台だ。とはいえ、竜車を引く地竜は二頭とも本物であり、オットーとガーフィールのやり取りが始まってからは、その場に膝を曲げて座り、我関せずの姿勢を貫いている。

「下手に動かなきゃ、俺様に危害を加えられることもねェってか。賢明なこった。実際、やる必要のねェ殺しなんざしねェがな」

首を振り、ガーフィールは地竜たちの横を抜けて竜車の客車に再び手をかける。

村人たちの臭いを誤認させるために、車内には大量の衣類がばらまかれていた。さっきはそれだけを確かめて切り上げてしまったが、もう少し粘れば何か見つかるかもしれない。

乱雑に散らばる衣類を足でのけて、ガーフィールは座席や壁際を見渡す。目当てのものは何もないかと、少しの捜索で客車を降りようとして、

「――あァ?」

振り返った視線の先、客車の扉の裏に隠れるように、何かが貼り付けてある。

風に揺れるそれは白い紙で、内側からしか見えないようにされていたものだ。

――嫌な予感がして、ガーフィールはつかつかと扉に歩み寄ると、風に揺れるそれを乱暴に引っぺがして手の中で広げた。

そして、

『――こうまで掌だと、やってる甲斐があります』

書き記されたその文字を見て、ガーフィールの視界が赫怒で真っ赤に染まる。

次の瞬間――客室の座席を跳ね上げて、黒い塊が狭い小部屋の中で爆発。暴風のような羽音を立てる虫の群れに、ガーフィールの怒号が呑み込まれた。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――幼い頃のオットー・スーウェンにとって、世界は地獄の揺り籠だった。

「――――」

「×××××××××」

「※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※」

「***************!*!*」

四六時中ひっきりなしに、オットーの耳には意味の理解できない言葉が聞こえ続けていた。

ボーっとした顔で地べたに座り込み、耳元で囁くように、あるいは遠くから叫ぶように、時には歌うように、またある時には断末魔のように、常に世界はオットーに繋がり続けることを強要していた。

世界のどこにいっても、声はどこまでも幼いオットーを追いかけてくる。

休まることのない日々。延々と木霊する、不協和音じみた合唱。何もかもが、何一つ協力するつもりのない地獄の協奏曲が、常にオットーの傍らに寄り添い続けていた。

――どうしてみんな、こんなうるさい世界で当たり前のように生きているのだろう。

満足に隣の人の声も聞き取れないような地獄の中で、オットーはそんな疑問を抱いていた。

両親に抱き上げられて、笑顔とともに何か言葉を投げかけられる。しかし、それがどれだけ愛情に満ちたものであっても、オットーの耳には数多の雑音に呑み込まれてしまって届かないのだ。

息子の異常に気付いた両親は、すぐにそんなオットーを医者へと連れていった。

笑わず、怒らず、泣かず。およそ感情表現といったものが育たなかったのは、あらゆる外界からの働きかけが、オットーには全て同じものにしか感じられなかったからだ。

故にオットーは両親に心配されるほど、無感情な人間として幼児期を過ごすことになる。

幸いというべきか、スーウェン家は中流程度の生活水準を維持する商家であり、息子を医者へ通わせるだけの蓄えは十分にあった。

ただし、オットーの体はどんな医者に見せても異常など見つからない。当然だ。彼の症状は言ってしまえば、聞こえすぎるが故の難聴という他にないのだから。

二つ上の兄と、二つ下の弟。オットーと違って健常者として過ごした兄弟は、両親の愛を受けながらすくすくと成長していった。両親の関心はオットーから徐々に薄れつつあり、三人分の愛情は二人に振り分けられ、オットーは親の温もりから遠ざけられる。

そんな兄弟や両親のことを、オットーは恨みも妬みもしていなかった。その頃、誰かを憎むことも羨むことも、プラスもマイナスもどちらの感情も育っていなかったこともあるし、兄弟は半ば言葉の通じないオットーに根気よく付き合ってくれていた。両親の心が疲れていってしまったことも、仕方ないと思えている。

もしも自分が当時の兄弟のどちらかの立場なら、あれほど懸命に訳のわからない家族に優しくできたかどうかはわからない。だからむしろ、感謝しているぐらいだ。

声を音にして届けることはできなくても、文字でなら意思疎通をすることができる。

それを見つけてくれたのも、オットーに本を読み聞かせようとしてくれた兄だった。

文字の習得も、当然のように至難を極めた。

なにせ、言葉を認識するための音が通じないのだ。言葉の羅列が意味する内容を理解するのに、オットーは普通の子が文字習得をする時間の十倍は費やした。

とはいえ、それは苦ではなかった。悲しいことに、それを苦しいと思う感受性がオットーにはなく、まともな生活の送れない幼児には日々やることがない。

『――いつも、ありがとう』

紙に書いたその文字を初めて見せたとき、両親が涙を流して自分を抱きしめたことを、オットーは今でも強く強く覚えている。

感謝の感情ははっきり理解できていなくても、そうするべき扱いを自分は受けている。幼いながらそう判断し、義務的に書いた言葉を評価され、オットーの心に波が生まれた。

――声を上げて、喉が涸れるほど泣いたのは、ひょっとしたら生まれたとき以来だったかもしれない。だとしたら、それはオットーにとって二度目の産声であった。

「ふぁがとくがおいたじじじじ」

「AGATEGATAGFATTTETAADAERTERA」

「みーみーむーみーめーみーみー」

意味の理解できなかった地獄の合唱に、ぼんやりと法則性を見つけることができるようになったのは、オットーが二度目の産声を上げてからすぐのことだった。

それまでひっきりなしに鼓膜を殴りつけていた雑音の数々が、少しずつではあるが、確実にオットーの意思に選別されて取り除かれていく。

そして完全に、自分の意思で周囲の音を遮断できるようになったのは、オットーが八歳の誕生日を迎えた頃のことだった。

ほぼ健常者そのものとなったオットーは、そこからは渇いた砂漠に水を落としたように、あらゆる物事を貪欲に吸収していった。

もともと、子どもが八歳までに学ぶ出来事の大半を放棄せざるを得なかったオットーだ。文字を習得し、勉学には時間をかけつつも励んでいたが、それでも理解力は同年代の子らに比べていくらか劣っていた。その遅れを、彼は集中力という武器で一気に縮める。

オットー・スーウェンという少年の、眠っていた才能が開花した。

兄や弟に比べても遜色のない。否、二人よりも上を行く思考力や理解力。類稀なる学習力を発揮したオットーは、ぐんぐんと同年代の少年少女の中で頭角を現し――。

――そして、見事なまでに人間関係で失敗しまくって孤立した。

「どうしてみんな、こんな難しい世界で当たり前みたいに生きてるんだろう」

好意を寄せていた少女に頬を張られて、顔を赤く腫らしたオットーは膝を抱えて呟く。

十歳を迎えたオットーは、商家の息子として恥じないよう、勉学に勤しんでいた。この時代、幼い頃からしっかりと教育を受けられる環境はそうあるものではない。間違いなく恵まれた環境であり、同年代の少年少女とも過ごせる理想的な日々だった。

ただ問題だったのは、オットーの感情表現や精神年齢といったものが、同年代の子どもたちよりも七年ばかり成長が遅れていたことだ。

多くの子どもが当たり前のようにやる失敗をしてこなかったオットーは、それができるようになってから当たり前のように同じ失敗する。ただし、その多くは子どもと言える時代の中でも幼い時代だから許されることであり、その期間を大幅に過ぎてしまったオットーがやらかしてしまうと、やらかしたとしか言えない結果を生むことばかりだった。

さらに運の悪いことに、オットー・スーウェンは完全に不運に恵まれた少年だった。

両親に言わせれば、オットーの不運は産後すぐ、産湯で溺れかけたことを切っ掛けにスタートを切る。そこから意図したわけでもないのに、階段から落とされたり、鳥の排泄物を食らったり、花瓶で溺れかけたりと頻繁に不幸に苛まれていた。

イマイチ自覚がなかったのは、その不幸を味わう感覚が育っていなかったからだ。

その感覚が育ってから過去を振り返り、オットーは自分の経歴に愕然とする。

いったい何があると、人間こうまで運に見放された日々を過ごすことになるのかと。

「おおきい、とおった、いま、とおった、もう、いった」

「ひかる、ひかった、ひかりが、とおい、ひかり、ひかり、ひかって」

「おい、まものがくるぜ。おい、まものがくるぜ」

さらにこの頃、意識的に遮断することができるようになっていた雑音に変化が生じる。

何の意味も持たせることのできなかった意味不明の合唱に、意味があるように感じ取れるようになったのだ。

大半は聞き取れるようになっても意味のわからないことばかりだったが、無理解を理解に変えるために奔走した結果、オットーは幼い頃の地獄の正体に気付く。

どうやら自分は、人類種以外の生物と意思疎通ができる力があるらしい。

後に『言霊の加護』と発覚するその技能を、オットー・スーウェンは発現してから十一年経ってやっと自覚することになった。

それからというもの、オットーは自分に与えられた加護の力の限界を知るために、町中の色んな場所に足を運んでは加護を試した。試行錯誤を繰り返す間に、どうやら知能の高い生き物であるほど、はっきりとした形で意思が伝わってくることを見つけ出す。

そして、実家で飼っていた地竜と言葉を交わすところを兄弟に見せ、自分が幼い頃から加護持ちであったことを打ち明けた。

「うん、そうか。うん……あの、さ……オットー。その力は、うん、すごい。うん、すごいと思うから……その、なんだ。人に見えるところでは、使っちゃダメだ」

加護持ちであることは世界からの祝福だが、そうした技能を持つものが誰からも歓迎されるかというとそんなことはない。万人に利する加護ならまだしも、オットーのその力はオットー自身にしか働かず、悪用しようとすれば子ども心にも色々な方法が思いつく。

オットーの身を案じてくれた兄の意見も、確かに頷けるものだった。

顔を青くして視線をそらす兄と約束し、オットーは自分の『言霊の加護』の存在を周囲に知られてはならないと固く心に決めた。

この力は自分だけでなく、自分の周りにいる人たちにも危険を及ぼしかねない。

幼いオットー少年の心には、大切な家族を守らなくてはならないという使命感が灯っていた。

『言霊の加護』の存在が知れ渡って、同年代の少年少女から本格的に総スカンを食らったのは、兄との約束から三日後のことだった。

こっそり地竜と会話しているところを弟に見られて、オットーは仕方なしと弟に自分の加護のことを打ち明けた。そして兄に心配されたことも伝えて、自分の力があまりに危険すぎることを弟とも共有することにしたのだ。

そして翌日、オットーの力を自慢しようとした弟に連れられて大勢の子どもたちが集まる中、オットーは虫と会話しているところを見られて数年ぶりに地獄を見た。

『言霊の加護』の欠点は、意思疎通するにはあくまで相手の言葉を利用する必要があるということだろう。端的に言えば、オットーは地竜と会話するときは地竜のように嘶いているし、虫と会話するときは虫のような鳴き声を上げている。

空気の読めない、ゾッダ虫野郎と名前が知れ渡るのは一瞬のことだった。

以来、オットーは『言霊の加護』を封印し、二度と使わないようにしようと決意。数年がかりで自分に沁みついた悪評を打ち消し、多くの人の記憶から忌まわしい思い出を拭い去ることに成功したのだった。

それを成し遂げたのは、オットー少年十四歳。多感な年頃のことだった。

年齢も十四歳になると、心の成長が、などという言い訳も通用しなくなる。体の成長も着々と大人の階段を上り始めて、手足が伸び切る頃にはオットー少年はそれなりに評することのできるぐらいには整った容姿になっていた。

灰色の髪に、やや薄幸さのある柔らかい顔つき。穏やかな目つきと、懸命に物事に尽くす性分。これで意外と母性をくすぐるような要素に長けたオットー少年は、年頃の少年らしく色恋沙汰にも興味を持つようになり――、

『言霊の加護』の力で町一番の権力者の娘を敵に回し、追放されることになった。

オットー少年、十五歳になるのを目前にした寒い季節のことだった。

事の次第はもはや割愛するが、端的に言うと愛憎劇に巻き込まれた結果だ。

町一番の権力者の娘の誕生パーティーが催された夜、彼女の恋人が、彼女が自分ではない別の男と一緒にいたと怒りも露わに怒鳴り込んできたのだ。槍玉に挙げられたのは、直前にその娘と会話するところを見られていたオットーだった。

オットーは時間を聞かれただけだと正直に答えたが、顔を真っ赤にして「ゾッダ虫野郎!」と罵声を浴びせてくる男は聞く耳を持たない。

四年ぶりに払拭したはずの過去を掘り起こされて、さすがのオットーもこのときばかりは平常心を忘れた。

故に彼は己の封印を解き、自分にかけられた疑いを晴らすために全力で行動し、町中のあらゆる生物の声に耳を傾けた結果、問題の夜に問題の娘が実に七人もの男と回遊していたことを突き止めて、憐れな男に「君はどうやら八人目です!」と晴れ晴れと伝えた。

男に殴られた上に、異性関係を暴露された娘が雇った殺し屋に狙われて、オットーはほうほうの体で生まれ故郷から逃げ出し、父親の縁を頼って知人の商会で働くことになる。

そこから修行を積み、行商人として旅立ったのが十六のとき――オットー・スーウェン、男としての独り立ちであった。

オットーの行商の旅は、まさしく苦難の連続であったといっていい。

不運に見舞われる性質は、年数を重ねてもオットーを手放しはしなかった。割れ物を運べば悪天候に襲われ、行程を短縮しようと山に入れば山賊に襲われ、他の行商人と組んで行動した夜の野営では、オットー一人だけが虫に全身の血を吸われた。

様々な不幸に苛まれながらも、オットーが破滅せずにどうにか生き長らえてこれたのは、悲しいことに不幸に釣り合う程度には優秀な商才に恵まれていたからだった。

大きく儲けることはなく、かといって激しく損をすることもない。まさにプラマイゼロという、商人としては退廃的なぐらいの奇跡的なバランス感覚で舵取りして、二十歳までの四年間は瞬く間に過ぎた。

心が折れて故郷に帰るようなことにならなかったのは、故郷を追放された日に実家から連れ出した、幼い頃の付き合いである地竜のフルフーがいたからだ。

正直、兄弟に『言霊の加護』がばれた切っ掛けになったフルフーには色んな複雑な思いがあったのだが、今のオットーにとっては確かな繋がりで、大切な家族のようなものだ。

なぜか他の行商人ともなかなか組んでもらえないオットーは、一人で過ごす眠れぬ夜をフルフーと言葉を交わすことで紛らわすことも多かった。

もう寝かせてくれ、とフルフーが照れ隠しするのを、何とか縋って会話を続ける。

夜中、火を囲んで地竜の鳴き声を真似して話しかける彼の姿を、遠巻きにする行商人たちが迂回していくのは、もはや当然の成り行きだった。

そんな浮き沈みのない、子どもの博打のような傍目には微温湯、当人にとっては実は結構必死な日々を過ごしていたオットーに転機が訪れる。

――商機を逸して、完全にやらかしたのである。

そのとき、オットーが取り扱っていたのは油だ。寒い季節を迎える頃、北国であるグステコでは非常に高値で取引されると、赤ら顔に眼帯をしたヒゲの男に聞かされたのだ。オットーは持っていた鉄製品を油に変えて、意気揚々とグステコを目指し――まさかの国交断絶の時期にぶち当たり、商品をさばく当てを見失った。

さらに彼の心に衝撃を与えたのは、処分する際にかなり買い叩かれた鉄製品が、王都でものすごい高値で取引されているという話を聞いたときだ。

自分がまんまと一杯食わされて、行商人生命の危機にあることをオットーは悟った。

どうにか一発逆転の機会を見つけて再起を図らなくては、フルフーを手放すようなことになりかねない。それどころか、実家に泣きつく結果になる可能性も。

オットーにとって、それだけは決して踏み越えてはならない領域だった。

家族と会えなくなって五年以上が経つが、オットーの心には家族への親愛が欠片も薄らぐことなく残り続けている。今の自分が曲がりなりにも生きていられるのは、幼い頃の自分を見捨てずにいてくれた家族のおかげだ。

あの幼い十年間で、オットーはもう一生分の迷惑を家族にかけたのだ。これからは残りの一生をかけて、その十年間を返済していかなくてはならない。

貸し借りは正しく、正確に。オットー・スーウェンは、商家の息子なのだから。

――儲け話があると付き合いのあった行商人に持ち掛けられて、オットーはそれに乗った。

何でもその依頼、必要なのは商品ではなく、地竜の足という話だった。竜車の荷台に人を乗せて、多くの人間を移動させたいという話だ。

一も二もなく飛びつき、オットーはフルフーと『言霊の加護』をフル回転させて、誰よりも早く目的の場に馳せ参じようと意気込んだ。

悪路を駆け抜け、道なき道を行き、フルフーの「もうこれはやめましょうや、ぼっちゃん」という引き留める声も押しのけて、オットーは誰よりも早く辿り着いた。

そして、

「おやおやおや……そんなに急いで、どこへ行くの……デス!」

えらいことになった。

完全に目がイってしまっている連中に囚われて簀巻きになり、オットーは自分の不幸が本当の本当に最高潮を迎えたことを悟った。

フルフーと引き離されて、身ぐるみを剥がされたオットーは冷たい洞窟に投げ出され、戯れに命を奪われる瞬間を待つだけの存在とされた。

このとき、オットーの心を浸していた絶望感がどれほどのものか、いったい誰に理解できるだろうか。誰にもできないはずだ。

なぜならこのとき、オットーは持てる力の全てを尽くして脱出しようと、『言霊の加護』も全開にして、集団の魔の手から逃げ出す方策を模索していた。そんなオットーの反骨精神を折ったのは、圧倒的な静寂――『言霊の加護』を完全に開放したとき、幼いオットーを襲ったものと同じだけの地獄が展開するはずだった。

その懐かしくも忌まわしい雑音が、一切聞こえなかったのだ。

虫や小動物、森や洞窟など、およそどこにでも存在するはずの生き物たちが、揃って姿を隠すほどの悪魔的な存在――地獄を覚悟したオットー。その覚悟を上回る地獄を目の当たりにして、オットーの心は完全にひび割れた。

瞳が力を失い、急速に全身からは力が抜けていく。もう、何もかもがダメだとわかった。何をやってもうまくいかず、最後には冷たい洞窟の中で終わる。

涙すら流れない絶望感。空虚な現実に時間の経過すら忘れた頃、それは唐突に訪れて、オットー・スーウェンの運命のすくい上げていった。

「なんや! 魔女教のアホンダラ共、見境なくやっとったんか! しょうがないやっちゃらやなあ!」

洞窟の中を大声が反響し、忘我の境地にあったオットーは現実に揺り戻された。

顔を上げ、掠れた声で助けを呼ぶ。それに気付いて現れたのは、犬の顔をした大柄の獣人であり、カララギ弁を操る彼は囚われていたオットーを解放してくれた。

「兄ちゃん、運がええな! ワイらがこんかったら、間違いなくあの連中にぶち殺されとったで! もうちょい遅くても一緒やな! 間一髪! 間一髪や! ワイらはもちろん、大将の坊主にも感謝したってや!」

「た、大将の、坊主……?」

縛られていた手足を回して、オットーは馬鹿笑いする獣人の言葉に首をひねる。

彼はオットーの疑念に目を丸くすると、そのでかい掌でこちらの背中を思い切り叩き、オットーに悲鳴を上げさせて、

「大将は大将! 坊主は坊主! 合わせて大将の坊主や! ワイらに指示して、ここまで送り込んだ頭やな! こんな頭のよぅ回るようには見えんかったのに、ホンマに人は見かけによらんっちゅうやつや! がはははは!」

「は、はあ……わ、わかりました。とにかく、ありがとうございます。そうだ、その人にも……」

お礼を言わなくては、と顔を上げたところで、オットーはふと気付く。

獣人がオットーの顔を見て、驚いたようなしかめ面をしていたのだ。その反応の意味がわからないオットーに、獣人は懐から意外にも白い手拭いを投げ渡してきて、

「なんや、泣くんやったら隠れて泣き。男が人前でめそめそは情けないで」

「え、へ……な、泣く?」

「ボロボロ涙出てもうてるやんか! それが泣いてへんならなんやねん! 汗か! 心の汗か! 兄ちゃん、そんなんもうカララギの奴でもようけ言わん冗談やで!」

獣人はオットーに背を向けて、まるで気遣うように離れていった。オットーは半信半疑に布を顔に当てて、それが大量の涙を吸い取ったことに心から驚く。

そして涙を自覚した途端に、次から次へとそれは溢れ出してきた。

「あ、クソ……な、なんだよ、こんな……こんな……っ」

止めることのできない涙の奔流に、オットーは歯を噛んで布を顔に押し当てる。

こぼれ出す涙の原因がわからず、頭の中は支離滅裂な罵声に支配されていた。

――涙すら渇くほどの絶望感から解放されて、だからこその涙なのか。

「し、死なないで……よか、よかった……っ」

まだ何も、成し遂げていない。

受けた恩に何一つ、報いていないのだ。

あそこで死ねば、オットーは生まれた意味すらないままに終わるところだった。

今こうして生き延びたことで、オットーはそのことを自覚することができた。

――オットーの人生は涙を流すたびに、生まれ変わることを実感する。

この世に生を受けた一回目の産声。

家族の愛を知り、自分の心の在り処を知った二度目の産声。

そして三度目、覚悟したはずの死を抜けて、生きる目的と意味を理解した今日。

――オットー・スーウェンはこの日、また産声を上げたのだ。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――本当はこんな時間稼ぎ、頼まれちゃいないんですけどね」

地面を蹴って、似合わない肉体労働に勤しみながら、オットーは苦笑を浮かべる。

みっともなく泣き喚いた記憶など、忘れたいほどに無様だが、生憎と泣いた記憶はどれも大切なものだから、忘れようにも忘れられない。

あのとき、オットーを助けたリカードという獣人は、オットーが大泣きしたことを誰にも言わずに秘密にしてくれた。その借りは、いつか必ず返さなくてはならない。

そして、

「貸し借りは必ず返済する。――なにせ僕は、商人ですからね」

――命を救ってくれた、坊主の大将。

ナツキ・スバルにだって、オットー・スーウェンは返さなくてはならない借りがある。

命を救われた恩義に、己の全てを費やして報いる。

商売人として当然の心構えだ。

何より――、

「――友達の、ためですからねえ!!」

商人としてのオットーも、一人の人間としてのオットーも、今ここで、踏ん張ることを自分に課している。

だからオットー・スーウェンは、勝算の薄い戦いに臨む。

勝算度外視の賭けに乗り、自分の存在で上乗せできる全てを、ナツキ・スバルの勝利に積み重ねよう。

それがオットーの商人魂で、友情の証なのだから。

――遠く、残してきた竜車の方角から、獣の怒号が張り上がるのが聞こえる。

本当に戦端が開かれるのを予感して、オットーは自らの加護を解放――懐かしい地獄の中に身を委ねながら、自分の全力を振り絞るために、走り続けた。