Re:Zero Kara Hajimeru Isekai Seikatsu (WN)
Chapter Six, 49: To You Who Can't Do It
じわじわと、じわじわと、腕から痺れの抜けるような感覚がある。
それが、死に際のメィリィの立てた爪痕、それがゆっくりと、しかし着実に癒えて消えていく感覚だと、スバルは袖の下の治癒から目を背け、感じ取っていた。
「……わりと、本気で大したもんだったんだな、この部屋」
この蔦だらけの部屋に生息する精霊は、室内にいる生物の傷を癒すと聞かされていた。とはいえ、今の今まで外傷を負って部屋を訪ねた経験のなかったスバルにとって、その効力がどれほどのものか疑問ではあったのだ。
それが、こうして実際に傷の癒えていく感覚を味わって、下種の勘繰りであったと反省させられる。
『せっかくのダイイングメッセージだったのに、お兄さんったらひどいわあ』
「――――」
『でも、ベアトリスちゃんの察しが悪くて助かったわよねえ。おかげで、動かぬ証拠だった手の傷は消えてくれるんだものお』
頭の中、延々と語りかけてくる少女の幻影がうるさい。
スバルにとって苦々しいのが、この少女の発言がスバルの内心を反映していないと、そうは言い切れないぐらいに的確に心を抉ってくることだ。
この少女の幻影が、果たしてスバルの一部による暴走なのか、それとも『死者の書』を読んだことでスバルに憑りついた文字通りの亡霊なのか、わからない。
わかっているのは、事実がなんであれ、この少女の言葉に耳を傾けてはならない。傾けるべきではない。そうした、焦燥感を帯びた事実それだけであった。
だから、スバルはひっきりなしに聞こえる幻聴を意識的にシャットアウトする。
しかし、そうやってスバルが自分の殻にこもればこもるほど、幻影はより楽しげに言葉数を増やし、スバルを翻弄するように手管を弄してくる。
その最たるものが――、
『――今なら、ベアトリスちゃんが傍にいないでしょお? 邪魔する人がいないんだから、あの寝てる子だけでも始末しちゃったらあ?』
「――っ」
『くすくす……そんなに泣きそうな顔しないでよねえ。無視しようとして無視し切れないんだから、ホントに可愛い人だわあ、お兄さんって』
姿の見えない少女の声は、スバルには耳元で囁くようにも聞こえる。
目をつむれば、そっとスバルの背中にもたれかかる少女が、甘い吐息と一緒に耳へと甘言を吐きかけてくる姿が幻視できるようだ。
安息のために連れてこられた精霊部屋、そこでスバルはまたしても、『死者の書』を抱いていたときと同じ選択に迫られている。
この部屋へスバルを連れてきたベアトリスは、タイゲタの書庫を離れたことをエミリアたちに伝えにいっている。そうして一時、誰にも見られていない自由な時間を得たスバルの前には、供物のように蔦のベッドで眠り続ける少女が一人――、
「……レム」
意識のない少女、その名前を口にしてみても、スバルの内に感慨は生まれない。
ただ、名前を知っているだけの、言葉を交わした記憶すら有さない少女だ。彼女について知っていることは、ラムの双子の妹であることと、エミリアたちの仲間であること。それから、長く眠りについた彼女を起こす手段を求めて、この塔へやってきたこと。
――それ以上を、知りたい。
『手段はあるじゃない。あとは、やるかやらないかだあけ』
甘い少女の誘惑が、否が応でもスバルに『死者の書』計画を想起させる。
今は深い眠りに落ちている彼女であっても、健在だった頃にはスバルと何らかの関わりがあったに違いない。その関わりと、彼女がどんな思いを抱いてスバルと接していたのか、『死者の書』の力を借りれば、それをわかることができる。
何より、彼女はメィリィ以上に容易くその命を啄ばむことができる存在だ。
昏睡状態の少女など、それこそ顔に濡れ布巾を置いておくだけでも窒息死させられる。早急に、早急に、早急に、早急に、早急に――、
「……馬鹿か俺は。いや、馬鹿だ俺は」
みなぎる焦燥感を手で制して、スバルは自分の馬鹿な考えを改める。
早急に、そんな行動を起こしてどうする。垂涎とばかりに目の前の事態に飛びついたところで、あとが続かなければ何の意味もない。
殺すのは、過程だ。スバルが欲するのは、彼女たちの本心という結果。
その結果を危うくしてまで、過程の遂行に急ぐなどと本末転倒もいいところだ。
タイゲタの書庫でも、あれだけ考えたではないか。
仮に『死者の書』計画を実行に移すのだとしたら、削っていく順番は慎重に選ぶ必要があるのだと。
「ユリウス、エミリア、シャウラ、ラム、エキドナ、ベアトリス、レム……」
指折り数えて、スバルはメィリィを除いた塔内の人間――すなわち、可能であれば『死者の書』を獲得したい相手と、そのための優先順位を羅列する。
おそらく、『死者の書』計画の遂行に邪魔になるのはこの順番でいいはずだ。
逆を言えば、この順番で削る算段がつかない限り、焦って行動したとしても絶対にうまくいかない。――しくじるのは、御免だ。
『そうじゃないと、殺し損になっちゃうもんねえ。こわあい』
「――――」
幻影の軽口に無言を守る。邪険にされ、幻影が不満そうにする気配があった。
だが、なんと言われても態度は変わらない。同じことだ。
スバルは、エミリアたちを殺したいわけではないのだ。
それでももし、殺さなければならないとしたら、そんな機会は一度で済ませたい。
一度だけ、一度だけでいいのだ。そのための、完全な計画さえあれば。
「――――」
そうやって、深々と息を吐くスバルの方へと、黄色い視線が突き刺さる。
見れば、それはこの精霊部屋で、眠り続ける少女とは異なる立場で同席している存在――漆黒の地竜、パトラッシュの眼差しだった。
憔悴したスバルへ向けられるパトラッシュの視線は、心なしか憂いと心配を孕んだもののように思える。
そこには、ベアトリスが一時だけこの場を離れる前に、「スバルのことをよく見ててほしいのよ」と言い残していったことが効いているのかもしれない。
そのパトラッシュの目が光っている限り、どれだけ焦燥感に急き立てられようと、眠る少女への狼藉を働くようなことはできない。その点、早まった判断をしなくて済んだことには、パトラッシュの存在に感謝したい。
ただ、あれほど唯一無二の親愛を感じたはずのパトラッシュにも、『死者の書』を見たスバルは素直な信頼を向けることができなくなりつつあった。
「……これも、お前の狙い通りなのかよ、『ナツキ・スバル』」
信じたいと欲し、その真意がどこにあるのかと考えれば考えるほど、ナツキ・スバルは寄る辺のない異世界で孤立していく。
それこそが、あの邪悪な『ナツキ・スバル』の提示する悪辣なゲームなのか。
「――――」
じわじわと、メィリィに付けた引っ掻き傷が癒えていく。
その痛みの遠のく感覚を味わいながら、スバルは袖をまくり、そこに痛々しく刻まれた『ナツキ・スバル参上』の傷跡に、癒えかけの瘡蓋の上から爪を立てた。
自分の――否、自分ではない自分の、おぞましい犯行の爪痕は消えても構わない。
だが、自分ではない自分の存在を示唆するメッセージ、これだけは消させない。
「こっちの、メッセージもそうだ」
左腕の傷を抉り、今度は右腕にも、同じようにスバルは爪を立てる。
黒い、いまだに見慣れない斑な紋様が走った腕に、最初はなかった傷がある。それはスバルが自ら、左腕のメッセージへの返礼のように刻んだ傷。
そこにはこう、刻まれている。
――『お前はなんなんだ』と、ナツキ・スバルの抱く本気の問いかけが、傷として。
「――――」
そうして、自分の肉体を惜しまず傷付けながら、同時にスバルは気付けない。
「――――っ」
そんなスバルの自傷行為を、パトラッシュが痛ましげに見つめていることに。
メィリィの付けた傷が消えたとしても、メィリィ自身の手を調べれば、自分を殺そうとした相手に必死に抵抗したことが明らかであったことに。
完璧に隠せたと考えているメィリィの殺害が、ひどく杜撰な後始末の上に成り立ってしまっていることに。
たった一つ、歯車の噛み合わせが狂っただけで全ての土台が崩壊する。
そんな薄氷の上に成り立つカラクリ仕掛けの塔の上、根本の問題に目を背けて、必死にバランスを取ろうと足掻いている滑稽なピエロが、今のスバルだ。
だが、その滑稽なピエロの演目は、ついには邪魔されずにカーテンコールを迎える。
何故ならば――、
幸いにも、メィリィ・ポートルートの死体はどこにも『見つからなかった』からだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「――――」
夕食の席で、顔を合わせた全員の間に落ちる空気はひどく重たい。
その最大の要因は、危険な状態――すでに手遅れの状態だと、半ば誰もが認めているメィリィの存在が、必死の捜索も空しく発見されなかったことにある。
人海戦術というには心もとない人数だが、それでも割ける人員を全て動員して、半日近くを費やした結果の空振りだ。
徒労感が募ることも、多大なストレスがかかったことも無理はない。
「この塔にきてから、空振りが続くわね」
「……思ってても言わなかったことをはっきりと」
夕食の、乾いたパンのようなものを齧りながら、一段と疲労感の増す感想を口にしたラムを睨みつける。
そのスバルの抗議の視線に、ラムは感情の見えない無表情で肩をすくめた。しかし、泰然とした彼女からも、やはり疲れの色は抜け落ちない。
それはラムに限った話ではなく、塔内の全員が同じ状態だった。
「一応、レイドにも話を聞きにいってみたんだけど、見てないって言ってたわ。昨日から誰もこなくて退屈だって……嘘じゃないと思うの。メィリィも、レイドのことは見てたんだから、一人で会いにいったりしないと思うし」
「あの傍若無人な男でも、あの年代の娘を傷付けるとは考えにくい……と、言い切れないのが怖いところかしら。でも、ベティーもエミリアの考えに賛成なのよ」
二層の番人、赤毛の眼帯男のことでエミリアとベアトリスが言葉を交わす。
スバルにとっても痛めつけられた記憶しかないあの男だが、一応の聴取に向かったエミリアは無事、傷付けられることなく戻ってこられたようだ。
そのことに安堵を覚えて、それからスバルは首を横に振る。
こんなことに安堵を覚える理由も、それ以前に資格も、自分にはない。
エミリア自身にも、その無事をスバルに安堵される資格があるかわからないのに。
「――一ついいかな? 冷酷と、そう罵られることを覚悟で提案したい」
味気のないスープを飲み干し、小腹をわずかに満たした夕食の終わりに、そう手を上げたのはエキドナだった。
彼女は目を細め、浅葱色の瞳を全員に向けながら、
「あの少女、メィリィの捜索だが……今日を区切りに打ち切って、明日からはまた塔の攻略のために行動すべきだとボクは考える。どうだろうか?」
「――っ! そんなのダメよ! メィリィが、どんな気持ちでいるかわからないのに」
「すでに、彼女には考える頭も、感じる気持ちも残されていない。それは、ナツキくんの確認した『死者の書』が証明している。ボクは、これ以上の捜索に反対だ」
エキドナの、現実的とも冷徹とも言える提案に、最初に反発したのはエミリアだった。だが、エミリアのそれは感情論でしかなく、エキドナの表情は揺るがない。
しかし、言葉に窮するエミリアに代わって、「待つかしら」とベアトリスが口を挟んだ。
「お前の言い分は一見、筋が通って聞こえるのよ。ただ、ずいぶんと急な話にも聞こえるかしら。どうして、メィリィの捜索を切り上げたがるのよ?」
「――。そんなに不思議なことかな。塔の中、ボクたちが持ち込んだ食料は限られているし、滞在日数が増えるほど、お互い陣営の身内に負担をかけることにもなるだろう。日程が大きく長引けば、ボクたちの捜索のために人が割かれることも考えられる」
「当然ね。エミリア様とアナスタシア様……今は中身が違っているけど、どちらも王選のためのやんごとない御身分だもの。こんな砂漠の塔にいるべきではない、ね」
エキドナの提案を皮切りに、ベアトリスとラムがどこか冷然とした態度を見せ始める。
合理性に則った提案が、より冷徹な意見の呼び水となり、夕食会の雰囲気には緊迫感がみなぎりつつあった。
「なーんか、やな感じッスね~。あーしはどっちでもいいッスけど、揉めるならあーしやお師様とは無関係のとこでやってほしいッス。あーしはあーしで、お師様と二人で幸せな家庭を築くッス。一姫二太郎三太夫ッス」
ピリピリした雰囲気に舌を出し、尻を滑らせて隣にくるシャウラの軽口に応じる余裕もない。彼女の、書庫で見せた態度にも思うところがあった。
あの、最後の場面で選択を迫ったシャウラは、スバルに何を言わせたかったのか。スバルをお師様と呼び、慕っている素振りを見せる彼女なら、どこまで。
――どこまで、スバルが命じたことに従ってくれるのかと。
「言い争いはそこまでにするべきだ」
と、その険悪な雰囲気を割ったのは、秀麗な面持ちに苦悩を刻むユリウスだ。
彼はエキドナの前に腕を出し、それからベアトリスとラムの二人に目礼する。
「ベアトリス様、ラム女史。こちらの陣営の、エキドナの不用意な発言をお詫びいたします。ただ、誤解しないでいただきたい。彼女も、何の意味もなく、合理性だけを理由にそうした提案をしたわけではないことを」
「ユリウス、よすんだ。その話は……」
「すでに、エミリア様たちは同行した少女を失ってしまったかもしれない形だ。あちらの傷は見せられている。ならば、こちらも誠意を示すべきだ」
ユリウスの誠実な物言いに、エキドナは言葉の続きを封じ込めた。その反応に、ユリウスは改めてベアトリスたちへと向き直った。
「現在、アナスタシア様の御体は精霊であるエキドナの依り代とされている。その状態のまま、アナスタシア様が目覚める手段が見つからないのは事実だが……それ以外にも問題が。――エキドナは、アナスタシア様のオドを消費して活動しているのです」
「オド、って……じゃあ、ずっとそれを削って? アナスタシアさんが起きてこられなくなってから、ずっとそのまま?」
「……なるほど。塔の攻略と、『賢者』の知恵の拝借に急ぐわけかしら」
ユリウスから語られたエキドナの秘密に、エミリアたちが揃って驚きを露わにする。
身内から内情を明かされ、当事者であるエキドナはやれやれと肩をすくめると、
「今さら取り繕っても仕方ない。ユリウスの言う通りだ。ボクは、ボクがこうしているだけで、アナの潤沢とは言えないオドを消耗する状況を良しと思っていない。できるなら一秒でも早く、アナに体を返してあげたいのさ」
「自由になる、人間の体を手放してまで?」
「アナの肉体を自由にできても、ボク自身の心は不自由に縛られている。こんなことを言って、どこまで信用してもらえるかはわからないが……」
そこでエキドナは言葉を区切り、一拍、溜めてから続けた。
「本来、あるべき器にはあるべき存在が収まっているべきなのさ。外身だけ借りても、中身が伴わなければボロが出る。不自然になる。――それは、ひどくおぞましいことだ」
「――ッ!」
目を伏せ、我が身を呪うように続けられたエキドナの発言、それはあろうことか、漫然と話に耳を傾けていただけのスバルの心を痛撃していった。
外身だけ借りて、中身が伴わなければ。――それが、恐ろしく重く心を射貫く。
「とにかく、ボクが塔の攻略を急ぎたい理由はそれだよ。どうしても信じられないなら、ベアトリスにでもこの体を探らせるといい。極端なオドの消耗と、ボクがどれだけ精霊として歪なのか、すぐにわかるはずだから」
そんなスバルの葛藤と、無自覚な言葉に刻まれた傷の痛みに気付かず、エキドナが自分の立場の証明を他人に委ねる。
実際、指名されたベアトリスがエキドナの腕を取り、どういう原理か彼女の体に探りを入れると、エキドナの言葉は事実だと証明されたようだった。
そして、その結果を受け――、
「……わかった。エキドナと、アナスタシアさんの大変な事情はわかりました。急いで、塔の上に登らなくちゃいけないってことも」
「これが気休めになるかはわからないが、仮にこの塔に全知とまで言われた『賢者』の知恵の秘密があるなら、行方をくらました少女の居所もそれによってわかるかもしれない。こんな言い方をすれば、卑怯なのは重々承知だが」
「ううん、ありがとう。何の希望もないより、ずっといいわ。――私にも、メィリィにも配慮してくれたんでしょう?」
「……どうかな。自分と、アナの身が可愛いだけかもしれないよ?」
主張を受け入れる姿勢を見せたエミリアに、エキドナがバツの悪い顔で目を背ける。
その様子にエミリアは紫紺の瞳を細め、それから息を吸い、改めて宣言する。
「メィリィのことは、すごく心配。だけど、エキドナの考えもわかるの。だから、明日からはまた、ちゃんと塔の上にいくためにできることをしましょう。もちろん、私はできるだけメィリィのことは探し続けるつもりだけど……」
「それで、塔の攻略が疎かになっては本末転倒ですよ、エミリア様」
「わかってる。――何が大事か、その時々、自分で考えないと」
頬に手を当て、エミリアは強い意思を瞳に宿して自戒した。
そして、彼女は状況を俯瞰していたスバルの方へと振り返る。一瞬、その視線の強さに気圧されるが、エミリアが続けた言葉は糾弾に類するものではない。
「スバルも、それでいい?」
「そ、れは、いいと思う。その方が、メィリィも浮かばれる……いや、俺たちが前進するのを望んでくれるっていうか……でもなくて、なんで俺に確認を?」
「だって、スバルはメィリィの本を読んだでしょう? あの、読んですぐの反応を見たら……メィリィのこと、一番心配なのはスバルのはずだから」
念押しするエミリア、彼女の言葉にスバルは息を詰めた。
見れば、スバルへと注目するのはエミリアだけではない。ベアトリスも、ラムも、エキドナもユリウスも、みんながスバルの方を見ていた。
それが、どういう意図を込めた視線なのか、推察する頭が働かない。
働かないまま、スバルは己の中の姑息な精神に従い、唇を動かした。
「――心配はしてるよ。でも、メィリィも、俺たちが足踏みするのを望まないと思う」
たぶん、世界で一番、上滑りする言葉を発するためだけに。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
――深夜、スバルはようやく生まれた自由行動の時間に、活動を開始した。
「――――」
夕食会が終わり、明日の方針も固まったところで、一行は二層の攻略のために各々知恵を絞ることを決めて、夜を越すための寝具の準備に入った。
同行者の一人に不慮の問題が発生した日の夜だ。
当然だが、全員の寝床を一つにまとめて、一所で眠りにつくことが推奨された。そのため、一応、毛布で即席の仕切りは作りつつも、男女が一堂に会した夜を迎える。
ただ、スバルだけはそんな中にあって、精霊部屋での就眠を主張した。
『死者の書』を読んだ後遺症、それが大義名分だ。
実際、スバルが『死者の書』を読んだ直後の変調ぶりは全員が目にしているため、その意見にさほどの反応は見られなかった。もちろん、スバルを一人寝させることに、ベアトリスは特に強い難色を示したが、精霊部屋は定員制だ。
頭が重いと、声を震わせるスバルに折れ、ベアトリスは反対意見を引っ込めた。
それはスバルの演技力の賜物というよりは、本気で顔色が悪かった影響が大きかろう。
正直、スバルは自分が倒れていないのが不思議なぐらい、ぶっちぎりの絶不調に悩まされていることを自覚している。
『メィリィも、俺たちが足踏みするのを望まないと思う。――役者よねえ』
「――――」
『うふふっ、怒らないでよお。皮肉じゃないの。本当にそう思って褒めてるんだからあ』
夕食会の間、ずいぶんと静かだったと思ったが、よほど最後のスバルの白々しい宣言がツボに入ったのか、沈黙を解いた幻影は上機嫌にその一幕を繰り返し演じる。
幻聴相手が厄介なのは、耳を塞いだところで効果がなく、聞きたくないと拒んだとしても、甘い声色に黒板に爪を立てるような不快感を味わわされることだ。
『それで、今夜は青い髪のお姉さんの首はお預けなのよねえ?』
「――――」
たっぷりと、夜が更けるのを待って行動を開始したスバルに、幻影が同室の眠り姫の存在を重ねて示唆する。
数時間前と同じ幻影の誘惑だが、これに対するスバルの答えも数時間前と同じだ。
「今はまだ、この子の順番じゃない」
そう言って、スバルは眠り姫の寝顔に一瞥もくれずに部屋を出る。
その際、わずかに瞳を開けたパトラッシュと目が合ったが、唇に指を立て、内緒にしてほしいのジェスチャーだけで切り抜けた。
トカゲ相手にどこまで意図が伝わったかはわからないが、ともすればパトラッシュは犬や馬以上に賢い生物に感じる。あれで、黙っていてくれるといいが。
「――――」
前もって一人になる工作をした上で、夜半にスバルが動き出した理由――それは、眠りについた仲間たちの命を奪い、『死者の書』計画を実行に移すため、ではない。
もちろん、その案も十分に検討した。スバルの実力で計画を実現するには不意打ちであることが望ましく、それは眠った隙をつくのが最上の選択と言える。
だが、それを実行するのはまだ早い。それは最後の手段、手を選べなくなったときまで取っておくべき、人倫に背く行いだ。
ならば、スバルはいったい何のために夜の行動を開始したのか。
それは――、
『――わたしの死体、どうにかしてくれるのお?』
スバルの進む先を見取り、背後に立っているが如き少女の声が問うてくる。
それにスバルは答えないが、足取りがそのまま問いかけを肯定しているも同然だ。
――隠したはずのメィリィの亡骸、その処分のためにスバルは行動しているのだと。
「――――」
おかしな話というか、幸運な状況だったというか、とにかくそれでしかない。
今日、エミリアたちの捜索でメィリィの亡骸が発見されなかったのは、神の差配というよりは、悪魔の謀略というべき風向きだっただけに他ならない。
振り返れば、突発的な事態に対する穴だらけの隠蔽工作が浮き彫りになり、自分で自分の知恵の巡りの悪さを呪いたくなる次第だ。
たまたま見つからなかった。それに救われた。だが、明日以降、塔の攻略に注力する傍ら、たまたま見つからなかったものがたまたま見つかっても不思議はない。
少なくとも、エミリアはメィリィの捜索を諦めていないはずだ。
あの底抜けに前向きな苦労知らずの少女であれば、決定的な事態に心が折れるまで、いなくなった少女の姿を探し続けることは想像に容易い。
故に、スバルには安心が必要だった。
安心がなければ、そこに土台を築くことができない。土台が築かれていなければ、その上に未来という城の基礎は組めない。基礎が組めなければ、未来は完成しない。
ナツキ・スバルの安息のために、メィリィ・ポートルートの存在は邪魔なのだ。
『頭の中をちょこまかされてる今はもっと……そんな感じかしらあ』
耳を貸さない。邪魔だと、そうはっきり断言したばかりだ。断固拒否する。
そのまま、スバルは夜の人目を忍びながら、メィリィの亡骸を隠した部屋へ到達。
似たような部屋が続くエリアではあるが、入口のすぐ近くの石壁に変色が見られ、それがわかりやすい目印になっている一室だ。
「正直、後味はよくないが……」
塔の入口から砂漠へ運び出して、砂に埋葬してしまうのがベストだろう。
数日以上建物の中に置いておけば腐敗も進む。気温はさほど高くも低くもないが、すでに生命活動の止まった体は、朽ちていくことを避けられないはずだ。
真に、二度と目にしないことを望むなら、多少の無理をしてでも塔から遠ざけ、外をうろつくという魔獣の餌にしてしまうのが一番ではあった。
だが、想像するだにそれは心が咎める。いくら何でも、無理な判断だった。
「――――」
薄暗い部屋の奥、四角い石の塊が鎮座しており、その裏側に亡骸が隠してある。
意識して覗き込めば見逃しようのない、ひどく幼稚な隠され方だ。自分の動転ぶりを情けなく感じながら、スバルは石塊の裏側へと回り込む。
そこに、約半日ぶりのメィリィの亡骸が――、
「――は?」
思わず、声が漏れる。
目の前の光景に、頭が理解を放棄した。
石塊の裏側には、何もない。
せめてもの配慮にと胸の上で手を組ませ、目を閉じさせた少女の亡骸。白い首に青黒い痣が残った、見るも無残な少女の亡骸がどこにもなかった。
「なん、で……ここに、確かに……」
あったはずだ。
部屋を間違えたはずもない。ここへきて、そんな凡ミスなどしていない。
していないのだ。していないならば、ここになくてはならない死体はどこへいった。
――メィリィ・ポートルートの亡骸は、どこに消えたのだ。
「――こんな夜更けにこそこそと、探し物でもしているの、バルス」
「――っ!?」
愕然と、背後からの声に身を硬くし、スバルは恐る恐ると振り返る。
青ざめた顔のスバルの視界、さほど広くない部屋の入口に一つの影が立っていた。
長くしていない桃色の髪、鋭く理性的な薄紅の瞳、凛々しくも可憐な顔立ちが冷然とこちらを見据え、己を腕で抱く少女の立ち姿には、いっそ壮烈な華があった。
そんな場違いな感慨を胸に、硬直するスバルを眺めながら、少女――ラムは瞳を細め、まるで温もりのない声色で言った。
「それとも偽物というべきかしら。バルスの――ナツキ・スバルの出来損ない」