Reborn Ishl and the Magic Fixture of God

Dancing in the Meadows 2

 

 骨と鱗。

 伝説の巨龍、赤帝龍の骸。

 他はすべて、血も肉も燃え尽き同じ焼けた大地に、焦土に帰った。

 誰も、何も話さない。

 無言で、巨大な肋骨の上を登っていく。

 草原を遠く、風が渡っていく。

 イシュルだけにそれが見えた。

「風を見ているのか」

 隣りを歩む男が声をかけてくる。

「相変わらずだね、きみは」

「イシュルは詩人なのじゃ」

 前を歩く少女が振り向いて言う。

「……すぐ目の前に、こんな壮観が広がっているのに」

 男は少女に微笑んで相槌を打つと、イシュルをからかうように続けた。

「この世のすべての吟遊詩人も道化も、みなこの絶景しか見ないだろう。なのにきみ

はただ、遠く草原を吹く風を想うのだ」

 サロモンは片手を広げ美しく、それこそ歌うように言った。

「……」

 イシュルは閉口して、美形の若い国王を見上げた。

 背丈は彼の方が頭半分ほど、高い。

「おお、そなたが“見ていた”のはこの風か」

 草原を渡ってきた風が今、彼らの許に吹いてきた。

 ペトラはその初夏の風に目を細め、珍しく静かに言った。

「そなたの提案、妾は受け入れよう」

「ふふっ」

 風の中に、かるく笑う声がした。

 隣りの男からだ。

 ……空気が変わる。

「わたしは最近、暇をしていてね」

 ペトラの重い発言とはまるっきり違う、快活な声だ。

 サロモンが片目を瞑ってくる。

「まったく、つまらない日々を過ごしていたのだ。……それがどうだ!」

 そして彼は、ゆっくりと両手を広げた。

「千年に一度とない、こんな素晴らしい舞台があるのに」

 そこで堪えきれなくなったか、サロモンの哄笑が炸裂した。

「ははははっ」

 美神エリューカが感嘆の吐息をつくように美しく、悪魔のように恐ろしい悪戯な笑声、そして姿だった。

 イシュルは肩をすくめて、引きつった笑みを浮かべた。

 その眸には皮肉な、いや絶望の色さえも見えた。

 ……だいなしだ。ペトラの計らいも、こうしてふたりだけを誘った俺のねらいも、すべてがご破算だ。

 サロモンは、「わたしは遊びたい」と言っているのだ。

 俺とペトラと、ふたつの王国の家臣ども、何万もの兵隊どもと。

 この宝の山を舞台に。

 およそ一万に及ぶ兵力と近隣の諸侯、重臣を引き連れ、現地に布陣したオルスト聖王国国王サロモン、そしてほぼ同時に到着したラディス王国国王ヘンリクの代理、その娘のペトラ王女。

 両者の歴史的な、劇的な邂逅があったのはつい先ほどのことだ。

 アイラ・マリドの操る白馬に乗って単騎突出したペトラ、彼女がイシュルと再会する前に、サロモン主従がすでに彼と接触していた。

「これは楽しめそうだ。ね、イシュル?」

 サロモンはペトラの猪突に感嘆の声を上げると、イシュルに顔を寄せ囁くように言ってきた。

「……」

 信じられない。こんなことってあるか。

 イシュルは再び天を仰ぎ、絶望感に打ちひしがれた。

 ……波乱の予感しかしない。

 やがてラディス王国の造営中の砦から、ペトラたちを追いかけるように数騎の騎馬が姿を現した。

 ひとりは先日に会ったロルド・クベード、他に魔導師と文官らしき者が一名ずつ……。

「あれは」

 イシュルはその魔導師を見て、わずかに眸を細めた。唇が少しずつ歪んでいく。

 なるほど、今回のペトラ本人のお出ましは、彼女がヘンリクに駄々をこねた結果だろうが、そんな娘が心配でたまらないヘンリクはやむなく、彼女の護衛に強力な魔導師をつけたというわけだ。

 後方からペトラを追う魔導師は、あのパオラ・ピエルカだった。彼女はまだバルスタールにいた筈だが、何か理由があって王都に戻っていたのか。

 そしてもう一騎はこれもおなじみの知恵者、ルースラ・ニースバルドだ。

 マーヤがいないのが痛いところだが、ルースラがいれば何とかサロモンともやり合えるだろう。

 サロモンのバックにはミラの双子の兄、ルフィッツオとロメオが控えている。あのふたりはサロモンの補佐役として同行してきたのだ。

 サロモンはこの展開を半ば予想して、あるいはラディス王国がペトラを動かした情報をいち早く入手し、陣容を整え急ぎやって来た、といったところだろう。

 ……これで役者が揃ったわけだ。舞台は世紀のお宝、あまりにも希少な赤帝龍の死骸だ。

「イシュル〜」

 ペトラの気の抜けた声が、だんだんと大きくなってくる。

 いつもの暢気な声音が微笑ましく、同時に恐ろしい。

 今回だけは彼女のあの緩さに気を許してはならない。あの空気に巻きこまれてはならない。サロモンが隣りにいるのだ。彼は大陸随一の策士だ。隙は見せられない。

 ……それとも、ペトラのあれはわざとか?

 あいつの平素の言動はほとんど“フリ”、演技だ。中身はよほど賢い。そこだけは父親そっくりだ。

 というか、だからいつも面倒なんだが……。

「イシュル殿、こんなところで会うことになるとはな」

 馬上のアイラが満開の笑顔だ。

「よいしょっ」

 ペトラはアイラを待たず、自分で転げ落ちるように馬から降りると、イシュルの方に駆けてきた。

「イシュルっ!」

 純白のシルクのドレスに銀のティアラ。いつもの格好だ。両手を差し出し、小さな子どものように向かってくる。

 と、イシュルの前でぴょんと跳躍し抱きついてきた。

「うわっ」

「イシュル〜、びっくりしたぞ〜」

 ……ペトラめ。髪の毛が鼻の頭をくすぐってくる。しかし久しぶりだ、いい匂いがする。

「まさかここまで飛んで来て、赤帝龍を斃してしまうとはの」

 見上げてくるペトラの顔がご機嫌だ。

「さすがじゃ、イシュル。ようやった」

「ああ」

「そなたは地下神殿にいたろうに、彼の地からも見えたかの?」

 ペトラの「見えたか」は先日のあの、赤帝龍と火龍の大群の発した巨大な魔力の光のことだ。

「地下神殿? きみはそこにいたのか。それは是非、わたしも聞きたいな。……後ほど、席を設けることにしよう」

 横から、艶のあるテノールが聞こえてきた。

 サロモンは微笑を浮かべ、「地下神殿ねぇ……」などと呟いている。

 ……彼はまだ、俺たちがブレクタスの地下神殿に探検に行った報告を、受けていない筈だ。

「おおっ」

 ペトラはそこで臆面もなく、はじめてサロモンに気づいたという風に感嘆の声をあげた。

「これは失礼いたした。はじめてお目にかかる、サロモン殿」

 彼女はイシュルから離れ、ぴょこんと地面に降りると、サロモンに向かって右手を胸に当て、腰を落として見せた。

 ……ふむ。ただ微笑ましいだけではない、なかなか堂々としているじゃないか。

「此度は我が父、ヘンリクの名代として妾がこの地に参った次第。ここはひとつ、よしなにお願いしたい」

「こちらこそ、ペトラ殿」

 対するサロモンも、爽やかな風のような笑みを浮かべてマントを揺らし、左手を胸に当てわずかに腰を落とした。

 サロモンが頭を下げる姿など、そうそう見られるものではない。彼が頭(こうべ)を低くする相手は、この大陸では聖堂教会の総神官長、ウルトォーロくらいのものだ。

 横から見るサロモンのペトラへの視線に、軽侮の色はうかがえない。この眸はむしろ好意的なものだ。だが意外なことに、微かにだが緊張と警戒の色が混ざって見える。

 ……サロモンに何か隔意があるのか。まさかこの少女に対し、怖れを感じているとでもいうのか。

「いや。しかし大陸随一の傑物、偉大な王に、こんなところでお会いできるとは」

 と、ペトラは大人らしい顔をつくってそれらしい、案外につまらない世辞を言う。

「いやいや、わたしこそこんな可愛らしい方にお会いできて、とても嬉しい」

 サロモンも笑顔に心中を隠し、型どおりの挨拶を続ける。と、

「しかし何より、あなたがイシュルに見せる親密な態度が羨ましい……。仲がいいんだね、とっても」

 ちらりとこちらに視線を向け、早速仕掛けてきた。

「えっ……う、うむ。そうなのじゃ。妾とイシュルは特別な関係での」

 そこでペトラが動揺もあらわに、顔を真っ赤にして言った。

「ふ──」

 ……頑張って抱きついてきたのは、狙ってやったんじゃないのか? サロモンに見せつけるために、駆け引きとかでしたんじゃないのか?

 だのに、なぜそこで照れる、恥ずかしがる。女の子の心はほんと、読めない……。

 イシュルは小さく嘆息すると肩をすくめた。

「ふふ、ラディスの王女殿は可憐だね。わたしも仲良くやれそうだ」

 サロモンはそこでイシュルの肩に手を置いた。そして耳許で囁いた。

 ……そう。きみと同じ、親しい友人のように。

 通常、こんな打ち解けた仕草を、一国の王が人前でみせたりはしない。

 まだペトラは子どもに見えないこともない。イシュルに抱きついたりと、自身の身分にかかわるようなことをしてしまうことがあるかもしれない。だがサロモンは違う。

 周りには両国の貴族や従者らが、やや離れた南北の丘陵にはそれぞれ砦が造営中で、多くの人夫が働いている。近く、遠くで数え切れない者の視線があるのだ。

「わたしもイシュルにはたくさん世話になってね。得難い親友のひとり、なのだ」

 サロモンは口調もらしくない、かるい、親しみのある声で言った。

「む、むむ」

 ペトラが両手を握りしめ、小さな声で呻く。

 ふたりがイシュルをめぐって、その親密さを競い合うのも仕方ない。彼らにとって、イシュルは少なくとも風と金の二つの神の魔法具を持ち、こうして赤帝龍を屠った稀有の力を持つ存在である。

 ……だがこれは、サロモンは遊んでるな。ペトラの露骨な誇示にわざと乗っかり、ゲーム感覚で自らも楽しんでいる、といったところか。

「よくない兆候だ……」

 イシュルは再び肩をすくめ、誰にも聞こえないよう、口の中で呟いた。

「どうしたんだい? イシュル」

 肩をつかむサロモンの手に力が込められる。

「元気がないな」

 すぐ横で妖しい視線を向けてくるサロモン。

 彼も小さな声で、囁いてきた。

「きみも、楽しもうじゃないか」

 それはイシュルだけに聞こえた。

「のう、のう、それよりイシュル。マレフィオアは無事、斃したようじゃな」

 ペトラも負けじと顔を寄せてきて、イシュルに話しかけてきた。

 彼女はさきほどの話を蒸し返し、さらに一歩踏み込んできた。どういうわけか、マレフィオアが滅んだことを察知していた。

「マーヤたちはまだ現地におるのじゃろう? そなたは召還した精霊あたりに大山地の異変を知らされ、急ぎ空を翔び赤帝龍と相対した、感じかの」

 イシュルはペトラの顔を見つめた。

 ……その的確な見立ては、おそらくルースラによるものだろう。最初に発見したのは、山に入っていた現地の木こりや猟師たちだが。

「……」

 イシュルはそこで素早く、今度はサロモンに顔を向けた。

 彼の空気が変わったのだ。

 サロモンは固い表情をしていた。とても「遊んで」いるようには見えなかった。

「マレフィオアを滅ぼした、か」

 その呟きはイシュルたちにではない、己自身に向けられたものだった。

 サロモンとペトラの劇的な出会いの後、互いに引き連れてきた重臣たちの紹介に続きその場で簡単な会合が持たれ、あらためて夜にイシュルを交え、両陣営による晩餐会が行われることになった。

 サロモンはすぐに機嫌を直し、再び颯爽とした態度を示してイシュルたちを翻弄した。ペトラもサロモンに対しまったく物怖じすることなく、彼との会話を楽しんでさえいるように見えた。

 イシュルは晩餐までの空いた時間にふたりを誘い、草原を覆う赤帝龍の巨大な死骸に案内した。引き続き三人だけで話し合いを持ち、目の前の宝の山をきれいに二等分する自分の考えを、その場でふたりに了承させてしまおうと企図した。

 ペトラはイシュルの意を汲みすぐに賛意を示したが、サロモンは意外というべきか、同意しなかった。

「イシュル、これは大変なことなんだよ。きみの考えどおり、簡単にことは運ばない」

 赤帝龍の巨大な骨の上、サロモンはがっくり肩を落とすイシュルを慰めるように言った。

「火の大神官に加え、総神官長の名代として月の大神官がこちらに向かっている。あの赤帝龍が死んだのだ。彼らが到着次第、聖堂教会による祈祷が行われる。この宝の山をどうするか、正式にはその後で話し合うことになる」

「おお、なるほど。それは仕方がないの」

 とペトラ。

「……!」

 イシュルは呆然とサロモンとペトラ、ふたりの顔を見た。

 ……そりゃそうか。人類の怨敵か、赤帝龍が滅んだのだ。教会は赤帝龍の魂の封印だか、調伏を行わなければならない。サロモンもペトラもその、教会の意志を無視できない。

 軍事、戦略面とはまた別に、教会も赤帝龍の遺骸の一部を欲しがるだろう。

 そして確か、今の月の神殿長は……。

「きみも懐かしいだろう」

 サロモンは笑みを浮かべて言った。

「月の大神官はカルノ・バルリオレ、そして火の大神官は先月、デシオ・ブニエルに替わった」

「えっ」

 前の月神の神殿長、ヴァンドロ・エレトーレは国王派であったことが露見し失脚、復権したクレンベルの神殿長、カルノ・バルリオレが聖都に返り咲き、後を襲った。そのことは以前から耳にしていたが、かつて共にビオナートと戦った正義派の聖神官、デシオ・ブニエルが火神の神殿長になったのは知らなかった……。

 イシュルはふたりの顔をみつめたまま、驚いた顔になった。

 デシオは優秀な神官だったが、あの若さで大神官になり、火の主神殿の神殿長になったのだ。

「それにじゃ」

 今度はペトラが意味ありげな微笑を浮かべた。

「そなた、マーヤたちを中盆地に置いてきたじゃろう? 今頃は王都に到着して、こちらに向かっている頃合かの」

「ああ、えーと」

 そのこと、忘れていたわけじゃないんだが……。

 イシュルは視線を遠く西の空へ向けた。

「イシュルはこの地にしばらく留まり、マーヤたちが追いかけてくるのを待っていた方がいいじゃろう」

 ペトラはそこでにやにやして言った。

「そなた、その顔、彼女たちにまだ何も連絡しとらんじゃないか? うまく届くか知らんが、手紙でも出しておいた方がかろう。みな事情もわからず、心配しておるじゃろう」

「うっ、うん」

 ……そこら辺のことは、風の精霊でも召還して連絡をつけようと、一度は考えたのだ。

 だが、マーヤやリフィア、ミラたちの顔を知っている精霊を召還しなければならないし、距離もあって彼女たちが今どこにいるか、ペトラの言うとおり王都に帰ってきているのか、正確な位置がわからないのでちょっと難しい。ナヤルなど、幾人かの精霊は名前を羊皮紙に書いて残してあるので、指定して再召喚できる筈だが、みな能力が高く癖もあるし、ただの連絡役で呼び出すのはどうだろうか。

 サロモンとペトラが出張ってくるまでは、状況が逼迫しているわけではなかった。ロニーカの実力もあるのだろうが、地の精霊の護衛は安定感が抜群で、他の系統の精霊を召還する必要を感じなかった。

 今日から早速、他の系統の精霊をもうひとりくらい、召喚した方がいいだろうが、その精霊をマーヤたちへの連絡に使うのは気が進まない。召喚するのは大精霊なのだ。

 ペトラに付き従ってきたラディス王家側の随員には、軍師役のルースラ・ニースバルドがいる。彼の契約精霊のオバケ鶯(うぐいす)は、連絡役にぴったりだ。後でマーヤたちに手紙を書いて、ルースラに頼んでおこう。

 それに彼女たちに何も知らせない、では信義にもとるというより後が怖い。絶対に怒られるだろう。きっと虐められる。確かにペトラの言うとおり、心配もしてるだろう。こういうことはきちんとしておいた方が良い。

「それでは決まりだね。役者が揃うまで、楽しくやろうじゃないか」

 サロモンがにっこり笑って首を傾け言った。

 聖王国一番の貴公子は、すこぶる機嫌が良かった。

 ……彼は「つまらない日々を過ごしていた」と言った。昨年、内乱同然の状況から王位につき、国政の安定に心を砕いてきた。それはサロモンからすれば、簡単なことだったのだろう。面白みのない、不毛な日々だったのだ。

 そこへ今回の一大事が到来した。彼からすれば無聊を慰める、いい機会だったのだろう。相手は俺だけじゃない、ラディス王国の王女ペトラもいる。ルースラやパオラ・ピエルカは彼にとっても無視できない存在だろう。

 最悪戦争になりかねない、一触即発の状況に陥るかもしれない、スリル溢れる駆け引きを最高の面子で楽しむ……。

 サロモンにとっては絶好の、暇つぶしの余興であったろう。

「まぁ、今すぐ決めるのは無理そうですね」 

 イシュルはひと息吐くと、わざとむすっとした顔をつくった。

「仕方がない。それじゃあ、カルノさんやマーヤたちが到着するまで、じっくり話し合うとしましょうか」

 続けてサロモンとペトラの顔を見回し、いささか脱力した声で言った。

 その後、夜の晩餐会までの空いた時間にイシュルは赤帝龍の死骸の手前、西側に立てられた彼専用のテントに籠もり、マーヤ、ミラ、リフィア、そしてマレフィオア討伐隊隊長のフリッド・ランデルに宛てた手紙を書き上げた。それから夕方、日が暮れる時分にテントの外に出てひっそりと、人目を避けるようにして裏手に回った。

 周りに両国の多くの軍兵や人夫たちの立ち働く気配が、人々の喧騒が巻き起こっている。北にラディス王国の、南にはオルスト聖王国の築城が進んでいる。

 陽は落ちようとしていて東の空は暗く沈み、南北に延々と続く山並みは紅色に輝いている。

 遠くで盛んに野鳥の鳴く声がする。

 ……人の多さが気になるが……。

 もう一人、使える精霊を呼び出した方がいいだろう。本当なら火の精霊の召喚を試したいところだが、ここは我慢してこの状況にもっともふさわしい、あの風の精霊を呼ぶ。

 イシュルは上着のポケットから小さな皮袋を出して、中からきれいに折りたたんだ羊皮紙を抜き取り広げた。

 そこには名前の記録が文献などで残されている、かつて自分の召喚した風の大精霊の名が記されていた。

 クシムで共に赤帝龍と戦った力持ちの精霊、カルリルトス・アルルツァリ。風神イヴェダの近侍だと言っていた、プライドの高い女官ナヤルルシュク・バルトゥドシェク。それに同じ風神イヴェダの近侍で奏者役の、クラウディオス・ヘススクエレルバスの三名だ。

 この三名の中で、今の状況で最も役に立つ精霊は誰か。それはもう、わかりきった話だ。

「……」

 イシュルは紙片に目を落とし、ひとつ、息を大きく吸い込んだ。

 と、その時近くの草叢からロルカが顔を出した。土でできたからだが地面から伸び上がり、無言でイシュルの顔を見上げた。

 イシュルは無言でロルカの頭に手を置き微笑むと、遠く夕焼けの空を見つめた。

 ……以前に彼を召喚した時も、今時分だった。

 厳かに大精霊の名を呼び、召喚の呪文を紡ぐ。

「イヴェダよ。願わくば我(わ)に汝(な)が風の大精霊、クラウディオス・ヘススクエレルバスを遣わし給え。この長(とこ)しえの世にその態を現したまえ」

 次の瞬間、一陣の風が吹き、紅く染まった陽光が揺れた。

 頭上に風の魔力が輝き、半透明の像を結ぶ。

「久しぶりだ、剣殿」

 落ち着いた、分別盛りの男の声が降ってくる。

 トーガーをゆったりと着こなした、品のある知性的な顔立ちの長身の男。

「ああ、クラウ。久しぶりだ」

 この面倒な駆け引きに自ら飛び込み、あるいは否応無しに巻き込まれた。この状況を打開するのに、一番力になってくれそうな精霊はこの男しかいない。

「あんたの緻密な頭脳が必要、といったところかな」

 イシュルは宙に浮かぶクラウを見上げ、普段は見せない大人びた笑みを浮かべた。

 ……緻密といっても、それは精霊の割には、と言うことだが。

「ただちょっと、嫌な役目も頼むことがあるかもしれない。状況を説明しよう」

 イシュルは面上に浮かべた笑みを、わずかに歪めた。

 辺りは無数の篝火が焚かれ昼間のように明るい。夜空は星の輝きを隠し、深い暗闇に沈んでいる。

 篝火の炎の揺らぐ間には、多くの給仕や衛兵らの姿が見える。

「イシュル、いいのかい? 構わないのに」

 左から美青年の、その容姿に負けない美声が聞こえてくる。

 彼は細かな装飾の刻まれた、水晶の杯を持ち上げた。

 イシュルの鼻先を果実酒の甘い香りがかすめる。

「そうじゃ。見たところ強そうな精霊に見張らせておるようじゃし、気にせず好きなだけ飲めば良いのじゃ。イシュルを害そうなどとそんな命知らずな輩など、我が王国にも聖王国にも、誰ひとりおるまいて」

 次は右から、元気の良い少女の声が響く。

 まだ幼さが残る年頃なのになかなかどうして、向かいの男に負けず堂々とやりあっている。

 ……他国である聖王国側でも俺を害する者がいないと決めつけるのは、ある意味皮肉ととれないこともないが。

「ふふ、しかしペトラ殿はなかなか饒舌で、楽しいお方だ。これはうれしい誤算だね。わたしもここまでとは思っていなかった」

 サロモンは妖しい微笑を浮かべ、ペトラにもグラスを持ち上げてみせた。

「あなたと一緒なら、今夜も一段と楽しい晩餐になろう」

 彼の「饒舌で楽しい」もやはり皮肉だろうか。まぁ、この男が意外にペトラを気に入っているようなのは確かだが。

 いや、こういう宮廷の貴族たちは、いちいち会話の中に微妙な皮肉やらを入れないと、気がすまないのだ。

 ……こういうのが面倒なんだよ。

 だがこれも一種の様式美である。この人たちは美辞麗句に、皮肉や何らかの寓意を込めるよう、それが気の利いた会話術であると教わってきたのだ。

「……」 

 イシュルは無言で杯をあおり、ノンアルコールの果実水を飲み干すと目の前のサロモンとペトラ、その先に居並ぶ面々を見渡した。

 サロモンのひとつ奥、隣りにはディエラード公爵家の双子、ルフィッツオとロメオが、続いてオルトランド男爵、魔導師のマグダ・ペリーノ、イシュルの面識のない聖堂騎士団団長や宮廷魔導師、文官たちが居並び、ペトラの側にはクベード伯爵、ルースラ・ニースバルド、パオラ・ピエルカ、そしてアイラ・マリド、その先はやはり名も顔も知らない近隣の領主や騎士団長らが着席していた。

 彼らも面と向かう者どうしで、似たような示唆に富んだ会話を延々と続けていた。

 先ほどのサロモンとペトラの指摘どおり、この席で酒を飲んでいないのはイシュルだけ、パオラやマグダらも酒を飲んでいた。

 魔導師や剣士は状況によって飲酒は控えた方が良いのだが、こういう席で酒を勧められて 断るのは失礼にあたるのかもしれない。

 だが、イシュルはそんなことにかまっていなかった。

 礼儀を知らぬやつ、堅物だと思われても構わない。用心に越したことはなかった。ペトラはまだしも、サロモンはどんな“悪戯”を仕掛けてくるかわからない。

 可能性は限りなく低そうだが万が一、また月神が現れるかもしれない。

「ふん」

 気づくとサロモンが横目で睨んでいた。

「しかし羨ましい……。きみは相変わらず、厳しい戦いの場に身を置いているわけか」

 サロモンの視線がイシュルを飛び越え、その奥の方、赤帝龍の死骸へ向けられた。

 この夜の晩餐は、イシュルのテントの前、屋外で行われた。

 端からこの演出を目論んでいたのか、聖王国側は立派な食卓や椅子を用意し、テント正面の草叢の上に並べた。

 東西に、一本に並べられた食卓と椅子の北側にラディス王国側が、南側に聖王国側が着席し、イシュルは無理やり東側の上座、いわゆる誕生日席に座らされた。

 周囲には両国の多くのメイドや騎士たちが配され、サロモンが連れてきた道化が宴(うたげ)を盛り上げた。

 季節は初夏だ。草原を渡る夜風が心地よく、煌々と燃える篝火の炎が頭上の闇を暖色に染め上げた。多くの給仕が行き交い、参席者の笑声が響いた。ひと通りの催しが終わるとそのまま、酒を飲み交わしながらの談笑に移った。

「さて、宴の席だからといって、必ずしも楽しい話をしなければならない、ということはない」

 サロモンの視線がイシュルからペトラに向けられる。

「今夜はわたしたちにとって、とても興味深い話を聞かせてもらおう。我が友人、イシュル君にね」

「えっ」

 ……何も聞いてないぞ。サロモンはいったい何を……。

「わたしが聞きたのは、連合王国のラディス王国侵攻の顛末だ。特にきみの目で見た、ね」

 ……それか。

 もう連合王国との戦争は、その詳細も大陸諸国に知れ渡っている。連合王国と盛んに交易している中海の都市国家群も、他人事(ひとごと)ではすまなかったろう。

 イシュルはちらっとペトラとルースラを横目に見ると、サロモンに頷いてみせた。

「いいですよ」

「特にきみがオルーラ大公と戦った時のこと、バルスタール城塞線の攻城戦で、どう動いたのか知りたいな」

「ええ」

 望むところだ。これまでに多くの貴族や王家、教会のお偉いさんと散々やりあってきたのだ。今では、この大陸の権威と権力を握る人々の様々なことが、よくわかるようになった。

 何をどのように話し、何を話さず秘密にするか、よくわかるようになった。

「……」

 背後にほんの微かに、クラウの気配を感じた。

 彼には俺自身の護衛と、この宴席に並ぶ、特にラディス王国側の者たちの顔と名前、身分や性格を観察し覚えるように指示してある。聖王国側にはすでに、彼の知る人物が多くいる。

 クラウの気配が近づいてきたのは俺の心のうちに、何か意見を伝え、助言するためかもしれない。

 だがそれは必要ない。前世では一社会人として、内容を整理し、わかりやすく人前で話すことを無数に経験してきている。ちなみに、そういった能力を要求される場面はこの世界、時代では一部の商人や神官らを除き、そう頻繁にあることではない。

 イシュルは、かるく笑みを浮かべると素早く頭を回転させ、聖都を出発し、オリバスで連合王国侵攻の凶報に接してからどのように行動したか、順を追って話しはじめた。

 例えば一度聖都に戻り、王城の魔導師の塔に魔法具屋を開いていたチェリアの店から、一気にフロンテーラまで移動したことは秘し、ユーリ・オルーラとの戦闘で風の剣を使ったことは話した。精霊神の仮面の裏側の大公の顔が、自分と同じだったことは話さなかった。

 ヘンリクのひとり娘であるペトラに大功を立てさせるため、彼女を総大将にし、百騎たらずの小部隊で北方へ先発したことは話したが、その前日にアベニス伯爵邸で、俘虜となったオルーラ大公国のドレーセン伯爵と秘密裏に取引きしたことは話さなかった。

「しかし、いきなり北線のカルナス城を落とすとはな」

 サロモンは、聖王国から遠く離れたバルスタール城塞線のこともよく知っていた。

「いかにも君らしい」

 麓(ふもと)から一気に上昇して山頂の、しかも要塞線の中ほどの城を攻略し分断、楔を打ち込むなど、敵に対し隔絶した戦力がなければ容易にできることではない。

 それはイシュルの力があったからこそ、攻城戦術の基本的な知識があったからこそできたことだ。

「ふ、ふん」

 そこでペトラはいつもの胸を張り、自慢気な顔になって言った。

「イシュルは頭もいいからの。我が王国の得難い宝じゃ」

 ……うわっ。

 それをサロモンの前でやるか。そんなこと言っちゃうのか。

 ペトラは天真爛漫、明るく楽しい口調で言っているが、俺の立場は両国にとって非常に微妙だ。

 その言動は……。

 思わず視線を左右に振ると、ルースラは本心を隠した微笑を崩さずにいるが、クベード伯爵やパオラ・ピエルカは顔が青ざめ引きつっている。

 そして聖王国側はルフィッツオが目を細めペトラを見やり、ロメオはおやおやといった顔をしている。他の両国の下座の者たちは揃って表情を凍らせている。

「いや、イシュルは本当に素晴らしい。どうかな? またあの話、我が聖王国の“総軍監”の職、受けてくれないかな?」

「なっ!」

 ……サロモンの笑顔が眩しすぎる。

 なんて恐ろしいんだ。なんてこと言ってくれるんだ。

「“そうぐんかん”? なんじゃ、それは」

 ひっ。

 横からペトラの訝(いぶか)る、低い声が聞こえてくる。

 イシュルこそが最後に、全身を凍らせた。

 両国の首脳による晩餐が終わった後、ルースラの動きは早かった。

 全員が席を立ち、挨拶を終え食卓から離れると、サロモンにはアイラを伴ったペトラが引き止め、ルフィッツオとロメオにはパオラ・ピエルカが、オルトランド男爵にはクベード伯爵が向かい、誰もイシュルに近づけないようにした。サロモン付きの魔導師マグダ・ペリーノは、主人の護衛のため傍から離れることができなかった。

「それで、お話とは何です?」

 ルースラはイシュルにひっそりと近づき、慌ただしく再会の挨拶をすると声を落として聞いてきた。

「ああ、まずはこれ」

 イシュルは懐から小さめの巻紙(スクロール)を取り出すと、ルースラの眼の前で振って見せた。

「ルースラさんの精霊に頼んで、この手紙を渡して欲しいんだ」

 イシュルはルースラに隊長のフリッド以下、マレフィオア討伐隊の主要な魔導師ら連名宛の手紙を、ヒポルルに運んでもらうよう頼んだ。

「……マーヤたちが今、どこら辺にいるかわからないんだが」

「討伐隊が王都に帰還したら、とりあえず我々がこの地に向かったことを伝えるよう、手配はしています」

 ルースラはそこまで言って、「しかし……」と言葉を濁した。

「王都あたりだと遠すぎて、ヒポルルには荷が重いですね」

「ああ、なるほど」

 言われてみればこの、東山地に近いソネト村だったか──から、中盆地や王都のラディスラウスまでは相当の距離がある。並の精霊では、風系統であっても厳しいかもしれない。

「そうですね……」

 ルースラは顔を俯かせ少しの間考えると言った。

「少し間をおいて明日の夜に、まずフロンテーラを目指して運ばせましょう」

「おお、そうだね」

 赤帝龍を倒してから今日でちょうど五日目。ヒポルルの移動する時間も考えると、ちょうどそれくらいに出発させるといいかもしれない。

 イシュルはにっこり笑みを浮かべてルースラに手紙を預け、礼を言った。

「それで、あの大精霊の話にあった用件、というのは?」

 ルースラは篝火の灯りに揺らめく眸を細め、さらに声を落として聞いてきた。

 イシュルは夕方にクラウを召喚した後、直ちに用を言いつけた。まず、ラディス王国側の軍師役であるルースラと、聖王国側の重要な随員であるミラの双子の兄、ルフィッツオとロメオに接触し、各々に面会の承諾を得ることと、その時間を調整してくることだった。

 イシュルはクラウにまず最初にルースラと、次にルフィッツオとロメオに面談したい旨、その希望時間などを告げ、後の調整は彼にまかせることにした。

 それで早速、今夜の一回目の晩餐が終わった時点でルースラが声をかけてきたのだった。彼はサロモンらが先にイシュルに接触しないよう、うまく人を配し、イシュルとふたりきりで話す機会を簡単につくり出した。

「あの赤帝龍の死骸を両国で均等に、互いに遺恨を残さず分配したい、っていうのは聞いてるよね?」

「ええ」

 ルースラの顔が柔和にほころぶ。

 ……この男も俺の次の目的が何か、すでにわかっているのだ。

 なぜ俺がこの面倒ごとに首を突っ込み、なるべく穏便にすまそうとしているか、その理由を知っているわけだ。

 まぁ、それはサロモンやペトラも同じだし、今さら誰に知られようと構わないんだが。

 俺の次の標的はもちろん水の魔法具、その在り処を知り手に入れることだ。

「俺は聖王国の、ディエラード公爵家の双子にも声をかけている」

「ええ。ミラ・ディエラード殿のお兄様方ですよね。それはよく存じています」

 ルースラの笑顔が大きくなる。

「……」

 イシュルは仏頂面になって黙りこんだ。

 ちぇっ、こいつにまで弄られるのか、俺は。

「ああ、えーと、それで、向こうの王様が盛り上がっちゃってね」

 と、そんなこと気にしている場合じゃない。

 イシュルはちらっと、ペトラたちと談笑しているサロモンに目をやると、すぐ気をとりなおして話を続けた。

「あのひとは俺の事情も、互いの国の事情もすべてを知って、それを承知でこのお祭り騒ぎを楽しもうとしている。俺は次の目標もあるし、さっさと交渉をすませて、この件を無事に終わらせたいんだ」

「ええ、とてもよくわかります。ぼくもイシュルさんと同意見です」

 ……うむ。そうだろうな。この男はそういうやつだ。

 イシュルは満足気にひとつ、頷いた。

「ディエラードの双子にはまず、俺の方で話をする。そこでルースラさんに橋渡しするから、後はよろしくやってくれ。聖王国側へも根回しして、俺の考えているとおりにみんなの意見をまとめて欲しい。サロモンを包囲して突き上げる」

「わかりました」

「総神官長の代理で月と火の大神官がこちらに向かっている。到着はたぶん四、五日後くらいだろう。そのあたりまでにはサロモンを同意させたい」

 聖堂教会は、両王家から赤帝龍の骨の一部とか、それなりの献上を受ければ文句はなく、中立の立場をとるだろう。サロモンが先手を打って、カルノとデシオらに何か工作しているかもしれないが、彼らとの個人的な繋がりであれば俺にも強みがある。心配する必要はないだろうが、いずれにしてもさらに第三の、他の勢力が加わるのは事態をより複雑にし、好ましいことではない。

 それまでに大勢を決しておき、教会のつけいる隙をなくしておくのが良い。マーヤたちがカルノらより早くこちらに到着することはないだろうが、彼女らが合流すればまた大きな騒ぎになる。そのドタバタが重なるのも当然、いや絶対に避けたい。

「そうですね」

 そこで、ルースラの笑みが違うものに変わった。

「サロモン国王には、こちらがあの双子に調略をかけていると、わざと知らせるのもいいかもしれません」

「えっ?」

 いや、それはどうなんだろう……。

 ルースラの眸にも、サロモンのような悪戯な色が混ざる。

 嫌な、不穏な色だ。

「あっ、ああ」

 それは……。

 イシュルは呆然と、ルースラの顔を見つめた。

「イシュルさんのこの動きこそが、まさにサロモンさまが望まれていることでしょう? ここはあの御方の思いどおりに、掌(てのひら)の上で踊ってみせればいいではないですか。どうせ教会の大神官が到着するまで、何もすることがないのですし」

「……」

 イシュルはむすっと黙り込んだ。

 ちっ、やっぱり弄られてるのか、俺は。

「あの双子とも、話をつけてきた。明日午後二刻(午後四時)頃、剣殿の許へ弟の方が訪ねてくるそうだ。聖王国のあの若き王は、明日の同時刻に近隣の領主たちと懇談することになっているらしい。そちらには、兄の方が出席することになっているそうだ」 

 イシュルの根城にしているテントの前。夜空に浮かぶクラウが、先ほど晩餐のあった食卓の方へ目をやり言った。

 あの長い食卓と椅子はそのまま、しばらくの間その場に置きっぱなしになるということだ。

 何かあればいつでも、時にイシュルも交え両陣営があの卓を挟み、会合を持つことになっている。三日後にはまた、サロモンとペトラ、もちろんイシュルも参席して両陣営の晩餐会が開かれることになっている。その後カルノとデシオが到着してからも、さらに盛大な祝宴が開かれることだろう。あの赤帝龍が退治され、さらにイシュルと両王国の王家の者がひとつところに集っているのだ。聖堂教会としては前年にあった風神の降臨につぐ、大きな慶事であろう。

「双子の弟の方には剣殿と会談を持つと、聖王国の王にあらかじめ知らせておくよう、それとなく念押ししてある」

「ああ。ありがとう、クラウ。ではこのあと、さっき俺と話していたラディス王国の軍師にその件、知らせておいてくれないか。あんたも同席してくれと、伝えておいてくれ」

「うむ、わかった。おまかせあれ」

「すまないな。風の大精霊を連絡役なんかに使って」

「いや。剣殿よりわたしが動く方が、他の精霊や人間に見つかる可能性が低いだろう。剣殿の判断は正しい」

 当然、クラウをただの連絡役として呼び出したわけではない。彼には状況の変化をしっかり把握してもらい、サロモンやルースラとの駆け引きに遅れを取らぬよう、参謀役として助言をしてもらわないといけない。

「では」

 クラウの姿がふっと、煙のように霧散して消えた。

「さてと、寝るか」

 歴史的ともいえる、草原での両王家初の晩餐会が終わり、ルースラと立ち話をした後、サロモンとペトラたちもまた詳しい話は明日以降、ということで自陣に戻って行った。

 イシュルは欠伸を噛み殺すと、自身のテントに向かった。ここ数日、自らのねぐらとなっている六角形の軍用テントは、晩餐会の食卓の並ぶすぐそば、東側の真正面にある。

「……ん?」

 イシュルが出入り口の前に立つと、中で突然人の動く気配がし、外に飛び出してきた。

 扉代わりの帆布がめくれ、従者の少年とぶつかりそうになる。

「ラデク」

「あっ、すいません、イシュルさん。……おやすみなさい」

 ラデクはラディス王国がイシュルにつけた世話役、従者だ。ロミオより少し若い、大人しい少年である。ちなみに聖王国側も同じ年頃の、ジーノという名の少年をイシュルにつけている。

 ……なんだか変だ。そっけない。急いでる。

 イシュルは振り向き、篝火の影に消えた若い従者の背中を追った。

「なんだろう」

 イシュルはひとり呟くとテントの中に入った。奥へ進むと薄暗いカンテラの明かりに、もうひとりの従者、ジーノがいた。

「あ、あ。おやすみなさい、イシュルさん」

 ジーノも少し慌てた様子でテントを出て行った。

「なんだ?」

 イシュルは俯いて首をかしげた。彼らとは特に問題もなくやっている。何か危険があればロルカが教えてくれる筈だ。

 ……特に怪しい雰囲気は感じ、ない?

 その時突然、更に奥の簡易ベッドの方から人が飛び出してきた。

 そしてイシュルに抱きついてきた。

 ネリーの指輪は反応しない。

「はっ?」

 子供か? ……何か小さい。

「イシュルっ! 妾じゃ! 待っておったぞ」

「な、なに!?」

 イシュルは呆然と自分の腹の辺りを見下ろした。

 おなじみのティアラをつけた女の子が、両腕を腰に回してしっかり抱きついている。

「なにしてんだ、おまえ」

「わからんか? そなたは今夜、妾と褥(しとね)を共にするのじゃ」

「はっ?」 

「これはまたとない好機なのじゃ。マーヤも、リフィアたちもおらん。邪魔者がおらぬこの機会を、逃すわけにはいかんのじゃ」

 腹にピタッと貼りついていたペトラが、じっと見上げてくる。

「……」

 なるほど、この明るさでもよく分かる。必死の形相だ。

「一晩寝所を共にしてしまえばこちらのものよ。あとは式までまっしぐらじゃ。そなた、まさか嫌とは言わせんぞ」

 ……既成事実というやつか。しかし、相変わらず俺の気持ちとかそういうのは考えてくれないんだ? 悲しいなぁ。

「イシュルは、……妾とその、朝まで共に過ごすのが嫌なのか」

 と、イシュルが今ひとつ冴えない顔をしていると、ペトラも不安げな表情になって声を震わせ、囁くように言ってきた。

 腰の、背中の下の方に回された彼女の両手に、ぎゅっと力が込められる。

「そなた、他の女たちのことが気になるのか? 妾はその辺、気にしとらんぞ。そばめを何人持とうが、イシュルの好きにするがよい。妾は器が大きいのじゃ」

 ペトラの眸に再び、力強い光が宿る。

 ……そばめだと? しかし、自分から器が大きいなどと言う奴はいないだろう。

 まぁ、ほんとに表情がころころ変わって、そこはとっても可愛いんだが……。

 ところで、ロルカはどうした?

 イシュルの召喚した土の精霊は、赤帝龍の死骸を守るだけでなく、自身の警護も任せてある。

「……」

 イシュルがペトラから視線を上げ、何気に周囲に注意を向けた時。

 突然テントの外で人の気配が起こって、中へ侵入してきた。

「イシュルっ!」

 カンテラの灯に照らされた、流れるような明暗のライン。

 男がひとり、マントを翻しイシュルとペトラの前に立つ。

「サロモン、さま」

 イシュルは呆然と呟いた。

 ……素早い動き。わざわざ加速の魔法を使ったのか。

 しかし、あんたまでなぜ来ちゃうの?

「いや。これは危ないところだったな、イシュル」

 サロモンは眸を細めると、ほんの微かに唇を歪めた。

「ペトラ殿、抜け駆けはいけないな。しかも、我が方の従者まで買収するとは」

「む、むむ。わざわざルースラとクベード伯を当てたのに……。効かなかったか」

 ペトラがイシュルから腕を振りほどき、向きを変えてサロモンと相対した。

「……」

 イシュルは肩を落としがっくりきそうになるのを、必死に堪えた。

 この人たちはいったい、何をやっているんだ。

「ふむ、ペトラ殿。貴方の気持ちはわかるが、ここはわたしも退くわけにはいかない」

「まさか、サロモン殿もイシュルを狙っておったとはの。聖都であれば、美しい男子(おのこ)はいくらでもおるじゃろうに。意外じゃ」

 見上げるペトラ、見下ろすサロモン。高低差がなかなか微笑ましい構図だが、ふたりの表情は真剣そのものだ。

「あー、あのですね。もう夜も遅いし……」

「イシュル、そなたは黙っておれ」

「きみの話は後だ」

 何となく声をかけてみたら、ピシャリと遮られた。

 いや、俺の気持ちは? それ、大事だよね? ふたりとも、俺はその気はないんだが……。

「イシュルは素晴らしい。ただ、神の魔法具を持っているからではないんだ」

「むむ、そ、そのとおりじゃ」

「わたしは別に、彼を独り占めしようとは思っていない。ペトラ殿。どうかな、ここはまず──」

 ……俺は、そっちの方は興味ないんで。結構です。

 イシュルは横からサロモンの整った横顔を見つめた。その切れ長の眸に強い光が浮かんでいる。

 この人は実は遊んでいるんじゃないかと思ったが、本当に真剣、なのか?

「おっ」

 ロルカの気配だ。

 テントの外に土の精霊の気配が近づく。

 ……杖サマ、大変?

 心の中にやさしく響く、彼女の声。

 と同時に地面の動く、ずずず、という音と振動とともにロルカが登場した。

 後ろに何か、人の顔の生えた土の塊を連れている。

「おや、これは」

「おお、可愛らしいが強そうな精霊殿じゃの」

「ロルカ、後ろのそれはなんだ?」

 黒髪の女だ。どこかで何度か、見た覚えがあるぞ。

「ふーむ、セルマ。そなた、イシュルの精霊殿に見事にやられたな」

 ……コノ人間ノ女、隠レノ魔法ヲ使ウ。怪シイカラ捕マエタ。

 ペトラと同時に、ロルカの声も心の中に聞こえてくる。

 セルマとは表向きはペトラのメイド、かつ隠れ身の魔法具を持つ護衛の女だ。

「なかなかの凄腕だと思ったが、ロルカの前では形無しだな」

 土の魔法具を手にしてわかったが、地面や地中に感覚を広げられるというのは凄い感知能力で、隠れ身の魔法を見抜くのもより楽に、簡単になった。

 風と土の感知力は他の系統とは段違いに優れている。

「す、す、すいませんです。ペトラさま。わ、わ、わたし、やってしまいました、あ、あ、あ。お許しを」

 セルマは焦りまくって、奇妙なイントネーションでペトラに詫びている。

 彼女は足許から首の付け根まで、土や岩で覆われしっかり固められていた。少し抵抗したのか、両手を上げて踊っているような、変なポーズをしている。

「ふむ。この風変わりな侍女はペトラ殿の護衛の者か」 

 サロモンが薄く笑みを浮かべる。

「……」

 そこでロルカがサロモンを見た。はじめて彼の存在に気づいた、という風に見えた。

 そしておもむろにペトラへ顔を向けた。何を思ったか、ちゃんと聞こえる人間の子どものような声を出した。土の口が開いて、そこから声がした。

「杖サマニ手ヲ出シタラ駄目。ワタシノ大事ナヒト」

「ふぉーっ。良い天気じゃのー」

 隣に座るペトラが大きく伸びをした。

「……」

 イシュルは無言で横目に、しらけた視線をペトラに向けた。

 その隣のルースラも苦笑している。

 抜けるような青空に浮かぶ白い雲。青々とした草原を渡ってくる気持ちの良い風。

 絵に描いたようなよく晴れた日だ。

「ははっ、そうですな。今日は本当に素晴らしい日だ」

 食卓の対面に座るミラの次兄、ロメオが外面(そとづら)の笑顔で相槌を打つ。

 ……こまっているようだな、お兄さん。

 俺もだよ。おまえは呼んでないんだよ、ペトラ。さっさと自陣に帰ってくれ。

 イシュルは少女から視線をはずし、ぼんやりと腑抜けた表情で辺りを見回した。

 確かに少し気温は高いが、いい天気だ。

 だが、周辺は多くの兵馬が集まり、人夫が集まり、南北で両国の築城が進行中でとても騒がしい。はっきり言って、草原の爽やかな風を味わう雰囲気ではない。

 周りは大小の杭が打ち込まれる打撃音や、野太い男たちの気合いの入った叫声など、工事の音が絶えることがない。何もない草原、牧草地にいきなり街が出来たような新鮮な活気に満ち、ペトラがはしゃぐのもわからないではないが……。

 このままでは話が進まない。

 サロモンが自国の諸侯と会合している、この時間帯に話を済ませてしまわないと、彼もこの場にやってきて茶々を入れてくるだろう。

 後ろには両王家から付けられた従者のラデクとジーノ、ペトラの護衛のアイラ・マリドとセルマ、それにパオラ・ピエルカまで控えている。ロミオの背後にも数名、ディエラード家に仕える者が並んでいる。

 この会合はサロモンの耳に入ることも計算に入れているので、多くの随員や護衛が立ち会うのは構わないのだが、彼のいないところでやらないと意味がない。

 サロモンには、ルースラとディエラードの双子が接触し、俺が彼らに根回ししていることを知らせないといけない。

 昨晩ルースラが言ったように、サロモンの掌の上で踊って見せなければならない。

 彼が「遊べた」、「気晴らしになった」と満足すれば、赤帝龍の遺骸の均等な分配に同意してくれるだろう。

 サロモンのご機嫌とりなどしたくないが、さすがに大国の王家と関係がまずくなるのは避けたい。サロモンとペトラがお出ましになった以上、赤帝龍の遺骸を吹き飛ばしてしまうとか、俺の力を見せつけ無理やり屈服させるなど、強行手段をとってすませるわけにはいかなくなった。

 ……それにだ、昨晩俺のテントで起きた騒動を、またこの場で繰り返されることだけは何としても避けねばならない。あんな馬鹿馬鹿しい喜劇に巻き込まれるのはご免だ。サロモンがこちらにやってくる前に、ルースラやロメオたちと話を終わらせておかねばならない。

 イシュルは決意を漲らせ、視線鋭くペトラに言った。

「ペトラ。これから俺たちは大事な話があるんだ。お前は外してくれ」

「大事な話? それでなぜ妾を外すのじゃ」

「いいから。今はお前はあっちに行ってろ。あとで遊んでやるから」

「ああっ! 妾を子ども扱いしおって。ひどいではないか。……イシュルは冷たいのぉ」

 ペトラは怒って見せるとすぐに表情を和らげ、今度は下手に出た。

「妾をのけ者にするか。まさか、イシュルは妾のことを嫌っておるのか? そんなことはあるまい」

 ペトラも完全に遊んでいる。わざと駄々をこねている。

「……」

 むすっと無言のイシュル。

 ……面倒くさいやつめ。

「す、すごいな、イシュル君は。ペトラ王女殿下と、そんなに仲が良いのか」

 何か、変な空気を感じて顔を前に向けると、ロメオが呆然とイシュルを見ている。

「おお、ディエラード公爵家の方。そうなのじゃ、妾とイシュルは格別な仲での」

「ほう……。そうなんですか」

 ロメオの眸に力が込められ、イシュルを見つめてくる。

「ところでイシュル君。ミラのことも忘れずに、くれぐれもよろしく頼むよ?」

 ……地下神殿のマレフィオア討伐のことも、昨日の晩餐会で簡単に話してある。だからロメオも妹のミラの消息を、彼女が元気で頑張っていることを知っているわけだが、ここは別の意味で「よろしく頼む」と、プレッシャーをかけてきたのだ。ペトラとのやり取りを見て、気になったのだろう。

 ああ、この人にも俺は弄られるわけか。こちらも、彼らと結婚予定の美貌の姉妹、同じ双子のピルサとピューリの近況でも聞いてからかいたいところだが、ペトラやルースラが同席している今は、控えた方がいいだろう。残念だが。

「まぁ、イシュルさん、ここはペトラさまにも同席していただきましょう。恐れながら、王女殿下にも動いていただければ、サロモンさまもよりお喜びになるのではないでしょうか」

 そこでルースラが助け舟というか、話を戻してくれた。

 サロモンも喜ぶとは、昨晩の彼との話で出た「わざと踊って見せればいい」というやつだ。

 この話をロメオにすれば、聖王家の方も皆協力してくれるだろう。

 なぜならそれは、彼らの王の喜ぶことだからだ。サロモンは俺が動き、ルースラや彼の家臣が動き、多数派工作やら何やらで駆け引きし合う群像劇を、ゲームのように楽しむつもりでいる。

 皆が道化を演じ、結果サロモンが満足すれば、赤帝龍の死骸を両国で二等分する俺の考えに彼も同意するだろう。ペトラはすでに、その件で了承している。

「じゃあ、ペトラも協力してくれ。細かいところはルースラさんとロメオさんたちで決めてくれ。サロモン王以外のすべての面々に根回しして、明後日の晩餐会で彼を突き上げる。それは俺がやるから」

 サロモンに、俺の案を承諾していないのはあなただけだ、などと迫れる人間はこの場に他にいない。

「ふむ、なるほど」

 ロメオが小さく頷く。彼ら兄弟はすでに、クラウからおおよその事情は聞かされている。

「おお、よし。妾も力になるぞ。面白くなってきた」

 ペトラが案外に可愛らしくはしゃぐ。

 ……まぁ、これは確かに半分遊びだ。聖王国の王さまは、平穏に飽いていらっしゃる。

「じゃあ、細かいことはよろしく」

 イシュルは力の抜けた苦笑を浮かべ、ルースラに言った。

 ……貴族たちの交渉、工作の細かい技術的なことは俺にはわからない。神の魔法具を持つ者として、最後に締めればそれでいいだろう。

 イシュルは欠伸を噛み殺し、ぼんやりと空を見上げた。

 ほんとに、いい天気だ。

 東の森の方でしきりと夜鳥の鳴く声がする。そこへ、篝火から薪の割れる音が混じる。

 どこか遠くで、築城に集められた人夫たちの飲み騒ぐ気配がする。

 風と土と、火と金と。夜空に世界のそよぎを見る。

「きみはあの頭の切れる風の精霊と、ルフィッツオたち、それにラディス貴族のあの少年に声をかけて、しきりに多数派工作をしているね?」

 食卓の上は真っ白のテーブルクロスで覆われている。篝火に照らされ暖色に染まったその上に両肘を立て、サロモンが口許を隠して囁くように言ってくる。

「ラディス王国の彼は、なかなかの知恵者だ。巧みに動く。……悪くない」

 夜も遅い。今、この場にはイシュルとサロモンのふたりしかいない。

「だが、肝心のきみが動いていない。わたしはきみの踊り騒ぐ姿こそ、一番に見たかったのだが」

 サロモンの眸が細められる。

「……」

 遠く夜のしじまが一瞬、目の前に降ってきたように感じた。

「貴族の方々の駆け引きとか、政治とか、あんまり興味ないんですよね」

「ふふ。その独特の口調、久しぶりだ」

 明日の二度目の晩餐会には、サロモンの周りの主だった者すべてを俺の意見でひとつにする。

 ルースラは素早く動き、自国内はもちろん、ディエラードの双子と謀って聖王国側の諸侯にも調略をかけている。

 まぁ、目的は赤帝龍の遺骸を綺麗に二等分しましょう、という単純なことだから、調略などというほど大げさなものではないが。

 ただ、そこにサロモンの説得、聖堂教会の参入も絡んでくると、一筋縄ではいかなくなってくる。

 ペトラが賛成してくれているのは心強いが、結局は俺とサロモンの綱引き、になるのだ。

 巨大な権力を持つ、すべてに秀でた王と、無位無冠だが四つの神の魔法具を持つ、最強の魔法使い。

 ひとはサロモンでさえ俺には屈せざるをえない、と見るか。それとも稀代の策士であるサロモンが俺を手懐ける、と見るか。そういうことだ。

「きみはわたしの外堀を埋めて、明日の晩餐会で決着をつけようと考えている……。確かに、大聖堂の連中が到着するまでに、すべてが決している方がいい」

「ええ」

 ……まぁ、この男のように頭の良い者でなくとも、誰だってそういう風に考えるだろう。

「だが、ただきみたちの踊るさまを見ているだけでは物足りない。もっとこの場を盛り上げるのにはどうしたらいいか。……そう、もっと楽しく、わたしも遊びに加われば良いのだ」

 サロモンの眸がさらに細められ、鋭くなった。

「どうかな? イシュル」

 すべてのものが夜闇の向こうへ退き、かすんで消えていく。

 ただ残るは漆黒に浮かぶ篝火だけ。

「まさか」

 ……俺に何か、仕掛けるつもりか。

「マグダ」

 サロモンが短く呟く。

「!!」

 一瞬、篝火の炎が音を立てて燃え上がる。

 この異様な空気。何かの結界のような……。

 あとはただ闇がどこまでも広がるだけだ。

 人々の、野鳥の、草木の気配がしない。

 揺動の魔法。その結界だ。外にいる者は近づけない。サロモンの守り神、マグダ・ペリーノの十八番(おはこ)だ。

 彼女はサロモンの背後、どこかの闇の中に潜んでいたのだ。何も魔法を使わず、気配を殺して。

 俺は気づけなかった。

「グレゴーラ、抑えろ」

 サロモンは席を立ち、素早く後ろへ飛び下がると銀色に光る長剣を抜き、地面に突き刺した。

 聖王家の宝刀、麒麟封じの剣だ。グレゴーラとはその剣に封じられたキメラの精霊だ。

 ……ロルカ。

 イシュルは地中に珍しい、独特な魔力の結界が広がるのを感じた。

 その中で、ロルカが食い破ろうと力を溜めはじめる。

「これできみの土の精霊は封じた。グレゴーラも、それほど長くはもたないだろうが」

 ……クラウは? いや、感じない。彼はどこに行った?

 イシュルは辺りに視線を彷徨わす。

「ふふ」

 サロモンは薄く笑うと、左手の甲を顔の前にかざした。

 その中指にはまった琥珀の指輪が揺らぎ、輝きはじめる。

 その石に映った光は篝火の炎だ。

「イシュル。わたしは別に、きみを害そうなどとは考えていない。ちょっとした余興さ」

 彼の口角が歪んでいく。

「父の遺品を整理していてね。ほら、あの男は大聖堂の秘密書庫を隠し持っていたろう?」

 酷薄な笑み。そして彼の右目が琥珀色に輝きだす。

 指輪の色が、彼の眸に移っていく。

「それでこれを見つけたんだ。つまらないものなんだがね」

 その唇はいよいよ歪み、両端が三日月型に引き上げられた。

「この魔法具は人の心を読む。わたしのような生業のものには少しは役立つ」

「そ、それは精霊神の……」

 く、口がうまく回らない。からだが動かない……。

「そうだ。がらくたばかりの精霊神の魔法具さ。人の心を読めると言ってもわずかな間だけ。しかもこの琥珀の指輪を、同じ琥珀色の光で輝かせなければ発動しない。だから暗闇と炎が必要なんだ」

 サロモンのからだが小刻みに震えだす。

「夜か暗室か、でないと使えないがらくたさ。でも、どうしてもこれを使いたかったんだ」

 サロモンは笑っているのだ。喜びに、からだを震わせているのだ。

「きみの心の中を見たかったんだ。きみを知りたかった、神の魔法具をもう、四つも集めたのだろう? 火の魔法具は赤帝龍に宿っていた。きみは風、金、土。そして火の魔法具さえも手にしたのだ」

「くっ……」

 なんだかぼんやりする。眠たい。あの指輪、催眠術のような効果があるのか。

 絶対にまずい。心の中を覗かれたら。俺が異世界の、前世の記憶を持っていることが知られたら……。

「さぁ、わたしに見せるのだ。イシュル。きみは何者だ?」

「うっ、くっ」

 ……もう遊びは終わりだ。

 すべての結界を、この奇妙なこけ脅しの催眠術もどきも、すべて粉砕する。

 イシュルは唇を噛み締め、力を込めて乏しくなった集中力を夜空の果てに指向した。

「待たれよ!」

 その時。

 暗闇に伸びる白い食卓の上に、ひとりの貴婦人が降り立った。

「!!」

 ……はぁっ?

「誰だっ」

「……」

 イシュルは鋭く声を発し、サロモンは機嫌の悪そうな顔になって、横目にその婦人を見上げた。彼は何も言わなかった。

 女はマグダの張った揺動の結界を、何の苦もなく飛び越えてきた。

「ふふ、妾が誰か、わからんかえ」

 齢(よわい)は五十を過ぎているだろう。痩せた姿形に淡い桃色のような、複雑な色調のドレスを着ている。肉の削げ落ちた鋭い頬に、切れ長の冷酷な眸。尖った鼻に薄い唇。若い頃はさぞや美人だっただろう。いや、今もその容色は衰えていない。どこかの王族のような威厳と気品を兼ね備えている。

「そこな人間の王よ。この御方に気安く触れてはならんぞ」

 ……ああ、この異質な存在感。この恐ろしい威厳の女は精霊なのか。

「ふん、なるほど。そなたがな」

 サロモンはつまらなそうな顔で左手を下ろした。

 精霊神の、琥珀の魔法が消える。

「えーと、あなたは誰かな?」

 精霊なら相当なものだ。こんなに冷たい、威厳に満ちた高位の精霊に会ったことは今までない。あのお高い女官の精霊、ナヤルも遠く及ばない。

「ふむ、さすがの杖殿もわからんかえ」

 貴婦人ははじめて笑みを浮かべた。少しだけ気安さを見せた。

「妾はウルオミラじゃ。そなたがかの? マレフィオアを斃してくれたおかげで、こうして本来の姿に戻れたということよ」

「な、なんだと……」

 イシュルは呆然と、食卓の上に立つウルオミラを見つめた。

 ちゃんと色があり、質感があり、人間のように実体化している。

「あんたがウルオミラ……」

 マレフィオアからもう片方の紅玉石を奪い、ウルオミラが元に戻った、ということは、彼女はよほど地神ウーメオに近い存在なのだろう。

「そなた、妾には杖殿に恩義がある。悪戯もほどほどにするがよかろう」

 ウルオミラがサロモンに冷たい視線を向けた。まったく容赦がない。

「ふん。仕方ないか」

 サロモンはさすが、気圧されることもなく彼女をあらためて一瞥すると、イシュルに顔を向けた。

「ペトラ嬢にはちょっと気になることがあって、警戒していたのさ。その正体がこれだ」

「……なるほど」

 そういえばサロモンはペトラを見て時々、難しい顔をしていた。

 俺は何も気づかなかった……。

 ペトラめ。俺にわざと隠していたな。というか、それもウルオミラの力なのか。

 だが、そんなことはどうでもいい。この土の精霊は凄い。まさしく女王の威厳だ。

 つまり、何十年か後のペトラはこうなるのか……。

「ふむ。剣殿、失礼いたした」

 そのウルオミラの背後、夜空にクラウが姿を現した。

 いつの間にか、マグダの結界は消えている。

「クラウ……」

「こちらの土の精霊殿が、まかせてほしいというのでな」

「そうか」

 しかし、クラウを説得する、いや信用させるとは、本当に凄い。

「ん?」

 やや離れた北の草原の方に松明の光が灯る。

 近づいてくる人影はアイラを従えたペトラ姫本人だった。

「ウルオミラめ。美味しいところを持っていきおって」

「ペトラ……」

「でじゃ、サロモン殿もこれで気が済んだかの? ここはこれでおさめてくれんかの」

 ペトラがサロモンに近づき声をかける。

「……今晩は、ペトラ殿。わかった、わたしの遊びもこれで終いにしよう。長引かせて、教会に横槍を入れられるのは好ましくない。イシュル殿の提案に同意することとしよう」

 サロモンは地面に刺した麒麟封じの剣を抜き、鞘におさめた。

 ……杖サマ。

 暗闇からマグダ・ペリーノが姿を現し、草叢からロルカが顔を突き出した。ウルオミラはペトラの後ろにふわりと飛んで、姿を消した。

「ふう」

 イシュルは小さく吐息をつくと、周りを見回した。

 サロモンが退(ひ)き、ことは成った。

 篝火に照らされた草原をふたつの影が踊る。

 サロモンとペトラが、くるくると回り、時に手をつなぎ、背中を合わせ、古い舞いを踊っている。

 大陸では舞踊は庶民のもので、王家や貴族ではその習慣はない。

 だから貴族たちの間で舞踊会のような催しは行われないが、祝宴の終わりに興に乗って、内輪で踊ることはある。

 ペトラは何を思ったかあれからサロモンに、民の間に伝わる古い踊りをともに舞おうと提案したのだった。

 ……それは祝宴の終わりを意味するということか。

 サロモンも快く同意し、ふたりは夜の草原にひととき、舞い踊った。

 イシュルは自分の耳に聞こえるはずのない調べが、どこかで聞いた輪舞曲(ロンド)が聞こえたような気がした。