Reincarnation into the Barrier Master

Chapter 579: Thanksgiving

「行ってまいります」

ドアの前で、深々と腰を折って母に挨拶をする。アガルタに来てから、母には感謝しかなかった。だが、面と向かってお礼を言うのは気が引けるために、せめて、母が幼い頃から口を酸っぱくして言ってきた事柄をきちんとこなすことで、セルロイトは彼女なりに感謝を示そうとしていた。

母は、何も言わず、スッと頭を下げただけで、淡々とセルロイトを見送った。一見すると娘には関心がなさそうだが、そうではないことは彼女自身が一番よくわかっていた。こうして、自分のことを無言で見守ってくれる母の気持ちが、ありがたかった。

部屋を出て、廊下を進む。まだフワフワとした感覚は残っているが、研究を進めたいという思いが強い。まずは、メイリアス様とコンシディー様と打ち合わせをしなければ。彼女は二人に報告するための内容を頭の中で反芻し始める。

階段を降り、地下に向かう。地下の一室に、友好の花が保存されている部屋に行くための転移結界が張られているのだ。これは秘密とされていて、部屋の結界について知っているのは、アガルタ王リノスと王妃のメイリアス、コンシディー、そして、セルロイトの四人だけだった。

結界スキルに転移の効果があるということは、書物を読んで知っていたが、まさか、本当に習得している人間がいるとは思ってもみなかった。セルロイトの感覚では、転移結界は結界スキルを極めた老人のようなものが使うというものだったが、実際には、自分とそう年齢の変わらない若い優男であるアガルタ王が、こともなげに転移結界を張ってみせたのだ。そのスキルを目の当たりにした瞬間、セルロイトは直感的にこの国とこの王は敵に回してはならないと悟った。きっと、この王は世界を滅ぼすことができる能力を持っている。そう考えると同時に、安心感を覚えるという不思議な感覚に囚われた。見るからに優しそうな王の表情は、恐怖ではなく、むしろ、これからの未来に対して期待感さえ感じさせたのだった。

そのアガルタ王は、セルロイトにただ一言、この転移結界は秘密にしてくださいねと言った。その表情には疑いというものを微塵も感じさせなかった。その証拠に、彼は、あなたなら大丈夫だと言って笑みを浮かべたのだ。もとよりそんなことは言うつもりはなかったし、言えば色々と難しい問題が発生するだろうことは容易に想像できていた。そんな中でのアガルタ王の発言は、これだけのスキルを持つ王から信頼されているのだとセルロイトに感じさせた。この瞬間、彼女は何としてもこの国の役に立つことを決意したのだった。

地下に続く階段を降りていたそのとき、セルロイトの脳裏に不意に、ヤンノーリの笑顔が思い浮かんだ。そういえば、昨日は使者を介してお見舞いの品をもらっていたのだ。お礼を言わなければならない。だが、メイリアス様とコンシディー様との話しもある……。セルロイトは足を停めて考える。

「……」

気が付けば、元来た階段を彼女は上がり始めていた。二人との打ち合わせの前に、彼にお礼を言うべきだと直感的に思ったのだ。

建物を出て、真っすぐにアガルタ大学のキャンバスに向かう。そこには、乗合馬車の停留所があった。

総合大学の名前を冠するアガルタ大学は、当初用意されていた都の中のキャンバスでは集まる学生を収容しきれず、都の外にいくつかのキャンバスを建設していた。ヤンノーリが普段研究を行う農場は、北門を出てすぐの、ルノアの森の近くにあった。

この停留所から農場までは、馬車でおよそ三十分だった。ヤンノーリの許に行って挨拶を済ませ、すぐに帰ってくれば、午前中にお二人と打ち合わせができるはずだ。きっと、お忙しい方々だ。今、自分があの研究室に行ったところで、誰も来てはいないだろう。先に、挨拶を済ませるのだ。そう自分に言い聞かせるようにして、セルロイトは馬車に乗り込んだ。

年老いた猫獣人の馭者が、ジロリとセルロイトを睨む。彼女は男にゆっくりと頭を下げる。それが合図であったかのように、馬車はゆっくりと走り出した。

このキャンバスから農場に向かうものはほとんどいない。そのため、セルロイトはいつも馬車の中で一人の時間を過ごすことができていた。馭者の男も無口で、これまで彼女は男と言葉を交わしたことが一度もなかった。乗り込んで、お辞儀をして馬車が動き、農場に着いたら止まる。男にお辞儀をして降りる。馬車は一旦都に戻っていくが、その二時間後には、きっちりと農場に戻って来て、セルロイトの帰りを待っているのだった。

ゴトゴトと馬車は石畳の上を進んでいく。道は美しく整備されていて、人が通る道と馬車が通る道ときちんと区別がなされている。こうした機能的な城塞都市を建設していることから見ても、このアガルタと言う国の国力の高さが見て取れる。

セルロイトは、車窓から都の景色を眺めるのが好きだった。道には様々な人々が行き交い、店には豊富な品物が並んでいる。それらを見ていると、自然と心がワクワクしてくるのだった。聞けば、この辺りは数年前、ラマロン皇国の侵攻を受けた際に、多くの人々が命を奪われた場所だったという。その際、家々は焼かれ、この周辺は廃墟同然となった。現在の繁栄ぶりからは俄かに信じられない話だが、その荒廃からアガルタは目を見張る速さで復興を遂げて現在に至っている。きっと、アガルタと手を携えれば、フォーアル大公国もさらに繁栄するはずだ。できれば、街並みの作り方も学びたい……。

馬車は北門を抜ける。すると、これまでの景色が一変する。賑やかだった風景が、森と広々とした大地に変わる。その大きなギャップも、セルロイトは好きだった。

ほどなくして、車窓から白い建物が見えてきた。アガルタ大学の農場に到着したのだ。

「すっ、すぐ……すぐに、もっ、戻りますから」

「……」

セルロイトの言葉に、馭者の男はじろりと彼女を見て、ゆっくりと頷いた。急いで馬車を降りて、ヤンノーリの農場に向かう。

彼の姿はすぐに見つかった。畑の真ん中で、天を仰いで立ち尽くしていたのだった。

「あっ、あのっ……」

声をかけるセルロイトに、ヤンノーリはゆっくりと視線を向けた。彼には章中落胆の表情が浮かんでいる。

「ああ、いらっしゃい。お体の様子は……」

「大丈夫です。いっ、いただいた……シーングの、おっ、お礼に……」

彼は優しい笑みを浮かべると、ゆっくりと頷いた。ふと見ると、そこには食い荒らされたシーングの実が散乱していた。

「こっ、こっ、これ……は?」

「フェリーラットの仕業です」

「フェリーラット」

雑食系のネズミで、放っておくと果実はもちろん、葉や茎までも食べてしまうものだ。ただし、このネズミは、美味なものしか食べないために、これに齧られた果実は、美味なものであるという証明にもなるために、農家にとっては、対策に困る動物なのだ。

ヤンノーリさんが作ったシーングはとても美味しかったのです。フェリーラットが食べるのもよくわかります。

そんなことを心炉の中で思ってみるが、言葉が出てこない。それに、ヤンノーリはスッとその場に座り、じっとシーングの実を眺めている。

「実が……かなり食べられてしまいました……。あと一歩で収穫できたのですけれど……。それに、これだけの果実が食べられたのです。相当数のネズミがいると思ってよいでしょう。これから、ネズミ対策です。やれやれ……」

ヤンノーリはあらぬ方向に視線を泳がせたまま、大きなため息をついた。きっと、彼が育てた他の果実も被害を受けていることは、容易に想像できた。苦労して育て、収穫間近であった果実が被害を受けたのだ。彼のショックは察して余りあるものだった。

セルロイトは、お礼もそこそこにその場を辞した。帰りの馬車に揺られながら彼女は、何とかフェリーラットの対策はできないかと考えた。そのとき、フッと彼女の脳裏に、一つのアイデアが浮かんだ……。