Reiryuu Academy Student Council

181 Reunion and affection

静かに扉が閉まる。

広い部屋の中、芽榴に背を向けるその男は窓の外に視線を投げていた。

自己紹介はいらない。

楠原芽榴としての芽榴は、すでに今年の体育祭で東條への紹介を済ませた。

もう一人の芽榴について言えば尚更、その紹介に意味がない。

懐かしい――と言えば嘘になる。この1年、芽榴は信じられないくらい彼の姿を目にしていた。

しばらくの沈黙。

芽榴の心臓は張り裂けてしまいそうなくらい、うるさく脈を打つ。鼓動がひときわ大きな音を立てたとき、それが合図だった。

「……東條、様」

震える声で、芽榴はそう呼んだ。

すると東條の肩がピクリと揺れる。芽榴の声はしっかり東條の耳に届いていた。

「……あの」

「ピアノ……」

芽榴が言葉を紡ぐ。それと同時に、東條が声を被せた。その意図を察した芽榴は開いた口を再び閉じる。

「とても美しい音色だった……。昔よく耳にした音色と寸分の違いもない」

十年前までは屋敷でもパーティー会場でも、芽榴がいたときは必ず耳にすることのできた心地よい音色。あれほど東條の心に響き、彼を癒すことのできる音色はたった一つ。芽榴の指で奏でられる音色だけだった。

「最後の曲は私のお気に入りでね……。まさか、再びこの音色で聴ける日がくるとは……思ってもいなかった」

東條はそう言葉を吐いて、やっと芽榴のほうに向き直った。

「……」

2人きりの空間で、顔をあわせるのは10年前のあの日以来のこと。互いに姿も関係も変わってしまったけれど、芽榴の中にある気持ちはあの時と変わらない。否、あの時よりもはるかに大きくなっていた。

東條の目に映る芽榴は、麗しい少女の姿をしている。

彼が生涯で唯一愛した女性の面影を持つ、たった一人の大切な少女の姿だ。

あの時の約束を果たした芽榴がそこに立っている。

誰にも負けない正真正銘の〝完璧な少女〟として芽榴は東條の前に姿を現した。

だから東條は芽榴に言わなければならない。

「私の娘が生きていたなら……きっと今頃、君のような美しくて素晴らしい女性に育っていたことだろう」

東條の口で紡がれた言葉は最高の賞賛。

芽榴は息を止め、拳を握る。与えられた言葉の分を芽榴は返さなければならない。でも舞い上がった頭では何も考えられなかった。嬉しくて嬉しくて、それだけで十分だった。

それだけで、よかった――。

「あの曲を弾いてくれて……聴かせてくれて、ありがとう。……楠原、芽榴さん」

芽榴は、その名を呼ぶ東條の顔を見るべきではなかった。

苦しそうな声で、切ない表情で、芽榴に思いをぶつける――そんな東條の姿から芽榴は目を離せない。

喜びも感謝も告げたなら『楠原芽榴』という少女の存在まで丸ごと賞賛するべきだった。それをしない東條は卑怯だ。芽榴を傷つけた東條は死ぬまで本心を隠し続けなければならない。それが東條の責任だった。

すべての始まりは東條にある。

どんなに焦がれていても、どんなに憧れていても、その事実だけは変わらない。

「どうして、そんな顔を……するんですか」

口を開いたら最後――止められないのは分かっていた。

「……私を楠原芽榴にしたのは、あなたじゃ……ないですか」

東條の顔が一層切なく歪む。

芽榴は東條のそんな顔が見たいわけではない。東條を苦しめたいわけではない。

けれど壊れそうな思いは、堪えきれずに芽榴の口から漏れていく。

「私は、辛くても苦しくても……ずっとそばに、いたかったんです」

楠原家の人間に出会えたことも、彼らの家族になれたことも芽榴にとっての幸せだった。それは嘘じゃない。それでも、あの時の芽榴は東條芽榴のままでいることを望んでいた。

「分家をたらい回しにされて、転々としてどの家も選ばずにいたら……いつか戻れるって……信じてました」

東條は何も言わない。さっきと同じ、切ない表情のまま芽榴のことを見つめるだけ。大きな部屋には静かな芽榴の声だけが響いていた。

「でも……あの状態で、私があの家に居続けることはできなかったって……おばあ様が私の存在を許さなかったことも……本当は全部、分かってるんです」

ずっと心に秘めてきた思いがどんどん言葉になって溢れ出る。昔の芽榴なら絶対にこんなことを口にはしない。憧れの人を傷つける言葉は全部しまい込んだはずだ。そうやって全部自分のせいにして一人で傷つく。

でも今の芽榴は知っていた。

「それでも……そばにいたかったんです」

一人で抱え込んだとしても何も変わらない。前にも進めないまま、全部悪いほうに転がっていく。

ちゃんと伝えて、それで傷ついたとしても後悔はない。

「私はあなたのそばに、いなきゃいけなかったんです。私の存在が……あなたから大切なものを奪ったから……」

母の死は芽榴の心の傷であり、芽榴と東條の歯車に等しい。

「だから、私があの人の代わりにならなきゃ……いけなかっ」

「それは違う」

東條の否定の言葉は芽榴の頭上から降ってきた。

芽榴の途切れた言葉は東條の胸の中で消える。

昔、芽榴が拒絶してしまった東條の手は確かに芽榴を抱きしめた。

「……っ」

芽榴の体は東條の腕の中にある。芽榴がそれに気づいたとき、すでに東條が言葉を紡ぎ始めていた。

「榴衣が死んだことに、お前が責任を感じる必要はどこにもない」

「……あり、ます。……私が生まれてこなければ、お母さんは……死にませんでした」

芽榴の言葉は間違っていない。

しかし、そのことに対して芽榴が責任を感じる必要はなかった。芽榴は背負う必要のない最大の重荷をいまだ降ろすことなく、その背中に抱えていた。

「お前にそう思わせてしまったのは私だ。私は、お前を苦しめることしかできない……最低な人間だった。お前が責めなければいけない相手は私だ……」

そう言って東條は芽榴を強く抱きしめた。芽榴の肩に落ちた雫は温い。東條の震えを芽榴はその体で感じていた。パーティーを逃げ出した芽榴と同じくらい、東條は不安で震えていた。

「……榴衣が残してくれた子は、榴衣と同じくらい大切だった。それは本当だ。だから……お前に言わなければならないことはたくさんあったはずなのに……私はお前が怖かったんだ……」

榴衣と入れ替わるようにして、芽榴は生まれ落ちた。東條にとって芽榴は最愛の人を奪った最愛の娘だった。

大切に育てたい。榴衣に与えられなかった分の幸せと愛情を注ぐことを東條は決めていた。

しかし芽榴をその腕に抱いた瞬間、東條のすべてが不安に飲まれた。

抱いた娘が愛らしくて仕方なかった。けれどその愛は純粋な娘への愛なのか、榴衣の代わりとしての愛なのか。東條の中で答えは明白だったのに、その考えが拭われることはなかった。

芽榴の前に立つ東條は、常にその疑問だけに支配された。尽きることのない自問自答に意味はない。

東條の純粋すぎる愛がすべての始まり。榴衣の代わりにしたくない一心で、娘として芽榴を扱うことを東條は意識しすぎた。それがメイドたちの中で誤解を生み、芽榴の中に「父から嫌われている」という感情を刻み込んだ。

「私は……家の言いなりになることを拒んで、中学だけは普通の中学校に通った。そこで、榴衣と楠原……大切な人に出会えた。だから……お前にも、その幸せを与えてやりたくて……」

だから東條は芽榴を普通の幼稚園、普通の小学校に通わせた。自分がそこで知った喜びを、掴んだ幸せを、東條は芽榴にも与えてあげたかったのだ。

「お前は私の自慢の娘だった。ずっとずっと、自慢で……それでも上位の人間にしかお前を会わせなかったのは、お前を利用しようとする人間からお前を隠すためだった」

中途半端な階級の人間は容易に芽榴を利用して東條家との繋がりを求めようとする。分家の人間でさえそうだったのだから余程立場が確立された家柄でなければそれが必然だった。

そんな魔の手から芽榴を隠すために、東條は芽榴の参加するパーティーを制限した。芽榴が成長して一大人と換算できる年になるまで、限られた人間にしか芽榴の存在を明かさないと決めていたのだ。

決して芽榴が出来損ないだったからではない。でも幼い芽榴がそのことを悟るには、余りにも東條の言葉は少なすぎた。そして何より、2人のあいだの壁が大きすぎたのだ。

「榴衣が死んで、私でさえこんなにも不安になっているのに、幼いお前が抱える不安は……考えただけでも怖かった。いつか、お前から責め立てられる日が来ると、思っていた……」

「……そんな、こと……」

芽榴にできるはずがない。しかし、あの時の東條にはそれが分からなかった。

「総帥にも逆らえずに、お前のことを苦しめて……本当に最初から最後まで、私は最低な人間だった……」

芽榴が自分を責めるのと同じくらい、東條は自分を責めていた。責めて責めて、そして迎えた結末は最悪。

すべてが逆回りに転がる、誤解だらけの世界で2人は繋がっていた。

それでも変わらなかった真実は、互いに相手を思っていたということ。

「だからお前が……自分を責めることは、ないんだ」

東條の声は掠れていた。

それが涙のせいなのか、喋りすぎて喉が潰れただけなのか。

その答えこそ芽榴の肩に落ちた温い雫だった。

「……お前の願いを、何一つ聞いてあげられなかった私を……責めなさい」

締めつけられたのは体だけじゃない。芽榴の心も体もすべて、東條の言葉で締めつけられる。

十年前もこんなふうにちゃんと言葉を交わせていたら、互いに傷つくことはなかった。

「心の奥で、ずっと……責めてます」

東條を傷つける言葉はすべて心の奥に鍵をかけて閉じ込めた。だから閉じ込められた芽榴の本心は飽くことなく東條を責めて叫び続けていた。

芽榴の声は鼻にかかって、少しだけ濁る。それでも透き通る綺麗な声はしっかりと思いの丈を言葉にした。

「でもやっぱり……大好きな人に、せっかく言葉にできるなら……非難じゃなくて、感謝がいいです」

芽榴の視界がぼやける。化粧が乱れてしまうから、絶対に泣くわけにはいかない。

だから芽榴は唇を噛んで、拳を白くなるまで握りしめた。

「……たった十年でも、育ててくれて……ありがとうございました」

肩に落ちる雫は質量を増す。

それが分かっても尚、芽榴は言葉を止めるわけにはいかない。

「私を私に生んでくれて、ありがとうございました」

「……っ」

「楠原芽榴に……会いに来てくれて、ありがとうございました」

東條を非難する言葉は簡単に思いつく。けれど同じくらい、感謝の言葉も芽榴の心にはたくさんあった。

この感情を教えてくれたのは東條ではない。だからやっぱり芽榴は東條芽榴には戻れない。

たった一つの答えを選び抜き、芽榴は東條のジャケットを掴んだ。

「……私はこれから先もずっと、楠原芽榴です。もう東條芽榴はこの世のどこにも、いません」

きっとこの選択が正解。

「……っ」

でも東條芽榴の心は芽榴の中にちゃんと残るから――。

「だから……最後に、もう一度だけ……『お父さん』って、呼んでも……いいですか?」

答えは分かっていた。それでも芽榴が尋ねたのはその答えを東條の口から聞きたかったから。

「いいよ。……呼んでくれるなら、何度でも」

震える声で告げられた返事には十年分の愛情と思いが詰まっていた。

「おとう、さん……。……お父さん」

一度目はその言葉を確かめるように、そして二度目ははっきりと東條に告げた。

言葉にしたら何度でも呼びたくなる。でも、それは今日が最後。

「お父さん、一つだけ教えてください」

だから、大切な言葉を聞く機会も今を逃せば二度とない。

息を吸い込んで、芽榴は言葉を紡ぐ。

ずっと聞きたくて、でも聞けなかった。その答えは東條芽榴がずっと欲しがっていたもの。欲しいものはすべて手に入る東條芽榴が、唯一どうしても手に入れることのできなかった言葉だ。

「お父さんは……私を愛してくれていましたか?」

芽榴は顔を上げる。

生まれ落ちた瞬間に、当たり前に与えられるはずの言葉を、17年の時を経た今も芽榴は求めていた。

芽榴を見下ろす東條の顔は、涙でぐちゃぐちゃだった。こんな東條は誰も見たことがない。これから先も見ることはないだろう。

どんなに卑怯でも勝手でも芽榴がその言葉を願うなら、東條に我慢することなどできるはずもない。

「……愛しているよ、芽榴――――心の底から愛してる」

瞠目した瞳からは涙が零れ落ちる。

芽榴は息を止め、震える両手で鼻と口を塞いだ。そうでもしなければ化粧も東條の衣装も、全部台無しにするほど泣いてしまいそうだった。

「……う、ぁ……」

芽榴の喜びは言葉にならない。

誤解から生まれた闇がすべて浄化されていく。

――それは最高のクリスマスプレゼント。

交わることのなかった愛情は今ここでやっと巡り合った。