バレンタイン当日。
芽榴は圭と一緒に家を出て、少しの道のりではあるがいつものように仲良く登校する。分かれ道が近くなったところで芽榴が小さく息を吐いた。
「ちゃんと渡せるかなー……」
溜息とともに芽榴はそんな台詞を口にする。何のことについてか、わざわざ聞かなくても圭には分かった。
「芽榴姉が渡しに行くまでもなく、取りに来るっしょ」
圭は芽榴が持つ手提げを見つめ、肩を竦めながら告げる。彼の頭の中では、その手提げの中にあるチョコを楽しみに待つ役員たちの姿が容易に浮かぶのだ。
「そうなら助かるけどー」
「てか、渡せなかった時は俺が全部食べるから問題ないし」
圭はサラッとそんなことを言って芽榴の前を歩く。相変わらず優しい弟だ、などとのんきに思いながら芽榴はその後ろを歩いた。
「圭の分はあげたじゃん。たくさんあっても飽きるでしょー」
「芽榴姉のチョコに飽きるわけないだろ。むしろ食べられるだけで光栄ってレベル」
「毎年食べてるのにー?」
仲のいい姉弟の会話を弾ませる。仲がいいというより、弟の姉に対する一途な感情が全面的に出ているだけなのだが。
そうして分かれ道に差し掛かり、芽榴は圭の横に並んだ。
「じゃあ、圭。チョコが手に持てない時はお父さんに迎えに来てもらいなよー」
「そんなにもらうのは役員さんくらいだろ」
圭はそうは言うが毎年少なくとも一つはチョコを持って帰ってくる。けれども圭はそれ以上その件を掘り下げられたくないのか、芽榴の言葉を軽く流して立ち止まった。
「行ってらっしゃい、芽榴姉」
圭は芽榴を送り出すようにして手を振る。
絶対に圭から先に背中を向けることはない。芽榴もたまには自分が圭の背中を見送って行きたいと思うのだが、圭が頑固にそのポジションを代わろうとしない。だから芽榴は今日も先に圭に背中を向ける。
「……行ってきまーす」
圭に見送られながら、芽榴は戦場となる学園へと足を向けた。
まだ登校している人も多くはない時間帯なのだが、すでに学園の中は騒がしい。靴箱ではF組以外の靴箱に女子が数人いるのが見える。おそらく役員の靴箱にチョコを入れているのだろう。1年前も見た光景だが、あのときは「すごいなー」などとのんきに思うだけだった。けれど今年はそうもいかない。
「どーやって渡そうかな」
この分では今日一日役員は全員呼び出しで捕まらないだろう。今日からテスト期間で生徒会もない。颯や有利は生徒会室で勉強するかもしれないが、今日という日は何が起こるか分からない。
そんなふうに役員にチョコを渡す方法を考えながら靴を履き替えていると、突如人の気配を感じて芽榴は後ろを振り返った。
「え? あれ……来羅ちゃ」
「しーっ!」
芽榴の後ろにいたのは来羅だった。けれど来羅は芽榴が彼の名を呼ぼうとするのを防ぐ。口元に指を押し当てられ、芽榴はキュッと口を結んだ。
「あぁ……ロッカーはポストじゃないわよ、まったく」
来羅は芽榴の肩越しに自分のクラスの靴箱の様子をうかがい、そんなふうに呟く。
女装をしていた来羅は例年他の役員よりもらうチョコの量は少ないのだが、修学旅行が明けてからというものほとんど女装をしていないため、来羅にもチョコが多数用意されているようだ。
「あ、だから今日は女装なのー?」
芽榴の指摘に来羅はゆっくり顔を上げる。今日の来羅は可愛らしい女装姿だ。久しぶりに見る姿だが、違和感はなかった。
「気休めだけどね。女装してるからチョコあげませーん、なんて勝手な子いないかしら」
来羅はそういう女の子のことを毛嫌いしているはずなのだが、今日という日に限ってはそういう女の子のほうが彼にとって好都合なのだ。
「あははー……」
大量にチョコをもらう分、芽榴が予想していた通り嬉しさよりも迷惑という感覚の方が先行する。それがはっきり分かった今、芽榴も自身のチョコを渡すのを躊躇してしまい、チョコの入った手提げ袋を背後に隠そうと腕を動かした。
「でーも、るーちゃんのチョコは別だから隠そうとしなくていいわよ?」
けれどそんな芽榴の動きを見切り、来羅は手提げを持った芽榴の腕を掴んで笑った。「よく見ていたな」と感心しつつ、芽榴は来羅の分のチョコを手提げから取り出した。
「いつもありがとーございます」
「いえいえ。こちらこそ」
そんな挨拶をかわしながら芽榴は来羅にチョコを渡す。来羅は芽榴からのチョコを大事そうに受け取って鞄にしまった。
「これで、私の今日の目標は達成ね」
来羅はそんなふうに言った後、持参した上履きに履き替え、履いていた外靴をその袋の中に入れた。今日自分のロッカーが混雑することを予想して昨日上履きを持ち帰っていたらしい。
「準備いーね」
「まあ、毎年のことだもの。風ちゃんたちに比べたら準備してないほうよ」
そう言って来羅は笑った。来羅いわく、毎年来羅以外の役員は大量のチョコを持って帰るための段ボールやポリ袋を持参したりロッカーの中のものが紛失しないようにあらかじめ一掃したりと忙しいらしい。
「今日から風ちゃんと放課後もお勉強するんだっけ?」
女生徒たちの目を盗みながら、芽榴と来羅は廊下に出る。来羅の質問に芽榴が頷くと、来羅はどこか哀れむように軽く息を吐いた。
「ちゃんとるーちゃんのところにまで行けるのかしらね」
来羅のつぶやきに芽榴は苦笑するしかない。それを言い出したら他の役員についてもそうなのだが、彼はやはり例外になる。いくら芽榴と昼休みも放課後も勉強する約束をしているからといって、バレンタインの呼び出しを無視できないだろう。
「ま、風ちゃんがもらい損ねたときは以降1年間は自慢し続けるだけだけど」
その図が容易に想像ついて、芽榴は眉を下げて困ったように笑った。
それから教室について、しばらくすると舞子や滝本も登校してきて芽榴は2人にもチョコを渡す。
「楠原ー、チョコなくなったからもう一個くれ」
「え」
「芽榴はチョコ屋じゃないわよ」
あげた途端に全部食べきってしまった滝本に芽榴は驚き、その隣で舞子が的確なツッコミをしながら滝本の頭をパシンと叩いた。
「ってぇ! 冗談だよ!」
滝本はそう言うが、半分本気だっただろうとそのやりとりを聞いていた全員が思った。そんな相変わらずの滝本の反応に溜息を吐きつつ、舞子は自分も用意したチョコを滝本に手渡した。
「ほら、足りないならそれ食べなさいよ。……絶対芽榴のと比べないでよね」
最後の言葉は本気のトーンで言ったため、舞子の気迫にやられた滝本は「お、おう…」と緊張した様子で舞子からチョコを受け取っていた。
「あ、普通にうめぇ」
「……それどういう意味よ」
舞子のチョコを食べた滝本は、何も考えず感じたことを口にする。しかしその言い方では舞子のチョコがそれほど美味しくないと予想していたみたいに聞こえてしまう。言った後にそれに気づいた滝本は「しまった」と顔に書いた。
「あー、えっと、その……あ、そ、そういや蓮月まだ来てねぇの? 楠原!」
結局いいフォローを考えられなかったらしく、滝本は芽榴に別の話題を振った。
「え? あー、うん。まだ、だけど……」
芽榴が滝本の質問に答える。その瞬間、少しだけ教室の中がざわついて、芽榴がそれに反応したときにはすでに芽榴の背後に学園の皇帝様が立っていた。
「風雅なら、たぶんホームルームが始まるギリギリに来るか、遅刻かの二択だよ」
芽榴の代わりに、颯がその質問に答えていた。そして颯は芽榴に笑いかけ「おはよう」と爽やかに挨拶をしてきた。
「……おはよ。どーしたの?」
「これを返しにね」
少し驚いた様子の芽榴に、颯は付箋紙を渡す。金曜の生徒会中に颯の付箋紙が足りなくなったため、芽榴が貸していたのだ。
「助かったよ、ありがとう」
「いつでもよかったのにー」
「今日はこれ以降、芽榴のところに来れる自信がなくてね」
颯はそう言って苦笑する。颯の言葉を聞いていた滝本は羨ましそうに半目で颯のことを見ていて、それを見た舞子が堪えきれず吹き出していた。
「さすが、人気者は違いますねー」
「風雅には負けるよ」
颯の言葉に芽榴は苦笑する。来羅も言っていた。役員の中でもやはり風雅のもらうチョコの量は群を抜いている。心の中がモヤモヤし始める、その前に芽榴はニコリと笑って颯の前にチョコを差し出した。
「はい、神代くん」
差し出されたチョコを見て、颯の瞳が優しく細められる。受け取った颯は滝本と同様すぐにリボンを外してチョコを口にした。
「やっぱり格別だね」
「家に帰って食べればいいのに」
「残りはそうするよ」
颯はそう言って、満足げにリボンを結び直す。芽榴が渡した時と同じ状態に戻し、踵を返そうとして颯はまた芽榴のほうを振り返った。
「有利は呼び出しよりもロッカーにチョコを入れられるタイプだから、基本的には教室にいるよ。翔太郎は現実逃避で空き教室にいると思う。参考までに、教えておくね」
颯はまだ芽榴が渡していない2人の居場所について軽く口にする。教えてと言ったわけではないのに、的確に芽榴の知りたいことを教えてくれるところはさすがと言うべきだろう。芽榴は感嘆しつつ、笑顔を見せた。
「助かる。ありがとー」
「こちらこそ、美味しいチョコをありがとう。おかげで今日一日乗り切れるよ」
そう言って颯は芽榴の頭を優しく撫でる。そうして教室から出て行こうとする颯に、意を決したF組の女子2人がチョコを渡しに向かった。
その2人に対しても颯は爽やかな笑顔でチョコを受け取っていた。
「はぁ……『おかげで今日一日乗り切れる』か。あんな台詞が言えないものかしら」
芽榴の前で舞子は盛大な溜息を吐きながら呟く。もちろん隣にいる猿男子に向けて放った言葉だ。しかしそれを聞いていた猿男子こと滝本はその言葉に溜息で返す。
「冷静に考えろよ。俺がそんなこと言ったらお前どうせ『キモい』とか言うだろ」
「そうねぇ。やっぱりかっこいい台詞は人を選ぶわよねぇ」
滝本の意見を舞子はすんなり肯定する。少しは否定してほしかったらしい滝本は遠い目をして笑っていた。
「問題はやっぱり……蓮月くんか」
――一番あげたいと思っていた相手こそ、一番あげるのに苦労することになりそうだ。
そんなふうに、芽榴は無意識に考えていた。