土曜日の朝、芽榴はバレンタインの買い出しに出ていた。
食品売り場で板チョコや生クリームを買って、バレンタインフェアをやっている売り場の前でラッピング類を選ぶ。
周囲で楽しそうな女子の声が聞こえる中、芽榴は浮かない顔をしていた。
「……あげて、いいのかな」
ずっと、そのことを考えている。来羅は欲しいと言ってくれているし、芽榴自身もあげたいと思う。それならなんの問題もない。
そのはずなのに、芽榴はため息を吐きながら、不毛なことを考えていた。
今の芽榴が来羅をどういうふうに見ているのか。それを知ったらきっと、来羅は芽榴のことも軽蔑する。
そしたら他の女の子と同じように、芽榴のチョコはもらってくれないだろう。
芽榴が今も以前と同じ芽榴だと、来羅が勘違いしたままでいてくれたら、もらってくれる。勘違いしたままでいてほしい。来羅によく思われていたい。芽榴はそう思うけれど、それはずるい考えだ。
「……はぁ」
何度目か分からないため息を吐いて、芽榴はラッピング用のリボンや箱を手に取る。
すると、少し離れた別の売り場から、女子の黄色い声が聞こえてきた。
熱気すら感じるその声を、芽榴は他人事と思えない。手にしている商品を早々と購入して、売り場から出て行く。
すでにその声が気になった女性客が何人も、歓声のほうへと向かっていた。
芽榴も同じように、歓声のするほうへ足を向ける。すると歓声の中心となる人物がこちらの売り場へと向かってきていた。
「……あ」
もし自分の知り合いなら彼だろう、と芽榴は予想しながら売り場を出た。そしてその予想はちゃんと当たっていたのだが、芽榴の想像していた姿とは違った。
修学旅行で会ったときぶりに見る簑原慎の姿は、とても落ち着いていた。
「……っと、よぉ、楠原ちゃん」
スマホをいじりながら歩いていた慎が顔を上げる。そして芽榴のことを見つけると、彼は両手をパーカーのポケットに突っ込んで挨拶をしてきた。
「簑原さん……」
芽榴はあえて「どうしいてここにいるのか」とは聞かない。芽榴のよく来るデパートやスーパーに彼が顔を出すとして、理由は『芽榴を捕獲しに来た』以外考えられない。あえて聞くべきなのは、毎回どうして芽榴の居場所を突き止めているのか、ということだが、誤魔化されることは分かっているため芽榴は聞くことをやめた。
「何のご用ですかー」
「ははっ。俺が楠原ちゃんに用があって来たって分かったんだ? 違ったらすっげー恥ずかしいけどな」
「違うんですか」
「いいや、違わねぇよ。やっと学習したかと思って。えらいえらい」
小馬鹿にするように笑って慎が言う。芽榴が半目になると、余計に慎は楽し気にケラケラと笑い始める。
「で、何のご用ですかー?」
「はいはい。じゃあまず、買い物は終わった?」
「……まあ」
「ちょータイミングいいな、俺。で、今から暇?」
「暇じゃありません」
「なんで?」
即座に返されて、芽榴は言葉を詰まらせる。普通はここで引き下がってくれるものだろう。けれど慎が普通の男子でないことは、今始まった話ではない。
芽榴はため息を吐きながら、慎に買い物袋を掲げてみせた。
「今から、バレンタインの準備するんです」
「バレンタインは月曜日なのに?」
「明日、東條グループに行くので社長に渡す分をー」
「あっそ。ちなみに聞くけど、聖夜に渡す予定は?」
慎ににっこり笑顔で尋ねられる。その瞬間、芽榴は慎に肩を掴まれた。首を横に振れば、きっと肩を潰される。そんな予感を覚えながら、芽榴は「ありますよ」と頷いた。ちょうど月曜日の放課後、ラ・ファウストに訪問しようか、などと考えていたところだった。
「んじゃあ、問題なし。むしろ、場を設けようとしてる俺に感謝してくれねぇかな?」
「いったい何の話をしているのか、まったく分からないんですけど」
「とりあえず今から、ラ・ファウストに行く」
「は?」
芽榴の反応を無視して、慎は芽榴から買い物袋を取り上げて歩き始める。けれどその慎の腕を芽榴は掴んだ。
「なんでラ・ファウストなんですか? 今から私は……」
「お菓子作り、するんだろ? 俺もするから。一緒にしようぜ?」
唖然とする芽榴の顔を見て、慎はまたケラケラと笑っている。苛立つ笑い方なのだが、もはや芽榴には意味が分からなすぎて文句の言いようがない。
「ああ、それとも何? ラ・ファウストじゃなくて俺の家でお菓子作りがしたいわけ?」
「違います。けど、なんで簑原さんがお菓子作りなんて……」
慎はどちらとも言わず、このイベントに関してお菓子をもらう側の人間だ。何のために、という芽榴の疑問を分かっていながら慎は答えを教えてくれない。
「とりあえずついてこいよ。向かいながら事情は説明してやるから」
そう言って慎は芽榴の買い物袋を人質に、歩き始める。ハートマークを飛ばす女の子たちに手を振る慎を追いかけて、芽榴は小走りした。
「……にしても、えらく短い前髪だな」
隣に並んだ芽榴を見下ろして、慎が呟く。
来羅に切ってもらった前髪だ。そのことを意識して、芽榴は頬を染めながら前髪を押さえた。
「き、切りすぎたんです」
「だっせーの」
バカにされて芽榴がムッと眉を寄せると、慎はやっぱりケラケラ笑った。
「たまにはいいんじゃねーの。悪くない」
そんなふうに言って、慎はさっさと先を行く。慎の珍しく優しい反応に、芽榴はきょとん顔を返した。
「ほら、行くぞ」
そんな声かけを聞いて、芽榴はぎこちない返事をしながら彼の隣を歩いた。
約束どおり、ラ・ファウストに向かう道のりで、慎は芽榴にお菓子作りをする経緯を話してくれた。しかし、理由を聞いた芽榴は目をパチパチと瞬いて信じられないものを見るような目で慎を見つめた。
「あんたさぁ、今すっげぇ失礼な顔してるって分かってる?」
「簑原さんにしてはすごく人間らしい考えなので驚いてるんです」
「はぁ~? いつもだろ、そんなの」
慎は「心外」などと言って、何が楽しいのかケラケラと笑っている。
簑原慎とはこういうふうに人をからかって楽しむ人間だ。そんな彼がお菓子を作る理由――それが、自らの主人である琴蔵聖夜に「いつもお疲れさま」という意味を込めて友チョコなるものを渡そうという趣旨と聞けば、芽榴が驚くのも当然だ。
「さすがの俺も、お菓子作りとかしたことねぇし? あんたと作ったほうがいいと思ったわけ。どうせあんたも聖夜にあげる予定なら、お互い良いことだらけだろ?」
「そーですね。一緒にお菓子作りをするのがあなたという点以外は」
「なに、その言い方。一緒にお菓子作りしたいやつでもいんの?」
慎は茶化す調子のまま聞いてくる。「あなた以外なら誰でも」という芽榴の返しを期待していた慎だが、芽榴が彼に返した反応はまったく別ものだった。
「い、いないですよ。別に」
芽榴は一瞬浮かんだ顔を振り払うように、首を横に振る。その様子を、慎は目を細めて見つめてきた。
「……今、誰の顔が思い浮かんだわけ」
「別に、誰も」
「へぇ」
慎は探るような視線を芽榴に向ける。
そうこうしているうちに、ラ・ファウスト学園についていた。休日に学園にやってきた慎に対して警備の人も戸惑いを見せたが、慎がここぞとばかりに「簑原家」の名前を出すと、あっさり門を通してくれた。
「……簑原さんが家の名前使うなんて珍しいですね」
「まぁな。今はちゃんと簑原家の人間だから、使い放題だし」
学園に着くと、慎はパーカーのポケットから予め用意していたらしい鍵を取り出して、指でくるくると回し始めた。
そうして目的の場所、ラ・ファウスト学園の家庭科室までやってきて、その部屋の鍵を開けた。
「う、わぁ……広い」
ラ・ファウストにはかつて数日ほど通っていた芽榴だが、家庭科室に入るのはこれが初めてだ。
麗龍の家庭科室と比べても、規模が大きく違う。
「娯楽で料理する生徒もほとんどいねぇのに、立派なもんだろ?」
無駄に広く設備のいい空間を眺め、ケラケラ笑いながら慎が芽榴を見下ろした。
芽榴は室内に入り、棚をいくつかあけて道具を確認する。新品同様の調理器具が種類豊富に用意されていた。
「さて、と……」
慎は冷蔵庫のほうへ向かい、その中からいろいろな材料を取り出し始めた。
「それ、賞味期限大丈夫なんですか?」
「当たり前だろ? 昨日俺が買ってきて、突っ込んでおいたやつなんだから」
もともと学園に準備されていたものだと思っていた芽榴は微かに驚く。わざわざ材料を自分で買いに行ったところからして、慎はやる気満々だ。
「何作る予定なんですか?」
芽榴は慎の取り出した材料を見つめながら、尋ねる。材料である程度予想しながら問いかけると、慎がスマホをいじった。
「トリュフ。うまいやつ、俺も食べたいから」
確実にそれが本音だろう。聖夜にあげるのは建前な気がして、芽榴は目を細めた。けれど建前でもそういう考えが浮かんだだけ、マシなのかもしれない。そんなふうに思いながら芽榴は頷いた。
「まー、トリュフならそんなに難しくないですし。すぐにできますよ。でも……」
「……でも?」
慎が聖夜の分と自分で食べる分を作ったとしても、材料が少し多い気がした。
けれどもしものときに多く買っただけか、などと思いつつ、芽榴は首を横に振った。
「いいえ。でも、私は教えるだけですからね?」
「もちろん。じゃあちゃんと教えてくれよ? センセ」
そう言って慎は羽織っていたパーカーを脱ぎ、緩い上衣を袖まくりした。
その隣で、芽榴も動きやすいように温かいパーカーを脱いで、Tシャツの袖をあげる。
とりあえず今日慎と一緒に聖夜に渡す分と、明日東條に渡す分を作ることにして、3人分の材料を取り出す。
残った材料を見て、芽榴はやはり表情を曇らせた。
「どうした? なんか買い忘れた?」
「……いえ」
芽榴は残りの材料をラ・ファウストの冷蔵庫に押し込む。そして慎の隣に並んでお湯を沸かし始めた。
「何作ろうかなって思って……」
「決めてるから材料買ったんじゃねぇの?」
その通りだ。正確な指摘を受けて芽榴は押し黙る。
「楠原ちゃ……」
「チョコ、刻みましょーか」
芽榴は慎にこれ以上詮索されないように、にっこり笑ってチョコの銀紙をはがし始めた。
何を作るかは決めている。
あげていいのか、なんて偽善者ぶって考えていても、ちゃんと役員全員にあげる分の材料を買っていた。
そんな自分が滑稽で、芽榴はチョコを刻む手に力を入れた。