生徒のいない閑静な学院の廊下を歩く。

 その足取りは見るからに重く、疲れが感じられた。

 レイスは足を引きずるようにして歩きながら、大きくため息をつく。

「もうあと向こう数年は話したくないな……胃に穴が開きそうだ」

 げんなりとした表情で力強く言い切るレイス。その原因は言葉にするまでもないだろう。先導するセスは後ろをとぼとぼと歩くレイスを見て、肩を竦め、嘆息する。

「大げさだなぁ」

「いや、あのずっと笑ってるのとか絶対にやめた方がいいって。圧がすごいから。今度セスから言っておいてくれ」

「どうして僕がそんなことを……」

 レイスにつられるようにため息をこぼし、セスは歩く速度を少し速める。自然、だらだらと歩くレイスも速度を上げざるを得なかった。

「そういえば、結局ヘルガーって人はどんな人なんだ?」

 はぐらかされてしまい、明瞭な答えが得られていない問いを今度はセスへぶつける。セスは足を進めながら、悩ましげに唸りを上げた。

「……別に悪い人ではないよ」

 しばらく悩んだ末にセスが絞り出した答えがそれだった。なんとも頼りない答えに、レイスの視線も白々しいものになる。

「それは良い情報ダナー」

 ハハハとわざとらしく笑ってみせる。完全な煽りだ。

 セスは口端をピクリと震わせ、無理な笑顔を浮かべる。顔は笑っているが、怒気が混じっていることは容易に察せられた。

「実際に会えばすぐ分かるだろ。さあさあ、早く行こうか」

 セスはイイ笑顔を浮かべながらどんどん加速していく。さすがに走ることはしないが、早歩きをするくらいには怒りを感じているようだ。

「まあそう怒るなって」

「怒ってない」

「俺が悪かったから」

「怒ってない」

 やれやれ仕方ないな、みたいな雰囲気を漂わせてセスの肩に手を置くレイス。もちろん、かける言葉は発したそばから一蹴される。これみよがしに悟ったような表情をしている人間の言葉を聞く人間がどこにいるのだろうか。

 セスは声を大にして叫びたい気分だった。

「でも、セスおこ」

「怒ってない」

「えっちょっまっ……」

 今までで一番強くそう言い切ったセスは、早歩きの限界の速度を発揮し、ヘルガーのもとまで急いだ。

 ***

「おお」

 セスに案内され、たどり着いた部屋を見たレイスの第一声はそれだった。純粋な驚きと、感嘆が含まれた声。

 キチンと整頓された研究室、と形容するのが一番な部屋だった。この部屋を管理しているであろうヘルガーという人物の性格がよく分かる。

 錬金術のための数々の道具や素材が部屋の至る所に置かれている。さすが魔法学院と言うべきか、やはり設備への投資は惜しまないらしい。

 工房を持っていない頃のレイスならば、目を輝かせて羨ましがっただろう。

「なんか、思ったよりマトモそうな人だな」

 もっととんでもない部屋が待っているのかと戦々恐々としていたレイスは、思わずそう呟いた。

「お前はどんな人を想像してたんだ」

「じゃあ、意味深な反応するのはやめろ。俺が怖い」

「いや、それは……まあ、いいか」

 セスは口にするのが面倒とでも言いたげに言葉を止める。そして、不思議そうにキョロキョロと室内を見渡した。

「いつもここにいるんだけど……」

「いないな」

 肝心の部屋の主が不在だった。部屋に入る前にノックをして、返答がない時点で分かっていたことではあったのだが。

「僕たちが来ることは知ってるはずだけどね」

「じゃあ待っとくか」

 ヘルガーに話は通っているはずなので、学院にいないということはない。ヘルガーが来るまでの間、手持ち無沙汰になったレイスは室内を見て回る。錬金術師としては、同じ錬金術師の工房は気になるというものだ。それも、学院に務めるほどの才の持ち主。気にならないはずがない。

 薬草や鉱物、魔道具にポーション。整然と並べられたそれらを、鑑賞物のようにしげしげと眺めていく。すると、一つのものが目に留まった。

「何だこれ」

 見た目には黒い石にしか見えないが、ただの石ではないことは感覚的に分かった。レイスがこれまで出会ってきたもので例えると、魔石に似た雰囲気を持っている。好奇心から自然と手を伸ばし――

「誰じゃお前らは!」

 険のある声が室内に響き、レイスは思わず伸ばしかけた手を慌てて引っ込めた。パッと扉の方へ視線を投げると、そこには怒りに表情を歪めた一人の老人がいた。重ねた年を感じさせる真っ白な短髪に、皺が深く刻まれた顔。しかし、身にまとっている雰囲気は決して衰えを感じさせず、その佇まいからは威圧感さえ感じられた。

 老人は身に着けた白衣を揺らして、ずんずんと部屋の中へ足を踏み入れる。そして、セスの顔を視界に入れて、ふと足を止めた。

「む、確かリンフォールドの……」

 鋭かった視線がわずかに和らぐ。セスは微かに笑い、深々と頭を下げた。

「お久しぶりです、ヘルガー先生」

「ああ、覚えておるよ。特に優秀であったからの」

「お褒めの言葉、ありがとうございます」

 ヘルガーの言葉に嫌味な響きはなく、かつての生徒を純粋に賞賛していた。柔和な表情からもそれは察せられ、生徒思いの教師にしか見えない。

 会えば分かると半ば脅しのように言われていたレイスとしては、あまりに普通で良い人過ぎて困惑していた。セスがヘルガーの名前を聞いて微妙な表情をしていた理由が分からない。

 ヘルガーは扉近くに立っていたセスから離れ、奥で突っ立っているレイスの前へ。顎に手を当てて眉間に皺を寄せ、ジロジロと無遠慮にレイスの顔を眺める。

 ヘルガーはそのままくまなくレイスの全身の観察をする。

「あ、の……」

 鬼気迫る様子に言葉を発せずにいたレイスは、思い出したように声を絞り出す。ただ、レイスの声が聞こえていないのか、ヘルガーの観察は止まらず。しばらくそうしたあと、ぽつりと一言。

「聞いていた通り若いの」

 その言葉は返事を求めているようなものではなかったので、レイスとしても反応に困った。大して知りもしない相手にこうも無遠慮に眺められると、どうしても居心地の悪さを覚えるというものだ。

「話は聞いとるよ。臨時の教員じゃろう」

 ようやく話ができそうだと、ホッと一息つく。そして、自己紹介のためにも口を開こうとして――

「名はレイス、だったか。個人的にも興味はあった。突如王都に現れ、瞬く間に名を広げた錬金術師。その実力は若くしてエリクサーを作れるほど高く、命を救われた冒険者もいた……目立つ噂はこんなものじゃったか。ああ、あのルリメスと知己の間柄という話もあったの」

 先んじてまくし立てられ、レイスはポカンと口を半開きにする。完全にヘルガーのペースに呑まれていた。何を喋ろうとしていたのかも忘れ、立ち尽くす。

「とはいえ、じゃ。儂はこの目で実力を確認するまで認めはせんぞ。あまり自信過剰になってもらっても困るしの」

 レイスはジロリと睨めつけるような視線を受け、たじろぐ。言葉を出せずにいるレイスを見たヘルガーはフンッと鼻を鳴らすと、開け放たれたままの扉から廊下へと出る。

 何か気に障ることをしただろうか。辛うじて浮かび上がった思考の答えは出ない。

 嵐のようなヘルガーの振る舞いに、思わずレイスはゆっくりとセスの顔を見た。ニコリとウィルスと同じように笑ってみせるセスは、出会ってから一番憎たらしく思えた。

 ――ああ確かに、一筋縄じゃいかなさそうだ。

 マトモで優しい人かもしれないという淡い期待は既に打ち砕かれ、胸中はすでに不安でいっぱいだった。果たして、ここでやっていけるのだろうか。

「何をしておるんじゃ、着いてこい!」

 怒りの声が廊下から響き、レイスは今日何度目かも分からないため息をこぼした。