生前慣れ親しんだ名前を口にすると、わたしの名前な筈なのに、妙な違和感しかなくて泣きそうになった。

 でも、私はわたしだから、結局何も変わらない、そう自分に言い聞かせるみたいに何度も思う。

 この身体は賢人という存在になってしまったから、きっと容姿を変える事も出来る筈だ。

 だけど今それをしてしまうのは、アルフレードさんの心を余計に傷付けてしまうだろうと思ったから、止めた。

 彼はきっとオーギュストさんの身体に入ってしまった、わたし自身の言葉が聞きたいだろうから。

 そんな中アルフレードさんはと言えば、その聞き慣れない響きに戸惑ったような様子で此方を見ていた。

 「タカダヨーコ、...さまですか」

 「...苗字が高田で、名前が陽子」

 簡単に説明すれば、彼は納得したように頷く。

 生まれ育った世界が違うから分からない、という訳じゃ無いんだろう。

 何となくだけど、そんな気がした。

 「では...タカダさま、あなたが一体どのような方か、お聞きしても?」

 「...わたしは来年で24になる、女優になりたかった女で、なれなかった女」

 説明している中で、喉から出る低い声に、この口調が似合わなくて苛立つ。

 だけどそれでも、言わなきゃいけないから、わたしはわたしとして、話さなきゃいけないから、我慢。

 引きつってしまいそうな喉にぐっと力を入れて、目の前の彼を見据えた。

 アルフレードさんは、確かめるように口を開く。

 「...待って下さい、女性の方、ですか?」

 「そう」

 端的に肯定して、アルフレードさんが何かを言う前に畳み掛けた。

 「だからわたしはずっと言えなかった」

 その言葉で、アルフレードさんの表情が一変する。

 それは驚愕と、それから罪悪感と憤り、そういった類の何かだったのだろう。

 ハッとしたように目を見開いて、彼はわたしを凝視した。

 ぐっと胃の辺りが押し上げられるようなストレスの中、わたしは、真実を口にする為に息を吸う。

 「目覚めてからこれまでずっと、オーギュストさんの記憶を元に、オーギュストさんとして生きていた」

 それは、誰にも言えない、言っちゃいけない筈の事だった。

 だけどこの人にはちゃんと言わなきゃならないから、何もかも捨てる覚悟で、そう言った。

 じっとアルフレードさんを見詰めると、彼は額に手を当てて天井を仰ぎ見る。

 「なんという、ことだ」

 ぽつりと呟かれたそれは、普段とは掛け離れた凄く苦しそうなものだった。

 嘆きというか、なんだか複雑そうなそれは、本人じゃないわたしには真意が分からない。

 だけど彼の声で感じられたのは、上記の二つだけだった。

 多分これは錯覚なんだろうけど、なんだか喉が乾いたような気がしたから、アルフレードさんの用意してくれた紅茶のカップをもう一度手に取って、口に含む。

 なお、この紅茶。

 いつソーサーに戻したのかというと、ちょうどアルフレードさんの頭を撫でた時だったりするらしい。

 しかもずっとソーサーに乗せて左手に持ったまま、アルフレードさんの頭撫でたりしてたらしい事が記憶の片隅にあって、スペックの凄さに辟易する。

 そんな事を考えていると、何故か若干の余裕が出てくるのだから不思議だ。

 鼻から息を吸うと、紅茶のいい匂いが鼻腔を抜けていった。

 ......うん、よし、大丈夫。いつものわたしだ。

 いつまでもここで突っ立ってる訳にもいかないから、ちゃんと話し合わなくちゃ。

 自分で自分を奮い立たせて、ついでに持っているソーサーにカップを置きながら、アルフレードさんを見た。

 彼は暫くの沈黙の後、額に当てていた手を降ろしてから、確かめるように此方を見て、静かに口を開く。

 「......では、旦那様は」

 少し掠れた声でのそれはどこか断定的なものだったから、きっと全てを理解した上での問いなんだろう。

 だけどそれでもなお、彼はわたしの言葉を必要としている。

 アルフレードさんから視線を外すことなく、わたしは言った。

 「...オーギュストさんは、世界を恨んで憎んで、ジュリアさんの所に行きたくて、何もかも投げ出して、毒で死んだ」

 演技の無い、わたしの言葉。

 口調に違和感しかないけれど、それしか無いと思ったから、迷いなく事実だけを語る。

 「わたしは、神の手違いで殺された、でも、生きたかった。

 だからわたしは、ここにいる」

 それは嘘偽りの無い、わたしの真実。

 誰の為かと言うと全部自分の為だけど、ただの自己満足だとしても、それでもこれは言わなければならない事だから、だからわたしは、ただ事実のみを告げる。

 ふと、アルフレードさんが悲しげに呟いた。

 「......旦那様は、もう、いらっしゃらないのですね」

 辛そうに顔を歪めながら、何故か微かに笑っているアルフレードさんが痛々しくて、こっちまで辛くなりそうだ。

 「大丈夫、今頃きっと彼は、ジュリアさんと笑ってる」

 根拠の無い言葉だけど、そんな気がするから、きっとそうだ。

 オーギュストさんの、この身体のスペックは凄いから、きっとこの勘に間違いは無い。

 「............そう、ですね、旦那様は、わたくし達よりも奥様の方が大事な方でしたし、仕方ありません」

 申し訳なさそうに、アルフレードさんが俯く。

 それから、今にも泣きそうな声が聞こえて来た。

 「それでも、どうして、何も相談して下さらなかったのですか、旦那様...!」

 それは彼の、心の底からの嘆きだったのだろう。

 あの時ああしていれば何か違ったのではないか、こうしていれば運命は変わったかもしれないのに、そういう、今更どうしようもない後悔。

 わたしも同じだから、気持ちはとても、よく分かる。

 「......それは、オーギュストさんが弱い人で、だからこそ、言えなかったこと」

 「...わたくしは、信用に値(あたい)しなかったのでしょうか」

 「それは違う」

 呆然と呟くようなアルフレードさんの言葉に、わたしは彼を見据えながらキッパリと断言した。

 「オーギュストさんにとってジュリアさんは世界で、太陽だったけど、あなたは心の支えだった」

 記憶を探らなくても分かる、アルフレードさんに対する絶対的な信頼感。

 それは、オーギュストさんがずっとアルフレードさんを大事に思っていた証拠だ。

 「オーギュストさんは怖がりだから、知られて、嫌われるのが怖かった。

 だから、いつか嫌われてしまう事が嫌で、そのくらいならいっそ」

 一呼吸、または、一拍置いて、わたしはまた口を開く。

 「自分から全てを壊してしまおうとした」

 だからこそ、彼は全てを捨てた。

 いつか自分の手をすり抜けて全部壊れてしまうのなら、いっそ、何もかも全てを自分の手で。

 その感情は、何故か理解出来てしまった。

 きっと、身体に感情が染み付いてしまっているんだろうと思う。

 苦しくて悲しくて、物凄く辛かったんだろう。

 ばかだなぁ、とは思うけど、でも、それと同じだけ悲しい。

 「そんな...!あぁ、旦那様...!!」

 アルフレードさんが、両手で顔を覆いながら嘆く。

 小さく肩が震えているから、きっと泣いているんだろう。

 呼吸も、今まで演技で学んだ泣いている人のそれだから、間違いはなさそうだ。

 だからわたしは、そっとアルフレードさんの背中を撫でる。

 小さな頃、お母さんにして貰ったみたいにゆっくり。

 どれくらいそうしていたのか分からないけど、ふと、アルフレードさんが顔を上げた。

 「......あなたは何故、旦那様として生きようと思ったのですか」

 「知ってしまった以外に、深い理由は無いよ」

 生きたいと思ってしまった。

 知ってしまった。

 それ以外の理由なんて何も無い。

 むしろ、理由が必要だとも思えなかった。

 「わたしは、オーギュストさんの身体に入ってしまった。

 それは紛れもない事実で、変える事も出来ないどうしようもない事。

 世界に生まれてしまった人間が、人生で起きる出来事を予知出来ないのと同じ」

 だから、わたしは私として、生きなきゃならなかった。

 死んでしまった後悔は無駄にあるけど、今、オーギュストさんとして生きている事に対する後悔は、無い。

 「そう、ですか」

 呟かれたアルフレードさんの声は、少し掠れていて、それなのに、何故か彼は眩しそうに目を細めて、わたしを見ていた。

 「...一つだけ安心して欲しいのは、わたしの目的がオーギュストさんの無念を晴らす事ということ」

 「無念、ですか?」

 後付けするように告げたら、アルフレードさんが不思議そうな様子で、反芻するみたいな問いを返してくる。

 だからわたしは、今日知ってしまったそれを、彼にも共有するべきだと判断した。

 「ジュリアさんが死ぬ原因になった枯木病は、隣国の工作員によるテロだった」

 「......てろ、?」

 「大規模な無差別大量殺人の事だよ」

 「な......!?」

 目を見開いて驚いた後、アルフレードさんが真剣な表情をして、居住まいを正す。

 その様子を視界に入れたままもう一度紅茶のカップを手に取り、口に含んで口の中を湿らせてから、わたしはまた口を開いた。

 「戦時中の隣国が、この国の力を削ぐ為にやった事で、ジュリアさんはそれに巻き込まれただけ」

 「それは、...どういう事なのか、お教え頂けますか」

 「分かった」

 掻い摘んで、経緯を説明する。

 あの病気が呪いで、どうやって感染し、広がっていったのか。

 隣国の目的と、今、その呪いがどうなっているのか。

 水の精霊王さんの情報だから信頼出来るものだと前置きしつつ、一通りの説明を終えると、アルフレードさんの顔面が物凄い事になっていた。

 今まで見た事のない程、怒りに満ちたそれは酷く苦しそうで、それから、悲しそうだった。

 「ふざけている...!あの病で、一体どれだけの犠牲が出たと...!!」

 わたしが感じた憤りと悲しみと、どうしようもないやるせなさが、わたしと同じかそれ以上に、表情から伝わってくるようだった。

 手袋をしているのに、ぎゅり、という音が聞こえてくる程に握り締められた拳から、微かに鉄錆のような匂いがする。

 もしかして、怪我でもしているのか。

 そう思った次の瞬間、アルフレードさんが天井を仰ぎ見た。

 「シンザ!居ますね!」

 「はいはいーっと、話は聞かせて貰ったよー」

 かと思えば怖い顔で隠密さんを、シンザさんを呼んで、そして、なんの気負いも無く呼ばれたシンザさんが天井から降りてきた。

 「.........」

 驚いて少し声を漏らしてしまいそうになったけど、振り返ってみると確かに、シンザさんの気配がずっと近くにあったという事に今更気付く。

 確かに今までそれどころじゃなかったけど、ずっと居たのにツッコミすら入れずに誰かが呼ぶまで待ってたとかどういう事なの。

 かといって、言及する事も出来そうな雰囲気じゃない。

 「隣国の上層部、出来る限りで構いません、調査をお願いします」

 「あんたが命令しなくてもやるよ、旦那サマのご意向なんだろ?」

 「わたしは、あなたの知る旦那様ではないけど、いいの?」

 灰銀色した感情の見えない瞳が、わたしを見る。

 怖いとか、なにか他の感情が湧く前に、その瞳は柔和に細められた。

 「んー、俺としちゃあ知り合った時から旦那サマは旦那サマなんで、中身が違うって言われても特に何もないのが正直な所かな」

 軽く、そして、なんでもない事のようにサラッと告げられたそれは、わたしの心にすとんと落ちていく。

 「ま、普通に中身が女の子ってのにめっちゃビックリはしたけどそれだけだし、俺の事はそんなに気にしなくて良いよー」

 あっけらかんというか、拍子抜けしてしまいそうな軽さで、彼は笑う。

 「どうせこれから長い付き合いになるんだし、早い目に知れたから逆に良かったんじゃない?ねー執事サン」

 「......そう、ですね」

 同意を求めるように視線をアルフレードさんへ向けるシンザさんに、釣られるようにアルフレードさんを見る。

 すると、彼は優しい顔で、わたしを見ていた。

 「あなたは、旦那様では無い。

 ですが、それはあなたを否定していい理由にはなりません。

 本当に、申し訳ございませんでした」

 「......わたしは、これからもオーギュストさんを演じるけど、いいの?」

 「それがあなたの望みなのでしたら、お止めしません。

 ですが、もし可能でしたら、時々で構いません、少しずつあなたの事を教えて下さいませんか」

 あなた達がそれでいいんなら、わたしは構わないよ、そう言おうとしたけど、それは言葉になりそうに無かった。

 視界が滲んで、頬を何かが伝う。

 何かっていうか、十中八九涙なんだろうけど、それを考える余裕もなく涙が溢れて止まらない。

 2人が慌てているような気配がしたけど、なんかもうそれどころじゃ無くて、わたしは久しぶりに、誰かの前で思いっ切り泣けたのだった。