浮遊島フロートライズ。

そのど真ん中から空に向かって伸びる巨大な塔、それがここの遺跡(レリクス)――〝ルナティック・バベル〟だ。

古代文明の遺産であるこの塔は、その名の通り月に向かってその身を伸ばしている。

聞いた話によるとこの塔は、空に浮かぶ巨大な天体である月――その地表にまで届いているという。

勿論、嘘か本当かはわからないけれど。

他にも、実際は月までは届いてなくて軌道エレベーター兼宇宙港だったのだ――とか。実は月は関係なく、頂上まで行くと別の世界につながっていて、そこは永遠の幸せが約束された極楽浄土なのだ――とか。

諸説色々ある。けれど結局、本当のところは誰にもわからない。

遠い昔、僕らのご先祖様達がこの塔のセキュリティシステムを起動させ、その後の『終末戦争』で全ての情報を文明ごと喪失してしまって以来、真実を知る人はどこにもいないのだ。

別段、珍しいことでもない。

こういう遺跡は、世界中の至るところに点在している。

僕がこの間までいたキアティック・ギャバンだってその一つだ。他にも、クリスタル・ホール、チョコレート・マウンテン、ドラゴン・フォレストなどなど――この遺産世界には、数多の謎が満ち満ちている。

だから、僕達エクスプローラーは探検(エクスプロール)するのだ。

まだ見ぬ、誰も知らない、世界の真実を手にするために。

この世界の秘密を曝くために。

……なんちゃって。

「というわけで、ここがルナティック・バベルだよ」

ハムと一緒に浮遊都市フロートライズの中心部へやって来た僕は、右手で天高くそびえる塔を指差した。

「ふむ、やはりコレじゃったか。一番目立っておるからすぐにわかったぞ」

灰色の外套で頭から爪先まですっぽり隠しているハムは、フードの作る陰の中から顎を上げて、ルナティック・バベルを仰ぎ見る。

『カモシカの美脚亭』を出る際に並んで立ってみてわかったけど、ハムはかなり小柄だ。一六〇セントルの僕よりも、多分三〇セントルぐらい小さい。やはりというか何というか、今年で一六歳になる僕よりも大分若いのではなかろうか。

多分、一〇歳前後かな? その年齢でエクスプローラーを目指すのは、少し早いような気もする。けれどさっきも言ったとおり、事情は人それぞれだ。余計な詮索はやめておこうと思う。

雲一つ無い――まぁ基本的にフロートライズは雲よりも高い位置を飛んでいるからなのだけど――蒼穹に、巨大な建造物であるルナティック・バベルが吸い込まれるように伸びていた。一体何キロトル先にあるのかわからない先端は見えるわけもなく、青空の消失点の彼方である。

「でかいのう……」

空を見上げながらぼそっと呟くハムに、僕も同じ体勢で同意する。

「だねぇ……」

近くまで来て、この圧倒的な姿を見る度に思う。

この浮遊島から、ルナティック・バベルが月まで伸びているのか。はたまた、この浮遊島の方こそが月から伸びたルナティック・バベルに吊られているのか――と。それぐらい途方もない塔なのだ、これは。

なにせルナティック・バベルの直径は約一キロトル。なので、一フロアの面積は約〇・七五平方キロトル。構成物質は現代では再現不可能な『柔らかくて強い金属』で、これはいかなる歪みも衝撃も吸収してしまうトンデモ鉱物なのだ。その性質や構成などの調査は進んでいるのだけど、どうやったら同じ物が精製できるのかが未だにわからないらしい。

古代人の叡智の結晶とも言える、長大過ぎる塔。これがもし本当に、空に浮かぶ月へ繋がっているのだとしたら、どうして昔の人はこんな物を作ったのだろうか? 現代を生きる僕からすれば、月へ行くためだけにこんな巨大な物を作るというのは、全くもって理解の範疇外だ。

と、塔を見上げて考え事をしていたら、

「のう、おぬしよ。アレは一体何じゃ?」

「アレ?」

ハムに質問されたので、彼女の指先が示す方へ目を向ける。

そこには、ルナティック・バベルに向かって跪き、頭を垂れる集団がいた。百人位の老若男女が揃って、口々に何やら呪文のようなものを唱えている。

「ああ、アレね」

僕は得心する。確かに僕も、初めて見た時は何事かと思ったものだ。

「アレは、この土地特有の宗教団体の人達だよ。詳しいことはよくわからないけど、とにかくこのルナティック・バベルを神様として崇拝しているみたい」

「神……? この建物が、か?」

その発想はなかった、という風に少し驚いているようなハムの声。フードの中の蒼と金がぱちくりする。

「別に珍しいことじゃないよ? 大体の遺跡には付き物なんだ。古代人の文明、もしくは古代人そのものを神聖視していたりする団体もあるし。そういう場合、遺跡は神様の偶像として拝むことが多いみたい」

「ふむ……」

「あと、地域によっては『現人神』って言って、生きている人間を神様として崇めるところもあるんだよ」

僕がそんな雑学を披露したところ、ハムはぼそりと、

「……人は、神になどなれぬ……」

と本当に小さい声でそう言った。多分、聞き間違いでなければ。

「……?」

僕が小首を傾げると、ハムはさっきの呟きを吹き飛ばすかのように声音を変えて、

「――して、おぬしよ。この塔へ入る前に、妾とおぬしは【スイッチ】とやらでコンビになるのであろう?」

いきなりの話題転換に、僕は慌てて頷く。

「え? あ、うん、そ、そうだね」

僕は身体に刻まれた〝SEAL(シール)〟を励起させ、虚無(ギンヌンガガップ)・プロトコルによって質量をゼロ、つまり情報量だけにしていたスイッチを具現化させた。

虚無プロトコルは、僕達エクスプローラーのように種々多様な道具を持ち歩かなければならない人種にとっては、必須の手法だ。開発者さんにはどれだけ感謝してもし足りない。

ちなみに『カモシカの美脚亭』では身につけていた武器防具も、今は虚無プロトコルで圧縮してある。あそこのように仲間を募集する場所では、みんな自分の身分なり特徴なりをわかりやすくするため、エクスプロール時の装備をきちんと身につけるというのが暗黙の了解だからだ。

「ふむ……これがスイッチか」

「そうだよ。これで、僕と君との共通プロトコルを自動作成するんだ」

さて、取り出したるは、僕のような貧乏人でも何とか購入できるコンビ用のスイッチ。大きさはコインぐらいで、とっても軽い。白い楕円形に、青く光るラインが走っている。そんな形のスイッチを右掌に載せたままハムに見せて、

「じゃあ、これに触れてみて」

と、見本として僕から先にスイッチに人差し指を触れさせる。

「うむ。こうじゃな」

ハムは頷くと、外套の中から小さな手を出して、細い指先でちょこんとスイッチに触れた。

途端、僕の視界に『結線開始(リンク・スタート)』というARメッセージが表示される。これで僕とハムの間でのみ使用できる共通プロトコルが作成され、二人の〝SEAL〟が相互接続されることとなる。共通プロトコルは互いの遺伝子情報を元に作成し、不可逆暗号化しているから、何人たりともこれを偽装することは出来ない。万全のセキュリティなのだ。

――のだけれど。

メッセージが『結線開始』のまま、次の段階の『結線中(リンケージ)』にならない。その理由はというと、

「……あれ? ハム、ポートが開いてないよ?」

「ポート?」

びっくりする僕に対して、不可思議そうに小首を傾げる外套の少女。

あー、ですよねー。初心者だもんねー。

などと頭の中で思い直して、僕は説明する。

「えっと……回復術式(アプリ)や支援術式、それ以外にも様々な情報のやりとりをする為には、互いに共用できるプロトコルが必要だって話はしたよね?」

「うむ。覚えておるぞ。そのプロトコルを自動作成するのが、そのスイッチなのじゃろう? で、大人数のパーティーの場合は、それがルーターとなる。どうじゃ?」

「うん、正解。で、ここからが重要なんだけど……じゃあ、どうしてスイッチとかルーターとかが必要なのかっていうと――僕達の〝SEAL〟はセキュリティ上、基本的に全てのポートが閉じられているんだ。だから、スイッチで共通プロトコルを作ったら、今度はそれ専用のポートを開かなくちゃいけないんだよ」

「??? しー……?」

「ああ、そういえば君の住んでいたところだと、〝刻印(タトゥー)〟って言うんだっけ。とすると……ポートは〝チャクラ〟ってことになるのかな?」

「ほう、チャクラか。なるほどのう……先程も思ったが、おぬし、やけに他国の文化について詳しいのじゃな?」

「ああ、僕、親の都合で小さい頃からあっちこっち転々としていたから」

「ふむ……納得した。では、チャクラを開くぞ。さあ、やり方を教えるのじゃ」

「あはは……」

当たり前のように言うハムに、僕は乾いた苦笑い。

もしかして、この娘はどこかの王族だったりするんだろうか?――なんて、そんな風に考えるほどハムは世間知らずで、何故か態度が尊大だった。顔は隠しているし、名前も一部を伏せていて、まるで何かから逃げているようにも……

……まさかね?

不意に嫌な予感が去来して、背筋がぞっとした。僕は慌てて頭を振ってその考えを振り払うと、ハムに向かって説明を始めた。

一ミニトもかからず無事に相互接続が完了して、僕の視界に――ハムの視界にも――『結線中(リンケージ)』というARメッセージが表示される。

これで、僕たちは晴れてコンビとなった。

「じゃ、行こうか」

「うむ」

僕たちは互いに顔を見合わせて頷き合うと、揃ってルナティック・バベルへ歩き出した。

金属製の巨大な門を潜り、塔の中へ。

出入り口を塞いでいた隔壁は、もうずっと昔にロックが解除されて、以来ここは開放されたままらしい。

偉大なる先人達に果て無き感謝を。

おかげで僕とハムは何の苦労も無く、塔の一階層へ足を踏み入れることが出来た。

「広いのぉ」

「だよねぇ。僕も初めて入ったときは吃驚したよ」

ルナティック・バベルの一階層は広い。

おそらく、かつてはロビーだったであろう空間だ。この浮遊島フロートライズへ来るときに立ち寄った空港と、雰囲気がよく似ている。天井が高く、どこから採光しているのかわからないけど、中は自然と明るい。

この塔の一階層は吹き抜け構造になっていて、そこらにある階段で二階層へ昇ることが出来る。

純白の円形フロアの中央には、巨大なエレベーターシャフト。十五台のエレベーターを内包したそれは、一〇メルトル頭上にある天井に開いた穴へ吸い込まれている。多分これが、月まで届くという軌道エレベーターなのだ。

現在、このルナティック・バベルは一九六階層までが踏破されている。そこまでならセキュリティ・ロックが解除されているので、中央のエレベーターで直行することが可能だ。

けれど、そこは言うなれば【最前線】だ。間違ってもハムみたいな初心者を連れて行く場所ではない。

なので、

「とりあえず、三階層から行ってみる?」

とハムに提案する。

下層であれば出てくるSB(セキュリティ・ボット)も弱いし、なにより実践を通じてハムに色々と教えることが出来る。それに、彼女の実力のほど――というか、どういう適性があるのかどうかもわかるだろう。

まぁ、スイッチで繋がっているのだから、ハムの〝SEAL〟にステータス確認リクエストを送るのが一番手っ取り早いのかもしれない。そうすれば〝SEAL〟が自動的に、彼女のプロフィール情報を返してくれる。けれど――今の関係でそれをするのは、流石にマナー違反だと思うのだ。

――でも、きっと! 今日たくさん色んな事を教えてあげて、今よりももっと仲良くなれば! と、友達に……!

ハムはキョロキョロと周囲を見回しながら、

「ふむ……なぁ、おぬしよ。ここのような遺跡には凶暴な怪物共がウジャウジャおると聞いたのじゃが、ここにはおらぬのか?」

「ああ、ここはね、一階層と二階層にはそういうのが降りて来られないように処置してあるんだ。だから、三階層に行ったらウジャウジャ出てくるよ」

ハムは口元で、くふ、と笑う。

「ふむ、そうか。ではおぬしの提案どおり、手始めに三階層へと赴くかのう」

どことなく嬉しそうな調子で言って、ハムは手近にある階段を目指して歩き出した。カラン、コロン、と彼女が一歩進むたび、足元から軽やかな音が鳴る。店を出てからずっとだ。外套に隠れて見えないけれど、少なくともブーツやスニーカーを履いていないことだけは確かだった。

他のクラスタやパーティーの人達と比べて、僕とハムの出発は大分遅かった。だから今、この広い空間には他のエクスプローラー達の姿は見えない。多分、ほとんどの人が百階層以上のエリアでSB退治をしているんじゃないだろうか。

だだっ広い空間の中、二人ぼっちの僕らは、ハムの足元から鳴るカラン、コロンという音と、僕のコンバットブーツの足音だけを道連れに、のんびり三階層を目指して歩くのだった。

どうやら初心者というか、駆け出しの人がハム以外にもいたらしい。

階段を登り登り、三階層の扉を開くと、なんと先客がいたのである。

しかもSBと戦闘中だ。

「――〈フレイムジャベリン〉!」

可愛らしい女の子の声が術式(アプリ)を音声起動。

見ると、五人パーティーの中の一人が、この三階層に出没するSB(セキュリティ・ボット)『レッサーウルフ』の群れに両手を向けていた。

その女の子の顔や腕などの体表には、〝SEAL〟が励起している証である幾何学的な模様――〝フォトン・ブラッド〟が真っ赤に輝いている。

刹那、その両手のすぐ先に、術式のアイコンが現れた。

赤く光るラインで描かれた、穂先に炎を灯した投槍のマーク。

「あ、大きい……」

思わず感想が口に出た。

女の子の掌の先に表示されたアイコンは、少し離れた僕からでもマークが視認出来るほど大きかった。直径一メルトル以上はある。

真紅のアイコンが本物の燃える投槍に変化するのは、ほんの一瞬だ。

彼女はそれを連発した。

「〈フレイムジャベリン〉! 〈フレイムジャベリン〉! 〈フレイムジャベリン〉!」

合計四つのアイコンが重なり合って現れ、炎の槍と化し、放たれた矢のごとくレッサーウルフの群れへ襲い掛かる。

全長約二メルトルの炎で形作られた四本の投槍が、狙い過たず見事に四体のレッサーウルフを貫いた。

『PYRRRYYYYYY!』

この塔に出没するSBは、見た目通りの鳴き声など発しない。意味不明の電子音を撒き散らすのが常だ。

女の子の撃ち出した〈フレイムジャベリン〉はレッサーウルフの耐久力を一気に奪い去り、活動停止(シャットダウン)へと追い込んだ。情報具現化プロトコルで実体化していた四体のSBは、現実に顕在化する力を失い、消滅する。

後に残るのは、SBを現界させていた核であるコンポーネント――青白く光る、情報具現化プロトコルが内蔵された小さな球体である。

レッサーウルフの魂そのものであるかのようなコンポーネントは、つかの間宙に浮いていたかと思うと、不意に己を倒した女の子の方へ吸い込まれるように飛んでいく。

そのまま彼女の胸の辺りに当たって、ぱっ、と弾けて消えた。

女の子の〝SEAL〟に吸収されたのだ。喪失技術(ロストテクノ)である具現化コンポーネントは、色々と使い道があるため、ああやって回収するのがエクスプローラーの生業の一つである。

「よし、残りは俺達で蹴散らすぞ!」

『おおっ!』

パーティーのリーダーらしき男性が号令をかけると、メンバーが応じて残存するレッサーウルフへ一斉に躍りかかった。

戦いぶりを見ていると、なかなかに連携が取れていて危なげが無い。

推察するに、他所の地域で経験を積んだパーティーが最近このルナティック・バベルへやってきて、腕試しがてら三階層で様子見をしている――という感じだろうか。

「のう、大きいとは何の事じゃ?」

隣で一緒に見ていたハムの質問。僕の先程の発言に対してのものだろう。

「ほら、あの子がさっき出したアイコン。軽く一メルトル以上はあったでしょ? アイコンの大きさって術力(アルターフォース)の大きさに比例するから、すごいなぁって思って」

「ふむ……アイコンとは、先程の紋章のことか?」

「そうそう、そう呼ぶ人もいるよね。術式の発動時には必ず、大なり小なり出るものなんだよ」

はて? ハムがアイコンのことを知らないってことは、術式を使ったことがないのかな?

「そうか……妾はてっきり胸の話かと思ったぞ」

「――うえっ!?」

いきなり想定外の事を言われたので思わず声がひっくり返ってしまった。

言われて見直してみれば、確かにさっきの女の子、結構な豊乳だった。

「――あ、ち、違うよ! 本当に違うから! 僕はそんなムッツリスケベじゃないから! ――ち、ちっちゃいのも好きだよ!?」

慌ててボディランゲージも混ぜて否定する。

すると、灰色のフードの奥から蒼と金の瞳が、じとり、と胡乱げに僕を見つめ返してきた。

――うう……色々と失言だったかもしれない……

「さ、さあ、あっちの戦闘も終わったみたいだし、ぼ、僕達もSBを探しに行こうか!」

僕は誤魔化すために大きな声でそう言って、先に立って歩き出した。

「ど、どこかなー? さっきのレッサーウルフとか、い、いたりしないかなー?」

チラチラと背後のハムがちゃんと付いてきてくれているかどうかを確認しながら、僕は幅五メルトルぐらいの白い廊下を進む。

僕が前にいたキアティック・キャバンのような天然のダンジョンとは違い、ルナティック・バベルは人工の建造物だ。それ故、広大ではあるけれど、構造は至ってシンプルである。

しかも、ほとんどの階層が同じ構造なので、一度マップを覚えてしまえば迷う心配もない。

果たして、入ってきた南側から西側のエリアへ移動した僕とハムは、めでたく(?)SBと邂逅した。

レッドハウンド。赤い体毛を持つ猟犬だ。

こいつもレッサーウルフと同じく、群れで現れる。

何もない空間から忽然と僕達の前に出現したのは、総勢十六体の赤き魔犬だった。

『PYYYYRRRRYYYY!』

ガウッ、とか、バウバウッ、とかではなく、甲高い電子音で一斉に鳴くレッドハウンド。ルナティック・バベルのSBはこれだからやりづらい。何というか、微妙に緊迫感が薄い気がするのだ。

「出たね……えっと、じゃあ僕が見本を見せるから、ハムはそこで見ていてくれるかな?」

僕は左腰に帯刀していた祖父の形見の脇差〝白帝銀虎〟を抜いた。略して〝白虎〟は、僕の接近戦用サブウェポンだ。勿論、メインウェポンは背中の長巻〝黒帝鋼玄〟、略して〝黒玄〟なのだけど、レッドハウンド相手なら白虎だけで充分のはずだ。

白虎は刃渡り四〇セントルほどの純白の刀身を持つ、ちょっと珍しい脇差だ。僕と同じエクスプローラーだった祖父が愛用していた形見で、それ故に秘めたポテンシャルはものすごい――らしい。けれど、残念ながら僕の腕前では、その性能を十全に引き出すことはまだ出来ない。

出来ないのだが――

「――はっ!」

レッドハウンドの群れに向かって一歩目から跳躍。五メルトルほどあった彼我の距離を三歩で潰して、接敵。

最短距離にいたレッドハウンド一匹の右を通り抜けざま、白虎を真横に一閃する。

『PUUYYYYYY!』

布を断つような軽い手応えと同時に、断末魔の電子音。

左肩から後ろ足までを切り裂かれたレッドハウンドが大気に溶けるように消えて、青白いコンポーネントだけが残る。

ふわふわと漂う小さな光球は自動的に僕の〝SEAL〟へと回収されるので、今は放っておこう。

「よっ! はっ! ほっ! とっ!」

僕は止まらず、手近の獲物に向かって距離を詰め、連続で白虎を振るう。純白の刃はさしたる抵抗も受けず、SBをばっさばっさと斬り捨てていく。

『PRUUUYY!』

『PYYYY!』

『PRYYYYYYYYY!』

『PYYYYRRRRRYYYYY!』

踊るようにレッドハウンド共の合間を縫って、僕は三〇セカドもかからず四体のSBをコンポーネントへと回帰させた。

これこの通り。僕は白虎の性能を完璧に引き出すことはまだ出来ないが、それでもこの純白の脇差の切れ味は十分過ぎるものなのだ。

ありがとうお祖父ちゃん。とっても助かってます。

『PRRRRRYY!』

僕の初動から免れたレッドハウンド達が、今更のように臨戦態勢に入る。本物の犬なら唸り声でも上げただろうか。一斉に鼻っ面に獰猛な皺を寄せ、身を低く伏せて僕を睨み付ける。

いきなり左右の二体が同時に跳躍した。息を合わせたかのようにピッタリな動き。このままでは僕は両サイドから二体同時に噛み付かれてしまう。

けど慌てない。僕は万年ソロのエクスプローラーなのだ。こんな局面には慣れっこである。

右手の白虎を、左側へ。人差し指をピンと伸ばした左手を、右側へ。胸の前で両腕を交差させた状態で、僕は攻撃術式を音声起動。

「〈フレイボム〉!」

体内の〝SEAL〟が励起。ディープパープルに輝くフォトン・ブラッドが、僕の皮膚に幾何学模様を描いて走る。

左人差し指の先端に、小さなアイコンがロウソクの炎よろしく灯された。紫紺のフォトン・ブラッドで描かれた、爆発する炎の意匠。

左側へ突き出した右手の白虎が、襲い掛かってきたレッドハウンドの口内――喉奥にブスリと突き刺さる。

瞬間、左人差し指のアイコンから攻撃座標を決める細い光線が伸びて、右側から飛び掛ってくるレッドハウンドを照準。

ドン! とその頭部が爆裂した。

「――ッ!」

〈フレイボム〉の命中を目ではなく肌へ伝わる振動だけで確認。僕は左腕を引き戻しつつ、その反動を利用して体を捻り、右腕に勢いを乗せる。

左足を強く踏み込み、白虎に喉を貫かれているレッドハウンドにダメ押しの突きを捻り込んだ。

『P――!?』

螺旋を描く力が白虎を通じてレッドハウンドの身体を一気に貫通。核であるコンポーネントごと貫いた手応えがあった。

しまった、と頭の片隅で思いながら、薄まって消失していくレッドハウンドの残影から右腕を引き抜き、僕は一度ハムの元へと後退する。

SBへのオーバーキル攻撃、または存在の中核であり最大の弱点でもあるコンポーネントへの直接攻撃は、エクスプローラーにとって御法度の一つだ。

何故なら、僕達の基本目的はコンポーネントの回収にあるからである。もっと言えば、情報具現化コンポーネントこそがエクスプローラーの収入源、日々の糧なのだ。

故に、それを傷付け破壊してしまう行為は、骨折り損のくたびれ儲けでしかない。せっかく命懸けで戦ったというのに、実入りが無いのでは危険を冒した甲斐がないというものだ。

とはいえ、遺跡に潜っていればしばしば起こる事態でもある。長く悔やむほどのことではない。

僕は油断せず、レッドハウンドに白虎の切っ先を向けたままハムの傍に戻り、

「えーと……こんな感じかな? どう? 大丈夫そう?」

「うむ」

まるっきり普通の返事だった。何でもない事のように頷くハムに、僕は思わずSBへの警戒も忘れて目を向けてしまう。

「要はあやつらを退治すればよいのじゃろう?」

外套の女の子は、およそ初心者が口にするものではない台詞を平然と言い放った。

「へ……?」

それは、確かに、そうなのだけれど。

それが簡単に出来ないからこそ、エクスプロールは危険なのであって。

だから、みんなでパーティーを組んだり、クラスタを結成したりするのであって。

いくらレッドハウンドが低級SBとは言え、初心者がいきなり残り九体を相手にするのは――

「おぬしは少し下がっておれ」

難しいはず、なのだけど。

僕の内心などこれっぽっちも知らないハムは、いっそ傲然とも思える動きで前に出てしまった。

唖然と背中を見つめることしか出来ない僕の眼前で、彼女は外套の隙間から右手を差し出し、掌をレッドハウンドの群れへ向ける。

「え、ちょ、ちょっと……ハ、ハム?」

意味が分からない。何をする気なんだろう? もしレッドハウンド達が一斉に襲い掛かってきたら、流石にその全てをフォローするのは厳し――

「 あまねく大気に宿りし精霊よ 我が呼び声にこたえよ 」

朗々と詠うように、ハムが言葉を――いや、【言霊】を放った。

「……!?」

反射的に僕は慌てて口を噤んだ。

久しぶりに聞いた。言霊の籠められた声。複雑で大掛かりな術式を発動させるために行う、事前準備としての詠唱。キャッシュメモリを用いない、古いやり方。

詠唱の邪魔をしてはいけない。小さい頃、祖母に何度もそう教え込まれた。その条件反射で、僕はハムに声をかけることが出来なくなってしまった。

「 森羅万象を貫く破魔の槍と化し 我が敵へ過たず降り注げ 」

ハムの唇から濃密な言霊が紡がれているのがわかる。小さな体から迸る、手に触れて感じられそうなほどの術力。

外套の隙間から、淡いフォトン・ブラッドの輝きが漏れ出ているのが見て取れた。

最初はピンク色かと思った。でもよく見たら、限りなくピンクに近い紫――スミレ色。フォトン・ブラッドの色は血統を示すから、もしかすると彼女と僕は遠い親戚なのかもしれない。

――ところで、僕は先程、術式のアイコンの大きさは術力の強さに比例すると言った。これはもう言葉通りの意味で、術式に籠められている術力の分だけ、アイコンはその直径を増していく。

術力の強さというのは、筋力や知力と同じで、ある程度なら努力で増強することもできるが、究極的にはやっぱり才能が物を言う。

例えば僕は先程、左の人差し指に小さなアイコンを出した。実を言うと、あれでほぼ全力だったりする。こと術力の強さに関して、僕は呆れるほど才能が無い。だからこそ、術力の強さがあまり関係ない支援術式を主に修得したのである。さっきの〈フレイボム〉だって、この三階層に来たときに見かけた女の子が使っていたなら、もっと威力があったはずなのだ。

ちなみに、記録に残っているもので最大のアイコンサイズは、三〇〇メルトル以上だという。もう百年近く前の世界記録なのだけど。

さらに話は変わるけど、このルナティック・バベルは一層ごとの高さが平均五メルトル前後。もちろん例外の層もあるにはあるが、基本的には一層はそれぐらいの高さを持っていると考えてもらっていい。

現在、セキュリティが開放されている最高の層は一九六階層。

単純計算で地上から九八〇メルトル――約一キロトル上空に、その階層は位置していることになる。

前置きが長くなってしまって申し訳ない。つまり、僕が何を言いたいかというと――

信じがたいことに、ハムのアイコンが放つスミレ色の輝きは、その一九六階層でも目撃されたらしい。

「 〈天剣槍牙〉 」

風が吹いた。

――のだと思う。

目の前で起こった事がとんでもなさ過ぎて、僕の頭は即座の理解を拒んでいた。

外が見えていた。

ルナティック・バベルの中にいるというのに、外の景色が見えていた。

浮遊都市フロートライズを、少し高い場所から見下ろす光景が。

つまり、要するに――ルナティック・バベルの壁が、ぶち抜かれていたのだ。

あの『柔らかくて強い金属』で出来ている、どんな衝撃も分散して受け止めてしまうため、破壊不能と言われていた外壁が。

もちろん、その前にあった廊下や、レッドハウンドの群れもまとめて消えていた。

「――――」

今もまた、風が吹いている。

しかし、流れは逆風だ。どでかい風穴から流れ込んでくる大気が、ハムと僕に向けて吹き付けてくる。かなり風力が強い。

ハムの身にまとっている外套が、ガバッ、とめくれ上がり、風に巻き上げられた。

吹き飛ばされた外套がそのまま僕の顔に当たって、視界が真っ黒に染まった。

「――わぷっ!?」

呆然としていた意識が急にシャキっとして、僕は慌てて外套を取り払い、

とても綺麗な生き物を見た。

小柄な女の子が、こっちに振り向いていた。

右目が海みたいな蒼で、左目が黄玉のような金色のヘテロクロミアはそのままに。

肩の辺りで切り揃えられた銀髪は、陽光を受けて虹色の煌めきを放つほど光沢があって。小さな頭の周囲を、金色の飾りがついた銀鎖のサークレットが包んでいて。

陶器のような白皙の肌には、スミレ色のフォトン・ブラッドが幾何学模様を描いて走っていて。

外套の下に身に付けていたのは、ちょっと珍しい民族衣装――『着物』と呼ばれる衣服で。薄紫を基調として絢爛豪華な修飾が散りばめられたそれが、ミニスカート風に改造されていて。足元はやっぱり白足袋と漆塗りのぽっこり下駄で。

服の袖や裾から伸びる手足は細っこくて、小さくて――

つまり一言で言うなら、とっても可愛らしかったのだ。

猫みたいにちんまい口元が、くふ、と笑う。

「どうじゃ、おぬし。妾もなかなかのものであろう?」

そう言って、ふふん、と不敵に笑う女の子の声は、どう聞いてもハムのそれだった。

「――ハ、ハム……?」

思わず出た僕の呼び掛けは、思いっきり声が裏返っていた。

この時、僕は一体何が起こったのかを正確に理解できていなかった。

ハムの術力が世界記録を遥かに超越していたことも。発動させた術式がどういう種類のものであったのかも。

そして、彼女の正体が何なのかということも。

さっぱり分かっちゃいなかった。

ただ、僕は見た。

再び強い風が吹いた時、ハムが着ているミニスカート風の着物の裾が勢い良くめくれ上がり、内部に隠している物を露にした。

それは、クラシックパンツという代物だった。僕の記憶が確かならば、それは男性用だけでなく、女性用のもあったはずだ。非常に珍しいものではあるけれど。

しかし、彼女のフォトン・ブラッドと同じスミレ色のそれは、一部の地域でしか普及していない。そう、『極東』と呼ばれる、辺境の地域でしか。

故に、僕はそれを見ただけで、彼女の出身地がどのあたりなのかを悟ってしまった。

クラシックパンツ――それは、またの名を『ふんどし』というのである。