Reworld•Frontier-Saijakuni Shite Saikyou no Shien Jutsu Shiki Tsukai [Enhancer]

● 35 Mixed warfare, the castle of the present gods and ghosts

「――ト……ぃ……」

声が聞こえる。遠い声だ。

僕は深い水底にいて、その声は遥か頭上――水面(みなも)の向こう側から聞こえてくるかのよう。

とても心地の良い声だ。まどろみに揺蕩(たゆた)う意識に快(こころよ)く響く、いつまでも聞いていたいと思える、そんな声。

「――ラ……ぉ……き……」

あれ? 何か言ってる? 何だろう? よくわからない。それより、この気持ちいい感覚をもっと味わっていたい……

「――……い……を……!」

……段々とうるさくなってきた。どこからか、ペチペチと柔らかい肉を叩く音もする。果たして、あちらが近付いてきているのか、それとも僕が【浮かび上がっているのか】……?

などと、ぼんやりと考えていたところ、

「――起きよラト! 目を覚ませ!」

いきなり耳に電流を流し込まれたみたいな衝撃が走った。

「ッッッ!?」

一気に意識が覚醒する。

瞼を開いた瞬間、目の前に逆さになったハヌの顔が飛び込んできた。

「……………………ハ、ハヌ……?」

両目を見開き、ばっくんばっくんと鼓動する胸を手で押さえながら、どうにか彼女の名だけを口にする。思いがけず細く掠れた声だった。

ここで、ハヌに膝枕されながら地面に寝転がっている自分に気付く。そうか、意識を失っていたのか、僕は。

「ようやっと起きたか、ばかもの」

まなじりを吊り上げて僕の顔を覗きこんでいたハヌは、心配そうにも不機嫌そうにも見える表情で唇をへの字に曲げた。

「あ……」

その瞬間、失神する直前の記憶が蘇った。そうだ、僕はヴィリーさんから不意打ちの頬キスを受けて……

「……え、えと……その……あ、あのね、ハヌ?」

「言い訳はいらぬ。話はヴィリーめから聞いておるからの」

早速弁解しようとした僕を、ハヌは上半身を起こして顔を遠ざけながら、にべもなく斬り捨てた。ついでに、僕の両頬に添えていた小さな手に軽く力を込め、肉をむにむにと弄(もてあそ)ぶ。さっき微睡(まどろ)みの中で聞いたペチペチという音は、ハヌの手が僕の頬を叩くものだったのだ。

「お、怒ってる……?」

いかにも怒り心頭に発するといった感じのハヌに、僕は苦笑いを浮かべながら一応尋ねてみる。ヴィリーさんから話を聞いたとは言うけれど、どんな脚色がされているのかわかったものではない。

ハヌは、なおも僕のほっぺたをむにむにさせながら、

「……ラトには怒っておらぬ。とりあえず妾らの勝利ではあったのじゃからな。おぬしにはよう頑張ったと言うべきであろうよ」

「あー……」

どう聞いても建前にしか聞こえない。頭では理解しているけど、腹の虫がどうにも収まらない、という感じだ。

「じゃがの」

「はひ……」

案の定、逆接の接続詞が出てきた。むにぃ、と僕のほっぺたを握るハヌの手の力が強まる。

「ヴィリーめは自ら負けを認めておったが……妾はとても勝った気になれぬ。ラトはどうじゃ?」

「……ほふほ、ほふほほふ」

僕も、そう思う――僕は神妙な声でそう答えた。

そう、まさしく典型的な『試合に勝って勝負に負けた』であった。もはや、見事と称してよいほどに。

だって――もしヴィリーさんとの戦いが、真の意味での真剣勝負だったとしたら……?

僕はそう考えずにはいられない。

脳内でシミュレーションしてみる――戦闘中に降参した振りをして油断させ、間合いを詰めて頬にキスして僕の意識を落とす。これで一番の障害の無力化が完了。止めを刺す前に人質として活用し、ハヌの行動を封じる。その後、きっと無抵抗になるであろうハヌの首を落としてから、そのまま気を失っている僕も始末する。

きっと、そんな風になっていたはずだ。

口で言う負けなど、所詮(しょせん)本当の負けではない。

詰まる所、僕は見事にしてやられてしまったわけだ。

僕とハヌが今も生きているのは、あくまでゲームとして、そしてヴィリーさんの鬱憤を晴らすための戦い、という名分があったからに過ぎない。

無論、こちらもヴィリーさんをギリギリまで追い詰めていたとは思う。もしあそこでヴィリーさんが負けを認めずに戦い続けていたら、逆にこちらが勝っていたはずだ。その自信はある。

だけど、最後の最後でひっくり返された。

当然、言い訳がましい気持ちもある。

もし本当の本当に命を懸けた真剣勝負だったら、あそこで僕が動きを止めていたかどうかはわからない。正真正銘、命のやり取りをしている時にあんな風に降参されても、ブラフの可能性を考えて無視していた可能性は十二分にある。

だから、良くも悪くも『引き分け』ということでいいはずだ。多分、ヴィリーさんだってそう思っている。

大体、あのキス攻撃を「騙し討ちよ。油断したわね」とは言わず、本当の降参宣言にしてしまうあたりが、いかにもヴィリーさんらしい。

だってフェイクということにして、ハヌの前で「私の勝ちよ」と勝利宣言してもよかったのだ、ヴィリーさんは。不覚にも気絶した僕の首に、剣の切っ先を突き付けながら。

なのにヴィリーさんはそうせず、ハヌに対して素直に負けを認めた。だから、彼女としても苦肉の策だったのだと思う。きっとヴィリーさんだって、真っ当な手で僕達に勝ちたかったに違いないのだから。

「……ヴィリーさんが負けを認めただけで、僕達が勝ったわけじゃない……って感じだよね……」

頬を摘まむハヌの手が緩んだので、僕はそのまま語を継いだ。

ふぅ、とハヌは小さく吐息。

「うむ。まったく……ようやっとおぬしらに追いついたかと思えば、ラトは気絶しておるわ、ヴィリーめはあっけらかんと負けを認めるわ、肩透かしもいいところじゃったぞ。よもやこのような結果になるとはのう……」

「ぷぎゅっ?」

僕の頬から手を離してくれたかと思えば、手持ち無沙汰となったハヌは、今度は片手で僕の鼻を摘まんだ。しかもそのまま、きゅう、と上に持ち上げる。

「あたた……」

目が覚めたのなら妾の膝から頭をどけろ、という合図だと思い、僕は地面に手をついて上体を起こす。

僕が寝かされていたのは、ヴィリーさんと最後まで戦っていた広い屋上の片隅だった。改めてつぶさに観察してみるに、どうやらかつてはアウトレットモールの立体駐車場だったところらしい。そこかしこに、それらしき面影が残っている。

「……あれ? そういえばヴィリーさんは?」

今更のように気付いた。空に面した広くて寂しい駐車場のどこにも、あの華麗な姿が見当たらない。

ハヌの呆れ声。

「とっくの昔に手下のところへ戻っていきおったわ。ちょうどよく現れた馬鹿共をついでに退治してから、の」

「ちょうどよく現れた……?」

どういうことだろう? というか、僕はどれぐらいの時間、気を失っていたのだろう?

そう思いつつの問いに、ハヌは順序立てて説明してくれた。

曰く、僕がヴィリーさんのキスで気を失った後、そう間を置かずハヌが〝酉の式〟に乗ってここまで追いついてきてから――

『早かったわね、小竜姫。悔しいけれど、今日は私の完敗よ』

『――何じゃと?』

当時のハヌが怪訝な声を出したのも当然のことだった。その時僕はすでにヴィリーさんにしなだれかかって失神しており、当初、ハヌは近付いてくる途中で『ラトが負けた』と思っていたそうだ。まぁ普通は誰が見たってそう思うだろう。僕だってそう思う。

『でも、ありがとう、感謝するわ、小竜姫。おかげでかなり気が晴れたし、頭も冷静になったわ。もちろん、一部はむしろ余計に熱くなったけれど』

立体駐車場の片隅――即ち、今ちょうど僕が座っている位置に気絶した僕の体を寝かせながら、ヴィリーさんはハヌに礼を述べた。燃えるような深紅の瞳で、茶目っ気たっぷりのウィンクをしながら。

『ここを出たら、また一緒に戦(や)りましょう。今度こそ負けないわよ』

そう言い置いて立ち去ろうとしたヴィリーさんだったけど、何故か突然、足を止めたという。

『――そうね、お礼といってはなんだけど……あの子達のところへ戻る前に、害虫の駆除だけはしておこうかしら』

『……?』

ヴィリーさんの謎の言葉にハヌが首を捻った途端だった。

『出てきなさい。そこにいるのはわかってるわよ――なんて、月並みな台詞を言わせないで。姿を見せたくないのならそれでもいいけれど、生きたまま焼き殺すわよ?』

ヴィリーさんは虚空に向かって話しかけた。

すわ戦いのダメージで頭がおかしくなったか、とハヌは思ったそうだけど、間もなくその意図は明白となった。

立体駐車場の陰となる部分から、ぞろぞろと『探検者狩り(レッドラム)』の連中が現れたのだ。

なんとその数、十数人。

ヴィリーさんは彼らの姿を見るや〝SEAL〟のストレージから右手に、鏡のごとく磨き抜かれた白銀の剣を取り出したという。

『どうせ私とラグ君の戦いの音に惹かれてやってきたんでしょうけれど、田父之功(でんぷのこう)でも狙おうって腹かしら? ラグ君は兎のように可愛らしいところもあるとは思うけれど……私を犬だと思ったら大間違いよ』

ヴィリーさんから涼やかに告げられた『探検者狩り(レッドラム)』達はしかし、臆するどころかむしろ野卑な笑みを浮かべてみせた。

そしてハヌによると、聞くに堪えない下品な言葉を口々に並べ立てたという。

半分以上は意味がわからなかったらしいが、ヴィリーさんの纏う雰囲気の変化や、男たちの口振りからして、大体のところは察せられたそうだ。それを聞いた僕は、もうそれだけでひどく憤慨した。ハヌみたいな小さな女の子の前でなんてことを言うのだ――と。

とはいえ、『探検者狩り(レッドラム)』の男らが強気に出たのもさもありなん、とも思う。

僕の記憶によれば、僕らと激闘を演じたヴィリーさんの風体はひどいものだった。全身これ土汚れ。いつもの光輝くような美しさや気品も、泥まみれでは流石に影をひそめようというものだ。

そんなヴィリーさんを、組み易しと侮ったのだろう。手負いの獣ほど手強いものはないというのに。

その時の状況を間近で見ていたハヌは、声を改めてこう言った。

――ラト、おぬし、よくあのヴィリーめの相手を務め上げたな。ようやったぞ。あれぞまさしく『剣の鬼』……〝剣鬼(けんき)〟に相違あるまい――と。

それもそのはず。ハヌは直後にヴィリーさんが披露した驚愕の絶技を、直に目にしたのだから。

いくらか言葉を交わした後、『探検者狩り(レッドラム)』達は一斉にヴィリーさんへ襲いかかった。消耗したヴィリーさんを無力化し、その後で気絶している僕と小さなハヌを処理するつもりだったのだろう。

なんと全員が全員、ヴィリーさんに向けて『フリーズ』のマジックを発動させたのだ。

その瞬間、何が起こったか。

ハヌは語る。

『あやつ、一斉に迫る光線を全て【剣の腹で反射させよった】』

鏡面と化すほど、磨きに磨き上げられた刀身。それを使って光線を反射させ、十数人からの『フリーズ』を跳ね返したのだ――と。

ハヌが僕に嘘を吐くはずもない。ないが、それでもにわかには信じがたい話だった。

男達の放った『フリーズ』の光線は、色も発射角度もタイミングも全てバラバラだったはずだ。彼らのような無法者の中の無法者には、大した統制は望めない。そして、光線は文字通り『光の速さで飛ぶもの』だ。

なのに、それらを一本の剣で、全て反射して防いだなんて。

ヴィリーさんの父親である〝剣聖〟ことウィルハルト氏は『光を【見て】から斬ることが出来る』という評判が流れているが、あれはもしや、まことしやかな噂などではなく、真実なのかもしれない。

そして〝剣嬢〟であるヴィリーさんもまた、その境地に達しているのかもしれなかった。

「ここまで言えば、後はもう言わずともわかるであろう?」

そんな風にハヌは説明を締めくくった。敢えて『フリーズ』を跳ね返された『探検者狩り(レッドラム)』達がどうなったかは、語らずに。

「…………」

甘いと言われるかもしれないが、少しだけ同情する。だって、ヴィリーさんはどう見ても消耗していて、数においては勝り、さらには全員で『フリーズ』を仕掛けるという――彼らにとっては会心の作戦で、絶好の機会だったはずなのだ。なのに、それを信じがたいほどの絶技によってご破算にされた男達の気持ちたるや。察するに余りある。

先程ハヌはこう言った。ヴィリーさんはもう、仲間のみんなのところへ戻っていったと。だから、この場にいないのだと。

そして『探検者狩り(レッドラム)』達の姿も、この場にはない。

つまりはそういうことだった。

「……僕達、すごい人と戦ってたんだね……」

「……うむ。流石に妾も目を見張ったわ。あのような芸当をしてのけるとはの……」

僕の感嘆に、珍しくハヌが同意した。ヴィリーさんを毛嫌いしているハヌでさえ、認めざるを得ない実力だったというわけである。

「――じゃが、負けてはおらぬ」

「えっ?」

急に強い語調で言い切ったハヌに、僕は思わず顔ごと振り向いた。するとハヌは、むん、と胸を張り、

「勝った気もせぬが、それでも妾とラトはあやつに負けもせんかった。つまり妾らもあやつと同等、いやそれ以上に〝すごい〟ということじゃ」

どやぁ、という音が聞こえてきそうなハヌの自信満々ぶりであった。負けず嫌いというか、猛烈な対抗心というか。そういうところ、ちょっと可愛いとは思うけれど。

実際、僕は思わず微笑していたのだろう。自慢げに背筋を伸ばすハヌに見咎められてしまった。

「む? 何じゃラト、何を笑っておる?」

「え、いや、ちょっと――」

僕とハヌの、ちょっとしたじゃれ合いみたいな応酬が始まりそうな、そんなタイミングだった。

ゲームの盤面に新たな一石が投じられたのは。

ピンポンパンポ――――――――ン

「「――ッッ!?」」

間の抜けた音に、けれど僕もハヌも、至近に雷が落ちたかのような劇的反応をしてしまった。ビクンッ、と全身を跳ねさせ、息を止める。弾かれたように面を上げ、空を見上げた。

当然、嫌な予感しかしなかった。

『やぁ、プレイヤー諸君。久しぶりでも何でもないね』

やっぱりエイジャだった。

空一面に巨大なARスクリーンが浮かび上がり、そこに赤髪の美少年が笑顔で登場していた。

『さっきの今で早くも申し訳ない。どうにもゲームの流れがオレの想定とは違っていてね』

やれやれ、といかにもな所作で肩をすくめてみせる。

そんなエイジャの様子を余所に、僕はハヌに質問した。

「……ハヌ、僕どれぐらい気を失ってたのかな?」

「ん? 確か……十分ほどじゃ。それがどうしたのじゃ?」

「うん……」

十分ぐらい気絶していたということは、さっきのエイジャの〝死亡〟ルールの暴露から大体二十分ほどは経過していることになる。

「……多分、すごくろくでもないことが始まる気がする……どうなるかわからないけど、警戒だけはしておかないと」

僕はコンクリートに手を突いて立ち上がり、クッションの上で正座しているハヌに手を差し伸べた。薄い紫のクッションは、僕に膝枕をしてくれる際にストレージから取り出したものだろう。

「……じゃの。あやつは顔を出す都度、決まって余計なことをしよる。いや、顔を出さずとも……か」

僕の手を取って立ち上がり、近くに綺麗に揃えておいてあったぽっくり下駄を履くハヌの顔は、言葉通りに渋い。僕もきっと、辟易していた顔を浮かべているはずだ。

ハヌが地面に敷いていたクッションをストレージに回収する間にも、空に現れたエイジャの言葉は続いていた。

『どうも君達は先程の〝死亡〟について知ったことで、存外に萎縮してしまったらしい。想定外――とまでは言わないが、正直がっかりだね。もっとテンションを上げてゲームを楽しいものにしてくれるものと思っていたのだけれど』

同じ空の下、一体どれだけの人が『誰がお前の期待になど応えるものか』と思ったことだろう。中には実際に口に出して毒づいた人だっていたに違いない。

『最初はそれなりに戦闘が起こっていたようだけれど、今ではすっかり落ち着いてしまっているね。全員、アナグマのようだ。いやはやなんとも、幻滅もいいところだよ』

額にかかるサラサラの前髪を掻き上げ、エイジャはこちらを見下すような流し目を送る。どこか物憂げなその表情は、彼の本性を知っていてもなお目を惹かれてしまうほどには美しい。

しかし次の瞬間、作り物めいた美貌に薄い笑みが浮かんだ。

『――しかしまぁ、それならそれでいいというものさ。君達プレイヤーがどうするのかは自由だからね。このまま時間切れを待つのも悪くない手さ。ああ、そうだね。それが最初から出来ていれば、きっとそんなに悪いことにはならなかった……』

不意に、エイジャの声から体温が消えた。台詞半ばから徐々に熱が抜け始め、いったん言葉を切る頃には、氷塊を擦り合わせるかのごとき冷たい響きへと変貌していた。

「――――」

ぞっ、と背筋に悪寒が走る。

多分エイジャは今の瞬間、何かを【決断】したのだ。確かに彼の中で、〝何か〟が不可逆の変化をした――少なくとも僕はそう感じた。彼の不気味な様子から、それが何となくわかってしまったのだ。

そして、嫌な予感ほどよく的中するものだ。

『――さぁて、ここまで来たのだからオレも開き直ろうか。ああそうさ、もう完全に開き直って、このゲームの真髄を暴露しようじゃあないか』

作っていることが丸わかりの明るい声で、エイジャは突拍子もない話を始めた。声音が違いすぎて、二つの人格が交代で顔を出しているのかと思うほどだ。

「ゲームの真髄、じゃと……?」

またぞろ嫌な響きのする言葉を、ハヌが繰り返した。訝しげに顰められた顔が、言外に『また性懲りもなく、くだらないないことを言いだしよった』と告げている。

不思議なことにエイジャは、その声が聞こえているかのように、あは、と笑った。否、もしかしなくとも聞こえているのだろう。彼はこの空間の支配者なのだから。

エイジャは顎を引くようにして頷き、

『そうとも。思い切って、盛大なネタばらしをしてしまおう。詰まる所、このゲームの勝利条件に関する話だ。君達は覚えているかな? 最初に配ったルールに書いてあった文言を』

僕は反射的に〝SEAL〟に保存しておいたルールデータを呼び出す。ARスクリーンに表示させ、ハヌと一緒に見られる位置へとスライドさせた。

エイジャもまたその必要があると思ったのか、蒼穹を背景に浮かぶARスクリーンの下部に、己が配布したルールの文章を表示させた。

一行目には、次のような文章が書いてあった。

『――〝まず第一に、このゲームの目的は『勝利すること』である〟』

ご丁寧に、エイジャが無駄にいい声で読み上げた。男とも女ともつかないが、不思議と耳馴染みのよい響きだ。業腹なことに。

続いて、

『〝全てのプレイヤーは『白』『黒』、どちらかのチームに分けられる〟』

第二文目を読み上げる。

そこでエイジャは何故か、唐突に沈黙を挟み込んだ。意味ありげに口を閉ざし、視線を左右に巡らせる。まるで僕らの反応を確かめるように。

「――……」

その瞬間だった。

電撃的な閃きが僕の脳天を貫いたのは。

「――ッ!?」

まさに青天の霹靂(へきれき)だった。空の彼方から直接頭の中へ落っこちてきたその『可能性』は、思わず身震いするほど致命的だった。

――ま、さ、か……!?

信じられない。

でも【それ】しか考えられない。

信じたくない。

でも理解できてしまう。

だって、ここはルナティック・バベル。

あそこに映っているのは、その統括プログラムの一部なのだから。

「――――」

僕の目はARスクリーンに釘付けになる。

そこには、唇の両端を引き裂くように吊り上げた、邪悪としか言いようのない笑みのエイジャが映っていた。

『――わかるかな、この二つの文章の意味が? 敢えてこうして読み上げた、その理由が』

わかってしまった。

どうしようもなく、僕はエイジャの真意を理解してしまった。

そうだったのだ。

【落とし穴】は、【そこ】にあったのだ――!

『そう、オレは一言も【君達に戦えなんて言っていない】のさ』

音も光もない落雷があった。

僕達のいる浮遊大島を覆う空気が石のように凝固するのを、僕は確かに感じた。

島のあちこちで、ロゼさんが、フリムが。そしてヴィリーさんが、カレルさんが、アシュリーさんやゼルダさんが――息を呑んでいるであろうことは想像に難くなかった。

『だって、どこにも書いてないだろう? 白と黒で互いに〝戦え〟だなんて?』

小馬鹿にするようにエイジャは手を振って放言する。

『なのに、君達は白と黒の陣営に分かれた途端、戦闘を開始した。自らに与えられた状況を疑いもせずに、ね』

わかってやったくせに、と頭の中のマグマが煮え滾る。そうだ、エイジャはわかっていたはずだ。僕達が争い合うであろうことを想定して、状況を作り上げたのだから。

『いやはや、君達人類は戦うことが本当に好きな種族だね。自己弁護として繰り返し言わせてもらうが、俺はあくまで〝勝つことが目的である〟ということと、〝君達は白と黒の二チームに分かれる〟ということしか提示していない。そこから〝相手チームを倒せば勝利したことになる〟と思い込んだのは、君達の勝手さ』

唇を歪めて、エイジャはくつくつと笑う。

『ああ、そうだね。わかりやすい罠を用意したことは否定しないよ。HPにMP、そしてマジック。そうそう、ブルーフリーズについても追加させてもらった。そうして君達を煽ったのは間違いない。いわゆる〝確信犯〟というやつさ。まぁ正しくは〝故意犯〟と言うべきだろうけれど』

誰かの声に反応したのか、実に言い訳がましいことを並べ立てる。

『だが、それでも戦うことを選んだのは君達さ。間違いなくね。責任がないとは言わせない。少なくとも、オレは嘘はついていないのだからね』

胸に手を当て、殊更に自らの正当性を主張するエイジャ。白々しいことこの上ない。

『しかし、これでよくわかっただろう? なんだかんだ言って、君達は戦うことが好きなんだ。争うことが本能に刻まれてしまっている。それ故、少ない情報から戦闘を行うことを選択した。どうしようもなく、それこそが君達の本質なのさ。そのように生まれついた生命なんだよ』

胸に当てていた手をこちらへ差し出し、まるで言祝(ことほ)ぐかのようにエイジャは微笑む。可憐な少女と見紛おうばかりの美貌で、しかし冷酷な声を突き付けて。

『だから、君達は戦わなければならない。オレが用意した【敵】と』

そう言った瞬間だった。

大空を背景に広がっている巨大ARスクリーン。エイジャのバストアップが映っている、やや透明度の高い四角の画面。その向こう側で、不思議な現象が起こった。

「……?」

揺らぎ。

光が屈折しているのだろうか。透き通った蒼穹であるはずの空間が、何故かそこだけ、レンズの焦点がおかしくなったように歪み始めたのだ。

畢竟、それはまさしく時空の歪(ひず)みであった。

水面に波紋が広がるがごとく、その歪みは一気に拡大した。さながら、空の底が破れ、時空の狭間に隠れていたものが現れるかのように。

「――!?」

その巨大な物体は忽然と出現した。

『いまさら弱音なんて聞かないよ。君達は互いに相食むような戦いを選んだ。もう戦えない、もう戦いたくない――なんて決して言わせやしない。仲間同士で戦った気分はどうだった? 苦しかったかい? 悲しかったかい? そんなにも辛かったかい? そいつはおめでとう』

大きな、とても大きな黒い影が空に滲み出てくるのを背景に、エイジャは歌うように言葉を紡ぐ。

『人は苦しいとき、悲しいとき、辛いときにはこう言い表すようだね。〝身が引き裂かれるような思い〟――と』

人間とか、建物とかそんな小さなスケールではない。

島だ。

そう、僕達のいる浮遊大島、その周囲にある小島レベルの質量が、頭上に顕現しているのである。

はっ、とエイジャが吐き捨てるように笑った。

『そいつは結構なことじゃないか。本当に身を引き裂かれるほど辛いというなら、そのまま身を引き裂かれて死ねばよかったのさ』

蒼穹に黒いシミが広がっていく。やがて『揺らぎ』を越えた箇所から、こちらの空間へと具現化を始める。

岩。

ゴツゴツと尖った剣山のような巨大な岩。あれは多分、こちらの世界に渡って来ようとしている島の『底』なのだろう。まるで地上にある峡谷(きょうこく)を逆さにしたような、あるいは鍾乳石(しょうにゅうせき)の群れを連想させるような地形。

そこからは一気呵成だった。

空震(くうしん)。

空の破れる音が響いて、巨大質量が一気に〝こちらの世界〟へと全容を現した。

「な……!?」

思わず呻き声が出た。僕は半ば無意識に〝SEAL〟を励起させ、支援術式〈イーグルアイ〉×10を発動。十体の光の鳥を飛ばし、巨大質量の観察へと向かわせる。

間もなく、一斉に送られてくる鳥瞰視野の複合情報。

「……お、鬼……?」

真っ先に僕の口から飛び出したのは、そんな不穏な名称だった。

浮遊大島の上空に現れたのは、まさしく小島かと思うほどの超巨大岩石だった。

それも、どう見ても〝鬼の顔〟としか呼びようのない形状をしている。

幾本もの角(つの)があり、目や口と思しき大穴がある。大きく開いた口の内部には、牙みたいな岩山の連なりが見える。そして、そんな鬼の顔は一つだけではなく、アシュラと呼ばれる怪物の頭部にも似た『三面一首』だったのだ。

まるでアシュラの首から上を、そのまま岩山で再現したかのよう。

そして。

空に浮く鬼岩よりも高い位置へ飛翔した〈イーグルアイ〉から送られてきた映像には、さらなる【尋常ならざるもの】が映っていた。

「――か、怪物の……石像……?」

巨岩の阿修羅の三面。その中心部に、奇々怪々と言うべきか、異類異形と言うべきか。どうにも表現に困る、しかし『怪物』としか呼びようのない巨大な石像が鎮座ましましていた。

――あれも……鬼……?

大きさは、怪物の石像が載っているアシュラ頭の岩島より、やや小さい程度。三頭鬼の岩島が『台座』と言われれば、なるほど、と納得してしまうようなサイズ感。

全身のあちこちから鬼の角と思しきものが無数に生えているけれど、かといって人間型ではない。四足獣とも言えない。無数の獣や虫、水棲生物やその他がぐちゃぐちゃに融合したかのような、実に形容しがたき姿をしている。

ただ、どう考えても真っ当な生物の姿ではない――それだけはよくわかった。

――そういえば、アイツに似ている……

不気味な巨大石像の形状に記憶野を刺激された僕は、かつて戦った〝神器保有者(セイクリッド・キャリア)〟シグロス・シュバインベルグのことを思い出していた。

あの時、神器〝融合(ユニオン)〟の力を操っていたシグロスは、〈ミングルフュージョン〉というオリジナル術式をもって無数のSBと一体化していた。ロゼさんによると、正確には『無数のコンポーネントを融合させた〝合成コンポーネント〟』と『融合』していたらしいけれど。

結局、シグロスは戦いが激化するにつれ、切り札である『星石』――将星類(ジェネラル)ドラゴンの物質化したコンポーネントと融合し、『竜人』とでも呼ぶべき形態へと変化(へんげ)した。しかし最終的にはその融合能力を暴走させ、瓦礫の山と融合し、名状しがたき怪物へと変貌してしまったのである。

今、〈イーグルアイ〉の視野に映る怪物の像は、ちょうどそんなシグロスの姿によく似ていた。無機物も有機物も関係なく取り込み、元が人間とはとても思えないほど変わり果てた、あの姿に。

あれがもし動き出したら――と、僕はそう考えずにはいられない。

何故なら、かつて『開かずの階層』こと〝ミドガルド〟で戦ったフロアマスターは、あの像と同じように、最初は巨大な石像として閉鎖空間に存在していたのだから。

だから、もしかしたら――

いや、もしかしたら、ではない。あれは絶対に動く。間違いない。あれは確実にそういうものだ。何故ならここはルナティック・バベルで、あれはエイジャが用意したものなのだから。動き出さないわけがないのだ。

『――さて、見ての通りだ。紹介が遅れてしまったことを、今更だが詫びておこうか』

浮遊島の地表に張り付いているだけの小さな僕達が瞠目し、驚愕し、そして恐れに震えるだけの時間を与えるかのごとく、エイジャはしっかりとタメをきかせてから口を開いた。

三面一首の鬼顔を模した岩の塊――便宜上『鬼顔城(きがんじょう)』とでも呼ぼうか――が降下し、やがてエイジャの映っているARスクリーンに触れ、ゆっくりと貫通していく。

『――【これ】が、君達の【敵】だ』

鬼顔城がARスクリーンを通り抜けると同時に、エイジャは告げた。

『そう、君達の身も心も引き裂く【敵】。君達がこのゲームで倒すべき【敵】。即ち君達が〝勝利〟するべき【敵】。今度こそ間違いなく、そして紛うことなき――【本当の敵】だ』

僕達がこれから戦わねばならない、【敵】の存在を。

『その正体は――まぁ、どうせすぐにわかるのだから、ここではっきり言ってしまおうか』

エイジャがそこまで言った時だった。

突如、鬼顔城に変化があった。

三面一首の鬼の顔を模した巨岩。それらの眼や口にあたる大穴から、何やら羽虫の群れのような影が滲み出てきたのだ。

いや、あの岩城(いわじろ)はかなりの大きさだ。であればあの影は決して羽虫などではなく、そのスケールに見合ったかなり大きなもの――少なくとも人間大を遙かに超すサイズのものであることは間違いない。

僕は各〈イーグルアイ〉にコマンドを放ち、さらに距離を詰め、望遠レンズの倍率を上げさせる。

見えた。

人間――に見える、けれど人間とはどこかが違う【何か】。

まだ距離が離れていて細かい部分はわからないが、人型ではあるようだ。しかし、どことなく決定的に違うシルエットをしていることも確かである。

ほんのわずかな違和感。

胸の内に生じたそれが、けれど不安という栄養を吸い取って、急激な成長を始めたその時。

エイジャが答えを口にした。

『――鬼人さ』

音も形もない銃弾が、僕の頭と胸を撃ち抜いた。

刹那で脳裏によぎったのは、三人の角持つ巨人達の姿。

『忘れてはいないだろう? そう、君達もよく知っているあの鬼人達さ。先日、周囲の小島で行われた〝予選〟で、君達が世話になったり活用したり利用されたりもした、あのお強い鬼人だよ』

背筋に電撃が走る。

エイジャの言葉を聞いた途端、〈イーグルアイ〉から送られてくる視野情報と自分の感覚とが、これ以上なく符合してしまったのだ。

人間に見えるけれど、どこか違うシルエット。そして、巨大な鬼顔城の大きさに相応しいサイズ――即ち〝巨人態(ギガンティック)〟。

あれは、否、彼らは――鬼人。

一号氏、二号氏、三号氏のように人ならざる角を持ち、〝異能〟を有する超常の〝変貌者(ディスガイザー)〟。

そんな存在が、あんなにも。

――え……? ちょっと待って……

敵だ、とエイジャは先程そう言った。

鬼人が敵だ、と。

――まさか……

とんでもなく嫌な予感が、ものすごい勢いで胸の内へと湧き上ってくる。

――いや待て、待て待て待て、待って待ってちょっと待って……!?

口の中に得も言えぬ苦味が広がっていく。

ふざけるな。

鬼人にとって空に浮かぶ岩の城は居住空間なのか、もしくは移動要塞なのか。

巨大な鬼達が岩城の表面をびっしりと埋め尽くす光景は、言い方は悪いが、まるで巣に棲息する虫の群れのようだ。

それだけにその数、どう少なめに数えたても百は下るまい。どう見ても数百――いや、岩城の奥にまだ潜んでいることを考えれば、千を超える数がいてもおかしくはない。

有り得ない。

僕達は四人で、ヴィリーさん達『蒼き紅炎の騎士団《ノーブル・プロミネンス・ナイツ》』は三十名弱。そこにハウエル達『探検者狩り(レッドラム)』の百人強を加えたって二百にも届かない。

こんな理不尽があってたまるものか。

横暴にも程がある。彼我の戦力差がまさしく桁違いではないか。あれが敵? 僕達の敵? どうやって戦えと言うのだ。ただでさえ僕達は同士討ちによって疲弊し、少なからず戦力が減っているというのに。

いや、わかっている。抗議したところでエイジャはどうせこう言うのだ。

それは自己責任だよ――と。

ルールを理解せずに戦いを始めたのは僕らの勝手。それによって起こったことは全て自業自得。彼はそう主張するに決まっていた。

なにせ、同士討ちで消耗した僕達に鬼人達をぶつけることこそが、エイジャの目論見だったのだから。

『同じ人間同士で戦えた君達だ。相手が他種族の鬼人なら尚更、問題はないだろう? なに、君達の強さは折り紙付きさ。口幅ったいが、オレが保証しよう。君達は人類の中でも上位のランクに位置する豪傑ばかりだ。オレが用意した敵は確かに強大だが、君達だって捨てたものじゃない。きっといい戦いになる』

エイジャはヌケヌケと誇張して僕らを褒めそやす。どのような美辞麗句を並べ立てたところで、内に秘めたる高濃度の悪意は隠しきれないというのに。

『さて、ここからが肝心。このゲームの勝利条件についてだが、もちろんこれだけの数の鬼人を全滅させろ、なんていうのは無茶だとオレも承知している。そこは安心して欲しい。流石のオレもそこまで無体なことは言わないさ』

ははは、と軽やかに笑う声が、僕の心の表層をだだ滑りしていく。出来の悪い冗談にはまったく共感できないし、言葉通り他人ごとではないのだ。

『よって、勝利条件は単純明快と行こう。君達は鬼人達のリーダーを倒すだけでいい。いわゆる〝ラスボス〟というやつだね。そして、そろそろ疑り深くなっているであろう君達のためにも明言しよう。鬼人達のリーダー、ラスボスはただ【一人】であると』

エイジャが語るのは、いわゆるゲームでいうところの『フラッグ戦』に近いものだった。勝利条件のフラグを持つ一人を倒せば、そこで勝敗が決する。逆に言えばフラグ持ち以外をどれだけ倒そうとも、勝敗には影響しない。

『やや変則的だが、君達にとっては殲滅戦でもある。鬼人達は人類チームを全滅させるまで止まらないからね。これはいわば、君達全員が〝死亡〟する前に鬼人のラスボスを倒すゲーム、と言ったところかな。誰か一人でも生き残り、ラスボスさえ倒せば君達人類の勝利だ。いやはやなんとも、絶望と希望が絶妙にミックスしたゲームだとは思わないかい?』

フラットな視点から見れば、これは僕達にとって有利な条件ではある。極端に言えば、僕達は敵一人を倒すだけでいい。そして、全員が〝死亡〟するまで負けはない。随分なハンデとも言える。

逆に言えば、それほどのハンデをつけなければまともな戦いにならないぐらい、彼我の戦力差が激しいということだ。そしてそれを、エイジャはしっかり理解しているということだ。

『それでは、その〝ラスボス〟の紹介だ。真下にいるプレイヤーには見えないだろうから、こちらを見て欲しい』

エイジャの映っていたARスクリーンの映像が切り替わった。大画面を四つに分割して、鬼顔城の上に座している巨大な石像をあらゆる角度から映し出す。

『実に醜悪な姿だろう? いかにも恐ろしい造形だろう? 恐れ戦(おのの)くのも無理はない。彼こそは鬼人の中の鬼人。いや、鬼人をも超えたまさに〝鬼(おに)〟。その王なのだから』

カメラに取り囲まれるようにして撮影されている〝ラスボス〟こと石造りの怪物に、静かな変化が生じた。

巨大石像の天頂部に小さな光が灯ったかと思えば、煌めきが重力に引かれるようにして下方へと降り始める。硬い岩の表面を輝きが滑り落ち、通り抜けた後――そこはもはや岩肌ではなくなっていた。

色づいている。

石像が本物の生き物へ変化するように。あるいは、石化していた生物が元の姿に復活するかのごとく。

真っ白な煌めきが撫でていった箇所から、怪物をかたどった石像が、本物の怪物へと変貌していくのだ。

無機物が有機物へと変換されていく。

その光景を光が彩る。

最初は小さかった光も怪物の体積に合わせて大きく広がり、輝きの輪を拡大させながら足元へ向けて進行していく。

やがて光の波が全て流れ落ちた後、これまで微動だにしてこなかった怪物――鬼の王が、どんな動物にも例えようのない頭をもたげて、大きな大きな口を、がばり、と開いた。

『WWWWWWWWOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOORRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRROOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOWWWWWWWWWWW――――――――――――――――!!!』

天地が鳴動するかのごとき咆哮(ほうこう)。

「――ッッッ!?」

腹の底どころか骨身、体の芯までもがビリビリと震える。音に全身を殴られているような感覚。耳から入り込んだ音に頭の中を破裂させられるかと思う。僕もハヌも溜まらず両手で耳を塞ぎ、その場に蹲ってしまった。

なんという音量、いや、波動だ。これに比べたらかつて戦ったヘラクレスの雄叫びなんて、小鳥のさえずりに等しい。咆哮が物理的な破壊力をもって襲いかかってくる。これはもはや一種の物理攻撃だった。

「……くっ、こ、こんなの……っ!?」

相手にどうやって戦えっていうんだ、という言葉を、しかし僕は喉元で食い止めた。

そうだ。ここで弱音を吐いても意味などない。泣き言をこぼす暇があるなら打開策を考えろ。思考を回せ、リソースを建設的な方へと注ぎ込め。

それに何より――目の前にいる女の子の表情を見たら、後ろ向きの文句なんて雲散霧消してしまう。

「くっ……ふ、ふっ……!」

ハヌは、笑っていた。

小さな両手で耳を押さえ、だけどキラキラと輝く金銀妖瞳(ヘテロクロミア)を上空の鬼顔城へと向けて、不敵な笑みを浮かべていたのだ。

まるで、遊園地の入場ゲートをくぐった小さな子供のように。

「ハ、ハヌ……?」

一瞬、その表情の意味が全くわからなかったが、次の瞬間には爆発的に理解する。

ハヌは勝つつもりなのだ――と。

いや、より正確に言えば、ハヌは『勝てる』と確信しているし、その過程を『楽しみだ』とも思っているのだ。

さもありなん。かつて『開かずの間』こと〝ミドガルド〟まで僕とフリムを助けに来てくれた彼女は、九つの首を振り回して暴れるフロアマスター・ヒュドラを前にして、舌なめずりしつつ『妾の術で消し飛ばしてくれる』と豪語した人物なのだ。

ある意味、巨大な敵の登場はハヌの独壇場と言っても過言ではない。

神ならぬ身である僕には到底理解できるはずもないけれど、それでも己の力を持て余してぶつける先がないということが、それなりのストレスだというのは、なんとなくだけどわかる。

ハヌは今、普段から積もりに積もっているストレスの捌け口を見つけたのだ。

「ラト、【あれ】は妾の獲物じゃぞ。よもや異論はあるまいな」

案の定と言うか何というか。怪物の雄叫びの余韻が去った後、耳から手を離したハヌは開口一番、視線を鬼顔城へ固定したまま、熱に浮かれたように言い放った。

「あ、あー……うん」

おかげさまで僕の胸中で渦を巻いていた不安や恐怖が、綺麗さっぱり消失してしまった。

考えてみれば何のことはない。こちらには人の形をした神、現人神がいるのだ。何するものぞ、鬼の王。恐れる必要など微塵もなかったではないか。

「――? 何じゃ、ラト。何を笑っておる?」

「え?」

ふと思い出したようにこちらへ振り向いたハヌが、僕を見て怪訝な顔をした。どうやら我知らず笑みを浮かべていたらしい。多分、気が抜けた表紙に口元が綻んでしまったのだろう。

でも、それを言うなら、

「ハヌだって。すごく楽しそうだね?」

僕が逆に指摘し返すと、ハヌは立ち上がりつつ、ふふん、と胸を張った。

「無論じゃ。あの愚か者め、たまには粋なことをするではないか。あれほどデカい的(まと)であれば、妾も思う存分、力が振るえるというものじゃ。見ておれ。久々に加減なしで消し飛ばしてくれる」

伝承に聞く鬼人の王、言うなれば『伝説』と言っても過言ではない存在を称して、的(まと)である。ハヌの中では一片たりとも、あれが『敵』であるという認識はないらしい。

『――こいつのどこが鬼人だ、と思うプレイヤーもいることだろう。気持ちはわかる。だが、断言しよう。こう見えても、彼は歴とした鬼人さ。ああ、どう見ても地獄の底で蠢いているような怪物としか思えなくてもね』

エイジャの言葉を聞いて、僕の思考――あの形容しがたき巨体もまた、〝巨人態(ギガンティック)〟の一種なのだろうか? 一号氏から聞いた話に鑑みると、角の本数が多ければ多いほど鬼人として位が高く、また力も強いのであろう。醜悪な合成獣(キメラ)のあちこちから生えている色とりどり、種々様々な形状をした角の群れは、なるほど鬼人の王に相応しい数ではある。しかし、いくら何でも力を求めすぎたのでは、と思わずにはいられない。角持つ人だから『鬼人』と呼ばれたはずなのに、もはや人の体(てい)など成していないではないか。

あれがもし、一号氏達のと同じ〝巨人態(ギガンティック)〟なのであれば、あの中には〝核〟である人間大の鬼人がいるはずだが。いや、まさか『中の人』まであんな風な姿をしているとは思いたくないけれど――

『彼の名前は、妖鬼王ゴルサウア。鬼人の一族を束ねる族長にして王、そして神として崇められる者……鬼人の現人神、と言っても過言ではない存在さ。おっと、そういえば君達の中にも現人神がいたね。誰とは言わないが。人の神と鬼の神……こいつは刺激的なカードだ。激突が楽しみだね?』

「――な……!?」

怪物の名前が判明したことなんてどうでもよくなるぐらい、僕の頭に衝撃が走った。

――なんてことを……!?

エイジャは現人神のことを話題に出した。言うまでもなく、この状況で『君達の中にも現人神がいたね』なんて言ったら、そんなのハヌ以外に有り得ない。言わば遠回しに『小竜姫は現人神だ』と明言してしまったのである。

――まずい、ハヌの正体がみんなにバレた……!?

詳しいことはロゼさんやフリムにだって言ってなかったのに。

――なんてことしてくれたんだ……!

気になってハヌに視線を向けると、やはりさっきまでの楽しそうな顔が一転して嵐を孕んだものへと変化していた。眉根を寄せ、眉間に深い皺を刻み、鋭い視線を頭上のARスクリーンへと射込んでいる。

「――ラト」

不意にハヌが僕を呼んだ。こちらを一瞥もせずに。

「う、うん……」

僕は無意識に生唾を呑み込んだ。怒れる現人神の恐ろしさはよく知っている。余計なことをしでかしてくれたエイジャに対し、ハヌの憤怒はそれはもう

「このような時は、上等じゃ、と褒めてやるべきなのかのう? 思わず鳥肌が立ったぞ、妾は」

「……えっ?」

舌っ足らずの声で予想外過ぎる台詞を言われた僕は、頭に入った情報を即座に処理できずに一瞬フリーズした。

――え、あれ? お、怒ってない……?

むしろ上機嫌とも言える類の声音だった。

けれどハヌは、声に反して不機嫌そうだった表情を、徐々に獰猛なものへと変化させながら、

「……言うに事欠いて、あのようなものが妾と同じ神じゃと? あの醜い化生めがか? ふはは、面白い、実に面白いのう! こいつは傑作じゃ!」

言葉にすればするほどボルテージが上がってしまうのか、ハヌは声を高めて最後には呵々大笑する。空に向かって大きく笑い声を上げて、傲然と胸を反らして。

「――よかろう! その侮辱は万死に値する! このけったいな空間ごと何もかもを消し飛ばしてくれるわッッッ!!!」

違った。機嫌がよくなったかと思ったのは気のせいだった。すごい勘違いだった。むしろめちゃくちゃ怒ってた。というか、笑いが込み上げてくるほどブチキレていた。

しかし、それ以上に気になったのが、

――え、そこ……?

正体をばらされたことより、あの怪物と同列に並べられたことの方が、ハヌにとっては許しがたいことだったらしい。

轟、とハヌの矮躯から竜巻のごとく噴き上がるのは、物質化しそうなほど濃密な術力。

怒髪天を衝く、とはまさにこのことだ。

ハヌの全身をスミレ色のオーラが包み込み、揺らめく煌めきが狼煙のごとく天へと昇っていく。

「 森羅万象に宿りし全ての精霊よ 我が絶対の声を聞け 」

しまいには、これまで聞いたこともない力強い言霊が小さな唇から迸った。膨大な術力の籠った言霊は一瞬にして膨張し、周囲一帯どころか島全体へと伝播する。

いきなり強い風が吹いた。どこからかやってきた突風が僕とハヌの全身を激しく打ち据える。僕の戦闘ジャケットやハヌの外套の裾がバタバタと躍り暴れる。心なしか、空が曇って来たような気さえする。ここは空に浮かぶ島だというのに。

「え、ちょっハヌ――!?」

あまりの急展開に僕は頭がついていかない。まさかここから術式を発動させて、空に浮かぶ鬼顔城を吹き飛ばすつもりなのか。いや、それはそれでエイジャの目論見がご破算になって結構なことだとは思うのだけど、でももしあんな巨大質量がそのまま落下したら、この浮遊大島もただでは済まないんじゃ……!?

というか逆巻く瀑布のごときハヌの術力。もしかしなくても術式の発動の余波だけで、周囲の浮遊島全てを吹き飛ばしてしまうほどの規模ではなかろうか――もはや強大過ぎて正確な予測などできないけれど、直感的にそう思ってしまうほど、ハヌの放つ術力は多頭の大蛇のごとく獰猛に暴れ回っていた。

「 天に星 地に墓標 四方に祈り 禍殃(かおう)の力よ集え 我が手に宿り六合(りくごう)を従えよ あらゆる物を裂き あらゆる物を砕き あらゆる物を破壊せよ 」

いつになく早口かつ正確に紡がれる言霊は、凄まじい憎悪と敵意に満ちている。いつだってハヌは好戦的な性格をしているけれど、今回ばかりは完全に別格だ。心の底から本気で怒っているし、躊躇も遠慮も微塵もない。エイジャはハヌの逆鱗に触れてしまったのだ。

「ハ、ハヌッ……!」

それだけに、まずい。

まだ詠唱中だというのに、既に【空間が軋みを上げている】。

エイジャの作り上げた仮想空間が、埒外の術力によって飽和しつつあるのだ。

先刻ハヌは『このけったいな空間ごと何もかもを消し飛ばしてくれるわッッッ!!!』と嘯いたが、どうやらそれは誇張でも壮語でもなく、本気の宣言だったらしい。

冗談抜きで空間ごと何もかもを吹き飛ばすつもりなのだ。

「ま、待ってハヌ! 落ち着いてっ!?」

溢れ出る術力で仮想空間を満たし、膨れすぎた風船が破裂するように崩壊させる――荒唐無稽にも程がある想像だけど、でもハヌならやりかねない。

ここは流石に強硬手段に出るしかないのか――と、最悪後ろからハヌを羽交い絞めにする覚悟を決めようとした、その時だった。

「 あらまぁ 怖い怖いわぁ 随分と張り切らはって なんかええことでもあったんどす? 」

軽やかな鈴を転がすような声が、言霊を秘めて強く響いた。

例え耳に入らずとも心に響く――そんな声だった。

「え……?」

僕が驚きの声をこぼしたのは、しかしその不思議な声に対してではなかった。

何者かもわからない可愛らしい声が響いた瞬間、ハヌの動きがピタリと止まったのだ。

小さな体から噴火のように立ち上っていた術力が消え、スミレ色のオーラが雲散霧消する。まるで呪いのごとく連綿と紡がれていた詠唱が止み、吹き荒れていた風までもが嘘のように消え失せた。

「…………」

猛然と印を組んでいたハヌの両手が、不意に脱力してだらりと垂れ下がる。僕からは彼女の後ろ姿しか見えないけれど、その背中から何かが抜け落ちて――そう、まさに『憑き物が落ちた』としか言いようのない雰囲気が、そこには生まれていた。そして、

「……何故、おぬしがここにおる」

ハヌはどこへとも知れぬ方向へ向けて、無造作に話しかけた。首を巡らして姿を探す様子もない。まるで、相手がどこにいるのか見るまでもなくわかっているような。あるいは、探すこと自体が徒労であることを知悉しているかのように。

「さぁ? なんでやと思いはるん?」

今度は言霊のない声が響き、ようやく彼女――だと思う、この声音は――の位置が判明した。

僕達の後方にして、頭上。

僕は慌てて振り返り、顔を上げる。

果たしてそこにあったのは、宙に浮く赤い傘に腰かけた、不思議な女の子の姿だった。

「――……」

その瞬間、僕は色んな意味で絶句した。

出し抜けに大砲で魂を撃ち抜かれたかのようだった。

だけど衝撃を受けたわけでもないし、驚愕したわけでもない。

ただ、わからなかったのだ。変な言い方になるが、そこにいる女の子の存在を、上手く理解できなかったのだ。

息すら、できないほどに。

「……聞いておるのはこちらじゃ。問いをはぐらかすでない、【ロシュダルク】」

低く抑えたハヌの声。ロシュダルクと呼びかけた少女に対し、今度こそ振り返って蒼と金の瞳を向ける。

この瞬間、ハヌが必死に自己を抑制していることが僕にはわかってしまった。膨大な感情を剛健で理性が押さえこみ、けれどすぐ限界まで張り詰めて、今にも破裂してしまいそうになっている――そんな表情をしていたからだ。

「ややわぁ、そんな呼び方。もっと仲良うする感じで、アグニール、って呼んでくれはりますぅ?」

一方、女の子はクスクスと、からかうように笑いながらやはりハヌの舌鋒をひらりと躱す。閉じた状態の和傘に腰かけているという不思議な状態の彼女は、そのまま謎の力によってゆっくりと下降を始めた。やがて、こちらと目線を合わせる程度の高さで停止する。和傘の先端をこちらへ向け、体は斜(はす)に構えて、僕らと相対する形で。

アグニール。どうやらそれが彼女の名前らしい。だけど――いや、まて。その前にハヌは彼女をなんと呼んでいた? 

確か――ロシュダルク?

……聞き覚えがあり過ぎる。それは確か、ハヌのもう一つの名前である『ヴァイキリル』と同じ極東の――

「つまらぬ韜晦(とうかい)は止めよ、と言っておる。現人神であるおぬしが、何故このような場所に来ておるのかと聞いておるのじゃ。疾(と)く答えよ」

僕の頭に雷が落ちた。脊髄に激震が走る。あまりの驚きに声も出せない。

そう、火と南方を司る極東の荒神――その名もロシュダルク。

なるほど、道理である。

僕が一目見た瞬間から忘我するのも当然であった。

僕が得も言えぬ感覚を覚(おぼ)え、硬直してしまった理由は一つ。

アグニールと名乗った現人神の少女は、服装や髪形の差異はあれど、まるで双子のように、ハヌと同じ顔をしていたのである。

「――……!」

愕然とする僕の視線の先で、うふ、とアグニールが笑う。ハヌと同じ顔――目鼻立ちのパーツが同一という意味――だというのに、まるで似ても似つかぬ妖艶な表情。幼い女の子にこんな表情が出来るのか、と思うほど艶やかで――我ながら実にいやらしい言い方だが――それは『女の顔』だった。

「ほんなら言わせてもらいますけど。それはうちの言葉どすえ、ハヌムーン姉様。姉様こそ、なんでこんなとこにおりはるん?」

今度はハヌの放った質問を、そっくりそのまま返してくる。

これはハヌにとっても痛いところだろう。と言っても、僕も彼女の詳しい事情を知っているわけではないのだけれど。

「…………」

案の定、ハヌはアグニールを見つめたまま黙り込んでしまった。その目線は睨んでいる――と言うほどには強くなく、だからと言って穏やかなわけでもない。

ただ少なくとも、彼女の出現がハヌにとって、目先の怒りを忘れるほど衝撃的だったことは確かだ。さっきまであんなにも怒り心頭に発していたのに、今では何もなかったかのように落ち着いているのだから。少なくとも、表面上は。

引き続き、空からはエイジャの声が降ってきている。鬼顔城の方でも何か動きがあるはずだ。しかし、目の前で起こっている事象が気になりすぎて、ほとんど耳に入ってこなかった。

「……質問を変えるぞ、ロシュダルク。おぬし、ここへ何しにきよった」

再び口を開いた時、ハヌの声音は硬さを増していた。どことなく、聞かずとも答えはわかっておるがな、という言外の言葉が聞こえてきそうな、諦めの入り交じった言い回しだった。

「そんなん、聞かずともわかりはるやろ?」

間髪入れず、対照的に軽い声でアグニールは返す。着崩した着物から露わになっている細い肩が小さく揺れ、彼女が声を立てずに笑っていることを示していた。

「――――」

何だろう、この感じは。

ハヌによく似た可愛らしい女の子が、楽しそうに笑っている。それは本来なら、心が朗らかになる光景のはずだ。

なのに、どうしてなのだろう。

こんなにも、胸がざわついてしまうのは。

不穏。その一言に尽きる。

このアグニールという現人神の少女は、その一挙手一投足がいちいち怪しいのだ。

その声に、その視線に、その仕草に、何もかもに含みがあるように思えてならない。

ハヌが警戒するのもわかる気がする。あるいは、ハヌが警戒しているから僕も感化して、そのように見えてしまうのかもしれないけれど。

ハヌの態度が軟化しないのを見て取ると、アグニールは赤と青の色違いの瞳――ハヌとは色合いが違うオッドアイ――を爛々(らんらん)と輝かせた。

「――うちの目的は一つだけ」

朱を引いた唇の両端を釣り上げ、にぃ、と笑みを浮かべる。それは『子供らしい』という形容の対極にあるかのごとき、魔性の笑みだった。

「ハヌムーン姉様ぁ」

ハヌによく似た、だけど決定的に違う声が途端に甘ったるく蕩(とろ)ける。彼女はそのまま声に拍子をつけてリズミカルに、

「あー、そー、びー、まー、」

そして最後には意外なほど、くしゃ、と屈託のない無邪気な笑顔になって、締めの音を置いた。

「――しょ?」

その瞬間だけは、年相応の子供のように見えた。

その瞬間だけは。