エイジャの観戦するゲームは、それはもう壮大なるエンターテインメントと化していた。

思った通りだ。

プレイヤー全員がそうというわけではないが、やはり一部の者の実力が破格すぎる。

現人神の二柱は言わずもがな。

それ以外の者でも、浮遊大島が傾くほどの力を生み出す少女が二人もいて。

あの〝剣嬢〟と呼ばれる女剣士は、光の大斬撃で浮遊大島そのものを両断してしまった。

素晴らしい攻撃力、そして破壊力であった。

無論、あまりにも致命的なダメージはゲームの進行そのものに影響しかねないので、陰ながらエイジャの手によって修復、補強されているが。

「――ふふ……」

遠く、浮遊群島から遠く離れた空の一点に座すエイジャは、静かに含み笑いを漏らす。薄く淹れた紅茶にも似た色の瞳に愉悦の光をたたえ、口の端をつり上げる。

もはやゲームは終盤も終盤。

最後の手駒である妖鬼王ゴルサウアと、その配下である鬼人の軍勢も投入した。後は仕掛けをご覧じろ、という段である。

しかし。

「――余計なことをしてくれた、とは思わないけれどね」

ふと笑みを消して、エイジャは虚空に呟く。右手を顎にやり、左手で右肘を支えるようにして腕を組んだ。

弓形に反っていた瞳を素に戻した彼が目にするものは、しかし第三者には窺い知れない。視界に映る以外のものを、彼はその能力によって遠見しているのだから。

「とはいえ、オレのマスターに意味も無く手を出されるのは癇に障る……いや、プログラムであるオレにそんな人間じみた感情はないかな。より詳細に言えば――警戒レベルが上がってしまう、だろうか」

くす、と笑ってエイジャは首を傾げてみせた。誰も見ていないにも関わらず。

「けれど、これはこれで面白い、とも言える。勾邑(まがおう)、君の介入がマスターにどんな影響を及ぼすのか……オレはどうやら、それを楽しみにしているらしい。いやはや、各種センサーが微妙な値を示し過ぎていて演算が上手くいかないよ。こんなのは久しぶりだ。いや、生まれて初めてなのかな?」

自らの内に生じたものを持て余すように、エイジャは顎に添えていた右手を胸へと移した。掌を広げ、心臓もないのに鼓動を確認するかのごとく押し付ける。

――何はともあれ【順調】だ。

敢えて声には出さず、エイジャは内心で独りごちる。

そう、全ては順調だ。ほぼ想定した通りにゲームは進んでいる。もちろん、現人神二柱の暴走というイレギュラーこそあったが、それも趨勢(すうせい)にはまったく支障ない。幸いにして、ロシュダルクは興を削がれてやる気を失ったようだ。二度と同じようなことはしでかすまい。

だが、

「――いや、わかっている。わかっているさ。何事も終わってみるまではわからない。それは知っている。ああ、知識として知っているよ、オレは」

自らに言い聞かせるように囁くと、エイジャは双眸を細めた。

「さて、フィナーレは近い。最後まで楽しもう。そう、最後まで」

くす、と微笑み、たっぷりと情感を込めて彼は呼び掛けた。

「ねぇ、マイマスター」

ハウエル・ロバーツという男は、ひたすら〝生き残る〟ことに特化している。

生存競争に勝ち残る――それこそが彼の信条であり、どのような逆境であろうとも、どれほど卑怯な手を使おうとも、〝生還することこそが最優先かつ絶対〟というのがハウエルの基本姿勢であった。

今回の事態においても揺らぎはない。

生き残るためなら何だってする――それがハウエルの行動指針だ。

誇り? 矜持? プライド? 違いがわからない、そんなものは犬にでも喰わせてしまえ――!

そう言わんばかりに、鬼顔城が降臨した直後から彼は逃げの一手を打っていた。

「ハッ、あんなデカブツ共の相手をするなんざ正気の沙汰じゃねぇな。あの手の奴らは〝剣嬢〟のや〝勇者〟のに任せておきゃいいんだよ」

配下の『探検者狩り(レッドラム)』を引き連れて、ハウエルは中央の都市区から遠く離れた南方――即ち、自分達のスタート位置へと戻っていた。

とはいえ、部下の数は心もとない。あの乱戦の中、ハウエルの指揮下に残っていたのは僅かに数名。それ以外の者達とは完全にはぐれてしまった。ここまで逃亡してきたからには、もはや通信も出来ない。もっとも、あの朽ちた都市部で鬼人の軍勢に襲われて、なおも生き残っている者がいるとは到底思えないが。

実際、部下の一人に『サーチ』を使わせてマップを確認したところ、案の上の結果が出た。あれだけあった『白』と『黒』の光点はほぼ消えており、代わりに大量の『赤』が浮遊大島の中央部を埋め尽くしていた。

そんな中、なけなしの『白』『黒』の混合集団が抗戦し、敵の本拠地へと進軍しているのが目立った。確認するまでもない。『蒼き紅炎の騎士団《ノーブル・プロミネンス・ナイツ》』に決まっている。他に誰がいるというのだ。

だが、助太刀に向かう、という思考はこの時のハウエルにはない。言っては何だが『探検者狩り(レッドラム)』側の優位性はあくまで数の多さだった。手勢のほとんどを失った今となっては、もはや〝剣嬢〟ヴィリーと〝氷槍〟カレルレンの率いる集団に勝てる要素などまるでない。

――〝剣嬢〟の達が勝てねぇんなら、どうせ勝ち目はねぇ。こっちはとっくに烏合の衆だからな。

そう判断したハウエルは、逃げられるだけ逃げて、あとは高みの見物を決め込むつもりでいた。

所詮、自分達『探検者狩り(レッドラム)』は寄せ集めの集団。エクスプローラーのクラスタと呼べるほどのまとまりはない。ほとんどの者が『利害が一致している』、ただそれだけの理由で行動を共にしていたに過ぎないのだ。

個としての戦力はそれなりだが、集団としては良く言っても中の上あたりが妥当だろう――少なくとも、ハウエルはそう分析している。

「なんだよありゃあ……なんてこった……おっかねぇ……」

ハウエルの背後にいる『探検者狩り(レッドラム)』の一人が、心底怯えるように呟いた。彼に限らず、この場にいる全員の視線が、浮遊大島の中央へと向けられている。

断続的に響く地鳴り。足元から伝わってくる無視できない揺れ。時折、空へと突き立てられる光の槍や巨大な火柱。花火のごとくパッと咲き散る煌めきの華。

そのどれもが、ここではないどこかで繰り広げられている戦いの激しさを物語っていた。

「――フン……」

荒くれ者の柄でもない弱音を耳にしたハウエルは、腕を組んだまま鼻で笑った。他人の命を奪うことを生業とする人間が、目の前の戦場に怯えているようでは商売あがったりである。

ハウエル自身は打算の結果として逃げることを選択したが、他のほとんどの者はそうではなく、純粋に恐怖からの逃亡であった。

故に。

「マジかよ、信じられねぇ……」「頭おかし過ぎんだろ……」「どうなってやがんだ、アイツら……」

辛くも生き残った『探検者狩り(レッドラム)』らの口から、遠くに見えるヴィリー達『蒼き紅炎の騎士団《ノーブル・プロミネンス・ナイツ》』の戦いに対する愚痴めいた言葉がこぼれる。己達よりも年若い者達が果敢に戦っている事実に対し、後ろめたさを覚えるのだろう。ぼやきの一つでも言っていなければ、精神の均衡が保てないのだ。

無論、ハウエルから見ても『NPK』の戦い振りは、よくもここまで、と言わしめるほどのものだった。

いくらエクスプローラーが普段から図体のでかい怪物を相手にする生業とは言え、鬼人の〝巨人態(ギガンティック)〟の大きさは尋常ではない。常識的に考えて、あれほどの巨大さを誇るSBならば、ゲートキーパー級(クラス)を軽く飛び越えてフロアマスター級(クラス)にカテゴライズされて然るべきだ。

言わば〝剣嬢〟ヴィリーとその仲間達は、フロアマスター級の軍勢を相手に、がっぷり四つに組んでいるのである。

先述の通り、やはりどう考えても正気の沙汰とは思えない。

だがそれ以上に信じがたいのが、そんな化物の大群を相手に『蒼き紅炎の騎士団《ノーブル・プロミネンス・ナイツ》』が一歩も退いていない――むしろ圧倒している、という事実であった。

遺跡のゲートキーパー級以上の怪物が群れを成して襲いかかってきているというのに、決して引けを取っていない。

こんな状況、それこそドラゴン・フォレストの奥深くまで潜って将星類(ジェネラル)や伝説の皇帝類(カイゼル)あたりのドラゴンをポップさせない限り、まず遭遇することはないだろう。通常の遺跡(レリクス)ではサイズ的に、超巨大SBがポップすること自体がまず有り得ないのだから。

だというのに。

――まともに渡り合っていやがるぜ。あの怪物共とよ……

背筋に怖気が走るのを、ハウエルは止められなかった。

初対面の時を思い出す。あの時、ハウエルは『放送局』を人質に取った上で『先を譲れ』と押し通った。無論それだけではなく、背後にいる仲間達の数も無言の圧力として機能していたはずだ。

だというのに〝剣嬢〟ヴィリーは怖気づくこともなく、こう告げたのだ。

人質に少しでも傷をつけてみろ、その時は【全員生きたまま焼き殺す】――と。

今更ながらに、あの言葉が嘘ではなかったことをハウエルは思い知る。ハッタリでも虚勢でもなく、あれは真実の言葉だったのだ。

あの時、ハウエル達が『放送局』の人間に毛ほどでも傷をつけていれば、その時点で全ての駆け引きはご破算となっていた。そして、ヴィリーはこちらを丸ごと焼き殺していたに違いない。そうすることが彼女には可能であったし、脇を固める騎士達にもそれを邪魔させないだけの実力があった。

文字通り、自分達は【見逃された】のだ。人質を無傷で救出する――それだけのために。

遠くから届く爆音がハウエルの体を強く揺さぶる。これだけ離れているというのに、音だけでこの衝撃だ。至近ではどれほどの威力になっているのか、まるで想像できない。

「すげぇ……まだ生き残ってやがるぞ……」「おいおい、あいつら死ぬのが怖くねぇのかよ……」「有り得ねぇ……ぶっ飛んでやがる……」

サーチによってリアルタイム表示になっているマップを、雁首揃えて覗き込んでいる男達が口々に囁く。その声の底には少しの畏怖と、同時にいくらかの期待が籠っていた。

自分達は恐ろしくて立ち向かえないが、それはさておき、やはり生き残りたいものは生き残りたい。その為には『蒼き紅炎の騎士団《ノーブル・プロミネンス・ナイツ》』の連中には勝ってもらわなければ困る。であれば、彼女らが優勢なのは喜ぶべきことだ。口では悪し様に言いつつも、ヴィリー達の勝利を誰よりも望んでいるのが『探検者狩り(レッドラム)』達なのである。

「へっ……今更よ、なぁに言ってやがるんだテメェらは」

みっともなく怯えている部下達を嘲笑うように、ハウエルはザラついた声で吐き捨てた。

「あいつらが異常? 頭がおかしい? んなこたぁ最初からわかってたことだろうが! ハッハァッ!」

腕を組んだ大男は呵々と笑い、褐色のドレッドロックスを揺らす。浅黒い肌に彫りの深い顔、濃い髭を生やした彼が耳障りな声を発するだけで、場の空気が一変した。

「【だからエクスプロールなんて馬鹿げた真似を続けてやがるんだろうがよ】、あいつらは! 脳みそのネジが一本や二本ぶっ飛んでいるなんざ、今更言うことでもねぇ当たり前のことじゃねえか。寝ぼけたこと抜かしてじゃねえぞテメェら!」

「ボ、ボス……」

予想だにしていなかった一喝に、部下達は総じて肩をすくめた。ただ一人、ハウエルの背後に傅(かしず)く全身黒尽くめの男――ヤザエモンだけを例外として。

「…………」

――っと、いけねぇいけねぇ。俺ぁ何をイラついてるんだが。どいつもこいつも同じ穴の狢(むじな)だ。目くじら立てるってほどのことでもねぇだろうがよ……

部下達の怯える様子に、ハウエルは、はた、と我に返った。視線を空に移し、心の中で落ち着けと独り言ちる。

それから、どうやら自分は苛立っているらしい、とハウエルは洞察する。部下達の口振りはいつものことだ。自分で言うのも何だが『探検者狩り(レッドラム)』になるような連中に、崇高な目的意識などあるわけがない。あの程度の悪罵(あくば)誹謗(ひぼう)などは日常茶飯事なのだ。今更怒る理由などない。

――つうことはだ、俺ぁあいつらにイライラしているわけじゃあなくてよ……

どうも現状に不満を覚えているらしい、という結論が出た。

そこからは話が早い。ハウエルの思考は決して鈍間(のろま)ではなく、むしろ一流の戦士らしく異常なまでに速い。また自身の状態を正しく把握する能力は、戦場に生きる者としての必須技能であった。

そこから導き出された結論は――我ながら度し難いことに、自分は無力感に苛まれているらしい……というものだった。

要は、犬にでも喰わせておけばいいと嘯(うそぶ)いていた誇りが、矜持が、プライドが。

大人しくしていればいいものを、今更のように胸の内で騒ぎ立てているのである。

「――チッ……!」

そう自覚した途端、腹の底に居座っていた焦燥感が倍増した。思わず音高く舌打ちし、意味も無く片足でタップを踏んでしまう。

理屈ではわかっている。あそこにいるのは年若く見えても、誰も彼もが尋常ではない次元の傑物だ。圧倒的な鬼人の軍勢を相手に、五分以上の戦いを繰り広げているのである。そこに疑念の余地はない。故に、戦うべきは彼らであり、自分達が戦場へ赴くのは自殺行為である――と。当然の帰結として、その答えが弾き出される。

だが同時に、その誰も彼もが【ハウエルより年下】であり、下手をすれば『子供』と称してもおかしくない者が、多かれ少なかれ含まれてもいるのだ。

だからこそ、葛藤が生じる。

自分は何をやっているのか――と。

「――チィッ……!!」

改めて強く響く内なる声に、ハウエルは再びの舌打ちに加えて、奥歯を強く噛みしめた。

大人と子供。そう、ハウエルを含めここにいる『探検者狩り(レッドラム)』の面子と、あちらで戦っている『蒼き紅炎の騎士団《ノーブル・プロミネンス・ナイツ》』のメンバーとでは、それこそ親と子ほどの年齢差がある。

その事実を情けないと思わないのか――と感情が唸った。

黙れこれが合理的な判断だ――すかさず理性が反論する。

のこのこと出て行ったところで死ぬのはわかっているが、さりとてこんな場所で高みの見物をしているのが一人の大人として正しいことなのか――無論、常日頃から自身を『人間のクズ』として認識しているとはいえ、良心の呵責というものはいつまで経っても消せはしない。

ハウエルは我ながら不合理なことだと理解しつつも、どうしようもない心中の荒波に翻弄されていた。表向きは巌のごとき顰(しか)め面で誤魔化してはいたが。

「――けっ……」

ややあってから、自嘲するように吐き捨てる。

所詮(しょせん)は無駄な懊悩(おうのう)だ。今から戦場に突っ込んで『蒼き紅炎の騎士団《ノーブル・プロミネンス・ナイツ》』の助太刀に入るなど現実的ではない。機などとっくに逃している上、戦略的にも戦術的にもまったく意味がない。そもそも号令をかけたところで配下の『探検者狩り(レッドラム)』が従うはずもない。ハウエル一人で特攻でも仕掛けるというのなら、話は別だが。

「御館様(おやかたさま)」

「ぁん?」

何の前触れもなく背後からかけられた声に、ハウエルは生返事をする。聞き慣れた声は『探検者狩り(レッドラム)』などという血生臭い稼業に手を染める前からの腹心、ヤザエモン・キッドのものだった。

「何者かが近付いて参ります。気配は一人分、足音も。ゆっくりですが、確実にこちらへ向かっております」

耳元で囁きかけるような小さな声だが、ハウエルにはしかと聞こえている。ヤザエモンの特殊技術だ。

「あ? 野郎共は何も――」

言ってねぇじゃねぇか、という言葉をハウエルは呑み込む。生き残りの『探検者狩り(レッドラム)』達は交代で『サーチ』のマジックを使用し、中央部での戦いの様子を観察している。リアルタイムで『白』『黒』『赤』が動いているのを眺めているのだ。どれか一つの光点でもこちらへ近付いてきているのなら、すぐに気付いて報告してきてもいいではないか。

だが、その報告はない。彼らがヤザエモンの言う〝何者か〟に気付いている様子もない。

ということは即ち――

「――おいおい、〝亡霊〟ってんじゃねえだろうなぁ、こんな時によぉ」

考えられる可能性は一つ。

【HPを全損しているが、しかし〝死亡〟はしていないプレイヤー】だ。

ハウエルもそれなりにこのゲームについては調べていた。検証の結果、HP0の〝失格〟状態のプレイヤーが『サーチ』に引っかからないことを把握している。なにせ、その設定を逆手にとってベオウルフ&小竜姫、および『蒼き紅炎の騎士団《ノーブル・プロミネンス・ナイツ》』を欺いたのだから。

「おいテメェら、お客さんだ! 誰だか知らねぇがぼーっとしてるとぶっ殺されるぞぉ!」

ハウエルは声を張って部下達に警戒を促す。同時に〝SEAL〟を励起させ、腰に下げた舶刀(カットラス)の一本を抜き放った。

五名の『探検者狩り(レッドラム)』らが身を震わせ、慌てて臨戦態勢を整える頃には、ヤザエモンの言う〝何者か〟の姿がうっすら見えてきた。

ハウエル達のいるのは中央都市部の南側。彼らにとってゲームのスタート地点であり、中央区への入り口にあたる。つまりは不毛の荒野からアスファルトで舗装された路面へと切り替わる地点であり、自然の土地と人工の地域との境目であった。

その〝何者か〟は、都市部からやって来た。

朽ちたビルディングの谷間、崩れ落ちた瓦礫の陰、そららの間を縫うように歩いてくる。

「…………」

まだ遠すぎてよく見えないが、比較的小さな人影だ。急ぐわけでもなく、それどころか、下手をすると夢遊病者のように危なっかしい足取りである。ふらり、ふらり、と風に揺れる柳のごとく揺れながら、しかし確実にこちらへと近付いてくる。

「…………」

この時点で、ハウエルは内心で拍子抜けしたことを否めない。明らかに危険を感じない――むしろ【敗残者】の足取りだったからである。

どこの誰かは知らないが、さしずめ鬼人らに痛い目に遭わされたプレイヤーの一人だろう。体格から察して『探検者狩り(こちらがわ)』ではなく『蒼き紅炎の騎士団(あちらがわ)』の人間だとわかる。

だが、油断は禁物だ。ハウエルは念のため、舶刀を握る手に力を込める。

こうなってはどこか悲しげに見える歩調で、〝何者か〟はゆっくりと近付いてきて――

「――ハッ! 誰かと思えばよぉ!」

ようやっと顔形が判別できる段になると、ハウエルは声を上げて笑い飛ばした。正直、内心で胸をなで下ろしながら。

「ようようどうしたどうしたぁ! ――〝勇者の〟よぉ!」

ひょこり、ひょこり、と足を悪くした老人のように歩いてくる黒髪の少年に、ハウエルは揶揄するべく呼び掛けたのだった。

しかしながら、少年の思いがけない姿での登場に違和感を抱かないほど、ハウエルは愚鈍ではなかった。

――おいおい本当にどうしやがった? 随分と【らしくねぇ】じゃねえか。

大声で話しかけても、近付いてくる少年は何の反応も示さない。まるでこちらの声が聞こえていないかのようだ。

こちらへ近寄ってくるのが正体不明の相手ではないとわかって多少は安堵したハウエルだったが、こうなっては余計に不穏な気配を感じてしまう。一度は脱力しかけた体に活を入れ、舶刀を握る手を改めた。

「ぁあ……?」

少年が近付いてくるにつれ、その様子もつぶさに見て取れるようになる。彼が『〝勇者〟の』と呼ぶ人物の歩く姿勢が判別できた途端、ハウエルは胡乱げな声を漏らした。

俯いている。どう見てもこちらの存在に気付いている様子はなく、下を向いたまま歩いてくるのだ。視線は靴の爪先に固定されているようで、どことなく野暮ったい黒髪がカーテンのように垂れ下がっている。あれでは前など見えようはずもない。

――あれは本当に〝勇者ベオウルフ〟か……?

ふと、そんな疑念が脳裏をよぎった。顔も見えないのに何故あの人影を〝勇者ベオウルフ〟と思ったのかと言えば、それは服装が理由である。忘れるはずもない、直に戦った際に何度も間近で見たのだ。あの特徴的な色合いの戦闘ジャケットは間違いなく〝勇者ベオウルフ〟のものだ。

しかし。

「……おぉい〝勇者〟のよぉ! 聞こえてねぇのか! 聞こえてるんなら返事ぐれぇ」

しやがれ、と言いかけたハウエルの舌が唐突に凍り付いた。

気付いたのだ。少年がただ俯いて歩いているだけではないことに。

ザリザリと地面を擦る音。細長く、しかし固い何かで土やアスファルトを削る音だ。それが耳朶に届いたのである。

この瞬間、ハウエルの熟練の戦士としての勘と経験則が、耳障りな音の正体を看破した。

剣だ。それも長大な刀身を持つ。その切っ先が地面に触れ、無遠慮に擦っているのだ。

少年が後ろ手に剣を引き摺り、体で剣を隠しているからすぐにはわからなかった。音が聞こえるほど近付いてきて、ようやくわかった。

わざとか、あるいは意識せず自然にか。無造作に剣を引き摺ってくる少年の姿は、もはや完全に不審者だった。

やがて、さらに〝勇者ベオウルフ〟の様相がはっきりしてくると、彼の引き摺っているものが長大な刀――いわゆる〝長巻〟と呼ばれる代物であることが判明する。

少年は一メルトルもある柄を適当に掴み、まるで犬の散歩でもするかのごとく、刀身に地面を舐めさせながら歩いていたのだ。

「――チッ……!」

明らかに尋常ではない。ハウエルは得も言えぬ戦慄を覚え、舌打ちする。

戦場において抜き身の剣を持っていること自体はおかしくない。だが、せっかく握っている得物をろくに構えもせず、適当に引き摺って歩いているというのは一体何の冗談なのか。

また、長い付き合いではないが少年の為人(ひととなり)を多少なりとも知っているハウエルからすると、自身の所有物をぞんざいに扱う様はいかにも【らしくない】。

何かがおかしい。

よく似た別人か? いや、それはない。この浮遊大島にいる人間、つまりプレイヤーの数は限られている。あの手の格好をした奴は〝勇者ベオウルフ〟しかいないはずだ。

「――オイ、テメェら。『サーチ』を使ってる奴よ、あのガキの名前は確認できるか?」

「へっ? あ、へい!」

先程までマップを眺めていた部下達に問いを飛ばすと、一人が背筋を伸ばして返答した。少年に向けて、じっ、と目を凝らし、

「あー……らぐ、でぃす? でぃ……はる、と……? いや、えらい長い名前が書いてやがりますが……」

「おう、そうか。それならいい」

確か、小竜姫が少年のことを『ラト』と呼んでいたはず。名前の最初と最後を繋げての愛称なら『ラグなんたらハルト』という名前でもおかしくはない。

ということはやはり、あれは〝勇者ベオウルフ〟で間違いないだろう――ハウエルはそう結論付けた。

――不味いぜ。あの野郎がもし【やる気】だってんなら、こっちは分が悪いにも程(ほど)があらぁな……

嫌な汗が全身の毛穴から噴き出てくる。何と言ってもあちらには『勝者の特権』があるのだ。予選の際に獲得された『敗者への強制命令』権限――ハウエルは彼と直接やりあった結果、ぐうの音も出ないほどの敗北を喫し、そのルールが適用されてしまっている。

――確か……敗者は勝者から『強制命令』を受けた場合『それがどんなものであれ従わなければならない』という強制力が働く。なお、命令内容がゲームに無関係のものである場合はその限りではない……だったかよ。まさか同じ『白』チームの仲間に〝死ね〟だの〝自爆しろ〟だのは命令できねぇだろうが……

逆に言えば〝動くな〟や、〝『黒』チーム所属の『探検者狩り(レッドラム)』を攻撃しろ〟といった命令なら確実に通るはずだ。

戦闘になれば不利なんてものではない。現時点で完全に【詰んでいる】。

逃げようとしても無駄だろう。もはやこの距離では〝待て〟の一言で全てが終わる。

――へっ、万事休すってわけかよ……

己の間抜けぶりにハウエルは自嘲の笑みを浮かべた。どうしようもなく読みを誤ったとしか言いようがない。よもや、戦闘中以外は大人しめの少年がここまで変質しようとは、予想だにできなかったのだ。

しかし。

「――……?」

とある地点で少年が足を止めた。突然、ピタリと。応じて、剣を引き摺る音もやむ。

思いがけない停止に、誰もが訝しげに眼を細めた。それでも少年は俯いたまま、凍り付いたように静止している。

まるで狙いが見えない。何を考えているのか、さっぱり理解できない行動だ。

ごくり、と我知らずハウエルは生唾を嚥下した。

何だろうか、この妙な迫力は。まださほど大きいとは言えない、どちらかと言えば細身の、いかにも少年らしい体つき。言っては何だが、ハウエルの豪腕で一叩きすればそれだけで折れてしまいそうな、針金のような矮躯でもある。実際にはそうすることは叶わなかったが。

だというのに、ただそこに突っ立っているだけで、異様なほどの圧迫感を覚える。それこそ鬼人の〝巨人態(ギガンティック)〟が眼前にいるかのごとく。

ハウエルはこのまま少年の出方を見たいところだったが、配下の者は少年が放つ重圧(プレッシャー)に耐えられなかったらしい。

男の一人が独断で威嚇の声を放った。

「ぉ――おうテメェコラ! 一体何の用だ! やる気かぁオイッ!」

馬鹿野郎なに余計なことしてやがる! と叫びたいハウエルだったが、そんな暇などなかった。

ハウエルほどではないが、野太い男の声が響いた途端だった。

少年が、ぐんっ、と面を上げた。

いきなりだった。

何の前触れもなかった。

あまりにも非人間的な動きだった。

機械仕掛けの人形が首から上だけを動かすような、そんな異様な動作だった。

露わになった少年の顔は、虚無だった。これといった感情のない、仮面のごとき無表情。目付きも虚ろで、視点はどこに定められているかもわからぬ有様。

『――!?』

思いも寄らぬ顔付きに、その場にいる全員が気圧された。どう考えても刺々しい言葉をかけられた人間のする表情ではなかったのだ。

しかも。

「お……!?」

誰からともなく呻き声を上げた。

少年が顔を上げたのと同じぐらい唐突に、こちらへ向かって駆け出したのである。

これまた意表をつく動きだった。

糸の見えない操り人形が走り出したような、奇妙な動き方だった。明らかに上半身と下半身の動作が連動していない。首の座り方もおかしい。胴体と四肢が分離でもしているのかと思うほど、奇妙な走り方だった。

だがそれも一瞬だけのこと。

二歩三歩と進むと、急激に走り方を思い出したように姿勢が安定した。

嘘のように綺麗に。

加速する。

後ろ手に引き摺られている長巻の切っ先が『ザリザリ』から『ガリガリ』へと音を変え、ついには『ガッガッガッ』と飛び石状に跳ね始めた。

構えも何もない、それは無茶苦茶な突進だった。

この場にいるのは全員が戦闘のプロであり、殺し合いの経験を持つ猛者ばかりだった。そんな彼らの目からすると、少年のそれは明らか自殺行為にしか見えなかった。

「――来るぞぉテメェらぁッ!」

あまりのことに茫然自失した配下達に向かって、ハウエルの胴間声が飛んだ。ザラついた声はまさしく男達の精神にヤスリをかけ、我に返らせた。

「アっ――アっ――アっ――」

剣を引き摺りながら駆け寄ってくる少年から、変な音がする。かと思えば、それは何故か大きく開かれた彼の喉から漏れる声だった。馬鹿のように大口を開けて飛び跳ねるように疾駆するので、衝撃で腹と喉が揺れて自然と声が出ているのだ。

虚ろな表情のまま。

「――~ッ……!?」

生理的嫌悪感がハウエルの背中に怖気を走らせた。

「う、うおっ、ななななんだコイツっ!?」「あ、頭おかしいんじゃねぇか!?」「き、気持ち悪ぃ!」

同じものを感じたのか、『探検者狩り(レッドラム)』達も武器を構えながら口々に叫んだ。

そうだ、正気ではない。それは一目瞭然だ。

しかし、それ以上に。

違う――とハウエルは直感した。腰を落とし、舶刀を構えながら無法者のボスは刮目する。

――あれは〝勇者〟のじゃねえな……!

見た目こそあの少年だが、【中身】が全くの別物になっている。頭がおかしくなったとか、心が壊れたとか、そんな次元ではない。

【別人だ】――と。

「ア――――――――――――――――」

阿呆のように開いた喉奥から、歌うように長く声を放つ少年。僅かな変化もない表情も相まって、それは狂人としか言いようのない姿だった。

いつしか切っ先が地面から離れて浮いていた長巻を、少年は右腕だけで振り上げた。それだけで重心が崩れ、走る態勢が大きく傾(かし)ぐ。危ういほどの急角度。下になった左手が地面に触れそうなほどの傾斜だ。

なんと、そのままの体勢で跳躍する。まるで武器を持った猿か何かのごとき動きで。

「な、ちょ……!?」

真っ先に狙われたのは無論のこと、威嚇を放った男だった。手に持った得物である両刃斧(ラブリュス)を盾のように構えているが、突拍子もない少年の行動に戸惑っているせいでまともに握れていない。

「ア――アっ」

おかしな体勢から跳んだとは思えないほどの高い位置、空中から躍りかかる少年。右腕で直上に振り上げた長巻を体全体を使って振り下ろした。長い刀身が風を切って両刃斧の男へと斬りかかる。

「ひぃ――!?」

対する男は両刃斧を上空にかざしながら、情けない悲鳴を上げて腰を後ろに引いた。これまで何人ものエクスプローラーを殺して所持品を強奪してきた『探検者狩り(レッドラム)』とは思えない惰弱ぶりである。要は、それほどまでに少年の存在と態度と行動が異質であったわけだが。

鋭い金属音。振り下ろされた長巻の刃が両刃斧(ラブリュス)の上部を叩き、しかしあっさりと跳ね返された。大した力を込めた斬撃ではなかったのだ。ぶつかり合った金属同士は反発して、しかし少年の身体はそのまま縦回転を続ける。手首の柔らかさで衝撃をいなしたまま、少年は空中で一回転。演舞のごとく華麗に着地した――否、美しく舞い降りたかと思えば想定以上に体が沈み込んでいき、四つ足の獣のごとく深く身を伏せた。右手の長巻は浮かせたまま、左腕と両足を広く広げて限界まで頭を下げる。もはや地に這う直前、片腕立て伏せのような状態となる。

流れるようなスムーズさで。

「ア――――――――――――――――」

奇怪なのは――いや、ある意味では顔付き通りではあるのだが――その行為に戦意や殺気がまるでないことであった。これが故に誰もが、頭目であるハウエルまでもが、少年の思惑を測りかねていた。実際に攻撃されるまで、本気で攻撃する気があるのかないのかを判じることが出来ないのだ。

だからこそ、歴戦の猛者をして受け身に回らざるを得ない。

見た限りでは明らかに【イカレて】はいるが、相手は新進気鋭のエクスプローラー〝勇者ベオウルフ〟。いつ支援術式を使用するのか、そのタイミングによってはこちらが瞬殺されてもおかしくない怪物なのだ。

「う、お、ぉっ……!?」

ベオウルフの襲撃を受けた男が、ほんの一合、それも軽く打ち合っただけだというのに、三歩以上も後退(あとじさ)りした挙句に尻もちをついた。得体の知れない相手の攻撃に、完全に委縮してしまっている。

この瞬間、ハウエルの中でようやく闘争本能のスイッチが入った。

「――テメェら下がってろぉッ! そいつの相手は俺がするッ!!」

言い放つが早いか、ハウエルは舶刀を鞘に納めながら〝SEAL〟を励起。海老色の輝きが隆々とした筋肉の上に幾何学模様を描き、ストレージから巨大な鈍器を現出させる。

濃い赤茶色の煌めきから生まれるのは、碇(いかり)を思わせる形状の武装。

過日、まさに眼前にいる少年との戦いで大破したものだが、他の者達の得物や装備がそうであるように、ハウエルのこれもまた完全に修復されていた。厚意――と呼ぶには抵抗があるが、とにもかくにもGM(ゲームマスター)であるエイジャの措置である。

――いきなりだがコイツを使うしかねぇなぁ……!

ハウエル自ら〝海神馬(ヒッポキャンプ)〟と名付けたこの特殊武装は、巨大な碇型の質量兵器という通常形態と、変形して全身に装着するパワードスーツとしての側面を併せ持つ。原則として、本気を出す際、またはそうせざるを得ないほど追い詰められた時にハウエルは後者のモードを使用する。先日の戦いでもそうだった。まずは通常形態で様子見をして、手に負えないと判断してからはパワードスーツとして身に纏ったのである。

そう、通常なら変形させる前に相手の力量を測るのが定石(セオリー)だ。しかし、今は有無を言わさず本気で行くべきだと、本能が告げている。

「――チェンジモード〈フルカウル〉」

ハウエルがボイスコマンドをキックすると、即座に〝海神馬(ヒッポキャンプ)〟は応答した。

青黒い金属の碇(いかり)の端々に赤茶色の光が走り、線を描く。途端、描かれた光線が継ぎ目となって分解、変形が始まった。また内蔵されたギンヌンガガップ・プロトコルが起動し、必要なパーツを新たに具現化する。

装着は、ほぼ一瞬のこと。ハウエルの大柄な体躯が青黒い金属に覆われ、ボールのような球体になったかと思えば、すぐさま空気が抜けたかのごとく萎(しぼ)んでいく。いかなる機功(きこう)によるものか、碇を形作っていた青黒い金属は、ハウエルの巨躯を包み込むようにして隙間なく全身を鎧(よろ)っていた。

「ア、ア――――――――――――――――」

しかし、少年はこちらの行動に僅かも頓着しなかった。意味のない声を上げ、転倒した両刃斧の男へ、それこそ獣のごとく追撃を仕掛ける。地に伏した状態から両脚と左手だけで跳躍。飛蝗(バッタ)よろしく、低い体勢からとは思えないほどの強い勢い。右腕の長巻を凶暴な動きで背中の後ろで振りかぶり、身を仰け反らせ、落下地点にいる男へ叩き付けるように振り下ろ

させなかった。

『――オルァッ!』

ドン、という音は大気を蹴る音であり、音の壁を突き破る響きの集合体だった。

ハウエルの〝海神馬(ヒッポキャンプ)〟が変形したパワードスーツ、その各所にあるスラスターから海老色のフォトン・ブラッドが一斉噴射。常軌を逸した急加速でハウエルの巨体が蹴っ飛ばされたように発射され、空中にいる少年めがけて突っ込んだ。

もはや人間大の砲弾だったと言っても過言ではない。

不意打ちだったはずだ。

まともな思考力など失ったようにしか見えない様相だったのに、それでも少年はハウエルの横槍にしっかりと反応した。

首から上が別物のように、ぐるん、とハウエルの方を向いた。

だが遅い。

目どころか動作でまで反応したことには驚いたが、所詮はそこまでだ。意識の不意はつけなかったが動きの隙は突いた。回避はどうしたって不可能だ。

――ぶっ殺すぞ!

その意志を拳に乗せて突っ込んだ。

大きく振りかぶった右拳を叩き付ける。狙いは少年の顔。狙ってくれとばかりにこちらを向いていた。鎧兜に守られていない今なら致命傷にもなろう。例えそうでなくてもHPを全損しているのだ。これで〝死亡〟は間違いない。

はずだった。

「――ッ!?」

その時、奇怪なことが起こった。

少年が振り下ろしかけていた長巻を、無理矢理こちらへと向けた。それだけならば何てことの無い些細な抵抗だ。ただでさえ空中で、こちらを振り返ったせいで体勢を崩しているのだ。剣に力など入らず、よってハウエルを斬ることなど出来るわけがなく、反発を利用して逃げることだって不可能だ。

しかし、真っ直ぐに突っ込んでいくハウエルの真っ正面に、長巻の切っ先がピタリと据えられた。

空中なのに。いっそ美しいほど正確に、宙の一点でしかと静止したのだ。

長巻の長さは少年の身長ほど。いくらハウエルが巨体を誇るとはいえ、腕のリーチは長巻ほどは長くはない。

一体いかなる体術によるものか、長巻が宙に固定されたかのように静止したまま、ぐるり、と少年の体だけがさらに回転した。長巻の柄に纏わり付くようにして、構える。

突っ込むハウエルの右腕が槍なら、迎え撃つ少年の長巻もまた槍のようだった。

即ち、リーチの差で長巻の方が先にハウエルのスーツに届く。

『チィッ……!!』

音高い舌打ちは身の危険を感じたからではなく、必勝の機会を喪失したことを確信してしまったからだ。

案の定、少年の構えた長巻の切っ先は、腕の次に最も前へ出ていたハウエルの額に激突した。無論パワードスーツに守護されている故、さほどの衝撃はない。だが、ハウエルの突進の勢いを長巻は充分以上に吸収した。こちらへ真っ直ぐ、ほぼ垂直に構えられた長巻はいわば一本の棒だったのだ。

快音、跳ねる。

間合いを詰めるための勢いを逆に利用された。ハウエルの視界の中、長巻を棒高跳びのように構えた少年の姿が急速に遠ざかっていく。

『――クソが! 頭がおかしくなっているくせに無駄に器用な真似しくさりやがってぇッ!』

思わず、我ながら理不尽だと思う文句がハウエルの口から飛び出した。人間大の砲弾に対して真っ直ぐに突きを入れ、自らの肉体をビリヤードのボールよろしく跳ね飛ばすなど並の所業ではない。普通ならどれだけ上手くやろうとも交通事故レベルのダメージを負うはずだ。

しかし少年の肉体、その関節は随分な柔らかさを持っていたらしい。また空中に浮かんでいたこともあって、ハウエルとの衝突の衝撃はほぼ完全に殺された。ピンボールのごとく真横に吹き飛んだ少年は、ある程度の距離を飛ぶと身を丸くし、重心をずらしてグルグルと回転を始める。空気抵抗と遠心力で慣性を相殺すると、あれだけ高速かつ立体的な回転をしていたというのに、ジンバルロックに陥ることもなく華麗に着地した。

猫のように音もなく。

どこか重力を感じさせない動きは、いわゆる『軽功術』と呼ばれるものだ。ハウエルも戦士の端くれ、知識としては知っている。そうは言っても、ここまで見事なものは初めて目にしたが。

――一体、どうなってやがる……!?

「……アー」

少年が面を上げ、焦点の合わない黒い瞳がハウエルを見つめる。こちらが土煙を巻き上げて派手に着地する様を、どこか物珍しそうに。

やはり別人だ――と確信が深まった。『外側』はどう見ても〝勇者ベオウルフ〟だが、明らかに『中身』が違う。戦い方も身のこなしも完全に別物だ。別の何者かが少年の肉体に憑依しているのか、それとも別人が少年の姿に擬態しているのかはわからないが、根本の部分が決定的に違いすぎる。

ハウエルの知る少年は『真っ直ぐ』だった。良くも悪くもメリハリがあり、いっそ清々(すがすが)しいほどの青臭さに満ちあふれていた。

だが、この場にいる奴はどうだ。

今また右手に長巻を握り、左手を地について野獣のように身を伏せる少年。その動きはどこか魚類のごとく【ぬるり】としている。無駄が一切ないのだ。不気味なほどに。

例えるなら、水流。変幻自在、千変万化の動き。全身の部位が一つの流れとなって連なり、決して途切れることがない。角(かど)の全くない丸い動作。だから見ているハウエルらの目には異様に映る。

人間の体は、普通あんな風には動かない。

『チッ……』

悔しげに舌打ちをしたのは、少年の不思議な動きが一見して『超』がつくほどの高等技術だとわかってしまったからだ。

先程の空中における身のこなしは異常に過ぎた。あの少年の性根云々ではなく、あの年齢の人間が習得できようはずがない技術なのだ。生まれてすぐ地獄に落とされ生きてきた、というのならともかく。

「ア――――――――――――――――」

少年が虚ろな声を上げ、再び駆け出した。

速い。

先程に比べて加速度がまるで違う。見るからに足運びや姿勢(フォーム)が最適化されているのがわかる。体重移動が無駄なく行われた結果、疾走の速度が上昇しているのだ。

『――ハッ! ふざけた野郎だなぁオイッ!』

一瞬だけ支援術式〈ラピッド〉でも使ったのかと思ったが、そうではない。

学習している。

生まれたての赤ん坊が、徐々に体の動かし方を覚えていくように。あの〝中身〟は自身の肉体の〝操作方法〟を、現在進行形で学習しているのだ。それも信じられないほどの速度で。

「ア――――――――――――――――」

つい先刻は遅いと思っていた動きが、今は速いと感じる。それほどの変貌ぶりを見せつけながら、しかし少年は真っ直ぐ突っ込んできた。肉体の操作は時を経るごとに最適化されているが、戦法については全く頭にないらしい。いや、思考能力そのものがないのか。

「――ウォルァアアアアアアアアアアアアッッッ!!!」

ならば、こちらも真っ向勝負に出るまで。ハウエルは再びパワードスーツのスラストを全開。自らの巨体を砲弾に変え、突撃する。

駆け引きをする知恵がないのであれば、支援術式はおろか『勝者の特権』も使えまい。むしろ願ったり叶ったりだ。先日の戦闘では少年の大胆な戦法にしてやられたが、素の状態であれば充分以上の勝機がある。なにせ身体能力に関しては、こちらが明らかに上なのだから。

フルスロットルの加速によって彼我の距離は一瞬にしてゼロになった。呆けたように口を開けた虚無の表情が視界いっぱいに映る。大きく引き絞った右腕を突き込む。青黒い装甲に包まれた拳骨(げんこつ)が少年の顔に直撃する。

ボッ――という【風切り音】。

『!?』

刹那、愕然とする。ハウエルの豪腕が少年の顔を確かにぶち抜いている。なのに手応えがない。まるで幻像でも殴りつけたかのように。

金属音。

ギャリリリンッ! と甲高い音を立てたのはハウエルの喉元だった。少年の長巻が、その刀身を纏わりつかせるようにハウエルの首を狙ったのだ。しかし当然、漆黒の刃は胴と頭を繋ぐ可動装甲に阻まれて弾き返される。

交錯は、ほんの一瞬のことだった。

再度、土煙を派手に立てて着地したハウエルは右側のスラストをそのまま、左のを弱めてその場で半回転。慌てて後方を視認する。

いた。

無傷の少年が長巻を横に構えた体勢で、独楽のごとく空中で回転している。

その姿だけで何が起こったのかを悟った。

ハウエルの右拳が炸裂する瞬間、少年はタイミングを合わせて体ごと顔を回転させたのだ。こちらの拳撃をいなすように。その間の合わせ方、速度、角度、力加減が神がかっていた為、ハウエルをしておかしな虚像を幻視してしまった。

竜巻よろしく回転して、戦闘ジャケットの裾を激しく躍らせながら、しかし少年は蝶のように静かに着地する。両足に履いたコンバットブーツの分厚い靴底が、砂を噛む音すら聞こえない。

「ア――――――――」

体勢を整えた少年は、自らが握った長巻を天にかざし、軽く首を傾げた。何かを不思議がっているらしい。ハウエルの首を刈るはずだった刃を弾かれたのが、さほどに意外だったのか。

停滞は僅かの間のこと。

それから、少年はハウエルの存在など忘れたかのように、別方向へと駆け出した。豹(ひょう)のごとく、しなやかに四肢を動かして。

『な――待ちやがれぇ!』

少年の向かう先――即ち【狙い】を察したハウエルは怒号を放った。

少年が疾駆する先には『探検者狩り(レッドラム)』の生き残り達がいた。推察するに、装甲の固いハウエルを後回しにして、まずは〝柔らかそうな〟彼らから手にかけるつもりなのだ。

すぐさま全力加速で追いかけようとして、

『……チィッ! クソがァッ!』

少年の得体の知れない走り方に、ハウエルは歯噛みする。

狙ってやっているのか、少年は右に左に大きく蛇行しながら走っていた。絶妙な力加減で速度を調整しながらの蛇行は、まるで本物の蛇が通ったかのごとき軌跡を残す。

ハウエルの突進(チャージ)は構造上、一直線にしか進めない。これでは狙いが絞れず、回避される可能性が高かった。

――どういうことだぁ!? お頭(つむ)の方まで時間が経つごとに成長しているってのか!? ぁあ!?

少年の〝中身〟は、スポンジが水を吸うかのように劇的な成長を続けている。最初はただ真っ直ぐ突っ込んで来るだけだったのが、思考してハウエルの追撃に備えているのだ。たった一度、パワードスーツによる突進を見ただけで。

「――ひ、ひぃっ!? こ、こっち来やがったぞ!?」

少年の接近に気付いた部下達が浮足立つ。ハウエルとの戦いぶりを目の当たりにして、少年の実力のほどを理解したのだ。なおかつ彼らの戦意はとっくに、鬼人の軍勢が出現した際にどうしようもなく折られていた。

故に、ろくな応戦など見込めるはずもなく。

「ア――――――――――――――――」

小さな子供のように間抜けな声を上げる少年が、間合いに入る直前で跳躍。『探検者狩り(レッドラム)』達の間に飛び込みながら、ごく無造作に長巻を振るった。

刃が走る。一閃、二閃、三閃、四閃――

「ぐわぁっ!?」「うわっ!?」「ひぇえぇっ!?」

情けないことに、まともな抵抗も出来ないままハウエルの部下達はなで斬りにされた。

しかし。

「――って、あぁ……あれ? お、おお……?」

少年に斬られて仰け反った部下達が、しかし尽(ことごと)く不思議そうな表情を浮かべた。ややあってから反射的に瞑った目を開き、自らの身体を改める。

「……痛く、ない……ぞ?」

事実、傷はなかった。体どころか、身に着けている衣服も武装も、どこも損傷していなかった。

斬られた男達は互いに顔を見合わせ、それぞれの無事を確認する。それから首を揃えて、彼らの間を駆け抜けて行った少年の背中へ、おそるおそる、と視線を向けた。

「ア――――――――」

少年は振り返り、虚ろな表情のまま小首を傾げていた。剣で斬ったのに何も効果がない、そのことを理解した上で不思議がっているらしい。

その様子を、手出しが間に合わずに眺めていたハウエルは、即座に何が起こったのかを理解した。ヘルメットの下で口を歪め、にやり、と笑う。

『――へっ、なるほどな。そういえばそうだったぜ。テメェ、HPを全損してしてやがったもんなぁ! ハッハァッ!』

ゲームのルール上、HPを全て失った者は〝失格〟となる。文字通り、プレイヤーとしての資格を失うのだ。

『つまりテメェの攻撃は俺達にダメージを与えられねぇって話さ、〝勇者〟のぉ! 残念だったなぁ!』

どうせ言葉も通じねぇだろうが、と頭の隅で思いつつの嫌味に、

「……ア――――」

くるり、と少年は振り返った。焦点の合わない視線が、しかとハウエルを捉える。

一瞬、ハウエルの背中に悪寒が奔った。

何だ、今のは。理解しているというのか、こちらの言葉を。さっきから『アー』と鳴いているだけだというのに。聞く力だけは残っているとでも言うのか。

少年は無言のままハウエルを見つめていたかと思うと、やおら、

「――アっ」

全身の〝SEAL〟を励起させた。

顔や手、喉回りと肌が露出している部位に光の線が走り、幾何学模様を描く。

『……な、おい……!?』

少年の肌を覆って光輝くのは、ディープパープルの煌めき――【ではない】。

黒い輝紋。

否、光を放っているわけではないのだから、これを〝輝〟紋と呼ぶのは間違っているだろう。

闇だ。

一切の光の存在を許さない、深く暗い闇が描く回路図。それが少年の全身に張り巡らされ、不気味に彩っている。そこには、かつてハウエルが目にした深紫の輝きは微塵もない。

「な、なんだよあれ……!?」「へ、変じゃねぇか……?」「いや、マジでおかしいぞ……!?」

ハウエルの部下達も少年の前代未聞の姿に狼狽える。未知の肉食獣でも目にしたかのごとく、腰を引いて恐怖の表情を浮かべた。

しかし。

「い、いや、待てよ……? おい何だ、べ、別にビビる必要なんかねぇじゃねえか! なぁ!?」

一人がはたと気付き、ややぎこちないが胸を張って笑ってみせる。

「ボスがさっき言ってたじゃねぇか! あいつはもう〝失格〟になってんだ! 俺達には手を出せねぇんだとよ!」

声を上げ、指差し、せせら笑う。

そう、ゲームのルールがこの場を支配している限り、少年はまだ失格になっていないこちらへは手出しができない。おそらくだが、彼が持つ〝勝者の特権〟も無効になっているだろう。ハウエルに対し命令を強制することは、きっと不可能だ。そう思えば、先程までの心配はまったく杞憂だったということになる。

しかし。

「…………」

何故だろうか。ハウエルはどうしても、胸を撫で下ろす気にはなれなかった。

――おいおい何だ何だ、あのフォトン・ブラッドの色はよ……? 混じりっ気なしの黒だぁ? 聞いたこともねぇな……有り得るのか、あんな色の血がよ……?

ハウエルは医者でもなければ生物学者でもない。だがその決して穏やかとは言えない人生の中で、数多くの人間の血を見てきたのは確かだ。

人の身に流れる光輝く血液――フォトン・ブラッドは人によって千差万別の色を持つ。しかし、何百人ものフォトン・ブラッドを目にしてきたハウエルでさえ、この『漆黒』としか言いようのない色は初めて見た。

光り輝くどころか、光そのものを丸呑みしているかのような、深い闇色の血液。

あるいはそれは、フォトン・ブラッドとは正反対の性質を持っていることを示しているかのごとく思えて――

「ア――――――――」

少年が再び動き出した。〝SEAL〟を励起させたまま、しかし術式を発動させる様子もなく。今度は左手に長巻を握り、腰を屈めて右手を地面につけた。右腕で斬ってダメだったから、今度は左腕で斬ろう――そんな意志を感じる。

と、その姿勢が突然、ぐらり、と大きく傾いだ。足元もぐらつき、数歩よろけて、たたらを踏む。

何かが乗り移った――そんな風にも見えたが。

少年の中にいる【誰か】が抵抗している――そんな風にも見えた。

「……ア――――」

怠そうに少年の頭が下がり、顔が隠される。意味のない声をこぼしながら、フラフラと屈んで俯いた体が左右に揺れる。

出し抜けに、少年の戦闘ジャケットの表面上にまで〝SEAL〟の幾何学模様が浮かび上がった。まるで、漆黒の輝紋がジャケットを〝浸食〟したかのように。

「ア――――……ア――――」

呻き声を漏らしながら、少年の身体が踊るように揺らぐ。同期するように、黒い幾何学模様が少年の動きに合わせて不気味に脈打ち始めた。まるで漆黒の蛇が何匹も肌の上を這っているかのようだ。あるいはその姿は、黒い縄に拘束された囚人のようにも見える。

その様子をハウエルの部下は、今こそ好機、と判断したらしい。

「へっ、何だよアレは。落ち着いてよく見りゃ、ただの頭のおかしいガキじゃねぇかよ。あっちの攻撃が無効だってんなら、もう全部こっちのもんだ! とっとと〝死亡〟しな!」

ついさっきは腰を抜かしてへたり込んでいた男が、両刃斧を振り上げて突撃する。むべなるかな『探検者狩り(レッドラム)』。所詮は外道。強きを助け弱きを挫(くじ)く、それこそが彼らの生き様であった。

泥酔したかのごとく俯いて足元のおぼつかない少年に、両刃斧の男は一気に間合いを詰め、大上段に構えた得物を勢いよく振り下ろした。

「おらぁあぁっ!!」

大きな戦斧が唸りを上げ、ふらつく少年の頭頂部を捉える。

唐竹割りの一撃が黒髪の少年を真っ二つに叩き切った。

かと思ったのは早計で、戦斧は明らかに空を裂く風切り音を響かせた。

「――っ!?」

先程ハウエルの拳を避けた時と同じだ。戦斧の刃が届く直前で回避し、目に映る残像を斬らせたのである。先刻までふらついていたとは思えないほどの瞬発力で、少年がその場から飛び退いた。

「ちっ――クソがぁ!」

会心の一撃を躱されたことによって、男の頭に血が上った。ほぼ死に体だった相手に攻撃を避けられてしまったことへの驚きより、瞬発的な怒りの方が勝(まさ)ったのだ。

「逃がすかよぉっ!」

両刃の斧は重い武器だが、鍛えられた男の両腕はそれを軽々と扱った。元来『探検者狩り(レッドラム)』を生業にしているだけあって戦闘技術は高く、その身体能力はとうに生体限界を超えていた。

小枝の棒を振るかのごとく軽快に戦斧が切り返された。振り下ろしから反転、飛燕が飛び立つがごとく切り上げられる。

が、しかし。

間髪入れず鋭角な軌道を描いて襲ってきた剛刃を、またしても少年は残影を幻視させるほどの速度で回避した。

「ぁあぁん!?」

支援術式も使用しておらず、年端もいかない少年の有り得ざる動きに男は苛立ちの声を上げる。

「クソがっ! 死ねっ! とっとと死ねっ! 死ねよっ!」

乱撃が始まった。大木をも一撃でへし折るであろう分厚い戦斧が風を唸らせ、止まりかけの独楽のように揺れる少年へ怒濤のごとく襲い掛かる。

一発でも当たれば頭部が西瓜(すいか)よろしく弾け飛ぶ斬撃が、これでもかと畳み掛けられた。

だが、そのことごとくを少年はすんでのところで躱し続けた。風に揺れる柳のごとく、豪風を巻き起こす戦斧の間合いの外へ、無駄の全くない足運びで逃げおおせる。

流麗。

少年の動きはその一言に尽きた。

一体いかなる研鑽を積めば、この年齢にしてここまでの境地に至れるのか。あの〝剣嬢〟でさえ辿り着いているか否かもわからぬほどの高みに、どうやらこの少年は到達しているようだった。

「……!」

戦慄がハウエルの全身を支配し、身動きがほとんど取れなかった。彼はただ、自分の部下と少年の戦いを見つめていることしか出来なかった。

くどいようだが、少年は支援術式および、身体能力を強化する類の術(すべ)を一切使用していない。一目瞭然だ。性能(スペック)だけで言えば、生体限界を超えていない少年の肉体は素人に毛が生えた程度でしかない。

むしろ単純な数値だけを比べれば、ハウエル達『探検者狩り(レッドラム)』と少年の差は、もはや象と蟻と言っても過言ではない。

だというのに。

「おらっ! おるぁっ! らぁあぁっ!」

男が必死に両刃斧を振るう。ハウエルから見ても、今回の仕事に誘っただけあって彼の実力は折り紙付きだった。やや大振りではあるが、その攻撃は充分以上に速く鋭い。間違いなくそこらのエクスプローラーなら、とうに殺されていてもおかしくない連続攻撃だったのだ。

しかしそれを、少年は完全に見切っていた。車で例えるなら、こちらはF1カーであちらは自転車。速度に天地の差があるにも関わらず、少年は襲い来る戦斧をギリギリのタイミングで踊るように躱し続ける。

ついさっきハウエルと対峙した時もそうだったが、今の完成度はそれ以上だ。体中に漆黒の輝紋が浮かび上がってからは、【奴】の成長速度がさらに加速したように思えてならない。

「――くそっ! 逃げるんじゃねぇ! このっ、おらあっ!」

戦斧でただ大気をかき混ぜるだけの男の姿に、ハウエルは過日の戦いを思い出した。そういえば地底で少年と戦った際、己もあのようによく回避されたな――と。あれはあれでなかなかに苦しいものだ。こちらが圧倒的に攻め立てているというのに、一向に手応えがない。焦りと苛立ちで頭に血が上り、攻撃はより苛烈になっていく。だがそれでも当たらない。そうこうしている内に体力を消耗し、疲労だけが蓄積していく。

そう考えると、ああして回避を続けるというのは少年の作戦であり、ある意味では『攻撃』の一種だったのだろう。自ら手を下すことなく、こちらを自滅させる類(たぐい)の。

そして、今もその作戦を実行しているのだとしたら――

ハウエルの視界の中、ふと少年が面を上げた。ずっと下を向いたまま、背中や肩に目がついているのかと思うほど華麗に戦斧の攻撃を避けていた彼が、スウェーバックする際に頭をもたげたのだ。

『――!?』

目にした光景に、ハウエルは思わず息を呑んだ。

少年の皮膚上を走る闇色の幾何学模様。それは今や顔全体を覆い、双眸の中にまで浸食していた。

真っ黒に塗りつぶされた両の眼(まなこ)。

瞳だけでなく、その周囲も丸ごと黒いもので埋め尽くされている。こうなっては視線がどこを向いているのか、それどころか目がまともに見えているのかも定かではない。

己の推察が正しかったことを、ハウエルは半ば直感的に悟った。

やはり少年の肉体は【容れ物】に過ぎない。あの中には【別の誰か】が入っていて、内側から少年の肉体を操っているのだ――と。

「ア――――――――――――――――」

ハウエルが気付いた矢先、防戦一方だった少年が唐突に反撃に移った。

ぬるり、と自然な流れで。

だから、それはある意味では予定調和の結末だった。

両刃斧の男の攻撃はとうに見切られていたのだ。反撃(カウンター)差し込む隙など、それこそいくらでもあったに違いない。

その一つに、少年はそっと長巻の刃を突き込んだ。

男が戦斧を空振りし、次の攻撃へと転換する刹那の一瞬。

吸い込まれるように長巻の切っ先が滑り、男の喉元を突き刺した。

「ぁが……っ?」

男の呻き声は、激痛に喘ぐと言うよりはむしろ、喉の違和感を不思議がるようなものだった。当然だ。ゲームのルールに則ってダメージはない。異物感はあろうが、痛みはないはずだ。

だが、さもありなん。傍から見ていた者からすると、少年が男を刺したというより、少年が構えていた長巻の切っ先に男が自ら【刺されにいった】ようにしか見えなかった。男自身は、己(おの)が進行方向に用意された長巻の刀身に、気付いてもいなかったのだ。

故に、突如として喉元に生じた異物感に驚いた。

「っ……げ……?」

喉が圧迫されているせいか上手く声が出ない。男は動きを止め、違和感の正体を確かめるために喉元へ手をやった。

「ア――アっ」

そこを見計らって、少年がより深く長巻の刃を突き刺した。ズルルルと一気に、鍔が男の喉に当たるまで。

両眼を黒く塗りつぶされた、感情の見えない顔で。

「ぐべっ」

間抜けなその声が、男の最後の言葉となった。

長巻の鍔が喉に当たった瞬間、ビクンッ、と男の体が軽く跳ねた。

そして、停止。微動だにしなくなる。

「ア――――――――――――――――」

一拍置いて、動かなくなった男の体を少年が片手で押し、長巻の刀身を喉から引き抜く。ズルリと抜かれる刃は、しかし一滴の血にも濡れていない。男の体に傷をつけず、ただすり抜けていただけなのがわかる。

しかし。

「――――」

ハウエルとその仲間達の見ている前で、両刃斧の男は少年に押されるまま背中から倒れた。重い音を立てて地面に倒れ込み、愛用の得物もその後を追う。ズズン、と低い音が続けて響いた。

――何が起こった……?

ハウエルはパワードスーツの中で目を見張りながら、静かに混乱する。仰向けに倒れた両刃斧の男は、幸か不幸かまだ死んではいないようだ。今も地面の上で気を失ったまま、死にかけの魚のごとく小さく痙攣している。あるいは時間の問題かもしれないが。

ダメージはなかったはずだ。倒れた男の喉元を見ても、やはり傷がない。少年の刃はゲームのルールによって無効化されている。

なのに、男は倒れた。見間違いではない。現にああして白目を剥き、口の端から泡を吹いているのは幻でも何でもない。

――何をした……?

わからない。まるで理解できない。何をどうやって男の意識を刈り取ったのか、まったく推察できない。

ただわかるのは、いまやあの少年が【正体不明】の尋常ならざる存在であるということ。

「ア――――――――」

両刃斧の男が倒れたまま動かないことを確認したのか、少年が別方向に顔を向けた。視線こそ判然としないが、それでも顔の向きだけである程度はわかる。

次の標的に選ばれたのは――ハウエルだった。

「ア――――――――アっアっアっアっアっ」

仮面のように変わらぬ表情のまま、口だけを大きく空けて笑うように声を出す。その行為が何を意味するのかもわからない。

だが、変化は目に見えて顕著だった。

少年の全身に張り巡らされている漆黒の〝SEAL〟。それが出し抜けに【宙へと拡張し始めた】。

『な……!?』

呻き声はハウエル一人のものではなかった。他の『探検者狩り(レッドラム)』、ひいては少し離れた場所に影のごとくハウエルの傍に控えていたヤザエモンでさえ、眼前の異変に度肝を抜かれていた。

持ち主の肉体を離れ、〝SEAL〟が大気中に輝紋を広げていく。あたかも成長する植物が太陽を目指して伸び上がっていくかのごとく。

得体の知れない〝怪物〟がそこにいる――

この時、ハウエルだけではなく、誰もがそう思った。

もはや誰も、少年を人間だとは思っていなかった。

人間ではない何か、あるいは人間を超越した何かが、そこにいると感じていた。

異様な雰囲気が場を支配する。

「アっ、ア――――――――――――――――」

遠吠えのような、高い声。見れば口の中、舌の先までもが闇色の〝SEAL〟に蝕(むしば)まれている。

ラグディスハルトではない【何か】は、どこか楽しげに声を上げると再びゆるりと長巻を構え、音もなく地を蹴った。