Reworld•Frontier-Saijakuni Shite Saikyou no Shien Jutsu Shiki Tsukai [Enhancer]

● 42 Mixed warfare/snakes, which destroy the world

フォトン・ブラッドにはそれぞれ所有者固有の色がある。

それは時に、本人のいる場所を知らしめる狼煙のような役目を果たすことがある。

ちょうど今がそうであるように。

「…………」

胸中にわだかまる不安や焦慮を押し殺しながら、ハヌムーンは正天霊符〝酉の式〟で飛行を続けていた。幼い眉間には、くっきりとした縦皺が深く刻まれている。

唯一無二の親友たる少年の行方が一向にわからないが故だ。

何度も声を上げて名を呼んだ。聞こえていれば返事しないはずがない。ついには『サーチ』を使ったが、それでも行方が知れなかった。

確かにアグニールの相手をしている間、少し離れていてもらうよう願ったのは自分だ。だがまさか、そのほんの僅かな間に少年が忽然と姿を消してしまうとは。夢にも思わなかった。

少年が何も言わずに自分の側を離れるなど、絶対に有り得ないのに。

――どこじゃ……どこにおる、ラト……!

念を送っても反応はない。同じ『白』所属同士の通信もできない。ハヌムーンの体感では、少年がこの浮遊群島そのものからいなくなってしまったかのようだ。

しかし、そんなはずがない。そんなことがあるはずないのだ。

そもそもからして、あのエイジャという人工知能がゲームを辞退することを許すはずがない。ただでさえ、あの少年が自分を放って勝手にどこかに行くなど、そんな身勝手な真似をするはずがないというのに。

であれば――と、ハヌムーンの脳裏に恐ろしい可能性がよぎる。

何者かに連れ去られたか。その上で、何も出来ぬよう拘束されているか、気を失わされているか――ハヌムーンはしたくもない想像をしてしまった。

だがそんな可能性に思い至るのは、それが先日、他ならぬ自分自身が陥ってしまった状況であるからだ。

己があの黒尽くめの忍者男にかどかわされたように、ラグディスハルトが誘拐されたのだとしたら――

そんな想像をしただけで全身に怖気が走る。

高速飛翔するスミレ色の光線で編まれた鳳の背に乗りながら、現人神の少女は首を大きく横に振った。頭の中に生まれたよからぬ妄想を振り払うように。

――どこにおるかはわからぬが……必ず見つけ出してやるからな、ラト……!

今度は自分の番だ、とばかりにハヌムーンは決意を固めなおす。

しかし少年を捜索すると言っても、手がかりがない。そして、人手も足りなさすぎる。

故にハヌムーンは、ひとまずロゼとフリムとの合流を目指していた。

彼女が向かっているのは先刻、空に大きな光の華が二輪も咲いた方角。孔雀石色(マラカイトグリーン)と、紫色(ピュアパープル)の巨大な光輪(こうりん)が生まれたあたり。色と大きさからして、あの二人が共にいるのは間違いないだろう。島の中央に落下した岩城からゾロゾロと這い出てきた化生の相手をしているのだろう、とすぐ推察できた。

同時に、こちらもアグニールの相手をする際に少々派手に力を振る舞い過ぎた。あちらとて、こちらの居場所に気付いているはずだ。

激しい向かい風に白銀の髪と髪飾りを嬲(なぶ)らせながら真っ直ぐに飛翔していると、やがて目当ての人影が見えてきた。

紫色の光の翼を広げた黒髪ツインテールの少女と、そんな彼女に鎖で曳行される形のアッシュグレイの髪の少女。

フリムとロゼである。

視線は一瞬で交錯し、互いが互いを認識し合った。自ずと減速が始まり、少女ら三人は中間地点にてランデブーに入った。無論、速度は緩めても停止はしない。速度を合わせて宙をカーブし、適当な方角へ鼻先を向け、共に肩を並べて飛行する。

「――小竜姫! アンタちょっとハルトは」

そこまで言いかけたフリムに、ハヌムーンは皆まで言わせなかった。

「ラトが消えた! おぬしら見ておらぬのか!?」

「ラグさんが……?」

フリムの背中の飛行ユニット〝ホルスゲイザー〟に蒼銀の鎖を巻き付けて吊されているロゼが、表情を変えずに小首を傾げた。内心では事態相応に狼狽しているのかもしれないが、おくびにも出さない。冷静に見える琥珀色の瞳が、真っ直ぐハヌムーンの顔を見返す。

「ご一緒ではなかったのですか?」

ごく当然の疑問に、ハヌムーンは叩き付けるように返した。

「おった! ずっと一緒におった! じゃが野暮用で少し離れた拍子にいなくなりおったのじゃ!」

「アンタが迷子になったんじゃなくて?」

いなくなったのはラグディスハルトではなく、ハヌムーン自身ではないのか――と揶揄する意味が半分、もう半分は本気で『お前が少年を見失っただけではないのか』という意味で、フリムは問うた。

不毛な言い争いをしている場合ではない、というのは三人の共通見解だった。故にハヌムーンは不要な揶揄の部分を切って捨て、必要なことだけを答える。

「用が終わった後に何度も呼んだが答えぬ! サーチのマジックとやらを使ってもラトの反応が出てこぬのじゃ!」

そこまで言ってようやく、ロゼとフリムも事の深刻さを正しく理解した。異常事態ではなく【緊急事態】なのだ――と。

サーチのマジックを使用した上で、マップに反応がない――それが意味するところは、そう多くはない。

即ち、少年が既に〝失格〟となったか、あるいは――

「死んでおらぬ!!」

一瞬、揃って顔を青ざめさせかけた二人に、ハヌムーンは強く否定を叩き付けた。絶叫するように。

「「――っ!?」」

ロゼとフリムはそれぞれ、頬を叩かれたような反応をした。

「ラトが死ぬはずなかろう! ラトは生きておる! 必ずじゃ!」

目尻に涙さえ浮かべて怒鳴り散らすハヌムーンに、二人の少女は返す言葉もない。

幼い少女の叫びがこちらに対してというより、彼女自身に向けて言い聞かせているものだということに気付いてしまったからだ。

「…………」

泣きじゃくる寸前のハヌムーンを前に、ロゼとフリムは互いに目線を合わせ、アイコンタクトする。まずはロゼが頷き、

「わかりました。ですが『サーチ』でマップに表示されないのであれば、地道に目で探すしかありません。何か手がかり、心当たりはありませんか?」

捜索のとっかかりを得るための質問を、しかしフリムが遮る。

「待ってロゼさん、そんなのあったら多分アタシ達のところまで来てないはずよ。でしょ?」

「…………」

鼻の頭を赤くして込み上げる涙を堪(こら)えているハヌムーンは、こくり、と頷いた。

なるほど、と納得したロゼはさらに、

「――では、予想をしましょう。それを手がかりにラグさんを探します」

「えっ? なにそれ?」

「……?」

思いも寄らぬ発案に、フリムは我知らず声を高めて聞き返し、ハヌムーンも小首を傾げてロゼに蒼と金の瞳を向けた。

ただ一人、飛行ではなく『鎖による曳行』という形で宙を飛んでいるロゼは、二人の疑念を受けてこう答えた。

「この状況で、ラグさんなら一体何をするのか――それを予想するのです。的中すればあの人と同じ行動が出来て、合流も可能かもしれません」

手がかりもないまま闇雲に探し回るよりは効率がいいだろう――と、ロゼは告げる。

「――じゃが、もしラトが現在動けぬ状況におかれているとしたら、合流できぬのではないか?」

「アタシ達が助けに行かなきゃならない状況だったら、ってこと? そうねぇ……」

ハヌムーンの心配そうな問いに、フリムが難しい顔で考え込む。そこへ、ロゼは恬淡と告げた。

「どこで何をしているのかがわからない限り、すぐの合流も救出も不可能なのですから、考えるだけ無駄です」

辛口だった。いっそ爽快なほど鮮やかにハヌムーンの懸念を切って捨てる。

「もしラグさんが身動きのとれない状況にあるのでしたら、やはり【あの人がやりたいであろうこと】を私達がしてあげるのが最善です。現状、それぐらいしか私達に出来ることはないのですから」

「……むぅ……」

ハヌムーンがやや不満げに唸る。

無表情の仮面をつけたままのロゼが告げるのは、紛(まご)うことなき正論だった。

実際問題、この広い浮遊大島で一切の手がかりなく一人の人間を探し出すことなど、どだい不可能である。であれば、その次に出来ることを考えるしかない。ロゼの提案は感情に左右されない、実に理論的かつ現実的なものだった。

「しかし、そうは言っても答えは簡単です。この状況で、ラグさんがいれば一体どうするか……」

ロゼは長いアッシュグレイの髪を振って、少々わざとらしく周囲に視線を配った。

三人が落ち合ったのは浮遊大島の北東部の空域。ハヌムーンはアグニールと黒尽くめの男を退けてから、ロゼとフリムは島中央の鬼顔城より溢れ出てきた鬼人の軍勢を蹴散らしてから、ここへ飛んできた。

つられて空の高い位置から浮遊大島の全景を見渡したハヌムーンとフリムは、互いに顔を見合わせ、それぞれの表情に含まれる理解の色を確認しあった。

ロゼの言う通り、まずもって状況が簡単だ。

ゲームの目的は先刻、ようやっとエイジャが明らかにした。

敵は鬼人の軍勢。

討つべきはその首領――〝妖鬼王ゴルサウア〟。

朽ちた都市部のど真ん中へ降り立った岩城の上に鎮座する、醜悪なる異形の王の姿に、三人の視線は自然と吸い寄せられていった。

「――決まりね」

何を話すでもなく、前置きをすっ飛ばしてフリムはそう告げた。

「ええ、考えるまでもありません」

ロゼが肯定する。そう、この場にあの少年がいたら何をするのか。もはや口にするまでもなかった。

「妾の術であれば、あのデカブツも一撃で終わりじゃ。ロゼ、フリム、おぬしらにはラトの代わりを担ってもらうぞ」

そう嘯くハヌムーンの目からは既に涙の気配は消え去り、代わりに燃えたぎるがごとき戦意が漲っていた。

もしラグディスハルトがここにいたら、何を考え、どう動くのか。

そんなものは決まり切っている。

考えるまでもない。

この酸鼻を極めるゲームを終わらせるため、誰よりも早く敵の首領〝妖鬼王ゴルサウア〟を倒そうとする――それ以外になかった。

そして、現状の戦力から取り得る戦術は一つ。

ハヌムーンの極大術式をもってゴルサウアを一撃のもと消滅させる。

当然、言霊(ことだま)を使用する型の術式には詠唱が必須だ。であれば、詠唱を紡ぐ間は誰かがハヌムーンを守護せねばならない。かつて少年がそうしていたように。

ゴルサウア、そして配下の鬼人の群れは強烈な術力を紡ぐハヌムーンを最優先で狙ってくるだろう。

そんな彼女を護衛できるのは、ここにいるロゼとフリムを置いて他にはいなかった。

「オッケー、任せなさいよ。アタシお姉ちゃんよ? 弟分よりもよっぽど上手くやってみせるってぇのよ」

はんっ、と笑ってフリムは快諾する。気負っていないように見せかけてはいるが、その言葉には膨大な自負が宿っていた。

「微力ながら全身全霊を尽くしましょう。必ずやラグさんの代わりを勤め上げてみせます」

フリムとは対照的に静かな声音で、しかしはっきりとロゼは請け負った。抑揚のない口調には、それでもなお隠しきれないほどの覚悟が秘められている。

やや釣り目がちな紫の両眼が、品良く整った琥珀の双眸が、それぞれに強烈な意志を漲(みなぎ)らせて光り輝いた。

応じるように、現人神の誇る蒼と金のヘテロクロミアが鮮烈なほどの闘志に燃え上がる。

三人の少女の全身から、天空を圧するがごとき闘気が迸(ほとばし)った。

やがて、どちらからともなくハヌムーンとフリムは飛行速度を緩め、宙の一点で静止する。ハヌムーンは〝酉の式〟に緩くホバリングさせ、フリムは紫の光翼を空中に引っ掛けたかのごとく、ピタリ、と止まった。

「――とは言っても、アタシ達たった三人しかいないわけなんだけどね」

気負いや覚悟はともかく、いざ戦うとなれば現実的な手順を考えなければならない。ハヌムーンの極大術式の射程、詠唱時間――諸々を考慮した上で立ち位置を決め、役割を分担せねば、あるいは敵の物量に押し潰されてしまうことも十分にあり得る。

故に、少女達は額を突き合わせて作戦会議を始めた。

「アタシが小竜姫を背負って、飛行しながら詠唱とか?」

自身の背負ったホルスゲイザーを指して言うフリムに、彼女からスカイレイダーを借りているロゼが、不可視の階段を昇って目線の高さを合わせながら、首を横に振る。

「いえ、敵も空を飛びます。逃げ場にはならないでしょう。そもそも、移動しながら詠唱できる術式でアレを倒すことは可能なのですか?」

ロゼの質問に、ハヌムーンは視線を右下へ逸らし、しばし考え込んでから、

「ふむ……確実に、というのであれば足を止めた方がよかろうな。妾の術は周囲の〝氣〟を練るものじゃ。要となる妾が動いておっては、精霊らもなかなか落ち着かぬ」

「じゃあ、ここぐらいの距離から術式を飛ばして、一気にドカーンってのは? どうせ遠距離射撃だって出来るんでしょ? アンタなら」

というか今ならせっかく距離があるんだし無駄な移動しなくていいし危険も少ないしで一石二鳥よ、と主張するフリムに、しかしハヌムーンは『然り』と少々満足げに頷く。フリムの提言は、ある意味では現人神の少女に対する遠回しの賛辞でもあったのだ。

しかし。

「妾は構わぬが、見たところヴィリーめらは、あのデカブツの近くで戦っておるのであろう?」

「あっ、あー、そっかぁ……」

それがあったかぁ、とばかりにフリムは片手で額を押さえて空を仰ぐ。世の中そうそう楽に進まないものよねぇ、と口の中で小さく囁いてから、

「いや、っていうか構いなさいよ。ヴィリーさん達が敵陣にいるなら、無視してぶっ放すわけにはいかないでしょーが」

「そうですね。ここから攻撃するとなると、間違いなく巻き込んでしまいますから」

ロゼの追随には単なる事実確認だけではなく、言外に『そんなことはあの少年が望まないし、きっと許さないはずだ』という意味が込められていた。

当然、その点は過(あやま)たず伝わっており、

「わかっておる。どちらにせよ頭数が足りぬのじゃ。ラトがおらぬ以上、雀の涙とはいえあのヴィリーめらの力が必要じゃ。ついでに他の者も見つけ次第とっ捕まえて手伝わせるぞ。よいな?」

何はなくとも、今は猫の手すら借りたいほどだ。戦力になるのなら、相手がもはや『探検者狩り(レッドラム)』だろうが何だろうが構わない、とハヌムーンは告げる。

ここでふと、ハヌムーンは色違いの瞳で遠くを見やり、

「――まったく、ここにラトがおれば、全てあやつ一人で済んだものを……」

ここにいない少年の力がどれほど有り難いものだったのかを再認識し、我ながら理不尽だと思いつつも、そうぼやくのを止められなかった。

「そうと決まれば、早速参りましょう。まずは『蒼き紅炎の騎士団《ノーブル・プロミネンス・ナイツ》』との合流です。それともう一つ、私に腹案が」

あります、とロゼが続けようとした、まさにその瞬間だった。

都市区の直上に小さな太陽が生まれたかのごとく、空の蒼が塗り潰されるほどの輝きが閃(ひらめ)いた。

「「「――!?」」」

あまりの光量に三人は揃って身を固め、弾かれたように光の方へと振り返った。

彼女らが見たのは、天(そら)を突き刺す巨大な黄金の剣(つるぎ)。

これほど離れた距離をもってしても、なお目を灼くほどの煌めき。雲を超え、さらに伸び上がる閃光の刃。

この時のハヌムーン達には知る由もないが、それは〝剣嬢〟ヴィリーの放つ秘奥義〈ディヴァインディバイド〉の放つ輝光(かがやき)であった。

大きな花火には、狼煙のように何者かの居場所を示す副次効果がある。

一閃。光の剣が振り下ろされ、大きく一回転して再び空を突き刺した。

そこで力を使い果たしたかのように、黄金の煌めきは雲散霧消した。

『――……』

一体何が起こったのか、この場にいる三人にはわかろうはずもない。

だが【何かが起こったこと】だけはわかった。

天と地を繋ぐように一本の細い黄金の光線だけが残され、しかしそれすらも余韻と共に消失するのを視認した。

その刹那だった。

『――!』

ブルリッシュ・ヴァイオレット・ジョーカーズの女傑らの行動は早かった。

もはや言葉は必要なかった。ロゼがフリムに巻き付けていた鎖を離し、ハヌムーンの〝酉の式〟の背に飛び乗った。

それが合図となった。

物も言わずにハヌムーンとフリムは発進。急加速で浮遊大島の空をかっ飛ぶ。

目指す先は一つ。

都市区中央、妖鬼王ゴルサウアの鎮座する鬼顔城。

まっしぐらだった。

間一髪だった。

ほんの少しでもタイミングが遅れていたら、間違いなく殺(や)られていた。

それほどシビアな一瞬だった。

蒼い炎が滝のようにこぼれ落ちる。

無数の角(つの)が束なり、収束し、一点集中した空間から、サファイアブルーの火炎が雪崩を打って落下。大蛇のごとく長い尾を曳きながら、地上へと吸い込まれるように滑り落ちていく。

寄り集まり大樹と化した『ゴルサウアの角』は、もはや地面のほとんどを覆い、周囲を密林のように変貌させていた。『角の束(たば)』の隙間隙間に、粉々に砕けたコンクリートやアスファルトの欠片が散らばっている。それらだけが、ここがかつて都市部だった名残であった。

そんな『束になった角』の大樹の合間に落ちた蒼い炎の滝は、しかしそのまま消えてしまうことなく、その場に居残り続けた。やがて火炎の全てが地上に到着すると、無秩序に散らばったそれらはゆっくりと寄り集まり、凝縮し、徐々に人の形へと凝り固まっていく。

あやふやで曖昧な輪郭が、やがて確(しか)と線を描いたかと思うと、

「――ハァ……ッ……ハァ……!」

爆散したはずの〝剣嬢〟ヴィリーが、蒼炎の中から生まれ出た。息を荒げ、両手に握った剣と片膝を地面につき、ふいごのごとき荒い呼吸を再開する。自慢のプラチナブロンドのポニーテールが、まるで力を失ったように垂れ下がっている。萎えた彼女の精神を表すかのごとく。

「……ッ……!」

歯を食いしばって面を上げるヴィリー。その深紅の瞳から意志の光こそ消えていなかったが、肉体の消耗が激しいことは見るに明らかだった。

実際、生き延びるためにかなりの無茶をした。

ゴルサウアの角が殺到し、全身を貫かれる瞬間、ヴィリーは自らの肉体を神器〝実在(イグジスト)〟の力によって炎へと変換したのである。

こうして言葉にすると、いかにも容易く聞こえてしまうが、実行するにあたっては膨大な意志力と勇気が必要だった。

神器〝実在(イグジスト)〟にはヴィリーの〈ブレイジングフォース〉が代表するように、確固とした形のないものに実体を与える力がある。当然、実体を持たせることが出来ると言うことは、その逆の『実体を奪う』といったことも可能であるということだ。要はベクトルをプラスとするか、マイナスとするかの違いである。

これまでヴィリーは、原則として神器の力を術式を媒介にして使用してきた。どの〝神器保有者(セイクリッド・キャリア)〟もそうだが、神器の力を生(なま)、即ち無加工のまま使用するには危険が伴う。強すぎる神器の力は少しでも制御を誤ると、思いも寄らない事態を呼び起こすからだ。

だが、こと術式を介して使用する限りそのリスクは軽減される。〝SEAL〟の演算によって手綱をはめられた神器の力は過不足無く、持ち主の思い通りに稼働してくれるのだ。

それでもなおヴィリーが直接〝実在(イグジスト)〟の力を解放したのは、そんな余裕がなかったからに他ならない。

実在のものへ神器を作用させ、実体を奪ったことなら何度か経験があった。実際に戦闘中、剣に使って【防御をすり抜ける斬撃】を放ったこともある。

だが、自分自身に作用させたのはこれが初めてだった。

不安があったのだ。自分自身の実体を失くさせた場合、元に戻ることはできるのか――と。

意識を失うかもしれない。そうでなくとも神器の力を行使できなくなるかもしれない。最悪、実体を失った瞬間に消滅する可能性だってゼロではなかった。

そう考えると、自分自身に〝実在(イグジスト)〟の力を直接作用させるのはリスクが高すぎるように思えて、どうしても試すことが出来なかった。

「ぐっ……ぅ……っ!」

ヴィリーは言うことを聞いてくれない足腰に活を入れ、どうにか立ち上がろうとする。生まれたての子鹿のように弱っているのは、何も体力と術力の消耗だけが理由ではない。一か八かの賭けに出たことの恐怖が、彼女の精神をも疲弊させていたのだ。

我が身を蒼炎に換え、物理攻撃を無効化し、その後にこうして元の姿へと回帰する――成功したからよかったものの、下手を打てばそのまま燃え尽きて消滅していたかもしれない、そう、カレルレンが聞けば目を丸くして口が塞がらなくなるであろうほどの、それは博打(ばくち)であったのだ。

だが、成功しようが失敗しようが、こうでもしなければ数え切れないほどの角に貫かれて死んでいたのだ。賭けに出る価値はあったし、実際こうして自分は生きている。

「どう、だ……見たかっ……って……言う、のかしら、ね……こういう、ときは、っ……!」

普段は口にしない悪態を吐きながら、ヴィリーは全身の力を振り絞り、何とか一気に立ち上がった。

遅ればせながら頭上を見上げ、林立する『角の大樹』に動きがないことを確認する。どうやらゴルサウアはヴィリーを取り逃がしたことに気付いていないようだ。さもありなん。火炎に変化して逃げる人間など、普通に考えているはずがない。ゴルサウアは己が身を真っ二つに両断した憎き羽虫を、その手――否、【角】で磨り潰し爆散させたことに今頃溜飲を下げているに違いなかった。

「……ッ……!」

そこまで考えた途端、全身の血管に炎が満ちた。

ヴィリーは覚えている。ゴルサウアから致命的な攻撃を受ける直前に見た、あの光景を。

大切な仲間達が――

私の【あの子達】が――

嘘のように八つ裂きにされ、砕かれ、磨り潰された。

虐殺された。

「――許さない……」

復讐の怨嗟は、静かに、だが確実な声となって地に落ちた。

その名も高き〝剣嬢〟の玲瓏なる美貌が、今のヴィリーにはもはやない。怒り、悲しみ、そして憎悪。それらが綯(な)い交(ま)ぜになった激情が彼女を支配し、その容貌を別物へと変化させていた。

ただでさえ不条理なゲーム展開によって多くの部下を失っていたというのに。

さらにそこへ、とどめの一撃を打ち込まれた――そんな気分だった。

だが幸か不幸か、ヴィリーはこうして生きている。どうせならさっきの瞬間に死んでおけばよかったかもしれない――そんな思考が頭の片隅によぎるほどには、悲しみで胸が張り裂けそうだった。

何もかもを打ち砕かれ、喪失し、けれど自分自身はかろうじて生き残ってしまった。

全身にのし掛かる重さは、絶望のそれだろうか。

これまでの人生で、こんなにも重苦しい感情を得たのは生まれて初めてかもしれない。許されるならいっそ、大声で泣き叫んで地に伏せ、何もかもを放り捨ててしまいたい――そんな甘美な誘惑がヴィリーの内側に生じる。

「――かたきを、とらなきゃ……」

だが、それは許されないことだ。

ヴィリーの中の〝剣嬢〟が、そんな真似など絶対に許さない。

為すべきことを為せ。何があろうと貫徹せよ。

そのためにお前は〝剣嬢〟になったのだろう――

ヴィリーの〝剣嬢〟がそう叫んでいる。強く求めている。

だから止まれない。

止まるわけにはいかない。

「――――」

たとえ一人になっても、必ず。

仲間の仇(かたき)を取り、このゲームを終わらせるのだ。

――当然、最後にはこのゲームを主催したあの赤毛の人工知能を……!

と、肋骨の内側で渦巻く憎悪を愛でるように捏(こ)ねていた、その時だった。

「――ガルァアァッ!!」

突如、背後から獣の吠声が届き、次の瞬間には何かが覆い被さってくる気配が。

――しまっ……!?

ヴィリーは再び死を覚悟した。消耗のあまり周囲への警戒が甘かったことを今更ながらに痛感する。背中を取られた。がら空きだったのだ。もうどうしようもない――

「――えっ……?」

しかし予想していた以上の衝撃はなく、むしろヴィリーは我が身が軽くなるのを感じた。

宙に浮いた――と思ったのは、強靭な二本の腕によって抱き上げられたからだと気付く。

次いで何者かに抱き上げられ、掻っ攫われたことが、流れるように変化していく周囲の風景からわかった。

遅れて、鼻孔をつく僅かな獣臭。

「この匂い……あなた、ゼルダ!?」

「ゥワォ――――――――ンッッ!!」

いきなり背後からヴィリーの体を、いわゆる『お姫様だっこ』で抱き上げ、『ゴルサウアの角』の密林内を飛び跳ねながら疾走する人狼が、喉から嬉しげな遠吠えを放った。

視線を上げると、そこには見慣れた部下の〝変貌(ディスガイズ)〟した顔。

直接触れ合ったことで可能となる、接触念話がヴィリーの脳内に届く。

『よかった! ご無事でありましたですか団長閣下!』

藍色の体毛を生やした半獣の顔で、〝疾風迅雷(ストーム・ライダー)〟ゼルダ・アッサンドリが安堵したように笑った。ヴィリー一人を抱きかかえているというのに、自慢の俊足はまるで陰りを見せない。乱立して暗い影を落とす『ゴルサウアの角』の間を素晴らしい速度で駆け抜けていく。

「あなた、どうして――」

生きていてくれた。嬉しい。でもどうしてここへ。何故こうやって自分を抱き上げて走っているのか。他に生き残っている者はいないのか――様々な感情や疑問が渾然一体となった結果、言葉はヴィリーの喉奥で引っかかって上手く出てきてくれなかった。

しかし、疑問の内の一つにはすぐ答えが得られた。

風を切ってこちらに何かが近付いている音を、ヴィリーの耳が捉えた。しかも複数。身を乗り出して駆けるゼルダの肩越しに後方を見やると、

「――!」

十を超える細い『ゴルサウアの角』が、ウミヘビのごとく宙を泳いで追いかけてきていた。鋭く尖った先端をこちらへ向けて、ゼルダの疾駆にも負けない速度で。

――私を狙っているのね……!

それでゼルダが何故自分を掻っ攫うように抱き上げ、こうして全力で走っているのかを理解した。自分を助けるために我が身を顧(かえり)みず飛び込んできてくれたのだ。

ゴルサウアがヴィリーの生存を知って追撃をかけてきているのか。それともテリトリー内の異物を自動的に排除する反射行動なのか。判然としないながらも、あの伸びる角の群れが再びこちらを串刺しにしようとしているのは確かだった。

「くっ……!」

ゼルダが必死に逃げの一手を打ってくれている。だというのに。自分だけがただ黙って運ばれているわけにはいかない。ヴィリーは術式を発動させるため〝SEAL〟を励起させようとして、

「――っ……!?」

視界がぐらりと大きく揺らぐのを感じた。途端、体の至る所から力が抜け、どうしようもないほどの吐き気が腹の底から湧き上がってくる。

枯渇状態(イグゾースト)だった。

神器のフォローがあるとはいえ、立て続けに術力の消費が大きいオリジナル術式を使いすぎたのだ。そこに神器の力をそのまま使うという蛮行も祟って、ヴィリーは完全にエネルギー切れ状態に陥っていた。

「だ……め、に……げて……!」

目眩がする中、ヴィリーは頭上の獣人に向けてかすれ声で訴えた。このままでは追いつかれる。二人とも串刺しどころか滅多刺しにされる。自分を置いて逃げろ。それなら、あなただけは助かるはず――

「ガァルァアァッ!!」

『嫌ですお断りですふざけんなでありますですよっっ!!』

弱々しく、そして少ない言葉から、それでもゼルダはヴィリーの真意を過(あやま)たず汲み取っていた。喉からの吠声と念話の両方で拒絶の意志を叩き返す。ゼルダからしてみれば、ここに来てヴィリーを見捨てるぐらいなら諸共(もろとも)に死んだ方がはるかにマシだった。

力の抜けたヴィリーの体を抱えたまま、人狼状態のゼルダはその通り名のごとく疾風迅雷の速度で駆ける。否、跳弾のごとく『角の森』の隙間を縫って飛び抜けていく。

だが、この場は既に妖鬼王ゴルサウアの領域内だった。追いかけてくるのが奴の角であれば、行く手を阻む大樹もまた同じ角。とうにヴィリーとゼルダは奴に取り囲まれているも同然だったのである。

それでもゼルダは抗(あらが)った。全身全霊をかけて『角の森』の出口を求めて走り続けた。

必死の逃走はやがて僅かな実を結び、ペルシャンブルーの――ここだけは〝変貌(ディスガイズ)〟しても変わらない――瞳に光が見えた。

出口だ。

ゴルサウアの角が占める領域から脱するための。

「――!?」

しかし、そこにこそ罠が潜む。

出口の光の中から、後方より迫る角と同じようなものが群れとなって現れた瞬間、儚い希望はあえなく砕け散った。

前後からの挟み撃ち。

いや、それだけではない。ゴルサウアは出口のすぐ近くこそを必殺の座標としていたのだ。前後どころではなく、左右からも、そして頭上からも数十を超える角の群れが伸び出てきた。

間に合わない――朦朧とする意識の中であっても、ヴィリーの直感はそう結論付けた。

守り切れない――自分の半獣の肉体を盾にしてでもヴィリーを守護したかったゼルダでも、そう思わざるを得ない状況だった。

光溢れる太い角と角の隙間。そこへ至る一歩前に、全ての角がゼルダとヴィリーに殺到する。

だからと言って今ここで足を止めてどうするというのか。

「ガルァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!」

『こんちきしょ――――――――――――――――っっっ!!!』

狼の喉と心の両方でゼルダは叫んだ。

時は止まらない。

全方向から死の角が襲い来る、その直前。

『――爆ぜろ〝ブリューナク〟ッッッ!!!』

スピーカーを通したユリウスの声と共に、眩く輝く黄金の砲撃が出口から突っ込んできた。

ユリウスの纏うパワードスーツ〝サウィルダーナハ〟。その自慢の盾槍(パイルバンカー)が放つ〝ブリューナク〟は、ゲートキーパー級のSBすら打ち砕く。叩き込まれた五本の光槍は出口付近の柱がごとき角の束をへし折り、破壊し、ゼルダとヴィリーのすぐ側を一気に貫いていった。無論、彼女ら二人に迫ろうとしていた細い角の群れをも砕け散らせながら。

力尽くで大きく広げられた『角の森』の出口から、二つの人影が勢いよく飛び込んでくる。

槍を持つ長身の男。

二振りの曲刀を携(たずさ)えた女。

カレルレンとアシュリーだった。

「ヴィリーッ!」

「ヴィクトリア様ッッ!!」

二人とも必死の表情で〝ブリューナク〟がこじ開けた道に突っ込んでゼルダとヴィリーに駆け寄ってくる。だがそれは手を引くためではなく、なおも残って彼女らを狙う角の群れを撃退するためだった。

「〈ナーストレンド・ゲヘナ〉!」

「〈ライジング・バーストストリーム〉ッ!」

カレルレンとアシュリーが同時に〝SEAL〟を励起させ、術式を発動させた。ルビーレッドの輝線がカレルレンの必死の形相を、オレンジの閃光がアシュリーの服が破けて露わになった肌を駆け抜ける。

カレルレンの前方に展開した直径二メルトルほどの術式アイコンから、大量の氷の狼が飛び出した。神器由来の術式でないため、この氷はカレルレンのフォトン・ブラッドの色をしていない。勢いよく飛び出てきた氷狼(ひょうろう)の群れはホーミングミサイルよろしくゴルサウアの角へと突撃していく。牙を剥いた氷狼がウミヘビのように宙を奔る角を捕らえ、一斉に噛み砕いた。

一方、剣術式を発動させたアシュリーはカレルレンとは逆方向へ跳躍。二振りの蒼い曲刀〝サー・ベイリン〟にオレンジのフォトン・ブラッドが巻き付き、刀身を数倍以上に伸長させる。

「――はぁあああああああああああああああああああッッッ!!!」

橙色の光の刃が乱舞した。踊るように斬閃が飛び散り、ゴルサウアの角と触れた瞬間に強烈な爆裂を起こす。一度発生した爆発はさらに周囲の空気を破裂させ、爆裂が拡散した。オレンジの火の粉が舞い散り、それらもまた誘爆するように破裂していく。

ゼルダとヴィリーの周囲を、氷狼と光爆が包み込み――刹那、いっそ幻想的なほどの光景を作り上げた。だが美しく見えてもそれらは全て破壊の力であり、辺り一面に敷き詰められていたゴルサウアの角は、動くものも動かないものも関係なくまとめて吹き飛ばされる。

「行きなさいゼルダッッ!!」

「ここは俺達に任せろ!」

ゼルダとヴィリーを守護しながら、アシュリーとカレルレンが叫ぶ。ゴルアウアの角は地面から、森の奥から、ひっきりなしに新しいものが生まれ続け、無限と思えるほど湧き出てくる。それらを全力で撃退しながら、〝氷槍〟と〝絶対領域(ラッヘ・リッター)〟は退路を確保していた。

「グルァァアァアァッ!」

二人の行動に吠声で応えて、ゼルダは獣人の脚で強く地を蹴る。カレルレンとアシュリーが意地でも守った通り道を、弾丸のごとく一気に突き抜けた。

出口を通って、外へ。

そこに待っていたのは、

『――よいぞカレルレン、アシュリー! 卿らも戻れ! これより余の壁を出すっ!』

黄金の偉丈夫(いじょうぶ)だった。パワードスーツの巨漢が『角の森』から飛び出してきたゼルダをヴィリーごと抱き止め、まだ内部で追撃を堰(せ)き止めているカレルレンとアシュリーを呼び戻す。

パワードスーツ〝サウィルダーナハ〟のスピーカーからユリウスの声が響くや否(いな)や、冷気の残滓(ざんし)を纏ったカレルレンと、双剣から光の尾を曳いたアシュリーが森から飛び出てきた。

無論、彼らを狙うゴルサウアの角もまた、イソギンチャクの触手のごとく森の中から突出してくる。

そこへ、

『いでよっ! 我が大いなる〝コンホヴァル・マク・ネサの盾〟ェッッ!!』

絶叫じみたユリウスの雄叫びが轟いた瞬間、金色(こんじき)の光の揺らぎが彼らと『角の森』との間に忽然と現れた。

蜃気楼よろしく向こうの風景を歪ませる光の揺らぎは、瞬時に黄金の金属へと具現化する。

塔のように高く、崖のように幅広い城壁へ。

「しつ――こいっ!」

突如として出現した黄金の壁に断裂させられてなお、宙を進んでヴィリーを狙おうとする角の残党を、アシュリーの剣が叩き斬った。バラバラに切り裂かれた色取り取りの角が地に落ち、飴玉のように転がる。

それが最後だった。

「――逃げ切れた、か……?」

構えを解かず残心したままのカレルレンが、窺うように独りごちた。彼の翡翠色の視線が注がれるのは、ゴルサウアの『角の森』と彼らを隔てる障壁となった、ユリウスの〝コンホヴァル・マク・ネサの盾〟。巨大な城塞都市の壁をそのまま持ってきたかのような断崖絶壁は、上を見れば空に届きそうで、左右を見れば果てがわからぬほどだ。

どう見ても『あちら』と『こちら』を断絶しているようにしか見えなかった。

『安心するがよいぞ、カレルレン。余の〝コンホヴァル・マク・ネサの盾〟は地中深くまで潜り、むしろこの浮遊島をぶち抜いているのだからな。完璧なる壁(かべ)、完全なる防御、絶対的断絶を実現しているぞ! どおら見たことかフゥーハッハッハッハッハッ!!』

胸と両腕で抱き止めたゼルダとヴィリーを地面に降ろしながら、ユリウスは自信満々に断言し、次いでパワードスーツの胸を張って大いに自慢した。

そうして高笑いした直後。

『――というわけで余はもうだめだ。後はよろしく頼んだぞ、戦友(とも)達よっ!』

シュタと黄金のパワードスーツで片手を上げたかと思えば、そのままバターンと後方に倒れてしまった。カレルレンの〝領域〟が失われ、地脈からのバックアップがない今、ユリウスがエネルギー切れで動けなくなるのは当然の摂理だった。

パワードスーツ〝サウィルダーナハ〟が山吹色の輝きとなって消滅し、普段通りの幼い少年の姿をしたユリウスが現れる。体で『大』の字を描いて寝そべり、早くも眠りに落ちていた。尊大なほど自信たっぷりに微笑むそれは、実に満足げな寝顔であった。

「……たすかった、の……?」

結局、頭が朦朧として助けられるがままだったヴィリーは、目の前の現実が信じられないかのように呟いた。

もはや危険は無いと判断したゼルダが〝変貌(ディスガイズ)〟を解除しながらヴィリーをそっと地面に降ろす。そこはまだゴルサウアの角に犯されていない、ひび割れたアスファルトの残る大地だった。

追撃の気配のない、安全なる静寂の間。

気が抜けた途端、ついさっきまで狼の面貌をしていたゼルダの瞳に、ぶわっ、と涙が滲み出た。

「ヴィ、ヴィクトリア様ぁあぁ~~~~~~~~! 無事でよかった、よかったでありますですぅ~~~~~~~~!」

号泣であった。喉を潰されたような涙声でヴィリーの名を呼び、安堵と共に嗚咽を吐き出す。彼女の近くに膝を突くと、子供のように空に向かって、おいおいと泣き叫び始めた。よかった、よかった、本当によかった、とガラガラになった声音で繰り返しながら。

「――ご無事で、本当に何よりです。ヴィクトリア様」

警戒を解き、双剣を下ろしたアシュリーがヴィリーに歩み寄る。普段から険のある顔ばかりしている少女が、この時ばかりは柔らかに微笑みながら。

「君なら必ず生きていると信じていた、ヴィリー。生き残った全員で駆けつけた甲斐があるというものだ」

常の〝副団長然〟とした態度を捨て去り、ヴィリーの幼馴染みかつ相棒として、カレルレンが無事を言祝(ことほ)ぐ。状況が状況だっただけに、冷静沈着を旨(むね)とする彼もまた、安堵を露わにした表情だった。

「あなた達……」

少しは力が入るようになってきた体に鞭打ち、ヴィリーは寝かされた状態から上体だけを起こした。

信じられなかった。

何が起こったのか、ヴィリーをして実感を持てずにいた。

だが、話は簡単だ。

ヴィリーがゴルサウアの角に滅多刺しにされ、バラバラにされる瞬間を目の当たりにしておきながら、彼ら四人は揃って救出しに来てくれたのである。必ずやヴィリーが生き延びていると、そう信じて。

「……っ……!」

嬉しくない、などと言えば嘘になる。カレルレンを始め、アシュリー、ゼルダ、そしてユリウスの献身的行為には感謝しかない。こんな状況だというのにヴィリーの胸奥は熱くなり、涙が込み上げてきた。

だが同時に、心には重石がのし掛かる。先程のカレルレンの言葉。『生き残った全員で駆けつけた甲斐があるというものだ』が指す、もう一つの意味。

「――残っているのは、もうあなた達だけ、なのね……」

思わず礼の言葉よりも先に、そんな落胆が唇から滑り落ちた。

途端、カレルレン、アシュリー、ゼルダの三名の表情が曇る。

「……まだ『サーチ』を使って確認したわけではないが、ここにいる者以外が生き残っている可能性は限りなく低い。生きていれば、必ずここへ来ているはずだからな」

いったん目を伏せ、硬い声でヴィリーの問いに答えたカレルレンは、次の瞬間には顔に無表情のカーテンをかけていた。

彼ら『蒼き紅炎の騎士団《ノーブル・プロミネンス・ナイツ》』の中に〝剣嬢〟ヴィリーの安否を気にかけない者などいない。彼女の窮地に駆けつけていないということは――【駆けつけられていないということ】は、つまりそういうことだった。

「そう……」

それ以外にヴィリーに返す言葉はなかった。頷く声に熱はなく、それは魔女の吐息のように冷え切っていた。

俯いて垂れ下がった金色の髪が幕となった向こうで、深紅の瞳に冷酷な決意の光が宿る。

「――仇を、取るわ」

「駄目だ、撤退するべきだ」

ヴィリーの押し殺した宣言を、しかし間髪入れずカレルレンが否定した。

容赦のない拒否の声に、ヴィリーは思わず顔を上げてカレルレンの顔をまじまじと見つめた。

信じられないものでも眺めるような瞳で。

「……何を言っているの、あなた?」

震える声で問うヴィリーに、カレルレンは厳然と言い放つ。

「それはこちらの台詞だ。君こそ何を言っている? 正気の沙汰じゃないぞ」

二人のやりとりを傍から見ているアシュリーとゼルダからすれば、感情的なのはヴィリーで、理論的なのがカレルレンだった。いつしかゼルダも泣き止み、二人で固唾を呑んで騎士団長と副団長の会話を見守る姿勢に入る。

カレルレンから言外に『頭がおかしいのか』と突き放されたヴィリーは、上体を起こして地面に手をついた体勢のまま、視線を宙に泳がせた。まるで言葉を探すように。右へ、右下へ、左下へ、と目線をさまよわせた後、再びカレルレンへ焦点を向け、

「……カル、いい加減にしてちょうだい。もうウンザリよ、あなたはいつもそう……そうよ、そうなのよ……いつもいつも、そうして冷静に……落ち着いて……氷みたいに冷たくて!」

ヒステリックに怒鳴りつけた。頭(かぶり)を振ってから声を高め、深紅の双眸が幼馴染みの青年を睨み付ける。呼び名が二人きりの時にしか使わない『カル』になっていることに、ヴィリー自身は気付いていないだろう。

これに対し、やはりカレルレンは取り乱したりなどしなかった。丁寧な動作で片膝を突き、ヴィリーと目線の高さを合わせる。じっ、と彼女の目を見据え、

「なんと言われようが構わない。自覚はあるようだが、敢えて言っておく。君はまず落ち着くべきだ。自分で何を言っているのかわかっていないんだ。冷静じゃない。しっかりしてくれ」

子供を諭すような言い方は、むしろ今のヴィリーにとっては神経を逆撫でにする行為でしかなかった。

ヴィリーはその美貌を怒りに歪め、

「ふざけないでッ! この状況で他に何があるって言うのよ!? あの子達が、【私のあの子達】がみんな殺されたのよ!? いま仇を取らずにどうするっていうの!?」

身を乗り出して噛み付くヴィリーに、カレルレンはなおも泰然と応じた。

「今のままでは不可能だ。やはり今の君には状況が見えていない。落ち着いてくれ。いつもの君ならすぐにわかることだ、ヴィリー。頼むから、死んだ人間ではなく、まだ生きている人間に目を向けてくれ。君が言っていることは無茶無謀に過ぎる」

翡翠色の瞳は静かに、燃えるようなヴィリーの視線を受け止めていた。その穏やかな眼差しから、カレルレンが彼女を揶揄しているのではなく、真摯に説得しようとしているのがわかる。

だが激情に取り憑かれている今のヴィリーには、そのことごとくが裏目に出た。かつてないほど追い詰められている彼女の目には、カレルレンが冷酷で慈悲のない無理解者にしか見えなかったのだ。

それは、端から見ているアシュリーやゼルダから見ても明らかだった。故に彼女達の方こそ、カレルレンの言動が理解できなかった。まるでわざとやっているのかと思うほど、カレルレンはヴィリーの逆鱗に刺激を与えているようにしか見えなかったのだ。我らが副団長はここまで団長の心が、否、女心がわからない人だっただろうか――と。

ヴィリーの両肩が危ういほどに震え、半開きの唇がわなないた。やがてヴィリーが息を吸い込み、再度その腹の底で激発した感情を吐き出しかけた、その時。

「ならば、今すぐこう言え、ヴィリー。俺達に死ね、と」

「――は……?」

出し抜けに理解できない言葉を耳にねじ込まれたヴィリーは、一瞬だけ怒りを忘れて目を瞬(またた)かせた。虚を突かれて、出足を挫かれたのだ。

カレルレンは真剣な表情で、ヴィリーを真っ直ぐ見つめたまま続ける。

「何度でも言うぞ、ヴィリー。いや、ヴィクトリア・ファン・フレデリクス。君が言っていることは無理難題の極みだ。この状況で皆の仇を取るなど到底不可能だ。ここまで言ってなお、どうしてもそれを望むというのであれば――俺達に命令しろ。【今すぐここで死ね】、と」

「――何を、あなた、言っているの……?」

本気で何を言っているのかわからない、という風にヴィリーは聞き返した。その瞳はいつしか、話の通じない狂人を見るそれに変わっている。

だがカレルレンは構いはしなかった。

「君が言っているのはつまりそういうことだ。戦力は激減し、頼みの君は消耗し、敵は強大だ。勝機など微塵もない。こんな状況だと言うのに、君は仇を取るだなんて世迷い言を喚(わめ)いている。もう一度言おう、【それは正気の沙汰じゃない】。どうにか助かって生き残ったというのに、君はそれを投げ捨てようとしているんだ。俺達の命までまとめて」

「――……」

黙り込んだヴィリーに、カレルレンは小さく息を吐く。そして声音を優しいものに変えて、

「だが、構わない。俺達は君の剣だ。〝剣嬢〟ヴィリーの忠実な騎士だ。だから、【君が死ねというのなら死のう】。心から喜んで、その命(めい)に殉じよう。覚悟ならとっくに決めてある」

微笑を浮かべた。物騒な言葉とは裏腹に、春の日射しのごとく穏やかな眼差しで。

「ぁ……」

爆発的に、ヴィリーの瞳に理解の色が広がった。

「『蒼き紅炎の騎士団《ノーブル・プロミネンス・ナイツ》』は君で、君こそが『蒼き紅炎の騎士団《ノーブル・プロミネンス・ナイツ》』だ。君さえ生きていれば騎士団(ナイツ)はいくらでも再建できる。だから俺達が死ぬこと、そのものは構わない。この命、君のためならいくらでも差し出そう。だから、その意志が絶対に変わらないというのなら、せめてはっきり命じてくれ」

ここでカレルレンは脇にいるアシュリー、ゼルダ、そして離れた場所に倒れているユリウスに視線を送ってから、改めてヴィリーに向き直った。

「ここにいる全員に、【死ね】――と」

怒りをぶつけるわけでもなく、嫌味を投げつけるわけでもなく、ただ穏やかにカレルレンは希(こいねが)った。

飾った言葉でもなく、虚言で誤魔化すでもなく。

今ここで皆の仇を取るという行為は自殺に等しいのだから、どうせ命を失う者にははっきり言ってくれ――と。

何より、君の下す命令によってここにいる全員が死ぬことを、心の底から理解した上で、それを命じてくれ――と。

カレルレンはそう、ヴィリーに求めているのだった。

「――――…………」

憑き物が落ちたかのように、ヴィリーの肩から力が抜けた。頭に上った血が静まり、冷静さがその体に戻ってくるのが目に見えるようだった。

ヴィリーが俯き、再びプラチナブロンドのカーテンが表情を隠す。そうしてカレルレンの方に上半身を乗り出しながら、頭(こうべ)を垂れる姿は、どこか詫びを入れているようにも見えた。

「……っ……っ……!」

やがてヴィリーの肩が小刻みに震え始めた。小さな震えはやがて全身に伝播し、地面に着いた手はそこにある土を、ぐしゃり、と握り潰す。

その光景を近くで見ていたアシュリーとゼルダは、落雷に打たれるがごとき驚愕と共に、息を呑んだ。

〝剣嬢〟ヴィリーが、泣いている。

幼い少女のように声を殺し、身を震わせ、下を向いて咽(むせ)び泣いている。

あの強大で、鮮烈で、凜として、美しい女傑が。

騎士達が剣を捧げた、偉大なる女主人が。

脇目も振らず、涙を流しているのだ。

アシュリーもゼルダも、申し合わせたように自然と自らの口元を手で覆い、息を殺した。あまりの事態に動転して、絶句してしまったのだ。

ただ一人、カレルレンだけは小動物のように啜り泣くヴィリーを、表情を崩すことなく真っ直ぐ見つめていた。

やがて、涙に声を詰まらせながら、ヴィリーが拗ねた子供のように呟く。

「……カルの、ばかっ……!」

小さな石を軽く投げつけるような、そんな罵倒だった。相手を傷付けようというのではなく、せめてもの抵抗を示すような、そんな類の。

「…………」

幼子(おさなご)じみた罵声を、カレルレンは無言で受け止める。翡翠の瞳は、子供返りしたヴィリーの姿をただ静かに見つめていた。

すると、ヴィリーの喉から得も言えぬ高い音が微かに漏れた。涙で潰れた喉の、ほんの少しだけ開いた隙間から息を吸ったような、笛にも似た音だった。

あるいはそれは、感情の堤防が決壊する音だったのかもしれない。

涙に塗(まみ)れた声音で、ヴィリーの生の感情が溢れ出た。

「――っ、こんな時にっ……そんないじわるっ、言わなくても……いい、じゃないっ……ばかぁ……!」

以降は声にならなかった。嗚咽がヴィリーの喉からこぼれ落ちる。大人の女にあるまじき、先程のゼルダと比べても大差のない、それは号泣だった。

「…………」

ここでようやく、カレルレンはやや目を伏せた。はぁ、と小さく嘆息したようでもある。

彼は片膝を突いたまま前方へ移動し、顔を隠して泣きじゃくるヴィリーに近付いた。

そのまま手を伸ばし、ヴィリーの後頭部と肩を抱き寄せ、自らの胸元へ誘う。

「「――~ッ……!?」」

路傍の石になったかのように事態の推移を眺めていたアシュリーとゼルダは、度重なる異例に声にならない悲鳴を上げた。我知らず口元を押さえていた手が、ここぞとばかりに役立ったわけである。

何が驚きかと言えば、ヴィリーを抱き寄せたカレルレンにも驚き――だったが、それ以上に愕然としたのは、ヴィリーが嫌がる素振りも見せず、当たり前のように額をカレルレンの胸元に預けたことであった。

現状が絶望的な非常事態であることを理解しつつも、アシュリーとゼルダは揃いも揃って目の前の光景にオタオタすることしか出来なかった。

配下の幹部達が挙動不審に陥っているのを知ってか知らずか、カレルレンはヴィリーに対してのみ言葉を紡ぐ。

「……悪かった。どうやら俺も冷静ではないらしい。こんな状況だ、わかってくれとは言わないが、俺も石で出来ているわけじゃない。言葉が過ぎたのは謝る。許してくれ、ヴィリー」

謝罪の言葉を口にするカレルレンの懐で、ヴィリーは声を押し殺して泣き続ける。「うー」と唸るような嗚咽は、主人に甘える不機嫌な犬を連想させた。

「ああ、わかっている。すまない。俺が悪かった。君の気持ちをもっと慮(おもんぱか)るべきだったな」

まともな言語にもなっていない呻き声から全てを察したのか、カレルレンは謝罪の言葉を追加する。

最早(もはや)ここにいるのは、誰もが知る『蒼き紅炎の騎士団《ノーブル・プロミネンス・ナイツ》』の団長と副団長ではなかった。

地位も役職も関係ない、ただの幼馴染みの男女がそこにはいた。

カレルレンの手甲に包まれた手が、ぎこちなくヴィリーの頭を撫でる。トレードマークであるポニーテールを乱さないよう、気を配って。

その所作から、こういった行為がけして初めてではないこと。しかし、だからといって頻繁によくあることでもないことが見て取れた。

普段はほとんど目にすることのない上司達のプライベートな部分を露わにされて、アシュリーとゼルダはそれぞれの顔を見合わせて、お互いの混乱を共有する。

カレルレンはヴィリーの肩を抱いていた手を背中へと移し、優しく撫でながら、

「だが、ああ、そうだな。わかってくれてありがとう。よかった、冷静になってくれて。もう言うまでもないだろうが、ここは一時撤退だ。こうなった以上、俺達だけで奴を倒すことは不可能だ。ここはラグ君や小竜姫と合流して、それから――」

「そうか、そういうつもりじゃったのなら、話が早いのう」

突然の割り込みの声は、上空から。

思わぬ闖入者に何事かとカレルレンは舌を止めて、顔を上げる。

そこにはスミレ色のライトワイヤーで編まれた鳳に乗った銀髪の現人神と、吹き荒れる風にアッシュグレイの長髪を躍らせる少女。その隣には、背中のランドセル型武装から紫の光翼を生やし、音もなく宙に浮いているツインテールの少女が。

一人、無表情を常とする〝銀鎖の乙女(アンドロメダ)〟ことロルトリンゼ・ヴォルクリングを除くと、〝破壊神(ジ・デストロイヤー)〟〝恐怖の大王(メガセリオン)〟と名高きハヌムーン・ヴァイキリルと、〝無限光(アイン・ソフ・オウル)〟という銘(シグネイチャー)の裏で〝災厄女王(デッドリーヒール・クイーン)〟と呼ばれているミリバーティフリムが、ニヤニヤと得も言えぬ笑みを浮かべて、こちらを見下ろしていた。

「――あ、ごめんなさい? こんな状況ですけど、ねぇ? 続けて続けて? アタシ達って出遅れちゃいましたし、何も文句言えませんしね? いや邪魔するつもりは毛頭なかったんで? なのに小竜姫ってば余計なことしちゃって、ねぇ? ええもう本当、どうぞ続けてごめんなさい? アタシ達まだ全然待てるんで。えへへ♪」

心底申し訳なさそうにしつつも、どこか小悪魔じみた所作でフリムが両手を合わせて謝罪する。片目を瞑って茶目っ気たっぷりに微笑む姿は、とある少年が見飽きるほど目にした悪戯っ子のそれだった。

次の瞬間、カレルレンの体が凄まじい力で突き飛ばされたのは言うまでもない。

「そう急がずとも、存分にカレルに甘えておってもよかったのじゃぞ、〝剣嬢〟ヴィリー?」

「……余計なお世話よ、小竜姫」

色々と無駄なやりとりがあった挙げ句、ハヌムーンは状況を忘れたようにヴィリーを揶揄する。普段であれば軽くいなせるはずのヴィリーではあるが、今回ばかりは流石に間が悪すぎた。まだ赤い顔や目を隠すように、そっぽを向いて陳腐な返し方をすることしか出来ない。

ユリウスが出現させた巨大な黄金の盾。妖鬼王ゴルサウアが地面と同化したことによって作られた『角の森』を断絶する城壁の麓で、生き残ったエクスプローラー達は一箇所に集っていた。

無論、彼ら彼女らの間にはなんとも言えない微妙な雰囲気が漂っている。

特にヴィリー達『蒼き紅炎の騎士団《ノーブル・プロミネンス・ナイツ》』の間には錆びた歯車にも似た空気が流れている。

かつてない非常事態ではあった。短時間の内に多くの部下を失い、あまりのことにヴィリーは我を失った。錯乱するのも無理はなく、取り乱すのは必然であった。そんなヴィリーを慰めるのは最も近しい側近であり、古馴染みでもあるカレルレンの役目だった。何もかも致し方のないことだったのだ。

とはいえ上司二人、それも敬愛する騎士団長と副団長の思いも寄らぬ素の場面を見せられた部下達とて、虚心ではいられない。

アシュリーもゼルダも、二人が幼い頃から仲良くしている関係であることは知っていたが、そのプライベートな部分はこれまで全くと言っていいほど目にしてこなかった。だというのに、先程のような生々しいところを見せられてしまっては、気まずい以上に胸がドギマギしてしまうのは如何(いかん)ともしがたかったのである。

一方、世間では最強クラスタの一角と謳われている『蒼き紅炎の騎士団《ノーブル・プロミネンス・ナイツ》』のトップ二人の愁嘆場(しゅうたんば)を目撃してしまったハヌムーンら『BVJ(ブルリッシュ・ヴァイオレット・ジョーカーズ)』としては、これを見逃す手はなかった。特にハヌムーンにしてみれば、ヴィリーは己の黒歴史を知る一人。弱味を握って損することはなく、むしろ立場を思い知らせる絶好の機会であった。無論、フリムが楽しげにしているのは彼女が単にミーハーだからである。

しかしながら、そんなことに全くと言っていいほど興味を持たない人間がいる。

「では、早速ですが作戦会議を始めましょう」

ロゼであった。感情の見えない仮面のごとき顔を常とする彼女は、この場にわだかまる名前のない空気を無遠慮に切り裂いた。

途端、ピリッとした緊張感が周囲を引き締める。直接何を言われたわけでもないのに、アシュリーとゼルダが背筋を伸ばして居住まいを正した。

「大変申し訳ありませんが、皆さんの戦いの様子は上空から見ていました。ここにいる方々が生き残っていることを、敢えて不幸中の幸いと言わせていただきます」

抑揚のない口調は、現状の厳しさを思い出させるには十分だった。カレルレンを除き、ヴィリー、アシュリー、ゼルダは揃って視線を地面に落とす。だが、そのまま意気消沈することはなく、

「――気にしないでちょうだい。生き死にを賭けて戦うのがエクスプローラーよ。あの子達もこんな日が来ることは覚悟していたはず。気持ちだけ、ありがたく受け取っておくわ」

やや形式張った言い方で、ヴィリーはロゼの配慮に感謝の意を表した。そんな彼女の言葉に、アシュリーとゼルダは面を上げる。仲間達の死を悼むのは、後からでも出来ることだ。今は俯いている時ではない。そう気付いたのである。

そして、遅ればせながらアシュリーが挙手する。

「――失礼ですが、作戦会議の前に確認を。〝勇者ベオウルフ〟はいずこに?」

それは『蒼き紅炎の騎士団《ノーブル・プロミネンス・ナイツ》』側の人間からすれば、至極当然の疑問だった。

ここにはハヌムーン、ロゼ、フリムの三名がいる。であれば当然、あの少年も近くにいなければおかしい――と。

「…………」

今の今まで涼しげな顔つきでヴィリーをからかっていたハヌムーンが、一転して眉間に皺を寄せて押し黙った。それだけで場の空気が異様なほど重くなる。

「……まさかとは思うが、」

空気の変質だけである程度のことを悟ったカレルレンが、口を開こうとした時だった。

「残念ですが現在は行方不明です」

遮断するようにロゼが質問に答えた。そのまま、反駁を許さぬ口調で畳み掛ける。

「サーチを使ったマップにも表示されないため、おそらくHPがゼロになったものと思われます。ですが〝死亡〟はしていないはず。何故なら、【このゲームは彼の為に始められたものだからです】。彼がいなければ、このゲームを続ける意味はありません」

淡々と現状報告と推察を積み上げ、ロゼはこの場にいる全員の顔を見渡す。その脇で「うっわぁ、こういう時のロゼさん頼りになるう」と小さな声でフリムが囁き、人知れずコソコソと動き出した。

「――待って。それはどういう意味? GM(ゲームマスター)にとって、私達はラグ君の【おまけ】だとでも……?」

流石に聞き捨てならなかったのだろう。ヴィリーが反駁するように聞き返す。多くの部下を失った彼女にとって、エイジャの目的が『ラグディスハルトのみ』というのは、にわかには受け入れがたい話だ。

ロゼは凪いだ湖面を思わせる琥珀色の瞳で、熱のある深紅の視線を受け止める。

「これだけの敵を用意しているのですから、私達が【おまけ】程度ということはないでしょう。必要なのがラグさんだけであれば、彼一人をこの空間へ連れて来ることがGMには出来たはず。そうしなかったということは、ラグさん以外の人間にも何かしらの用事があったと推測できます。それがどんなものかは、はっきりとしませんが」

ヴィリーの問いに理路整然と答えるロゼ。その陰でフリムが歩き回り、まずはアシュリーに声をかける。

「――? 何ですかフリム、あなた真面目に話を」

「あーいいからいいから、ほら手ぇ貸しなさいって。アンタも消耗してるでしょ?」

軽く叱ろうとしたアシュリーの手を半ば無理矢理に取ると、フリムは〝SEAL〟を励起させて付与術式を発動した。

「〈フォトンプロバイダー〉っと」

「ちょ……!?」

フォトン・ブラッドに含まれる『現実改竄物質』を外部に譲渡する術式を発動させたところ、アシュリーが殊更に顔色を変えた。彼女にとってフリムの〈フォトンプロバイダー〉は、かつてエアバイクの愛機〝ゼーアグート〟が悲しい末路を辿った一因であった。要するに〝よい思い出がない〟のである。

「なら、ラグ君が〝死亡〟したとしてもゲームは続けられるのではないかしら? 別段、私もあの子がむざむざとやられるような人間だとは思っていないけれど……」

そこまで言ったところで、ヴィリーは喉を詰まらせたように口を閉ざした。それから苛立ちを隠せないように頭を横に振る。金のポニーテールを大きく揺らしてから、

「……ダメね、ごめんなさい。本当に余計なことを言ったわ。理屈はどうでもよかったわね。要は、あなた達はラグ君の生存を信じている。そういう話よね?」

こんな時に無意義な指摘だったと、ヴィリーは謝罪して話の腰を元に戻した。

「ご理解いただきありがとうございます」

何かを言う前に自身で気付いて話の流れを修正してくれたヴィリーに、ロゼは素直に感謝する。大切な仲間を失ったばかりのヴィリーの過敏さは、ロゼにも理解できるところがあったのだ。

「はい次々ー、ゼルダさんもほら、おてて出してくれる?」

「あ、よろしくでありますです」

無限に近い回復力をもって皆のフォトン・ブラッドを充填しようと、フリムはゼルダにも手を伸ばす。かつての苦渋に顔を歪ませながら補給を受けるアシュリーとは正反対に、『変貌(ディスガイズ)』を解いたゼルダは朗らかな笑顔で対応した。

「自分の後はあそこに転がっているユリウスにもお願いしたいであります」

「オッケー任せてー」

詰まる所、小難しく言いにくい話は全てロゼに任せて、フリムは『NPK』メンバーのフォトン・ブラッド回復に努めようということらしい。

「……なるほど、この状況ではラグ君を探すにも手がかりがない。であれば、まずは目につくものから先に潰しておくが賢明――そのために君達はここへ来た。そういうことだな?」

「ふん、相も変わらずよう頭の回る奴じゃな、カレルよ。今度ばかりは話が早くて助かるがの」

素早くハヌムーン達『BVJ』メンバーがこの場にやって来た理由を洞察したカレルレンを、現人神の少女は遠回しに賞賛した。

「さよう、ラトがおらずともこのデカブツは妾が倒す。ラトを見つけるのはその後でよい。あやつは必ず生きておる。このふざけた遊戯が終わればすぐにまた会えよう」

ハヌムーンは尊大に腕を組み、胸を張って嘯いた。そこに強がりの微粒子が混じっていることを、観察力のある者であれば即座に看破したであろう。声の底が少しだけ、震えていた。

陰ながら行われていたフリムのフォトン・ブラッドの補給がユリウスを超えてカレルレンに届く。彼もまた丹念に展開させた〝領域〟をゴルサウアに破壊され、ヴィリーほどではないが、かなりの消耗をしていた。すまない、と礼を述べてフリムの〈フォトンプロバイダー〉を受ける。

「では、具体的な作戦案を詰めていきましょう。まずこの正体不明の敵、GM言うところの〝妖鬼王ゴルサウア〟。これは小竜姫の術式によって殲滅します。異論はありませんか?」

ロゼはユリウスの展開した黄金の障壁〝コンホヴァル・マク・ネサの盾〟を一瞥する。この壁の向こうにいるであろう、ゴルサウアの存在を示すために。

実のところ、ロゼを始めハヌムーン、フリムはここまで駆けつける過程で『蒼き紅炎の騎士団《ノーブル・プロミネンス・ナイツ》』と妖鬼王ゴルサウアとの戦いの一部を目にしていた。無論、ヴィリーの〈ディヴァインディバイド〉によって両断されたゴルサウアが、地中から大量の角の群れを射出し、『NPK』の戦線を崩壊させていく様をも。

故に、相手が一筋縄でいかないことは充分過ぎるほど理解している。

「もちろん異論はありません。先日のフロアマスターのように、カーネルコアがどこにあるかわからない相手です。前回はベオウルフが力尽くで倒してくれましたが、やはり強力な広範囲攻撃で一気に殲滅するのがベストでしょう。小竜姫の力を発揮していただけるのであれば、これに勝るものはありません」

アシュリーの同意に、他の者も追随して頷きを返した。

「ですが、それには詠唱の時間が必要となるはず。そこはどうするつもりですか? 残念ながらユリウスの防御も完璧ではありません。今は堰き止められていますが、小竜姫の術力を感知してゴルサウアが活性化した場合は、その限りではありませんよ」

これもまた当然と言えば当然の指摘であった。アシュリーとてロゼらが考えもなしにここまで来たとは思っていないが、形式として疑問を呈さなければならなかった。

ユリウスの〈光の城と影の国(ラグナレク)〉で召喚した城壁は、しかし壁でしかない。ゴルサウア以外にも鬼人の軍勢はまだ残存しており、それらはゆっくりではあるが確実にこちらへ近付いてきている。壁を迂回するか、あるいは飛行して上方を乗り越えて。

畢竟、この作戦会議の時間もまた有限であった。

「ご安心ください。私の手に『秘策』があります。ですが、そのためには皆さんの力が必要です。どうか手を貸してください」

それが故、ロゼの発言はただただ率直だった。必要最低限のことを、抑揚のない口調でさらりと告げる。

カレルレンへの補給を終えたフリムに、横に立ったヴィリーが「さっきはありがとう」と礼を述べた。フリム達がここに到着した際、最もフォトン・ブラッドを消耗して枯渇(イグゾースト)状態に陥っていたヴィリーは、真っ先に〈フォトンプロバイダー〉によって回復させられていた。その時の礼を改めて告げたのだ。

そこへちょうど、ロゼがヴィリーに視線を向ける。

「手を貸して欲しい、というのはちょっとやそっとのものではありません。〝剣嬢〟ヴィリー、いえ、〝神器保有者(セイクリッド・キャリア)〟としてのあなたにお願いがあります」

矛先を向けられたヴィリーは、〝神器保有者〟の響きに表情を引き締めた。このような状況であっても、否、このような状況だからこそ、〝神器〟という名詞には気を配らないわけにはいかなかった。

それをわかっていてなお、ロゼは単刀直入に斬り込んだ。

「あなたの持つ神器〝共感(アシュミレイト)〟の半分をフリムさんに譲り、彼女を〝神器保有者(セイクリッド・キャリア)〟にしてください」

今すぐ服を脱いで全裸になれ、と要求するのに匹敵するほど、それは〝神器保有者(セイクリッド・キャリア)〟同士においては言ってはならない台詞だった。

神器を譲れ、と求めるのは、当事者同士においてはそれほどまでに重大事なのである。

ヴィリーを始め、カレルレン、アシュリーの表情までもが凍り付いた。

そんな中、

「――へ? アタシ?」

話を聞いてなかったフリムだけが拍子抜けするような声を出して、自分で自分の顔を指差した。

そしてまた、申し合わせたかのように。

「――ふがっ……?」

他方、少し離れた場所に放置され寝かされていたユリウスが、張り詰めた空気を察知したように目を覚ましたのだった。

ロゼの切り出し方にこそ問題はあったが、最終的に話は合意へと収束した。

皆、ロゼの語る『秘策』を聞いて、これならば、と判断したのである。

当然のことながら、全てが終わった後に再び神器〝共感(アシュミレイト)〟を分割譲渡することを約束した上で、フリムの体内で神器の統合が行われた。

「――……うわ、なにこれ」

晴れて人生初の〝神器保有者(セイクリッド・キャリア)〟となった瞬間の、フリムの第一声がこれであった。

今まで見ていた世界に分厚い膜が張られたような、それでいて五感が大きく広がったような、得も言えない感覚だと言う。進化したのか退化したのかもわからないのに、全身の感覚が激変したことだけはわかる。それが非常に気持ち悪い――というのがフリムの感想だった。

これに対し、ロゼは『さもありなん』と小さく頷き、ヴィリーは『でしょうね』と苦笑を見せた。もう一人の当事者であるカレルレンは既に戦闘の準備に入っていた為、これといった反応は見せなかった。

ともあれ、これにて準備は万端となった。

既にロゼの口から『秘策』の要項は語られ、この場にいる全員がその一手に賭けることを同意している。

「いいですか、ユリウス。まずはあなたが要(かなめ)です。副団長が言っていた通り、しっかり全員を守護するのですよ」

「ふははははは誰にものを言っているのだアシュリー! 一眠りした余は完全に回復した! 再びカレルレンによって地脈と接続されたならば、今一度この無双の力を振るって戦友(とも)を守ってみせるとも! 大船に乗ったつもりで任せたまえよ!」

アシュリーの念押しに、既に陣の後方へ位置取ったユリウスは両手を腰に当ててふんぞり返った。幼い少年の姿に戻った彼に、フリムの〈フォトンプロバイダー〉で回復させてもらった記憶はない。本気で昼寝をしたら己のフォトン・ブラッドが回復したものと、頭から信じ込んでいる。

『ユリウスはあれでいい。余計な修正を入れて現実を思い知らせるより、思い込みを強く持たせた方が色々と捗(はかど)るからな』

とはカレルレンの言(げん)で、これが為にアシュリーは口を噤(つぐ)むしかなかった。内心では少年の性根を叩き直したい衝動が大暴れしていたのだが。

「準備はよろしいでしょうか、皆さん。よければ配置についてください」

ロゼの声掛けを皮切りに、既に準備段階に入っているカレルレンを中心として全員が所定の位置へと移動した。

前衛はヴィリー、アシュリー、ゼルダの三人の女性騎士が務める。

中央にはロゼとフリムがコンビとなり、そのすぐ背後にハヌムーンが詠唱の構えを取る。

さらにその後方には早くも〈ブラッドストリーム〉でもって大地に〝領域〟を展開するカレルレン。

最後方には誰よりも『地脈』の恩恵を受けなければならないユリウスが、威風堂々と仁王立ちになり、全ての配置が完了した。

彼ら彼女らが向かい立つのは、黄金の障壁に隔たれた地域に潜む妖鬼王ゴルサウア。

前衛右翼に立ったアシュリーが後方を振り返り、全員の準備が整っているのを見て取った。前衛中央に陣取るヴィリーへと目配せをして、頷きと同意を得る。

「――それでは状況開始。総員、ロゼさんに支援術式を発動!」

この声に応え、指令を投げたアシュリーを始め、支援術式をインストールしている者達が一斉に〝SEAL〟を励起させた。比較的、術力の弱いゼルダが四回、残るヴィリー、アシュリー、ユリウスがそれぞれ二回ずつ支援術式を発動させる。

既にこの場にいる全員がヴィリーの持つルーターによって一つのパーティーとなっていた。術式を作用させることに支障はない。

斯くしてロゼに対し一気に畳み掛けられた支援術式は〈フォースブースト〉。これにより使役術式使い(ハンドラー)であり格闘士(ピュージリスト)である彼女の術力が一〇二四倍にまで跳ね上がる。

「――〝接続(コネクト)〟」

そこへタイミングを合わすように、カレルレンが〝領域〟内の者全てと『地脈』とを繋げた。支援術式によって消耗したフォトン・ブラッドが見る見るうちに充填されていく。

「そんじゃあアタシも行くわよぉっ! 〈フォトンプロバイダー〉!」

ロゼの背後に立ったフリムが、アッシュグレイの髪をかき分けて背中に両手を添えた。接触回線によりルーターのそれよりも太い経路(パイプ)が形成され、フリムはロゼの外付けタンクとなった。

「――参ります」

静かな宣言と共にロゼは己の〝SEAL〟を励起させた。孔雀石色の輝きが皮膚上を駆け巡り、幾何学模様を描く。

だがまず行われたのは術式の発動ではなく、ストレージの解放だ。

膨大な量の青白い輝きが、ロゼの輝紋から溢れ出た。

本来なら天上へ昇るはずの青白い光は、しかし下へと落ちる。ロゼの足元、地面の下へと吸い込まれていく。

その量、勢いは瀑布のごとく。尽きぬ湧水よろしく青白い輝きはロゼの全身から溢れ続け、ひたすら大地へと吸収されていった。

それでもやがては終わりの時が訪れる。ストレージから膨大な量の【情報具現化コンポーネント】を全て吐き出したロゼは、満を持して使役術式を発動させた。

「――〈リサイクル〉」

マラカイトグリーンの輝きが煌々と閃く。たった今、大地の下へと具現化させた超巨大なコンポーネントに対し、再生のコマンドが送られる。

無論、それだけで足りるはずもなく。

「〈オーバードライブ〉」

ロゼの持つ神器〝超力(エクセル)〟に由来する術式が重ね掛けされた。

発動対象は〈リサイクル〉ではなく、初っ端から己自身へ。ロゼの〝SEAL〟そのものが限界を超え進化する。輝紋の拡張が身体だけでなく指先、爪先、最後には髪の先まで行き渡った。アッシュグレイの髪がマラカイトグリーンの光を発し、フワリと浮かび上がる。

さらに、

「〈オーバードライブ〉」

もう一度オリジナル術式を発動。その矛先は、すぐ後方にいるフリムへ。

果たしてフリムの身にもロゼと同じ現象が起こった。ピュアパープルの〝SEAL〟が広がり、自慢のツインテールの先端にまでフォトン・ブラッドの輝きが充溢する。髪の先まで漲(みなぎ)る意志を示すように、彼女の長い髪もまた宙に浮いた。

孔雀石色と、紫色の輝きが競い合うように光を強め、鬩(せめ)ぎ合う。

ズゥン……! と大地が大きく揺れた。その場にいる全員が軽くよろめくほどの、それは強烈な震動だった。

大地の下へと潜らせた超巨大コンポーネントに火が入ったのである。

そうして紡がれるのは言霊。

「 世界を守護する清けき精霊よ 我が心に応えよ 」

ロゼにしては珍しく大きく張った声が発せられた。

出力が上がる。どこからか聞こえるハム音が急速に増大していく。

状況の変化に前衛の三人が身構えた。ヴィリーは〈ブレイジングフォース〉を発動させ、全身に蒼炎を纏う。アシュリーは〝サー・ベイリン〟を『モード・ロンギヌス』に。ゼルダも人狼へと〝変貌(ディスガイズ)〟しながらストレージから〝マーナガルム〟を取り出し、火砲槍形態へと移行させた。

「 森羅万象に宿りし全ての精霊よ 我が絶対の声を聞け 」

応じるようにハヌムーンの詠唱も始まった。小柄な体から濃密な術力が溢れ出し、スミレ色のオーラとなって空へと立ち上る。

ズゥン……! と再び大地が揺らいだ。発震源はユリウスの〝コンホヴァル・マク・ネサの盾〟の向こう側。膨大な術力を感知した〝妖鬼王ゴルサウア〟が活性化し始めたのだ。

「 其(そ)は禁忌なる力 其は封印されし力 」

詠唱は続く。

ロゼとハヌムーン二人の相乗効果で強い風が吹き始めた。その場にいる全員の髪がなぶられ、大きく躍(おど)る。

地鳴りも止まらない。敵の存在を検知したゴルサウアが『角の森』を本格的に動かし始めた。ユリウスの築いた黄金の城壁の向こう側から、ガリガリと金属の削れる音が幾重にも聞こえてくる。

「 我が神なる器の名において 今ここに誓わん 」

しかし、ロゼの玲瓏たる声は僅かも揺らがない。全ての五感を遮断したかのごとく、詠唱に集中している。いつしかその両手は、ハヌムーンが普段そうするように印(いん)を結んでいた。こうすれば術の扱いが容易になる、と以前(まえ)に現人神の少女から教えを受けたことがある。無論、術式のフォーマットが違う以上、気休め以外のなにものでもなかったが、意味はあった。

なにせこれから行うは、人類未曽有の偉業。

前人未踏の覇業。

かつて誰もが夢に見て、しかし辿り着いたことのない至高の境地。

前代未聞、空前絶後の怖れを知らない大挑戦。

「 我と汝が力と心を合わせ 全ての敵に破滅を与えんことを 」

神器〝超力(エクセル)〟と言霊を合わせた術式。

そこに籠められるのは、支援術式〈フォースブースト〉によって一〇二四倍に強化された術力。

いつだったか、ロゼは語ったことがある。

このコンポーネントを具現化し、使役するには、自分という使役術式使い(ハンドラー)が十人は必要だろう――と。

それもただの使役術式使い(ハンドラー)ではない。〝神器保有者(セイクリッド・キャリア)〟である使役術式使い(ハンドラー)が、である。

この言葉を、ロゼ以外の者は事実上の『不可能』であると受け取っただろう。

だが、ロゼ当人にそのつもりは全くなかった。

実際、彼女は先述の言葉の前に、こうも口にしたのだ。

『絶対に不可能とは言いませんが』――と。

「 目覚めよ 」

単純な話だ。

己の力を十倍以上にすればいい。

より強ければ強いほど理想的だ。可能ならば百倍でも、千倍でも。

少なくとも支援術式を以(もっ)てすれば、術力を千倍以上に強化することは実際に可能だった。

演算能力が足りない? それなら演算装置を増やせばいい。

具現化に際して必要なフォトン・ブラッド、つまりは『現実改竄物質』が足りない? ならば、それも外付けで追加すればいい。

自分一人では絶対に不可能だが、しかし、仲間がいれば決して不可能ではない。

一人で出来ないことは、皆で。

強大な敵に立ち向かうときは、仲間と手を組んで。

その大切さを、かつて一人の少年が教えてくれた。

「 其(そ)が真名 」

この〝切り札(ジョーカー)〟は今朝方、少年から手渡しで受け取っていた。

僕が持っていても意味はありませんし、もしかしたらロゼさんの役に立つかもですから――そんな言葉とともに。

よもや、こんな事態を想定していたわけではあるまい。

だが、期待はしてくれていたのだろう。ロゼはそう思う。

何かが、思いも寄らぬ【何か】が起こった時、きっとロゼがこれを使って何とかしてくれると。

だから、少年はこれを託してくれた。

少なくともロゼはそう信じている。

だから今、少女は高らかに歌い上げる。

詠唱の締めとなる、超巨大コンポーネントの真名を。

「 〈ミドガルズオルム〉 」

ここに顕現するは、彼ら彼女らがかつて戦いしフロアマスター。

双頭の蛇から、九つ首の大蛇(おろち)へと変化し、その上でさらなる本性を隠し持っていた怪物中の怪物。

目には目を、歯には歯を。

怪物には怪物を。

フロアマスター級である〝妖鬼王ゴルサウア〟に対抗するには、やはり同等の格(核)を持つ存在が相応しい。

激震。

轟音。

大地が鳴動する。

ロゼの発動させた究極の〈リサイクル〉を受けて、地中に沈んだ巨大コンポーネントがついに具現化を始めた。

再生する。

世界を包み込んでなお余りある巨身を持つ蛇の王が、目を覚ます。

最後の総力戦が、ついに始まった。