追い風のおかげで予定よりも早く渓谷付近に辿り着く。
馬は麓にある山小屋の主人に預けた。
「――しかし、困ったな」
隊長はぼやく。
渓谷に降りて調査をするか、山に分け入って渓谷を覗き込む形で調査をするか。
「山は水鰭鰐(コロカジール)との遭遇を避けられる。だが、山は雪が積もっているし、野営はきついものになるだろう」
渓谷は森を下り、川を目指せば到着する。
しかし、渓谷は左右崖に挟まれており、足元は凸凹とした岩で間を流れる川の水中には水鰭鰐(コロカジール)が潜んでいるのだ。
「まあ、森を歩いていても、魔物に遭遇する確率は高いだろう。斜面での戦闘では、上から向かって来る奴が優勢になる」
ただでさえ厳しい登山をする中、魔物なんかに遭遇したら最悪だろう。
しかし、渓谷も危険度は変わらない。
上からは、その場での隊長の判断に任せると言われていたらしい。珍しく、隊長が悩んでいる。瞼を閉じ、何かを考えているようだった。誰からの助言も求めない。それが、隊長の責任だからだろう。
「――よし」
隊長は腹を括ったようだ。進む先は――渓谷。そうと決まれば、森の斜面を下っていく。
◇◇◇
セイレン渓谷。
深い谷となっており、川は流れが速く、魔物も多く生息していることから人は安易に近づかない場所である。
魔法研究局の局員曰く、ここの岩からは良質な魔石の原石が採れるらしく、何度か採取と調査に向かったが、不安定な足場と魔物の出現を理由に、何度も向かっては撤退を繰り返しているらしい。
果たして、今回の調査はどうなるのか。できれば、水鰭鰐(コロカジール)なんぞには遭いたくない。
鞍から下ろしていた荷物を背負う。ベルリー副隊長に、鍋と鞄を結んでもらった。
「リスリス衛生兵、重たくないか?」
「はい、大丈夫です」
魔棒グラも鞄に差す。手ぶらで持って歩けるように、紐を付けていたのだ。
食糧を一人で運ぶのはきついので、リーゼロッテ、ウルガス、ガルさんと分けて運ぶのだ。
これにて準備は完了! 出発となる。
まず、渓谷に降りるため、山道を下っていく。
幸い、魔物の気配もなく比較的整った獣道なので、そこそこ歩きやすい――が。
「きゃあ!」
リーゼロッテが足を滑らす。すかさず、ガルさんが受け止めた。
「おい、リヒテンベルガー、気を付けろ」
「は、はい……」
隊長の活が飛ぶ。
ガルさんにお礼を言って、離れるリーゼロッテ。
山道には薄く雪が積もっている。靴底に鋲が付いた物を履いているけれど、表面が凍っているのでうっかり滑ってしまうのだ。
それに加えていろいろと、気を付けなければならない。
なぜならば、一歩足を踏み間違えると、崖になっている。渓谷までまっさかさまになるという、恐ろしい道なのだ。
足元に気を付けながら歩いていると、「リィン」と音が鳴る。
「――え?」
森で聞こえるはずがない、澄んだ鈴のような音である。立ち止まって耳を澄ませた。
やはり、リィンと音が鳴っている。これは、いったい?
『クエ……、クエ!!』
アメリアも異変に気付いた模様。ガルさんも耳をピンと立て、毛をぶわりと膨らませていた。
「リスリス、どうし――」
「えっ、うわ!!」
「クエエエエ!!」
刹那、目の前に飛びだしてくる魔物。大きさは手の平ほどで、真っ黒。靄のような物に包まれており、全貌は謎。ふわふわと宙に漂っている。
リィン、リィンと、高く澄んだ音が鳴った。すると、空中に浮かび上がる魔法陣。魔物の角のような氷柱(つらら)が二本出現し、矢のように飛んでくる。
「ぎゃあ!」
『クエ!!』
氷柱の一つは私に到達する前に、アメリアが爪で叩き落とした。もう一つはザラさんが斧で真っ二つにする。
隊長が靄の魔物を剣で斬りつけようとしたが、動きが素早くて空振りしてしまった。
それにしても、なんなんだ。魔物が魔法を使うなんて、聞いたことがない。
――リィン
「へ!?」
背後から鈴の音が鳴る。振り返ったら、黒い靄に包まれた魔物が――もう一体!!
「ええ~~!?」
突然のことで驚きの声をあげたが、次の瞬間、すぐ目の前に魔法陣が浮かび上がった。
――リィン、リィン
二回、鈴の音が鳴る。すると魔法陣が浮かび上がり、突き出てくる氷柱。
避けきれない!!
頭を抱え、ぎゅっと瞼を閉じる。
「メルちゃん!」
ザラさんの声が聞こえた。強い力に押され、ぐらりと体が傾く。
鋭い氷が突き刺さるような衝撃は襲って来なかった。
その代わり――ふわりと体が宙に浮かぶ。
「ぎゃあああああ!!」
崖に投げ出される私とザラさん。抱えられた状態で、ゴロゴロと転がって行った。
崖というよりは、きつい斜面と言ったほうがいいのか。地面は土と枯れ草。その上をゴロゴロと転がって行く。
「ぎゃああああああ!!」
斜面を転がる私とザラさん。途中で鞄が開き、中身が零れる。
走馬燈のように、目の前を食材が跳ね転がって行った。
ああ、私のパン……干し肉……野菜の酢漬け……炒り豆……。さようなら。あ、燻製肉とビスケットも。
鞄に括りつけていた大鍋も、外れて転がって行く。ベルリー副隊長と一緒に選んだ、大切な物なのに。
依然として、重なり合ってゴロゴロと転がる私とザラさん。
怖いし、痛いし、食糧は転がっていくし。
首から下げてある、スラちゃんは大丈夫。私とザラさんの間でしっかりと固定されていた。
勢いは止まらない。声も枯れてしまった。
そして、最後の最後で――
「え、どわっ、ひえええええええ~~っ!!」
体は斜面から投げ出される。
そのまま……川へどぼん。そこから、意識がなくなってしまった。
◇◇◇
……ちゃん、……ちゃん
「ううっ……」
体を激しく揺さぶられ、気持ち悪くなる。それに、なんか凄く寒い。
「メルちゃん!!」
「へくしょい!!」
うっすらと瞼を開く。目の前には心配そうに私を覗き込むザラさんが。
水も滴る雪国美人――じゃなくて!!
ここはいったい……? 洞窟のようなごつごつした岩壁に囲まれた場所にいるようだ。入り口付近なので、陽の光が差し込んでいる。
「体、痛いところはない?」
「え~っと、はい。平気です」
ところどころ打ち付けて痛みはあるけれど、擦り傷や打ち身程度だろう。折れたり、出血したりなどはしていない。
「良かった……」
ここで、起き上がる。
「えっと……」
混乱状態の頭の中を整理した。
私達は想定外の敵に遭遇し、襲われた。目の前に魔法の氷柱が迫り、ザラさんが身を挺して助けてくれた。そのあと、崖を転げ落ち、川にどんぶらこっこと流された。
ザラさんは意識のない私を陸に上げてくれたのだ。
そして、今に至る。スラちゃんも無事だったようだが、不安げに瓶の中で震えていた。
「ザラさんは怪我などありませんか?」
「ええ、平気。こう見えて、体は丈夫なの」
「だったら良かったです」
とりあえず、派手に転がって落ちたけれど、大きな怪我はないよう。
「ごめんなさい、うまく助けることができなくて」
「いえいえ、そんな、あの、ありがとうございました!」
ザラさんに深々と頭を下げる。
「助けていただかなかったら、私は今頃……」
氷柱の串刺しになっていただろう。恐ろしくて、ぶるりと震える。
「大丈夫?」
「あ、はい。ちょっと、寒いですね」
震えたのは魔物に対しての恐怖ではなく、単純に全身濡れているための震えだったようだ。ホッとしたら、寒気に襲われる。けれど、荷物もすべて濡れているようで、どうにもできない。
「服の水分を絞ったほうがいいわ。下着とか、脱いだほうがいいかも」
「あ、そ、そうですね」
まずすることは、応急処置。服を脱いで、水分を絞る。それから肌に張り付く下着なども外した。
「じゃあ、私は洞窟の入り口で見張っているから」
「すみません」
ザラさんは私に背を向ける。
背負っていた鞄を地面に置き、重くなった外套、制服、下着、靴を脱ぐ。
ほぼ全裸となった。寒すぎる。震える手で、外套を絞っていたが――
「ひええええ、寒い!」
「メルちゃん、服、絞ろうか?」
「あ、う、どうしましょう」
指先がかじかんで、力が入らない。どうしようか迷ったけれど、結局ザラさんに服を絞ってもらうことになった。
「すみません、裸なので、そのままで」
「え? あ……はい」
ザラさんの後ろに、そっと外套を置く。
ぎゅうぎゅうと絞ってくれた。その間、下着や制服の水分を絞った。返された外套を素肌の上に着込み、前のボタンをしっかりと閉じる。
着た感じはひやりとしていたけれど、水分はほぼない。外套の丈は長く、ふくらはぎ辺りまであるので、問題はないだろう。
「ありがとうございます」
今度はザラさんがどうぞと勧めたけれど、首を横に振る。
「わ、私は、雪国育ちだから、寒くないの」
「え、でも、顔赤いですよ。耳とか真っ赤です」
まさか風邪を引いているのではと、額に手を伸ばしたが、さっと避けられてしまった。
「だ、大丈夫、だから」
「そうですか?」
風邪薬でも飲んでもらおうかと、鞄から救急道具が入った袋を取り出す――が。
「うわぁ……」
粉薬はすべて溶けていた。缶に入った傷軟膏は無事のようだが。
ここで食糧というか、持ち物の確認をする。
中にあったのは、水分を吸ってぶよぶよになったパン。濡れた包帯などの使えない救急道具、着替えなど。火を熾す道具も水没。唯一無事だったのは、革袋に入っている薬草入りの飲料水。
魔棒グラは鞄から離れずに、きちんとあった。
「私は、崖から落ちる前に武器を放り投げてしまったの」
「そうだったんですね」
ザラさんの武器はベルトに挿してあったナイフのみ。
食糧袋は流されてしまったようだ。
これから、どうすればいいのか。まったくわからない。
それと、下着はどこに干せばいいのか。絞った上下の下着を握りしめたまま、立ち尽くす。
とりあえず、動かずにここで待っていたほうがいいということになった。