Sacred Chevalier

Episode XXXII: Battle of the Kabachi Plains (Part I)

カバチ平原は、東のリスルナ山脈、西のリブルス山脈に挟まれた広大な盆地帯である。その総面積はおよそ十五万平方キロメートルにもおよぶ。リスルナ山脈からはワスプ川が盆地の南側を通って西に伸び、王国北部の穀倉地帯を潤している。リブルス山脈はアルース川が盆地中央から北へと延びている。この二つの河川によって、カバチ平原は肥沃な大地となり、特に南部においては古来より開拓が進んでいた。

およそ二百年前、様々な部族に分かれていた北方地帯を統一し、国家を築き上げた王がいた。それがトルマキア帝国の国祖「オトフリート・フィズ=トルマキーア」である。オトフリートは、様々な部族の持つ文化や、鉱山開発技術、農畜産技術などを統合、発展させ、国土全体の生産能力を飛躍的に向上させた。だが偉大な王であっても、天候まで変えることはできなかった。トルマキア帝国はその国土の多くが「亜寒帯」に属し、南方と比べると土地が痩せていたのである。そこでオトフリートは、当時から大陸西方域の一大国家であった神聖フェルシス王国によって開拓が進んでいた「カバチ平原」に目をつけた。肥沃な平原を手に入れて一大穀倉地帯とし、同時に南北を繋ぐ要衝とすることで王国との交易を有利に動かそうと考えたのである。

だが王国の国力はオトフリートの想像を遥かに超えていた。部族間の衝突は、大規模なものでも数千単位であったが、神聖フェルシス王国は万の軍を動員できたのである。当初こそ、電撃的な侵攻によって、カバチ平原の大半を手に入れたが、これで王国は本気になった。失地回復のために十万もの大軍を動員したのである。対するトルマキア軍は僅か一万五千。オトフリートはやむなく、占領した地を手放すことになるのだが、その際に彼が行った行為が、後の歴史に影響を与えることになる。

王国の逆侵攻を恐れたオトフリートは、カバチ平原そのものを破壊しようと考え、麦畑や牧草地は無論、視界に入るあらゆる草木を焼き払い、さらには鉱物加工の過程で出る猛毒の液体を大地に撒き散らしたのである。そのためカバチ平原は死の大地と化し、その後二十年間に渡って帝国と王国は分断された。

二百年後の現在においては、大地の毒素も薄れ所々に森林なども形成され始めている。しかし平原全体を俯瞰すれば依然として「荒野」という表現が相応しい状態である。

「オトフリート大帝の功績は統一国家を形成し、文化を交えたことにある。一握りの穀物で争っていた貧しい土地を変えたという点は評価されて然るべきだろう。だが同時に、この大地を腐らせた罪は、指弾されて当然だ。両山に挟まれ、豊かな水資源と温暖な気候に恵まれながら、この大地は荒涼としている。この地を再開発するには、多くの人民の力が必要だろう」

「その為には、王国にチョッカイを出されないようにしなければなりませんね。そのためのヴァリハルト要塞攻略ですか?」

「そうだ。あの要塞を陥し、今度は王国側の侵入を防ぐ壁とする。その上で、北方から徐々に開拓を進める。土を蘇らせ、畑を拓き、畜産を始める。時間は掛かるだろうが、誰かが始めなければならんのだ……よし、こんなものだろう。アイシス、器を貸せ」

トルマキア帝国第一皇子にして今回の出征軍の総大将であるアウストロ・トルマキーアは、気軽な様子で差し出された器にスープをよそった。獣の骨や野菜から取った出汁に牛の乳を入れ、人参や大根などの根野菜と小麦をまぶした塩漬け肉を入れたシチューである。アウストロは将軍であるが、同時に英雄(シュヴァリエ)でもある。毎回というわけではないが、自分の聖騎士(シュヴァリエ)のために料理をすることもある。特に今回の場合はアイシスには別働隊を動かして貰う予定だ。

「王国軍も明日にはこの地に到着するそうだ。明日から早速、お前に動いてもらう。旗を掲げて出来るだけ相手の注意を惹きつけろ。ただし深入りは厳禁だ。出てきたら軽く手合わせをしてすぐに退け。木柵などの防陣を形成するのに二日は必要だ。それまで頼むぞ」

「お任せを。せいぜい、彼らの意識をこちらに向けさせてみせます。殿下は心置きなく、決戦への御準備を進めて下さい」

アウストロは頷き、自分も食事を取り始めた。発情はしていない。アイシスは女神の加護を受けること無く、素の状態で兵を動かすことになる。だが不安はなかった。生身の状態であっても、アイシスは剣士として一流である。

(この戦いにより、英雄と聖騎士の時代は終わる。神の加護ではなく、人の智慧と技術が、勝敗を左右する時代が来る……)

アウストロの目には、戦場の新たな姿が映っていた。

「おやおや、既に敵さんは御到着のようですねぇ」

大将軍ベルガラード・ファランクスは面白そうに笑った。だがその眼は冷徹に平原を見渡している。視界の左端に土煙が入った。煙の大きさから二、三千の騎馬隊だと予想する。

「フォルナー、蝿が飛んでいるようです。貴方の手で叩き落としてきなさい」

「ハッ!」

直属部隊を束ねる部隊長のフォルナーが指揮を取り、二千の騎馬隊を動かす。ファランクスの直属部隊は王国でも最強と認知されている。全員が、名将の手によって鍛えられてきた歴戦の猛者たちである。それを束ねるフォルナーは階級こそ将軍ではないが、その力量は第一級の将軍にも匹敵した。見事な円錐陣形を組んで、騎馬隊が平原を駆けていった。

「後方の輜重隊に伝達、護りを厚くさせなさい。蝿が飛んでくる可能性がありますからねぇ」

ファランクス軍は、帝国軍までおよそ三キロという場所に陣を張った。分厚い堅陣を組む必要はない。帝国軍が攻めてきた場合に即応できれば良いのである。日暮れには陣を張り終え、幕舎に将校たちが集まった。フォルナーも戻ってきている。

「まったく、将軍が仰った通り“蝿”ですな。攻めると逃げ、退くと付きまとう。まるで追い掛けっこをしている気分でした。日が傾いた頃に、ようやく退いていきましたよ」

「ご苦労でした。恐らくはこちらの注意を惹きつけるための陽動でしょう。率いていたのは誰ですか?」

「それが……“英雄旗(ドラポー)”を掲げていました。それを信じるならば、総大将のアウストロ・トルマキーアおよび聖騎士(パラディン)アイシスということになります」

「………」

ファランクスは黙っていたが、他の幕僚たちが呆れた声を上げた。

「馬鹿な。総大将が三千の騎馬を率いて動き回るなどあり得ん。大将軍、敵は”英雄旗(ドラポー)“を利用していると判断すべきでしょう。アイシス以外の聖騎士もいると考えられます」

「うむ。軍の規模に比して聖騎士が少なすぎると思っていたが、やはり隠しているのだ。我らの意識をアイシス一人に向けさせようとしているのだろう」

「お待ち下さい」

幕僚たちが頷く中で、異を唱えた者がいた。伝説の英雄(シュヴァリエ)ワルター・ワッケンハイムである。ファランクスが認める数少ない英雄(シュヴァリエ)であり、他の幕僚たちもその戦術眼は一目置いている。

「私には敵の狙いが解りません。確かに、今日の騎馬隊の中には総大将はいなかったでしょう。ですが、そもそもなぜ敵は、英雄旗を掲げた部隊を動き回らせたのでしょうか?」

「それは、聖騎士アイシスを印象付けさせ、他の聖騎士を隠すためでは?」

「ですが実際には、我々はその旗によって、聖騎士が複数いるのではないかと考えています。他の聖騎士を隠すために英雄旗を掲げるというのは、逆効果となっているわけです。むしろ、我々にそう思わせることこそが、敵将アウストロ・トルマキーアの狙いではないでしょうか?」

そう指摘されると、幕僚たちも沈黙してしまった。確かに英雄旗を掲げて騎馬隊を走り回らせれば、こちら側としてはその意図を読もうとする。そして聖騎士は複数存在すると考えるだろう。

「だが、我々にそう思わせる狙いはなんだ? 聖騎士が複数いるか、それとも本当に一人だけなのか。このように我々を惑わせることが狙いなのか……」

幕僚たちもワルターも沈黙してしまった。ファランクスは低く笑って、場の空気を変えた。

「敵さんの狙いが何であれ、こちらがやることは一つです。防御を固め、敵の侵攻を防ぐ。これに変わりはありません。皆さん。私たちは先の戦いで、二十五人もの聖騎士の猛攻を防ぎきったのですよ? 聖騎士が一人だろうと複数だろうと“ファランクスの盾”を打ち破ることはできません」

名将の力強い言葉に、全員が頷いた。他に女性はいないか、聖騎士らしき存在に注意するよう、指示が出される。だが、この状況こそがアウストロ・トルマキーアの狙いであった。すなわち「聖騎士という存在に注意を向けさせること」である。

翌日も、騎馬隊同士の「追い掛けっこ」は続いた。無視しようとすると後方の輜重隊を狙うような素振りを見せるため、騎馬隊を貼り付けるしか無い。だがその一方で、敵本陣を見落とすようなファランクスではなかった。

「木柵を設けていますねぇ……」

二十騎ほどの供廻りと共に、ファランクスは帝国軍本陣まで七百メートルというところまで接近していた。ここまでくれば向こうにも当然、気づかれている。その反応を含めて、敵の出方を観るのが目的だった。だが不気味なほどに帝国軍は動かなかった。ひたすら木柵を並べ、防御を固めているように見えた。

「どういうことだ? これではどちらが攻めているのか解らないではないか……」

「連中は、本当に戦をする気があるのか? 一体、何が狙いなんだ?」

付き従ってきた幕僚たちも首をかしげる。ファランクスは数日前に会った若い英雄(シュヴァリエ)候補生の言葉を思い出していた。

(三つ目の可能性を警戒すべきです。すなわち、将軍を打ち破る策がある……)

「妙な気配ですねぇ。やっていることは守りを固めることなのに、立ち昇っている軍気は攻めの気配です。そして、聖騎士を蝿のように飛び回らせる……」

「将軍、そろそろ戻りませんと……」

ファランクスは頷き、馬を翻した。自陣に戻る途上、ファランクスの頭脳は目まぐるしく動いていた。

(仮に、私を破る何らかの秘策があったとしましょう。その場合、彼らがやっていることから逆算すれば、自ずから正体が見えてくるはずです。聖騎士を飛び回らせているのは、そちらに注意を向けさせることで、何かを隠そうとしているからです。木柵を設け、守りを固めるということは、こちら側の突撃を警戒しているということ。そこから見えてくる“何か”とは……)

「ンフ……武人の血が騒ぎますねぇ」

翌日、ファランクス軍三万が出陣した。「守備のファランクス」にとっては珍しい「攻め」の陣形であった。

少し時間を巻き戻す。ファランクスが帝国軍の陣を観察しているという報せは、すぐにアウストロの元に届いた。幕僚長のパルティナが指示を出す。

「木柵の設置作業はそのまま続けさせて。大砲(カノン)や火薬などは外からは見えないようしなさい。それと周辺の警戒を強化するように。ファランクス自身が囮となって、別の場所に間諜を忍ばせているとも限りません」

「殿下、ファランクスの狙いは何でしょうか?総大将自らが偵察に来るなど……」

「自分で観に来たのは、こちらの狙いが読めていないからだ。いま、ファランクスは相反する状況に混乱している。一人しか聖騎士(パラディン)がいないのは可怪しいという常識と、英雄旗は一旗しかないという事実。ならば他の聖騎士は隠しているのではないかという推測と、ただ一人の聖騎士が目立つように飛び回っているという現実。本来は攻め手であるはずの我々が木柵で守りを固めているという状況と、その軍は勢い旺盛という直感…… こうした状況の中では、ファランクスが選択できるのは二つしか無い」

「その二つとは?」

「出て戦うか、退いて守るかだ。そしてファランクスは前者を選ぶはずだ。これまでの戦いで解ったのは、ファランクスは誇り高い男だ。何らかの仕掛けがあると解っていても、それを堂々と受け止め、打ち砕く。それがファランクスの戦いだ。戦わずして退くなど、あの男には我慢できないだろう」

アウストロと幕僚たちが考えた作戦は、ほぼ狙い通りであったが、二つの誤算があった。一つは、ファランクス自身、自分に掛けられた策をある程度は読んでいたということ。そしてもう一つは、この戦場には、ファランクス以上に帝国軍の策を見通していた「第三の男」が存在していたということである。

英雄(シュヴァリエ)ワルター・ワッケンハイムと聖騎士(パラディン)グラティナ・ワッケンハイムは、ファランクス直属の部隊に入り、馬を進めていた。

「貴方……この陣形は、まるでこちらから攻めるみたいだけれど?」

「そうだ。恐らく将軍は、守りではなく攻めをお考えだ。だからギリギリまで、帝国軍に近づくつもりだろう。そこで一旦守りを固め、敵の出方を見てこちら側から攻める。ティナ、お前の出番はその時だ」

「貴方が言っていた、敵の策略については、見通しがたったの?」

「いや、判らん。だが昨日、将軍は御自身で視察に出られ、そして出陣を決めた。何かを感じたのだろう。この限られた状況で俺に出来るのは、戦場の流動を読むこと。そして、生き残ることだ」

夫の言葉に、妻は決意の表情で頷いた。いかに明晰な夫であっても、戦局のすべてを読めるわけではない。限られた情報の中で判断を下す以上、想定外のことも起きる。実際、読み間違えたことや思わぬ状況に陥ったことも、過去にはあった。夫の力が発揮されるのは、そうした時である。豪胆にして怜悧な夫は、混乱の状況の中でも、笛を使って合図を送ることで妻を的確に動かしてきた。軍に残っている騎士学院の同期はいない。二十年近くの戦歴は、夫婦の間に絶対の信頼関係を形成するに十分であった。

「そういえば、あの子はどうしているのかしら? 貴方が何か協力してあげていたみたいだけれど?」

「引退して街で暮らしている英雄(シュヴァリエ)を五人ほど紹介した。それと、負傷して戦えなくなった元兵士たちもな。あとは知らん。アイツが勝手にやることだ」

「まったく。あの子は何を考えているのかしら……もし将軍が知ったら、下手したら首を刎ねられるのに」

息子を心配するような表情で、妻は首を振った。だが夫の方は、何が起きるのかを楽しみにしている様子であった。

「皆さん。協力いただき、本当に有難うございます」

カイトは後ろを振り向いて、一礼した。片腕を失くした男が破顔する。

「なぁに、構わねぇさ。将軍には恩がある。腕を失くしてヤケになっていた俺をファランクス将軍自らが叱ってくれたんだ。そればかりか仕事まで世話してくれた。この機会に恩返しが出来るんなら、願ったり叶ったりだ」

「俺もだ。片脚失くした俺が、いまでは裁縫やってるんだぜ?鎧の繕いには、鎧を知っている奴が向いているってな。座って出来る仕事ってことで紹介してくれた。アノ人は、死なせちゃいけねぇ人だぜ」

男たち全員が頷く。カイトと四人の聖騎士候補生、そして百人の「元兵士」たちは、全員が馬に乗り、静かに平原に入った。名将ファランクスが、帝国軍の陣を視察した日のことであった。

リザリス・プラーダは唾を飲み込み、ガクガクと震える脚を何とか抑えようとしていた。屈強な兵士たちが自分を護ってくれているが、それでも目の前の光景には戦慄を覚える。僅か五百メートル先に、三万もの大軍が迫っていた。「万」という集団を見るのは初めてである。その全員が、殺意をこちら側に向けているのだ。ただの「研究者」にすぎないリザリスが恐怖を覚えるのも仕方がないだろう。

(あっちゃぁ……砲が使われるところを観たいって言って来たけど、こりゃ失敗だったかな?)

隣の兵士の顔を見る。頬に汗が伝っていた。自分の手も震え始めた。もうすぐ、歴史を変える一撃が放たれるのである。目の前の三万が動き始めた。ゆっくりと、それでいて力強く、近づき始めた。

「ここまで近づいても、まだ仕掛けてきませんか」

ファランクスは泰然とした様子であったが、内心にはジリジリとした焦りがあった。敵が何かを仕掛けてくると予想はしている。だが五百メートルとは、強弩であれば届きかねない距離だ。そこまで近づいても、敵は不気味なほどに沈黙している。木柵の向こう側で、槍を構えた兵士たちが整然と並んでいるだけだ。まるで、我慢比べをしているような気分である。

「全軍、さらに十歩前進ッ」

手を挙げ、指示を出した。

「もう少し、もう少しだ……」

アウストロは自らに言い聞かせるように呟いていた。既に敵は、大砲(カノン)の射程内にある。度重なる訓練で、砲の角度と火薬量を調整することで、大抵の距離は掴めるようになっている。全砲門の一斉斉射も可能だ。だが敵軍は止まっている。重装歩兵を全面に出し、守りを固めている。陣を崩すには、敵が一歩を踏み出し、陣が揺らいだときが最も効果的だ。奥歯を噛み締め、その時までひたすら耐える。

「クッ……暑いな……」

八月の日差しはキツイ。空は雲ひとつ無く、大地からは陽炎が昇っていた。汗が頬をつたい、滴った。歴史上初の戦いである。前例など当然無い。だから智慧を絞り、あらゆる策を巡らせた。昨夜は媚薬を飲んで聖騎士(アイシス)を抱き、女神の幸運も手にしている。だがそれでも、湧き上がる不安はどうしようもない。

不気味なほどに静かだった。やがて待望の音が聞こえた。ザッ……ザッ……という音である。敵が動いたのだ。アウストロは大きく息を吸い込んだ。

「放てぇぇぇっ!!」

大きな音が立て続けに響き、カバチ平原が揺れた。